◆1:The Light That Burns in the Snow
sideミスティアス
ナーバ家は、かつてと比べたら随分と静かな場所になっていた。
ここに帰ってくるのは、ミスティアスとリシェリア、フィリアがほとんどだった。
一番帰っているミスティアスも、週の半分は名前のない家で過ごす。
だが、この家は静かだけど、決して寂しくはなかった。
父との思い出と、父の痕跡が詰まったこの家は、彼の宝物だ。
父本人が生きていたら、決して言えなかっただろう。
今、距離ができてしまったからこそミスティアスは素直にそう思った。
彼の隣にはセレス。
夜半に振り出した雨に打たれて、二人とも身体がすっかり冷えてしまっていた。
色の変わった衣服は体温を奪う。
風邪をひく前に。
玄関から浴室へ一直線に案内した。
タオルを渡して彼女を脱衣所に押し込むと、ここまできた安心感からか、ずるずると壁伝いに座り込んでしまった。
勢いに任せてここまで連れてきてしまった自覚はある。
だが、もう、彼はとっくに選んでいた。
ミスティアスはゆっくりと息を吐きだすと、目を閉じた。
――いつだったか、父に問われた足りない覚悟を、今一度持つために。
もう一人の”父”の姿から学んだ、守るという覚悟をはっきりと抱いたあの日を思い出した。
――ファリスが生まれた夜。
廊下の外で、何もできずに立ち尽くしていた。
母の苦しそうな声に、扉の向こうに近づくのも怖くて、拳を握ることしか彼にはできなかった。
「大丈夫」
隣でフィリアがそう言った。
セレスも静かに頷いて、彼の肩に手を置いた。
でも、あの時の沈黙は息が詰まるほど重かった。
“守ること”がどれだけ難しいかを、そのとき初めて思い知った気がする。
やがて――。
『おめでとうございます、女の子です!』
医師のその声と同時に、母の泣き笑いが聞こえた。
義父の泣き声も。
扉が開き、小さな命が布に包まれて現れた。
あの瞬間の光景を、ミスティアスは今でもはっきりと覚えている。
腕の中で眠るファリスは、信じられないほど小さくて、呼吸をするたびに胸がかすかに上下していた。
「……かわいい……あなたにそっくり」
母のその言葉に、義父が照れながら笑う。
その顔を見た瞬間、「ああ、これが“家族”なんだ」と、心の奥で何かがあたたかく弾けた。
妹ができた。
自分より小さくて、頼りないくせに、世界のすべてみたいに尊い命。
初めて抱かせてもらったとき、怖くて、でも目が離せなかった。
その体温が、自分の掌に“生きている”ことを教えてくれた。
(守りたい)
それがあの夜から、ずっと胸の中に残っている想いだ。
母はもう「守る人」になって、義父も改めて、隣で“父親”になった。
(俺も――少しずつ、そうなりたい。)
(家族を、そしていつか、自分の選ぶ誰かを守れる人に。)
あの日。窓の外では、雨がやんでいた。
朝焼けの薄い雲の切れ間に、淡い虹が弧を描く姿を思い出す。
「……あの時も、雨のあとに虹が出たんだよな」
誰に言うでもなく呟く。
あの虹は、あの日の“祝福の雨”の続き。
命の始まりと、絆の証。
目を開けると、脱衣所の扉が目に入った。
シャワーの音が、少し漏れて聞こえてくる。
彼自身もひどく冷えて、小さく身体が震えた。
濡れた衣服を脱ぎ、タオルで髪の雫を取る。
今、再び雨が降る。
この雨には、祝福の虹がかかるのだろうか。
(いや、迷うな)
ぎゅっと拳を握りなおす。
――雨はまだ、止みそうになかった。
――数刻前。
夜は冷たく、雪混じりの雨が街を包んでいた。
窓の外に立つ街灯が、滲んで見える。
胸の奥でざわりとした感覚が広がった。
(……なんだ、この胸騒ぎは)
手元の書を閉じ、視線を窓の外に向けたその瞬間――
視界の端で、動く影があった。
雨の帳の向こう。
白い息を吐きながら、何かを探すように立ち尽くしている。
灯りに照らされたその横顔を見た瞬間、
息が止まった。
「……セレス?」
反射的に外へ飛び出した。
夜気が肌を刺す。
石畳の上を走り抜けると、彼女は力尽きたように膝をついていた。
「セレス!」
駆け寄ると、唇が震えながら、かすれた声で漏れる。
「……たすけて……」
その一言で、すべてを悟った。
倒れこむ身体を抱きとめると、彼女の体温はほとんど感じられなかった。
衣服は濡れ、指先は氷のように冷たい。
「……くそ」
迷いはなかった。
彼女の頬に手を添え、そっと唇を寄せる。
唇から流し込んだ魔力が、青白く光となって彼女を包み、
微かにその頬に色が戻った。
「もう少しだけ我慢して。
いま、あたたかい場所へ行こう」
腕の中で彼女が微かに動く。
掴まれた服の端が震えていた。
ミスティアスはその手をぎゅっと握り返し、
“名前のない家”の方向を一度だけ振り返った。
あの家には、生まれたばかりの妹がいる。
母と、義父と、姉たちがいる。
――そして、温かな光がある。
(あそこには、危険を持ち込みたくない)
夜の闇が、王家の影を背負った少女を隠しきれるはずがない。
彼女を守るには、家族の傘の下では足りない。
「守る。この家で、俺が」
小さく呟き、抱き直す。
彼女の額が肩に触れ、わずかに息がかかった。
その重みが、彼の優しさではなく、確かな覚悟を呼んだ。
ナーバ邸までの道を、ほとんど記憶していない。
雪解けの道を踏みしめながら、ただ彼女を落とさないようにと抱き締め続けた。
(父さん……)
優しいけれど、どこか試すような、悪戯めいた笑みが脳裏に浮かんだ。
きっと、今もどこかで笑っている。
手は貸さないけれど、全力で“君なら大丈夫”と信じてくれている気がした。
扉を開けた瞬間、冷気が流れ込み、灯りが二人を照らす。
すぐに浴室へと彼女を運び、濡れた衣服を脱がせる間も惜しんで、彼はただ、温かい湯とタオルを用意し、震える身体をそっと押し込んだ。
――そして今に至る。
薪が弾ける音だけが、静まり返った部屋のなかに響いていた。
窓の外では、雪が静かに降り続けている。
火の光が橙に揺れて、セレスの濡れた髪をやわらかく照らした。
湯上がりの彼女は毛布にくるまり、まだ頬が上気している。
その顔が火の光に優しく温められる。
先ほどの冷たい夜の雨とはまるで違う。
それでも――その瞳の奥には、まだ逃げてきた痛みの影が残っていた。
「……お湯、ちゃんと温かかったか?」
ミスティアスが自分の髪の毛を拭きながらそう尋ねると、セレスは少しだけ笑って頷いた。
「ええ。 ……温かすぎて、涙が出そうだった」
「涙の理由が湯気のせいならいいけどな」
軽く言ってみせても、彼女の表情はすぐに沈む。
暖炉の光が影を落とし、睫毛の影が長く伸びた。
沈黙のあと、セレスはぽつりとこぼした。
「……母が、婚約を決めたの。
“王家の未来のため”って。
おかしいでしょ、私は妻を娶れる立場にないのに。
そう思って母の顔を見たら――相手は私の事情をすべて知っている、なんて言うのよ」
ミスティアスは息をのむ。
言葉を挟まないまま、ただ彼女を見つめた。
「わかるでしょう?
結婚したらもう二度と私に自由なんてない。
反射的に拒んだら、また軟禁されそうになって。
だから逃げたの。 ……もう、誰かの飾りでいたくなかった」
小さく笑う声が、火のはぜる音に溶ける。
強がりではなく、祈りのような声だった。
寒さからか、話す言葉の内容からか、彼女が小さく震えた。
ミスティアスはそんな彼女の肩を抱き、自分の方へと抱き寄せる。
セレスは、抵抗せずに彼に体重を預けた。
「“私は私として生きたい”って気が付いたら叫んでた。
そうしたら父が味方してくれた。
母に、”立派な成人した子を、親の言うことを聞かないからと閉じ込めるのは違う”と言って、ただ『行きなさい』って許してくれた」
その瞳に宿るのは、恐れと希望のまざった色。
ミスティアスはゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。
「……怖くなかったのか?」
「怖かった。
でも、あのままじゃ……自分の心が死んでしまう気がしたの」
彼女の声は震えていた。
ミスティアスは息を吐き、そっと手を重ねる。
火の粉がふっと舞い上がり、二人の影をゆらす。
「君は強いよ」
「いいえ。 怖がってばかり」
「怖がれる人の方が、強いんだよ」
セレスが顔を上げた。
目が合った瞬間、世界の音が遠のいた気がした。
――父さん。
俺は、やっとこの手を差し出せる場所にいるよ。
胸の奥で、あの優しい笑顔が浮かぶ。
あの人がくれた“守る覚悟”は、こうして息づいている。
「ミスティアス」
呼ばれた名が、雪解けの水のように胸に染みた。
セレスがそっと彼の指を握る。
見つめ合う空気の中で、先に動いたのは彼だった。
「……頼む、今度は止めないでくれ」
セレスが、一瞬、息を飲む音が聞こえた。
暖炉の光が、互いの瞳に映る。
「私も、……もう止められない」
言葉が零れた。
「好きだ」
「私も、あなたが好き」
お互いの目から、指先から、愛しさが溢れる。
次の瞬間、唇が触れた。
火の音も、風の音も、すべてが遠ざかる。
ただ、彼女の心臓の音が自分の胸に重なって響いた。
魔力が流れあい、空気が微かに震える。
二人の魔力はいつもより温度が高く、それでも混ざり合うとちょうどいい”ぬるさ”になる。
炎がぱち、と弾けて、橙の光が彼女の髪に散った。
長く、ゆっくりと。
魔力のやり取りを終えた後も、名残惜しむように、唇を重ねていた。
唇が離れたとき、セレスは上がった息を整えながら微笑んだ。
「これが……ほんとのキス、だね」
ミスティアスは額を彼女に寄せ、少し苦笑する。
「今更照れるのナシ。 恥ずかしいだろ……」
火の光が二人を包み、息づかいが混ざる。
セレスの頬に落ちた髪を、ミスティアスがそっと払う。
「髪、また伸びたな」
魔力の温度に反応し、赤みを帯びていくストロベリーブロンドを一房掬い、口づける。
その仕草に、セレスの頬はより赤く染まった。
「……俺の部屋に、行く?」
「……うん。
君になら、すべてあげてもいい」
ミスティアスがわずかに目を伏せる。
「……魅力的な言葉だな。
でも、結婚したら、全部もらうから。
今は……覚悟だけでいい」
セレスが目を細めて笑った。
「やっぱり、ちょっとだけ怖かったの、ばれた?」
「怖がりながらすることじゃないさ。
君は、“愛される覚悟”をしてくれればそれでいい」
彼女が小さく頷く。
その頬に、炎の光がやさしく揺れた。
外では雪が静かに降り続いている。
白い夜の底で、ただ一つの灯が、確かに燃えていた。




