◆1:The Nameless Home
sideユリカ
午後の光が、広い廊下をやわらかく照らしていた。
白い壁と木の床に春の風が流れ、窓から差し込む光が床に花の形の影を落とす。
建物全体が息づいている――そんな気配があった。
「これが、“名前のない家”……」
ユリカは玄関のプレートを見上げた。
ルアルクの筆跡で刻まれたその文字の下には、彼女のものとよく似た白いリボンが結ばれている。
「素敵ですわ」
リシェリアが感嘆の息を漏らす。
セレスが隣で頷き、手にした鉢植えを差し出した。
「王家としても、この家に祝福を。
この幸福を意味する木が枯れない限り、ここに集う者たちが希望を忘れませんように」
「ありがとう、セレス殿下。とても嬉しいわ」
ユリカが微笑みながら受け取ると、ルアルクも穏やかに頭を下げた。
家の中に入ると、春の香りと新しい木の匂いが混じっていた。
明るい廊下を抜け、最初の部屋に入る。
「ここが女の子の部屋です」
ユリカが扉を開けると、レースのカーテンと白い壁、淡い桜色の天蓋ベッドが目に飛び込んできた。
「わぁ……!」
フィリアが思わず声を上げる。
「お姫様のお部屋みたい!」
ルアルクが少し照れたように笑う。
「ユリカの発想です。僕には思いつかない柔らかさですね」
「あなた、もっと“可愛い”を信じた方がいいのよ」
「努力します」
軽い冗談に、ふたりの笑いが重なった。
次の部屋は男の子たちの部屋。
クラシックなウォルナットの家具に、木製ロフトがついている。
机の上には小さな地球儀。
ミスティアスが覗き込みながら、にやりと笑う。
「このロフト、ナーバ邸の俺の部屋にもほしいな」
「あなた、もう十七でしょう?」
「心は永遠に子どもです」
リリのツッコミに、家族全員が笑った。
そして、最後に案内されたのが夫婦の寝室だった。
「……ここが、私たちの部屋です」
ユリカが少し照れながらドアを開けた瞬間、全員の動きが止まった。
淡いピンクとブラウンで統一されたロココ調の寝室。
繊細な彫刻のドレッサー、薔薇模様の鏡、そして部屋の中央には天蓋付きのダブルベッドが置かれている。
レースが風に揺れ、光の粒がカーテン越しにこぼれていた。
ルアルクは苦笑を浮かべる。
「……どう見ても、僕の部屋じゃないですよね」
ユリカが笑ってベッドの縁に腰を下ろした。
「でも、似合うわ。だってあなた、外見はおとぎ話の――お姫様みたいなんだもの」
「……せめて王子にしてください」
少しむくれた声に、ユリカは吹き出した。
そのタイミングでリリがドアの外から覗き込み、爆笑した。
「ルー、あんたここで寝るの!? 似合わなすぎて逆に感動するわ!」
「リリ!」
ルアルクが苦笑しながらも肩をすくめる。
「……この部屋が、ユリカの居心地のいい場所なら、それでいいんです」
「ほんとうに?」
「ええ。僕は、君の選ぶものなら何でも好きになれますから」
ピンクとブラウンの光がふたりの間をやさしく包み込む。
天蓋のレースが揺れ、どこか夢の中のような時間が流れていた。
ユリカは、ふと彼の肩に頭を寄せて微笑んだ。
「この家、本当に“名前のない家”ね」
「でも、君が笑う限り――ここは僕にとって“帰る場所”です」
リリが鼻をすすりながら笑う。
「もう……ほんとにお似合い。
ここに“家族の春”が咲いたのね」
ルアルクとユリカは、見つめ合って頷いた。
窓の外、セレスの贈った花が風に揺れ、
赤い屋根の上に柔らかな陽光が降り注いでいた。
sideユリカ
春の空は、まるで祝福するように澄みわたっていた。
赤い屋根の上を風が渡り、鐘楼の鐘が静かに響く。
“名前のない家”――
今日、この場所が正式に孤児院として歩き出す。
広場には教会のシスターたちや、王国の関係者、そして子どもたちが集まっていた。
新しい白いリボンが玄関にかけられ、小さな手がその端をそっと握る。
「ユリカ、準備はよろしいですか?」
ルアルクの声が背後から届く。
その表情は穏やかで、少し緊張しているようでもあった。
ユリカは頷き、彼の隣に並ぶ。
「ええ。――ここから、始まるのね」
集まった人々の前に立つと、春の風が彼女のスカートを揺らした。
「“名前のない家”は、血筋や立場に縛られず、行き場を失った子どもたちが帰ってこられる場所です」
ユリカの声が、やわらかく広場に響く。
「ここにいるみんなが、“家族”です。
そして、ここに関わる人すべてが、この家の“名前”を作っていくんだと思っています」
ルアルクが隣で小さく頷いた。
その目に、長い時間をかけて辿り着いた安らぎの光が宿っている。
拍手が起こり、風が花びらを運んだ。
セレスが前に出て、手にしていた大きな花束を掲げる。
「王家として、この家の始まりに祝福を。
この花は、“誰かを信じる心”を意味します。
一度咲いた花は、枯れても心に残り続けます」
「ありがとう、セレス殿下」
ユリカが受け取ると、
花びらがひとひら、春の風に乗って彼女の肩に舞い落ちた。
式が終わり、建物の中へ案内が始まる。
リシェリアが子どもたちを案内しながら、笑顔で振り返った。
「お母様、今日からこの家にもたくさんの“未来”がやって来ますね」
「ええ。あなたたちが作ってくれた未来よ」
フィリアが小さな子の手を取りながら、
「ようこそ、“名前のない家”へ」と声をかける。
ミスティアスは、ルアルクの後ろで静かに笑っていた。
(父さんの言葉よりも、母さんの言葉のほうが、ずっと強く人を動かすんだな……)
夕暮れ。
最後の来賓を見送ったあと、ユリカは玄関に立って深呼吸した。
「……長い一日だったわね」
ルアルクが隣で微笑む。
「でも、今日でようやく“すべての扉”が開いた気がします」
「ほんとうね。あの夜から、ようやくここまで来たのね」
赤い屋根の上に夕陽が落ち、
まるで家全体が光を受けているように見えた。
その時、リシェリアが走ってくる。
「お母様!」
息を弾ませながら、
少し恥ずかしそうに両手を後ろに隠す。
「どうしたの?」
「……内緒ですわ」
「内緒?」
フィリアがその後ろからひょこっと顔を出した。
「お姉ちゃん、準備できたって」
ルアルクが目を瞬かせる。
「準備?」
リシェリアは、少し頬を赤らめて笑った。
「ふふ。お父様とお母様が、“ちゃんと夫婦になる”ための……ですわ」
ユリカは春の風に髪を揺らしながら、首をかしげた。
「……ちゃんと夫婦になる、って?」
リシェリアは意味深に笑う。
「そのうち、わかりますわ。ふふ、きっと素敵ですから」
ルアルクが困ったように笑い、ユリカと目を合わせる。
「……まさか、何か企んでいるのでは……?」
「ええ、あの子たちですもの。何かはあるわ」
フィリアが小さく手を振って駆け出した。
「じゃあ、またあとで!」
二人が去ったあと、残された風が花びらを連れて舞い上がる。
ルアルクがその花びらを一枚すくって、掌に載せた。
「……君とこうして春を迎えるのは、何度目だろう」
「数えるより覚えていたいわね」
互いに微笑み合いながら、手を重ねる。
その指先の温もりに、言葉はいらなかった。
窓辺の向こうでは、雲の切れ間から光が差し込んでいる。
まるで、これから始まる“六月の雨”の予告のように。
sideユリカ
春の風が、やわらかくカーテンを揺らしていた。
窓辺に差し込む光が、テーブルの上の花瓶を透かしてきらめく。
まだ新しい“名前のない家”の中に、朝の静けさと子どもたちの笑い声が混じって響いていた。
遠くの部屋では、ミスティアスとセレスが献立の相談をしていて、リシェリアとフィリアは子どもたちに読み聞かせをしている。
どこからかパンを焼く香りが漂ってきて、ユリカはそっと目を細めた。
(ああ……これが、守りたかった“日常”なのね)
窓の外では、庭のチューリップが色づき始めていた。
その一つ一つに、誰かの名前をつけていったのはリシェリアだった。
ユリカはその可愛らしい名札を眺めながら、胸の奥でゆっくりと深呼吸をする。
(家族の形って、本当に変わっていくものね)
指先には、まだ“指輪のない左手”。
けれどその手のぬくもりは、確かに彼とつながっていた。
今日は、彼と街へ出る約束をしている。
新しい指輪を選びに行く日――
そしてもうひとつ、“生まれてくる子”のための支度を始める日だった。
◇
二人で街一番の繁華街である花通りを歩く。
宝飾品に関してはまったくの素人の二人は、店すら知らない。
「とりあえず、目に入ったお店を色々見て回りましょうか」
「ええ、それがいいわ」
そうして、いくつかの店であたりをつけていく。
商店街の角にある、小さな宝飾店。
見覚えのあるショップのロゴと、ショーウィンドウに光る指輪を見つけて、ユリカは思わず足を止めた。
胸元に手を当て、鎖を引き上げた。
その先には、プラチナの指輪。
“契約結婚”の印として、シェイから贈られたものだった。
「懐かしいな……」
思わず呟くと、ルアルクが微笑む。
「せっかくだから、見ていきませんか?」
扉を開けると、金属の小さな音が鳴った。
奥から店員が顔を出す。
「いらっしゃいませ」
丁寧な礼で出迎えられ、明らかに今まで見てきた店よりも一ランク高いものであることが伝わってくる。
一気に場違い感が増して、二人とも少しだけ逃げたい気持ちになる。
心細さから右手を彼の左手に重ねると、ぎゅっと握り返された。
伝わる体温で少しだけ安心を取り戻す。
「奥様のそちらの指輪。
以前当店で販売させていただいたものでございますね」
そう言って取り出されたのは、同じデザインの指輪。
光を反射して、上品に輝いている。
ユリカが目を向けると――値札を見て、固まった。
「……え?」
もう一度、目を凝らす。
ゼロの数、数える。
一、二、三……。
「ちょ、ちょっと待って。これ、“契約結婚”の指輪よ?!」
同じく、値札をみて凍り付いている夫に彼女は小さく耳打ちをする。
彼は「シェイさんらしい」と一言呟いた。
笑顔は引きつっている。
店員はにこやかに続けた。
「当時の、王都工房の特級品を使用しておりまして、デザインも一流デザイナーの作です。
まぁ、これはそちらに比べると金属の質が劣るので、お値段も控えめですが――」
控えめの意味をこの店員は知っているのだろうか。
「そんな話聞いてないわよ!!!」
ひっ、と息を呑むルアルク。
「契約で、こんな金額かける人います!?」
胸の奥がぐらぐら揺れた。
なんてこと……あの人、形式的な結婚の“形”に、ここまでお金をかけていたの?
(やっぱりあの人、どこまでも誠実で、どこかズルい……)
「……でも、これじゃつけられないわね」
ユリカは苦笑した。
「え?」
「こんな高価なもの、毎日つけてたら気が休まらないもの。
私、安心してお茶をいれられるくらいの値段がいいの」
ルアルクが少し笑った。
「僕もです」
「だって、そうでしょう?
“暮らしの中にある愛”でいいの。
特別じゃなくて、毎日の中にちゃんとあるものがいい」
そう言って、ユリカはショーケースの隅に並ぶ、小さな白銀色のリングを手に取った。
真ん中に一粒控えめな大きさの石のついたもの。
対になる指輪には石はついていないようにみえて、内側に埋め込まれている。
控えめで、指にすっと馴染む。
日差しの中で、宝石がきらりと反射して光が柔らかく跳ねた。
「……これがいいわ」
「ええ。きっと、あなたに一番似合う」
胸元のプラチナが静かに光る。
過去の想いと新しい選択が、一瞬だけ、優しく重なって見えた。
刻印を入れてもらい、そのまま指輪は二人の左手の薬指へと収まる。
まるで初めからそこにあったような自然さに、ユリカは笑った。
「ねぇ、次はこの手で、もうひとつの贈り物を選びに行きましょう」
「……もうひとつ?」
「生まれてくる子のために」
あの日、リシェリアのためにシェイと買い物をしたお店は、以前と外観は少し変わっていたが場所は変わらずにそこに建っていた。
パステルカラーに塗られた扉や壁、上から星を降らせたようなキラキラしたモビール。
棚にはベビー服に混ざって子ども服や、木製のかわいいおもちゃ、ぬいぐるみが並んでいた。
小さな新生児向けサイズの洋服を手に取るたびに、顔が綻ぶ。
リシェリアやミスティアスの小さかったころを思い出し、心に柔らかいものが流れ込んできた。
「こんなに、小さかったんですね」
ルアルクも、同じような想像をしたのだろう、柔らかい笑みを浮かべて、女の子向けのロンパースに手を伸ばしていた。
「リシェリアも、ミスティアスも。フィリアも。
本当に、大きくなったわ」
「本当に。あっという間だったね」
色々と手に取り、眺めていると、ディスプレイされたショーケースへ視線が引き寄せられる。
ちいさな、うさぎモチーフの柔らかいパステルカラーの靴。
「可愛い……けど、高いわね」
小さな靴に添えられた値札を見つめて、思わず呟いた。
ルアルクは隣で微笑む。
「でも、あなたが可愛いと思ったものは、きっとこの子にも似合います」
「もう、またそうやって口がうまいんだから」
そう言いつつも、結局その靴を気にしてしまう自分がいる。
それでも、次の瞬間には値札を見て迷いを振り切った。
「やっぱり……もう少し実用的なものを探しましょう」
「賛成です。僕も、安心して抱っこできる服がいい」
ふたりして値札とにらめっこしながら、棚をゆっくり回る。
けれど不思議と楽しい。
手に取る服も、おくるみも、どれも誰かの未来を包むためのもの。
「これ、どうかな。
男の子でも女の子でもかわいい、月と星のデザイン」
藍色に染められた、ちょっと厚めで肌触りのよいおくるみを手に取って夫に見せる。
「きれいな夜空ですね。それ、買いましょう」
同じ色をした綺麗な瞳を瞬かせながら、彼も賛同する。
「よかった。
生まれたらすぐに冬になるから、温かいおくるみは必須アイテムだと思うの」
「なるほど。
母親目線であった方がいいものを選んでくれたら助かるよ。
でも、こうやって見ていると、この服、あの家の子たちにも似合いそうだ。
甲斐性のない男でごめん。
つい、いつかあの家に必要とする子が来るんじゃないかって、使いまわせるかどうかを考えてしまうんだ」
「あなたのそういうところが好きよ」
ユリカはそのまま、ルアルクの腕に手を添えた。
「家族が増えるのが、嬉しいの。
血のつながりなんて関係なく、“この家”に集まってくれる子たちが、みんな私たちの宝物だから」
ルアルクの目が少し潤んだ。
「……ほんとうに、君は強いね」
「ちがうのよ。あなたが隣にいるから、強くなれるの」
二人はそっと手を繋ぐ。
その手のぬくもりの中に、まだ見ぬ子どもたちの笑顔まで感じられるようだった。
繋いでいないほうの手をそっと腹部に添える。
「この子のものだけじゃなく、他の子たちのぶんも、色々買いましょうか」
「そうだね、喜ぶ顔が楽しみだ」
棚に目をやる夫の姿を、ユリカはそっと見つめた。
その表情は、優しい父親のものだった。
「気づいたら、私たち……ずいぶん子だくさんね」
「はい。
でも、そのどの子も、“この家の子”です」
ユリカは頬を寄せて微笑んだ。
「じゃあ、帰ったら子どもたちにも見せてあげましょう」
「きっと騒ぎになりますよ」
「いいじゃない。賑やかなのが、私たちらしいわ」
春風が、店の外に花びらを運びながら抜けていく。
その風は、まるで“新しい家族の息吹”を運ぶように、やさしく人々の上に花びらを降らせていた。
手を繋いだまま店を出ると、花通りの空には薄い雲がかかっていた。
雨になるかもしれない――けれど、ユリカは微笑んだ。
(きっと、その雨も祝福の雨になる)




