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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第二章 始まりの報告
3/12

◆1:Those Who Wait




sideミスティアス




朝の光が窓を透けて、木の床に淡い線を描いていた。


食卓の上では、まだ湯気の残る紅茶が静かに揺れている。




ミスティアスは、椅子に腰を下ろしたまま母の背中を見ていた。


ユリカは淡い上着を羽織り、扉の前で髪をひとつに束ねている。


その動作が、もう何度目かもわからない。




「……また行くの?」


問いは、わかっていてもつい口から出てしまう。




「ええ。今日も報告に行かなくちゃ」


ユリカは笑った。


それは、いつもの柔らかい笑顔だったけれど、どこかほんの少しだけ、遠い。




「行かなくても、あの人たちは怒らないと思うけど」


「怒らないわよ。でも、待ってるの」


「……返事もしないのに?」


「返事がなくても、聞いてくれてるもの」




それ以上、何も言えなかった。


母の声には、迷いがなかった。




ユリカは玄関の靴をそっと履きながら、いつものように振り返って言う。


「昼までには戻るわ。


 ……お昼、何がいい?」


「……なんでもいい」


「そう、それが一番困るのよね」




軽く笑って、扉が閉まる。




ミスティアスは、しばらく紅茶を見つめていた。


いつも、母が出て行ったあとの時間は長い。


その間に風が吹いて、カーテンが揺れて、その音がまるで母の帰り道のように感じられた。




彼は思う。


母は今日も“行く”ことで生きている。


そして、自分は“待つ”ことで、それを支えているのだと。






sideユリカ




教会の中は、いつも同じ静けさに包まれていた。


崩れた壁から差し込む朝の光が、細い筋を描いている。


その光の中を、白い埃がゆっくりと舞った。




ユリカは祭壇の前に立ち、深く息を吸う。


ここに来るのは、もう五度目の朝だった。


それでも毎日、初めて来るような気持ちになる。


指先の赤みは、もうほとんど消えた。


けれど“拒まれた”ときの痺れだけは、まだ体のどこかに残っている。


彼女は両手を胸の前で重ね、そこにまだ温もりがあるのを確かめるように指先を押し合わせた。




「……おはよう、ルアルク」


声は低く、柔らかく、けれど確かな響きを持っていた。


「今日も来ました。あなたが、ちゃんと見ていてくれていると信じています」




一歩、近づく。


立ち尽くしたままの彼の姿は穏やかで、


まるで瞳を開けば、すぐに声をかけてくれるようだった。




「ねえ、あなたが言ったでしょう。


 “僕を人として見てほしい”って。


 今も、その言葉がずっと胸に残っているの」




小さく笑みがこぼれる。


「だから私は、あなたを“ルアルク”って呼ぶの。


 ……神官でも、英雄でもなく、あなた自身の名前で」




風が一筋、頬を撫でた。


けれど髪も衣も、ほんのわずかしか揺れない。


時間の流れが、この場所だけを避けているようだった。




ユリカは視線を横に移す。


「リリ。あなたがいないと、家の中が静かすぎるわ。


 でもね、フィリアはちゃんと頑張ってる。


 あなたの娘らしく、誰より優しい子よ」




そして、少しだけ膝を折る。


そこにはリシェリアの姿。


「リシェ。お母様よ。


 今日も来ました。あなたの弟は元気です。


 フィリアちゃんも、あなたのことを心配してたわ。


 ……みんな、あなたを忘れてなんていないの」




少しの沈黙。


どこからともなく、小鳥の声が聞こえた気がした。


けれどすぐに消える。




ユリカはゆっくりと立ち上がり、


もう一度、三人を見渡した。




「また明日、来ますね」


その言葉には、祈りではなく“確信”があった。


“まだ終わっていない”という想い。




彼女が扉を開けると、外から朝の風が吹き込み、崩れたステンドグラスの欠片が小さく光った。




ユリカはその光に、ほんのわずかに微笑む。




「……待っていてね、ルアルク」




扉が静かに閉じた。


教会には、再び穏やかな沈黙だけが残った。






side ミスティアス




扉が開く音がして、


ミスティアスは思わず顔を上げた。




玄関の向こうから、淡い朝の光と一緒に母が戻ってくる。


ユリカの髪には外気の冷たさがまだ残っていて、その肩口が少しだけ赤く染まっている。




「おかえり」


声にすると、思ったよりも柔らかい響きになった。




「ただいま。……少し風が強かったわ」


ユリカは上着を脱ぎながら微笑んだ。


いつもの調子で、いつもの笑顔。


けれど、その瞳の奥にはどこか遠くを見るような色が宿っていた。




ミスティアスは黙って、テーブルに置いてあったカップを母の前へ滑らせた。


まだ湯気が立っている。


「冷める前に飲んで」




「ありがとう」


カップを両手で包み、ユリカは静かに目を閉じる。


少しして、ぽつりと言った。




「今日はね……あの場所、空気が少しだけやわらいでたわ。


ほこりが光にほどけるみたいに」


「……やわらいでた?」




「ええ。


 あの人たちの立っている場所。


 いつもより少しだけ、光が届いていたの」




言葉の意味はわからない。


けれど、その表情がどこか穏やかだったから、ミスティアスはそれ以上聞かなかった。




「そう……」


それだけ言って、向かいの椅子に腰を下ろす。


母の髪が、外の光に透けて白く揺れた。


二人のあいだには言葉よりも静かなものが流れている。




ふと、ミスティアスは思う。


自分はこの沈黙を、もう怖いとは思わなくなっていた。


母は“行くことで生きている”。


自分は“待つことで支えている”。


それで、きっといいのだ。




カーテンが揺れ、風が通り抜ける。


朝の匂いが、部屋の隅に残っていた。




ユリカがカップを置き、穏やかに言う。


「お昼、どうしましょうか」


「なんでもいい」


「またそれ? ……ほんとに困るのよ」




軽く笑いあって、


その音が小さく部屋に広がった。




外の光は、少しずつ強くなる。


それは確かに“日常”の色だった。






side ユリカ




教会を出たあと、ユリカはひとりで丘を登っていた。


季節は冬の入り口。


乾いた風が草を揺らし、雲の切れ間から光が差している。




丘の上には、古い石碑が並んでいた。


その中で、ひときわ静かな場所に刻まれた名がある。


――アルセイド・エレディア




彼が逝ったのは、もうずいぶん前のこと。


けれど、今でもユリカにとってこの場所は“はじまり”だった。


幼い頃、祖父と過ごした日々は宝物だ。




足もとに膝をつき、指で墓碑の名をなぞる。


冷たい石の感触が、かえって胸の奥をあたためるようだった。




「……おじいちゃん」


声に出すと、それだけで涙が溢れた。




「二人とも、いなくなっちゃったの……」


ぽつりと呟き、唇を噛んで俯く。


頬を伝う雫が、墓の上に小さく落ちた。


風が止まり、鳥の鳴き声さえ遠のく。




しばらくして、ユリカはそっと目を拭い、立ち上がった。


「……ごめんね、おじいちゃん。もう大丈夫」


かすかな笑みを浮かべて、


「またくるね」と静かに告げた。




その瞬間、墓前の白い花がひとつ、風に揺れた。


空気がやわらかく震え、どこか遠くで、微かに鐘の音が聞こえた気がした。




ユリカは振り返らないまま、丘を下りていく。


背後で風が、彼女の歩いた道をなぞるように吹き抜けた。



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