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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第九章 幸せのかたち
27/47

◆1:The Unfinished Home



sideユリカ




朝の光が、やわらかく木の床を撫でていた。


紅茶の湯気がゆらめき、カップの縁で溶ける。


この匂いが“日常”だと胸を張って言えるようになったのは、つい最近のことだ。




窓を開けると、春の風がカーテンをふくらませた。


教会の尖塔が見える。隣の庭ではミスティアスが苗を植え、リシェリアとフィリアがそれを笑いながら手伝っている。


ここは、家族の家。


けれど――ふと、奥にある空気の薄いところで、まだ“誰かがいない静けさ”が顔を出す。


それも、二年という時の中で少しずつ馴染んだ。




「おはようございます」


声の主はルアルク。


黒の外套の袖を整え、軽く会釈してから椅子に腰を下ろした。


それだけで、空気が少し張り詰める。


互いに家族のようで、どこか他人のようでもある――そんな不器用な関係のまま、二年が過ぎた。




「今日の予定は?」


「午前は教会で手続きの確認。午後は孤児院の現場です」


「現場、もう完成したの?」


「……外観は。中は、まだ手つかずなんだ。


 あとひと月くらいで、かな」




言葉のあと、少し沈黙。


その間に、彼が何か言いかけて、言葉を飲み込む気配があった。




(たぶん――“あなたにも見てほしい”って、言おうとしたんだ)




ユリカは、カップの中の紅茶を見つめる。


蒸気が立ち上る間に、その声は結局届かなかった。




ルアルクはカップを両手で包みながら、小さく続ける。


「……受け入れは……教会では手が回らない子たち、血筋や魔力のせいで居場所をなくした子を、自分の手で守れる人数を超えない範囲で――」


「あなたらしいわ」


その声に、彼は照れたように目を伏せる。




(ああ、やっぱりこの人は、どこまでも優しい)




ユリカは頬杖をつきながら、少し柔らかく笑った。


「“名前のない家”に、居場所を作るのね」


「……名前のない、か」


「そう。誰かの家じゃなくて、これから来る子たちのための家」




その言葉に、ルアルクはわずかに微笑んだ。


けれど目の奥の影は消えない。


“その家に、あなたも来てほしい”――そう言いたいのに、喉が震えて言葉にならない。


彼の指先が、空のカップの取っ手をなぞって止まる。




「あとで、現場を見に行ってもいい?」


思いがけないユリカの言葉に、ルアルクが瞬きをした。


「え……?」


「せっかくだから。どんな場所なのか、見ておきたいの」


「……もちろん。歓迎します」




小さな沈黙のあと、彼の表情に初めて安堵の色が浮かんだ。


ユリカはその変化を見逃さない。




(やっぱり、言いたかったのね。)


(――私を、連れて行きたかったのね。)




紅茶の湯気がやさしく揺れた。


外から聞こえる笑い声に、空気がふっと和らぐ。


ルアルクの指がカップの縁を離れた瞬間、


ユリカは立ち上がって小さくスカートを払う。




「じゃあ、午後に行くわ。


 あなたが作る“居場所”を、ちゃんと見ておきたいから」


「……ありがとう」




その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。


まだ“好き”なんて言えない。


あの日の約束が、胸のどこかでまだ息をしているから。


けれど、再び歩み寄るには、十分な温度だった。




朝の光がテーブルを照らす。


紅茶の表面に映った二人の影が、静かに重なり合った。









春の午後。


教会から歩いて十五分ほどの道を、ユリカとルアルクは並んでいた。


空気には木の香りが混じり、少し遠くから鶯の声が届く。




「このあたり、変わってないのね」


ユリカが呟くと、ルアルクは小さく頷いた。


「ええ。森の形も、昔とほとんど同じです」




かつて――リシェリアが生まれ、ミスティアスが五歳まで暮らした場所。


ユリカにとっても、忘れようとして忘れられなかった家の跡だ。


その丘の上に、今は新しい建物が立っている。




白い壁に、赤い屋根。


陽に照らされて、まるで花びらのように淡く光っていた。




「……赤、なのね」


ユリカの声に、ルアルクが少し照れたように笑う。


「はい。温かい色がいいと思って。


 あの頃の家の記憶を、少しだけ残したくて」




玄関を抜けると、懐かしい風の通り道があった。


木の香りがやさしく鼻をくすぐる。


まだ仕上げ途中の壁に手を当てると、かすかに木の温もりが伝わる。




「……音が似ている」


「音、ですか?」


「ええ。床を踏むと、少し高く響くの。


 昔もそうだったわ。子どもたちが走り回って、床がよくきしんでいたの」




ルアルクは一瞬、懐かしさに目を細めた。


「懐かしいですね……あの頃」


「そうね。あの時の私たちは、今よりずっと――」


「「未熟でした」」


二人の声が重なり、少しだけ笑いがこぼれた。




廊下には、窓から春の光が差し込んでいる。


未完成の板の間に光がまだら模様を描き、風がカーテンのように通り抜けた。




「受け入れは十人前後くらいを想定しています。


 教会で引き取れない子たち――血の問題や魔力の偏りを理由に、居場所をなくした子を中心に」


「“名前のない家”に、居場所をつくるのね」


「……そう言われると、少し救われます」




ルアルクの声がわずかに震える。


ユリカは彼を見上げて、やわらかく微笑んだ。




「家具は?」


「まだ決められなくて。色も、配置も。


 ……あなたなら、どうしますか」


「そうね……この光なら、明るい木の色がいいわ。


 あとは、子どもたちの靴が並ぶ棚を、最初に見える場所に」




「靴棚を?」


「ええ。帰ってくるたび、“自分の場所がある”って思えるでしょう?」




その言葉に、ルアルクの目が少し潤む。


ユリカはその変化に気づかないふりをした。




窓から見える赤い屋根が、春の光に染まっている。


二人の影がその上で重なり、少しだけ揺れた。






sideリシェリア




赤い屋根の上に、夕陽が落ちていた。


光はやわらかく、まるでその家全体が一枚の絵の中にあるようだった。




リシェリアは、丘の途中にあるテラスの手すりに肘をつきながら、


建物の中から漏れる声を聞いていた。


ユリカとルアルクが、まだ中で話している。




内容までは聞こえない。けれど、声の響き方だけでわかる。


互いに遠慮して、でも一歩ずつ近づいている――そんな音。




(……二人とも、どうしてあんなに不器用なんだろう)




呟くような思いが、胸の奥で揺れた。


風が髪をなで、赤い光が頬を染める。




「お姉ちゃん、ここにいたんだ」


背後から、フィリアの声。


白いマントの裾を揺らして駆け寄る妹に、リシェリアは振り返って笑った。




「うん。ちょっと、見てただけ」


「お父さんたち、また遠慮してるの?」


「そうね。……でも、もう少しで大丈夫になると思う」




フィリアが首をかしげる。


「どうしてわかるの?」


「わかるわよ。だって、お母様が“パパ”の名前を出しても、もう泣かなかったから」




“パパ”――シェイ。


その名を口にするたび、家の中の空気が変わった時期を、リシェリアは覚えている。


母の声が震え、父の目が逸れた。


それが少しずつ、今は穏やかな懐かしさに変わっている。




「お父様、ずっと我慢してたものね」


「うん。ユリカさんもだよ」


「……それに、たぶん私も」




フィリアが目を瞬かせる。


リシェリアは笑って首を振った。




「お父様が幸せになるのを見たいのに、見たらちょっと胸が痛い。


 変よね、そんなの」




「変じゃないよ」


フィリアは静かに言った。


「お父さんを好きなのは、家族だから。


 お母さんを好きなのも、家族だから。


 どっちかを選ぶんじゃなくて、どっちも抱きしめたいだけなんだよ」




その言葉に、リシェリアはふっと肩の力を抜いた。


「……フィリアって、たまにすごく大人ね」


「たまに、ね」


二人は顔を見合わせ、くすりと笑う。




テラスの下では、ミスティアスがセレスと何かを話している。


日が落ちきる前の光の中、影が寄り添って揺れた。




リシェリアはその光景を見下ろしながら、小さく息をついた。


(……みんな、前に進もうとしてるんだ)




目を閉じる。


夕陽の赤がまぶたを通して滲む。




そして小さく祈る。


――どうか、あの家にもう一度、春の笑い声が満ちますように。




風が吹いた。


赤い屋根の上に、ひとひらの花びらが舞い降りた。









夕食後の食卓には、焼き立てのパンの匂いがまだ残っていた。


暖炉の火がやわらかく揺れ、ルアルクがカップを片手に書類を整えている。


ユリカはその隣で小さな咳払いをして、紅茶を注ぎ直した。




「今日の現場、すごく素敵だったのよ」


「そうですか?」


「外はほとんど出来上がっていて……赤い屋根が本当にきれいだった」




その言葉に、ルアルクは目を伏せ、少し照れたように頷いた。


リリが椅子にもたれ、ワインを傾けながらにやりと笑う。


「ふふ。あんた、その顔、楽しそうね。なんか企んでるでしょう」




「な、何も!」


ユリカが慌てて手を振る。


リリは「はいはい」と肩をすくめ、詮索しないままカップを口に運んだ。


その横で、リシェリアとフィリアが目を見合わせる。




「ねぇ、お姉ちゃん」


「……うん。思った?」


「うん。――もう、止まってた時間を動かしてもいいころだよね」




ふたりの声は小さかったが、確かな決意を帯びていた。


ミスティアスがソファに体を預けながら苦笑する。


「……やっぱりそうなるか」




「ミスくんも、そう思ってるでしょう?」


「……母さんが自分から笑ってるの、久しぶりに見たからさ」


フィリアが覗き込むと、彼は少しだけ肩をすくめた。


「……ルアルクさん、母さんのこと、今でも好きだよな。


 でも本人たちが、父さんのことを言い訳にして動けない。


 だったら、俺たちが背中押すしかない」




暖炉の火がパチ、と音を立てた。


ユリカとルアルクの笑い声が、奥の部屋からかすかに聞こえてくる。


その音を聞きながら、リシェリアは膝の上で手をぎゅっと握った。




(……明日、言おう。お父様に。お母様と、もう一度って)




フィリアがその手を重ねる。


「わたしも一緒に言う」


「ありがとう」




リリがちらりと視線を向けたが、ふたりの顔に宿る真剣さを見て、何も言わなかった。




ただ、カップを傾けて小さく笑う。


「ま、いいわ。どうせあんたたちが動くなら、きっといい方向になる」




暖炉の火がふっと強くなり、家の中に赤い光が滲んだ。




その夜、誰も口にはしなかったけれど――


全員が、同じ“明日”を見ていた。





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