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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第八章 やさしい嘘
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◆3:After the Rain



sideフィリア




「なに、それ……」




話がある、と母に呼ばれたフィリアは、聞かされた言葉の意味がうまく掴めず、もう一度聞き返した。




「あたしとルー、離婚したから」




リリはそこら辺の荷物を鞄に詰めながら、何でもないことのようにもう一度言った。


父は、何も言わない。


母を引き留める言葉さえ、出なかったのだろう。


その沈黙が、余計に胸を刺した。




(どうしてそんな顔でいられるの……?)




「お父さんもお母さんも、ひどいよ……っ!!」




大きな瞳から、涙がぼろぼろと零れ落ちた。


その様子に、はっとしたようにルアルクが彼女を見る。




「どうして、相談してくれなかったの」




その声は怒鳴りではなく、まっすぐに刺さるような問いだった。




「わたしだって家族なのに。


 どうして“家族のこと”を、家族に言わないの?」




リリは返せなかった。


ルアルクも目を伏せたまま。




「こんなのって、ないよ……!」




フィリアの声が震える。


けれど涙はもう出ない。


かわりに、唇を噛んで立っていた。




時計の音だけが大きく響く。


静かな沈黙が、痛いほど長く続いた。




少し間をおいて、フィリアは決意のように顔を上げる。




「わたし……お父さんについていきたい」




空気が止まる。


リリの瞳がわずかに揺れた。




「お父さん、いい、かな?」




捨てられてしまうのではないか、というような不安そうな目で、彼女は父親を見た。


血縁はない。けれど、これ以上ないほど“父”だった。




ルアルクの喉が鳴る。


言葉がスムーズに出ない。




「……こんな僕でも、一緒にいてくれるのかい?」




「こんな、じゃないよ。


 お父さんが、いい」




フィリアが彼の胸に飛び込むと、父は優しく抱きしめてくれた。


けれどその表情には、“本当にいいのか”という戸惑いが濃く滲んでいた。




伺うようにリリを見るその様子に、リリはひとつ息を吐くと、両手をあげた。




「おーけーおーけー。


 そうだよね、あんた、お父さんっ子だもんね。


 ルーもそれでいい?」




「僕は嬉しいけど……リリはそれでいいの?」




「あんた相変わらず“選ばれること”に慣れなすぎ。


 こういうの、本人の問題だからさ。


 父親がいいって言うなら、それが一番なんじゃない?」




さっぱりした言い方だが、その笑顔の奥にほんの少し、痛みが滲んでいた。




「ま、離婚したからって親でなくなるわけでもないし。


 これからもフィリアの父はルーで、母はあたし。


 そういうことで、ユリカのところに行くわ」




荷物をまとめ終えたリリが、さっそく出かけようとする。




「え、お母さんミスくんち行くの!?」


「あんたも行く?


 父親につくからって、今ついてきたらいけないわけじゃないんだから」




ルアルクは二人を見送りながら、どこかぼんやりとした目で立ち尽くしていた。




フィリアは、本当にこの状態の父から離れてよいのだろうかと迷った。


そんな彼女の手を、リリが軽く引く。




「大丈夫。少しだけ、ルーに泣き場所、作ってあげよう?」




母の声に、


母が父を嫌いで離婚するわけではないのだと気づいた。


それだけで少し救われた気持ちになった。




「……うん」




答えたあと、フィリアは母の手を握り直した。


指先は少し冷たかったけれど、しっかりしていた。




廊下の先に、朝の光がこぼれている。


カーテンが風にふくらんで、やわらかい音を立てた。




背後で足音がして、振り向くとお父さんが立っていた。


何か言いたそうだったけれど、言葉は出なかった。


ただ、目が少し赤い気がした。




(お父さん、やっぱり変だよ)


そう思いながらも、フィリアは言わなかった。




母が小さく息を吐く。




「……行こうか」


「うん」




靴を履く音が、やけに大きく響いた。


扉を開けると、眩しい光が差しこむ。




外の空気はひんやりしていて、庭の花が朝露に光っていた。




フィリアは少しだけ振り返る。


廊下の奥、影の中に立つ父の姿が見えた。


その姿が小さくなるまで見つめてから、母の手をもう一度ぎゅっと握った。




(お父さんがちゃんと泣けるように、その間だけ、わたしが泣くからね)




そう心の中でつぶやいて、二人で朝の光の中へ出た。






sideミスティアス




雨が止んだ午後、フィリアがリシェリアと共に庭で花を摘んでいた。


その姿が、いつもより少し大人びて見えた。




「なあ、フィリア」


ミスティアスが声をかけると、彼女は振り向き、目を細めた。


「なに?」




「……リリさん、大丈夫なのか?」




少しの沈黙。


フィリアは手の中の花を見つめたまま、ぽつりと答えた。




「わたし、お父さんについていくって決めたの。


 でもね、今はちょっとだけ、こっちにいるの」




ミスティアスは首を傾げた。


「どうして?」




「お母さん、お父さんをひとりにして、泣かせてあげるためにここに来たみたい」


彼女の声はやわらかく、どこか誇らしげでもあった。




「……ほんと、リリママらしいね」


リシェリアが苦笑しながら答える。




フィリアは笑った。


「うん。


 お母さん、ユリカさんと一緒に笑ってるよ。


 泣いたあとで、ちゃんと笑える人だから」




その笑顔を見て、ミスティアスは少しだけ肩の力を抜いた。


空には、うっすらと虹がかかっていた。




リリの“やさしい嘘”が、


誰かの涙を静かに隠してくれている――


そんな気がした。




「……心配なのは、お父様とお母様のことよね。


 お母様、笑ってるのに、目が少し遅れてる」




リシェリアが小声で言うと、ミスティアスは頷いた。


「ルアルクさんも同じだ。


 会話は続いてるのに、視線が合わない。


 ……でも、ちゃんとこっちを見てるよ。


 俺たちのほうは、外さない」




「…………ええ」






その夜、家の明かりがひとつだけ、遅くまで灯っていた。




誰も知らない部屋の奥で、ルアルクは静かに泣いた。


壊れかけた心が、ようやく軋みながら動き出すように。




その涙を、誰も見なかった。


けれど翌朝の彼の瞳は、不思議なくらい穏やかだった。




きっと、シェイもそれを見て、どこかで微笑んでいる――


ミスティアスは、そう思った。






sideルアルク




雨上がりの匂いが、石畳に残っていた。


黒い上衣の袖口を指で整え、ルアルクは玄関先に立つ。


ユリカも同じく黒を纏っている。


ふたりは並んでいるのに、間に薄い空気の層があった。




台所からは紅茶の湯気。


ユリカはいつも通り、彼の好みの濃さでカップを差し出す。


指先が触れる前に、ふたりとも一歩だけ下がった。




「……ありがとう」


「どういたしまして」




それ以上、言葉は続かなかった。


テーブルの上では、黒い袖口と白い湯気だけが向かい合っていた。




やがてユリカがカップを置く。


「今日は……教会へ?」


「ええ。書類が、まだいくつか」


「……お願いね」




ルアルクは頷き、視線を逸らす。


シェイの残したものを、正しく守る。


それが自分にできる彼への精いっぱいの餞だと、心に誓いながら。









夜の雨が上がり、


空にはうっすらと虹の名残がかかっていた。




ルアルクは庭に立ち、濡れた石畳を見つめていた。


雨の匂いが、少しだけ懐かしかった。




――あなたは好きなだけ泣いてください、泣き虫ルーくん。




その声が風の中に混じって、思わず笑ってしまう。


目の端に残る涙が、光を受けてきらめいた。






屋内から、紅茶の香りと、


ユリカとリリの笑い声が聞こえてくる。


子どもたちも一緒に、少しずつ、いつもの日常を取り戻していた。




ルアルクはゆっくりと息を吸い、空を仰ぐ。




「……シェイさん。あなたの言う通りです。


 泣いても、歩いていけます」




そう呟いて、


黒い上衣の裾を整え、踵を返した。






翌朝。


空はすっかり晴れ、濡れた石畳が陽を反射していた。


昨日の雨が、まるで季節の境目を洗い流したかのようだ。




邸の前では、荷を整えた馬車が一台。


エルとスティリオが並んで立っていた。


どちらの顔にも、眠れぬ夜の影が残っている。




ユリカは玄関口で静かに見送っていた。


泣きすぎて腫れた目を、手の甲でそっと押さえながら。




「……行くのね」


ユリカの声は、震えていた。




エルは小さく頷く。


「はい。


 でも、逃げるんじゃありません。


 あの人に……背中を押された気がして」




エルが一歩前に出る。


金の瞳が陽を受け、淡く輝いた。




「……ルアルクさん。


 あの人の灯を、遠くの国にも繋ぎに行ってきます」




「……危険な旅になります」




「わかっています。


 でも、止まっていたら……あの人に怒られそうで」




髪に結んだ白いリボンが陽を受けて揺れた。


それは、シェイの祈りを受け取った証。




スティリオは隣で小さく頷く。


「……見届けます。彼の言葉どおりに」




ミスティアスは笑おうとして、少しだけ泣き笑いになった。


「泣いてんの、俺だけかよ」




セレスが隣で小さく肩をすくめる。


「いいえ。私も、少しだけ」




ユリカが微笑みながら言った。


「泣いていいのよ。


 泣けるうちは、ちゃんと生きている証拠だから」




エルはその言葉を胸に刻み、深く一礼する。


夏の日差しが、彼女の亜麻色の髪を眩しく照らした。




風が吹いて、白い花がひとひら舞い落ちる。




スティリオが軽く会釈をし、


「行ってきます」とだけ言った。


その声が、雨上がりの空にまっすぐ伸びていく。




ミスティアスが小さく手を上げた。


「……帰ってきたら、また茶でも」


「はい。その時は、ぜひ」




エルの髪に結ばれた白いリボンが風を受けて揺れた。


彼女が振り向くことはなかった。


けれど、歩みのひとつひとつが、確かに“生きている”音を立てていた。




やがて馬車が角を曲がり、姿が見えなくなる。


そのあとに残った静けさは、不思議と痛くなかった。




ルアルクは、深く息を吸い込み、空を仰ぐ。




――もう、大丈夫です。


――あなたの国は、まだ生きています。




風が頬を撫でた。


どこか遠くで、誰かが微笑んだ気がした。




この後、旧邸の跡地を見に行くつもりだ。


“呼ばれない子”を出さないために。




もう、涙だけでは終わらせない。


この雨が誰かの涙を隠すなら、それでいい。




雲の切れ間から陽が差して、濡れた庭に光が広がる。




――“名前のない家”。






それは、悲しみのあとに訪れた、ほんの小さな再生の光だった。





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