◆3:Spring, and the Door Home
風が通り抜け、光が消えた。
ほんの一瞬、誰も息をすることすら忘れていた。
その静寂を破るように、
遠くから、低く笑う声が響いた。
『……ったく、やっと行きやがったか』
誰のものとも知れない声。
けれど、どこか懐かしい響きだった。
『長かったな、ネル。
お前みたいな頑固者が、ようやく帰る気になったか』
風がまたひとつ吹き抜ける。
その中に、微かに笑いを含んだ溜息が混じった。
『……ま、いいさ。
これで少しは静かになる。
今度こそ、もう誰も――ストーカーすんなよ』
空気が柔らかく震え、その声も、風に溶けていった。
ルアルクが小さく息を漏らす。
「……今のは……もしかして、ナーバ、ですか」
ルアルクの目は、ミスティアスの腰の剣に向けられていた。
シェイが苦笑する。
「ええ。きこえましたか。
彼なりの餞の言葉でしょうね」
ミスティアスが空を仰ぎ、微笑みながら目を細めた。
「……父さん。
あんたの仲間は、みんな優しいんだな」
シェイはその言葉に、
ゆっくりと頷いた。
「そうだね。
――あの人も、ずっと“見守っていた”んだ」
風がもう一度、遺跡を渡っていく。
その風の音の中で、誰もが静かに目を閉じた。
“赦し”と“選んだ生”の余韻だけが、そこに残っていた。
sideミスティアス
外に出ると、世界はすでに春の真ん中だった。
花の匂いが風に乗り、空気が眩しいほどにあたたかい。
けれど、胸の奥にはまだ、遺跡の冷たい空気が残っていた。
ミスティアスは、セレスの隣に立ちながら呟いた。
「……こんなに咲いてたんだ」
「ずっと、気づかなかっただけですよ」
セレスの声はやわらかい。
その言葉に、彼は小さく笑った。
本当だ――
自分たちはずっと冬の中にいた。
でも世界は、もうとっくに春だったのだ。
シェイがゆっくりと歩き出す。
ルアルクがその後を追い、
ふと空を見上げて目を細めた。
「……季節は待ってくれませんね」
「ええ。だから僕たちも、止まっていられない」
「そうですね」
穏やかな会話。
けれど、その言葉の奥にあるのは決意だった。
彼らはもう、過去に縛られない。
生きる者として、これからを選んでいく。
少し先で、フィリアが声を上げた。
「ねぇ、帰ったらユリカさん、どんな顔すると思う?」
エルが笑いを堪えながら答える。
「きっと泣きながら怒りますよ」
「だよねぇ……」
フィリアの笑い声が広がり、みんなの肩の力が抜けた。
風が吹く。
薄紅色の花びらが、遺跡の方角へと舞い戻っていく。
まるで、誰かに「もういい」と告げるように。
ミスティアスは空を仰いだ。
「……みんな、見てるかな」
「きっと見てます」
セレスが答える。
彼女の銀の髪飾りが陽を受けてきらりと光った。
「帰ろうか」
「はい」
ふたりは並んで歩き出す。
足元に花びらが重なり、
それがまるで、新しい季節の始まりを指し示しているようだった。
――そのとき、ミスティアスの剣帯から微かに声がした。
『……ちゃんと、帰って顔みせてやれよシェイフィル』
「まったくだ」
ミスティアスも同調する。
シェイは目を細めて、小さく笑った。
「……はい。もう帰りますよ」
春の空はどこまでも澄んでいて、その下で、彼らはようやく“帰る場所”へと歩き出した。
ミスティアスは少し口元を緩めて言った。
「――あ、そうだ父さん。
母さんから伝言があるんだ」
シェイが歩き出そうとした足を止める。
「……伝言?」
「うん。“母は怒っています”――だってさ」
ピタッ。
シェイの表情が、みるみるうちに引きつった。
顔色が見事に青ざめていく。
「……あの、怒り方って……どのくらいの……?」
ミスティアスは肩をすくめて、
「俺、もう止められないと思う」
シェイは空を仰いで、かすれた声で呟いた。
「怒られるうちが、花……ですよね。
潔く、怒られますので……良い頃合いで助け船を……」
「それ、潔くないんじゃないか……?」
「まったくだ。
僕も怒られたんだから、あなたも諦めてください」
ルアルクが横から笑顔でトドメを刺す。
言外に、あなただけ特別扱いはできないという空気を匂わせて。
『ルアルクの言う通りだぜ、怒られろ!』
ナーバの声が、楽しそうに笑った。
その笑い声が、久しぶりに何の曇りもない“日常”の音に聞こえた。
sideシェイ
久しぶりに見る我が家。
けれど遺跡で過ごした時間の感覚は曖昧で、どれほどの年月が経ったのか、正確にはわからなかった。
遺跡へ向かったのは秋。
今は春――少なく見積もっても、半年は過ぎている。
「ミスティアス、今いくつになりましたか」
「もうすぐ十五」
「なるほど、それは……大きくなりますね」
最後に出かけたあの日の彼は、まだ十三歳だった。
一年半という時間は、短いようで、待つには長すぎる。
玄関を開けた瞬間、ユリカが駆け寄ってきた。
「あなたねぇ……!」
声は怒鳴り声なのに、涙が滲んでいた。
「どれだけ心配したと思ってるの!
あの子たちが、どんな気持ちで……!」
シェイはただ、黙って聞いていた。
反論も、弁解もできない。
胸の奥に、張り裂けそうな言葉が詰まっていた。
ユリカが掴んだ袖が、震えている。
その震えがあまりに細くて、彼はもう笑うこともできなかった。
「……ごめん」
その一言に、ユリカの動きが止まった。
何度も繰り返してきた言葉。
それでも、今の“ごめん”だけは、世界の終わりみたいに重かった。
「……本当に、もう」
ユリカが腕を回し、彼の胸に顔を埋める。
「怒ってるのよ。
でも、あなたが帰ってきてくれて……よかった」
シェイは、腕をまわすことができなかった。
抱きしめ返せば、それが“最後”になる気がしたから。
喉の奥に“愛してる”が張り付いているのに、言えたのは、また――「ごめん」だった。
――わかっている。
そう遠くない未来、彼女をまた置いていく。
今度は、二度と帰ってこれない。




