◆3:Where the Seal Breathes
遺跡の中心で光がうねった。
黒の魔力と古代の文様が呼応し、床一面の魔法陣が脈打つように明滅する。
空気が、ひと呼吸ごとに重くなる。
誰かが喉を鳴らす音がやけに大きく響いた。
スティリオが低く呟く。
「この反応……封印が“内側”から反応してる」
「内側……?」ミスティアスが問い返す。
「誰かがまだ、生きてる証拠だ」
その言葉に、全員の視線が一点に集まった。
黒の光の中心――。
そこに、ひとりの人影が現れた。
薄く、揺れる輪郭。
黒い髪が風のない空気の中を泳ぎ、
黒衣の裾が音もなく揺れた。
フィリアが息を呑む。
「……シェイ、さん……?」
その名が零れた瞬間、魔法陣が一度だけ強く輝き、光がはじける。
眩しさの中から、確かに――人が立っていた。
崩れかけた石の上に片膝をつき、深く息を吸い込む。
焦点の定まらない瞳が光を探すように動き、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……ここは……」
声が掠れている。
けれど、確かに聞き覚えのある声だった。
ミスティアスが思わず駆け寄ろうとする。
しかしその瞬間、
スティリオが腕を伸ばして制した。
「待って……おかしい。
魔力の流れが……逆だ」
再び遺跡が低く唸った。
まるで誰かの意志に抗うように、
光が一瞬、黒に染まる。
その闇の中から、
別の声が響いた。
『――よくも、また光を入れたね』
冷たい、けれどどこか懐かしい声。
音ではなく、頭の奥に直接届く響き。
ルアルクが目を細める。
「……ネル」
沈黙が広がる。
魔法陣の中央で、シェイの瞳がゆっくりとこちらを向いた。
だが、その瞳の奥にはまだ光がなかった。
『彼はもう僕の中にいる。
君たちがどれだけ呼んでも、答えはしない』
ネルの声は笑っていた。
楽しげに、壊れた玩具を転がす子どものように。
フィリアが震える声で叫ぶ。
「嘘……やめて……シェイさんを返して!」
『返す? 君たちが“英雄”を求めたくせに?』
闇が波打ち、空気が裂ける。
シェイの身体がひとりでに立ち上がった。
その動きに、ミスティアスが息を呑む。
「……父さん?」
『命令だ、シェイフィル。
ルアルク・ノア・アストレイドを――殺せ』
風が止まった。
遺跡全体が一瞬で静まり返る。
そして、シェイはゆっくりと歩き出した。
その瞳は何の感情も映していない。
ただ、言われた通りに動く“人形”のように。
ミスティアスが叫ぶ。
「ルアルクさんっ!」
その声と同時に、
ルアルクが小さくため息をついた。
「……やれやれ、やっぱりそう来ますか」
動く気配も見せず、シェイの手がその首にかかる。
周囲の空気が軋むように震える。
緊張が極限まで張り詰めた瞬間――
「……いつまでこの茶番やらせるんですか」
ルアルクの声が、あまりにも冷静に響いた。
シェイの手が止まる。
静寂の中で、ふっと口元が緩む。
「あ、やっぱりバレてた?」
「当然でしょう」
ルアルクは肩をすくめ、シェイの手をそっと押しのけた。
「精神汚染対策。
僕が受けたような世界規模の闇魔法でもない、対個人の精神汚染。
操られることなどありえない。
彼ならすぐに解除できますよ」
ネルの声が揺れる。
『な、何を――』
シェイがルアルクにふざけたように抱きつきながら、疲れた笑みを浮かべた。
「ね、研究しといてよかったよ、ルーくん」
ルアルクはその身体を支えるように片腕を回し、ネルの気配を見据えた。
「あなたのしていることは、実は色々と破綻しています」
その声は柔らかいのに、どこまでも冷静だった。
遺跡に満ちていた闇が、少しずつ薄れていく。
壁の光紋が静まり、響いていた低音が嘘のように消えた。
ネルの声が遠のいていく。
『……直系は……干渉できない、か……なるほど……』
その響きは、風に溶けるように消えた。
残されたのは、崩れかけた石の広間と、そこに座り込むシェイの姿。
「父さん!」
ミスティアスが駆け寄る。
その体は思った以上に軽かった。
息はある、けれど全身の魔力の流れが不安定で、明らかに封印の影響を色濃く残していた。
スティリオが膝をついた。
「……本当は診察してからがいいけど――」
手のひらに光を集める。
「とりあえず、“回復”をかけます」
ミスティアスがシェイの傍から一歩離れる。
淡い銀色の魔法陣が浮かび、シェイの身体を包んだ。
光が一度、波のように揺れる。
けれど、スティリオの眉がわずかに歪む。
「……満たされない……か」
誰に言うでもなく、低く呟いた。
その言葉に、ルアルクが視線を向ける。
だが、スティリオは首を横に振り、シェイと目を合わせた。
シェイは静かに首を振っていた。
(なんだ、あれは……)
その仕草に、胸の中心を冷たい手で触れられたかのような冷たさが走る。
スティリオは苦々しい顔で、唇の内側を噛みながら魔法を解いた。
「……応急処置は完了です」
ミスティアスが息をつき、震える手でシェイの頬に触れた。
「……父さん……」
シェイはかすかに笑った。
「……大きくなったね」
「……ああ、大きくなったよ」
ミスティアスの声が揺れる。
泣いてはいない。
父の前で虚勢を張るように、ぐっと堪えていた。
「それが、父さんが、母さんを泣かせた年月だ」
シェイの表情が、ほんの一瞬止まる。
その静寂を、風の音が埋めた。
ミスティアスは目を逸らさないまま続けた。
「母さんは、ずっと信じてた。
だから俺も、信じてここまで来た。
……それだけだ」
『言うじゃねぇかミスティアス。
シェイフィル、お前本当に反省しろよ?』
シェイは小さく息を吐き、どこか懐かしむように笑った。
「そっか。……ありがとう」
その声が少し掠れているのを、ミスティアスは聞かなかったふりをした。
その横で、ルアルクがゆっくりと歩み寄った。
ミスティアスの肩に手を置き、静かに頭を撫でた。
「……損な性分だね。君も」
その瞬間、
ミスティアスの喉が詰まり、堪えていた涙が音を立てて溢れた。
「……っ、ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
ルアルクは微笑みながら抱き寄せた。
「君は、ずっと頑張ってきたから」
その一言を言い切ったところで、ルアルクの声がふっと揺れた。
ミスティアスの肩が震える。
ルアルクの肩を借りて、服にしがみついて感情を開放する。
嗚咽が零れ、胸の奥に溜まっていた時間がすべて解けていくようだった。
シェイはその光景を見つめて、微かに笑った。
ルアルクの指先が小さく震える。
ミスティアスの感情に呼応するように、彼の瞳からもいくつもの涙の粒が零れ落ちた。
「……ありがとう、ミスティアス、ルーくん」
ルアルクは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただ頷いた。
「……よかった。
シェイさんが帰ってきて、本当に……よかった……」
その声はもう、嗚咽に近かった。
フィリアがシェイに駆け寄っていく。
目は真っ赤なのに、必死に涙をこらえて笑っていた。
「シェイさんっ、ミスくんね、ほんとに頑張ってたの!
毎日お母さん手伝って、夜も泣かないで我慢して――」
「フィリア……」
ミスティアスが止めようとするが、彼女は首を振って続けた。
「ありがとう、フィリア。
君がミスティアスを支えてくれていたんだね」
シェイが優しく彼女を抱きとめ、頭をゆっくりと撫でた。
「ううん、支えたのは私よりもセレス王子だよ!」
「えっ……!?」とセレスが変な声を上げる。
「ミスくん、男の子が好きなんだよ!」
「おい!」
『はは!代理告白されてやんの!』
ミスティアスが真っ赤になって叫ぶ。
その声に、ルアルクが思わず吹き出した。
フィリアも慌てて口を押える。
「わ、わたし変な意味じゃなくて……!」
シェイも肩を震わせて笑う。
「……あはは、にぎやかだなあ」
その笑いが広がって、やっと遺跡の空気に“温度”が戻った。
シェイはセレスへ視線を移し、目を細めた。
「その魔力のグラデーション、第三王子だね。
うちの子たちと仲良くしてくれて、ありがと」
セレスは一瞬言葉を失い、耳まで赤くなる。
涙はもう、止まっていた。
だが、その中でフィリアがふと顔を上げ、真剣な声で言った。
「……でも、ネルはどこに行ったんでしょう」
笑いが静まる。
ルアルクが表情を引き締める。
「遺跡の外には出ていない。
周囲には結界を張ってある。
まだ、この場所のどこかにいるはずだ」
『確かに、気配は消えちゃいねぇ』
「じゃあ……」
フィリアが息を呑む。
ルアルクは視線をシェイに向けた。
「僕たちは、彼に向き合わなければならない。
その前に――」
少しの沈黙。
そして、静かな声。
「シェイさん。話してもらえますか。
あの日、何があったのか」
シェイは短く目を伏せた。
光の残滓がまだ瞳に残っている。
「……わかった。全部、話そう」
遺跡の奥で、まだ黒の気配がかすかに脈打っていた。
sideシェイ
シェイは目を閉じ、遺跡の床に描かれた魔法陣に手をかざした。
心は凪いでいて、声は静かだった。
「あの日……僕は完全に油断し、ドジを踏んだんです。
この遺跡の起動源は黒魔力。
僕以外にこの力を操れる人間が、遺跡内にいるとは思っていませんでした。
ネルは僕を試したんです。
黒魔力を使い、封印陣の展開をわざと早めた。
中心に立って、そのままでは彼自身が封じられる形でね」
ミスティアスが息を呑む。
「きっと彼は、誰かを信じたかったんです。
世界でも神でもなく、“人”を。
僕はその役を引き受けた。
……間違いではなかったと思っています」
沈黙。
スティリオが視線を落とし、ルアルクだけがゆっくりと頷いた。
「怒ってはいないのですか?」
「ええ。
僕が怒っていたら、彼は帰る場所を失うでしょう。
それだけはしたくなかった。
それに、僕が助けに入らなければ、彼は完全に封印されていたはずです。
今だって、不完全に封印されたせいで彼は肉体の半分を失っている。
一度完全に閉じたら、ルーくんなしでは――僕でもあの封印は開けられなかった」
フィリアが目を伏せ、
ミスティアスは唇を噛む。
「だから、僕は彼を赦します。
助けたあの瞬間に見た笑顔が、答えです」
シェイは語り終えると、長く息を吐いた。
「……それが、あの日のすべてです」
ルアルクはしばらく何も言わなかった。
指先がかすかに震えている。
「……何してるんですか」
低い声。
「誰も彼もを守ろうとして。
一番守らなきゃいけない家族を泣かせたんですよ」
シェイの瞳が揺れた。
「……わかってます」
「わかっているなら、そんな顔しないでください。
あなたが無事に帰ってきたことが、どれだけの奇跡かわかっていますか」
ルアルクの声が震える。
ミスティアスも顔をずっと下に向けてうつむいたままだった。
それでもルアルクは続けた。
「あなた、僕がいればそれでいいと思っているでしょう。
僕たちは二人で父親でしょう?
僕たちは片方だけでは不完全なんです。
……だからもう、一人で“全部守ろう”なんて言わないでください。
一緒に守るって、約束したじゃないですか」
『本当にその通りだな、しっかり聞いておけよシェイフィル』
「はは……そうだね。
いつだって、ルーくんの言葉はユリカさんの言葉と同じくらい、僕には重い」
ミスティアスの身体が小刻みに震える。
右手はフィリアが、左手はセレスが握って受け止めていた。
「僕だって家族を置いていきました。
リリとリシェリアも巻き込んだ。
けれど、それを戻すのは僕の役目です。
あなたは違う。
あなたには帰る家があるのに、自分で帰らなかった。
大切な人を泣かせてまで守る“誰か”なんて、本当はいなかったはずでしょう」
『シェイフィル、ルアルクは自力で自分の家に帰ってきたんだぜ。
お前も、こいつの守り方見習っとけ』
シェイの目に、震えながらも傍にいる人たちに支えられるミスティアスの姿が映った。
彼は小さく笑いながら、その言葉の痛みに耐えるように、言葉を探して紡いでいく。
「……ごめん。君の言う通りだ。
僕はまた、約束を破った」
ルアルクの目が揺れる。
「あの日、君に言った。
“もう、自分を犠牲にする守り方はしない”と。
……でも、結局、同じことをしてしまった」
「――シェイさん」
「すみませんでした……っ」
声が掠れ、最後はほとんど音にならなかった。
それでも、伝えたい気持ちをすべて言葉に乗せていた。
「まったく、あなたって人は……」
ルアルクは小さく息を吐くと、柔らかい微笑みを浮かべた。
その笑みには、怒りも悲しみもすべてが溶けていた。
「……そんなあなただから、僕は好きなんですけどね」
ため息とともに吐き出された、諦めを含むような告白。
シェイは驚いたように顔を上げ、彼を見つめる。
その瞳の奥には、静かな安堵しか浮かんでいなかった。
「……ずるいですね、ルーくん」
「お互い様でしょう」
「僕も、そんなルーくんが好きですよ」
お互い、見つめ合いながらふっと笑う。
『両想いだなおめでとう』
ナーバのからかいを含んだ声が、シェイとミスティアスの耳に響く。
そんな中、フィリアが「あれ?」と小首をかしげた。
「……あの、今の“好き”って……ミスくんとセレス王子の時と似てません?」
それまで離れたところで見守っていたスティリオが思わず吹き出しそうになり、慌てて拳で口元を抑える。
エルの肩も、静かに震えていた。
ミスティアスとセレスは、自分たちが引き合いに出されたことに慌てて手を離し
「ち、違うから!」と弁解している。
ルアルクは真顔で、
「……似ていません、まったく」
シェイは笑いながら、
「……まったく別ですよ、たぶん」
ミスティアスの「フィリアぁああ!!」という叫びだけが、遺跡の奥に場違いにこだましていた。
遺跡の奥で、まだ黒の気配が息づいている。
静けさの中に、次の鼓動が確かに潜んでいた。
――それは、“赦し”を求める誰かの声のようだった。




