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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第一章 終わりの音色
2/9

◆2:When Time Stands Still



sideミスティアス




――闇が、すべてを呑み込んでいた。




礼拝堂の奥、崩れかけた祭壇の向こうで、黒い奔流が渦を巻くようにうねっている。


その中心で、一瞬だけ白い光がはじけた。


闇と光が衝突し、世界が反転する。




音が消える。


風が止まる。


まるで時が、ひと呼吸ぶん凍りついたようだった。




ミスティアスはその光景をただ見ていた。


何が起きているのか、誰がそこにいるのか――


確かなことは何ひとつわからない。


けれど、胸の奥で感じた。


あの光の中に、確かに姉たち三人の気配があった。




「……父さん……」




声は闇に吸い込まれ、何も返ってこない。


目の前の空間は、もはや“夜”ではなく“静寂”そのものだった。


光が消えたあと、残ったのはただの瓦礫と、息を潜めたような静けさだけ。




彼は腕の中のフィリアを確かめる。


脈はある。


冷たさは、命を奪うものではなく、眠りのようだった。


その事実だけが救いだった。




どれほど時間が経ったのか、わからない。


闇は薄れ、夜の端にかすかな白が差す。




――夜明け。




だが、教会には誰の気配もなかった。


あの三人の光も、ただ静かに消えていた。




ミスティアスは、崩れ落ちた祭壇を見つめたまま立ち尽くした。


耳の奥で、鐘の音が鳴る。


遠く、遠く、雲の向こうから聞こえるような音。


それが、夜の終わりを告げる“合図”だった。






sideユリカ




同じ時刻。


静かな家の一室で、ユリカは眠れぬまま両の手を胸の前で組んでいた。




窓の外はまだ暗く、ただ冷たい風がカーテンを揺らしている。


暖炉の火は消えかけ、薄い灰色の煙が天井に溶けていった。




胸の奥で、微かな痛みが広がる。


あの夜から、ずっと何かが軋んでいる。


言葉にすれば壊れてしまいそうで、


それでも、何かを伝えずにはいられなかった。




「……おじいちゃん、」


そっと、目を閉じる。


「あなたが見てきた世界が、どうかこの子たちを照らしますように」


「彼らが選んだ道を、誇りとして見届けられますように……」




その声は、祈りというよりも、血の奥から滲み出る“願い”のようだった。




外では、遠くの塔の鐘が鳴る。


静かに、ひとつだけ。


まるでその願いに答えるように、柔らかく、けれど確かに響いた。




ユリカは微笑み、手を下ろした。


夜が、少しずつ明けていく。


けれど、あの三人は――帰ってこなかった。






sideミスティアス




朝の光は、あまりに静かだった。


夜が明けたというのに、世界はまだ眠っているようだ。




崩れた教会の塔の向こうで、鐘はもう鳴らない。


風だけが砂ぼこりを巻き上げ、瓦礫の上を通り過ぎていく。


その中を、ミスティアスはフィリアの肩を支えながら歩いていた。


互いの衣の裾は薄汚れ、息をするたびにほこりっぽい匂いが胸に残る。




門の前に立つと、家の扉が開いた。


ユリカがそこにいた。


陽の光を背にして、影が彼女の足もとに長く伸びている。


その影の先に、まだ帰らぬ人たちの面影があった。




「……おかえりなさい」


声はかすれていた。


けれど、泣き声ではなかった。




フィリアが小さく頭を下げる。


「ただいま……ユリカさん」


足元がふらつき、ユリカが慌てて抱きとめた。


手のひらに伝わる冷たさに、彼女の指が震える。




「リシェと……リリは?」


ミスティアスは唇を噛んで首を振る。


「……まだ、帰ってこない。父さんも……」


言葉が喉の奥で止まる。


続きは、胸の奥で凍りついたままだった。




ユリカは小さく頷き、言葉を選ぶようにゆっくり息を吐いた。


「……そう。ありがとう。無事でよかった」


そのまま二人を中へ促す。




家の中には、夜の残り香と、どこか冷たさが漂っていた。


ミスティアスは靴を脱ぎ捨て、フィリアをソファに座らせる。


ナーバが腰の剣帯で小さく金属音を鳴らした。




『……ひどい有様だったな』


「見ての通りさ」


『あの三人……完全に飲まれたか』


「まだ、そうと決まったわけじゃない」


声が震えた。


それでも言葉にしたかった。




ユリカが台所に向かい、湯を沸かす音が聞こえる。


その背中を見ながら、ミスティアスは拳を握りしめた。




母の髪には、ところどころ白いほこりが降り積もっている。


それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


姉たち三人が消えた朝に、彼はようやく“残された側”であることを自覚した。




「……母さん、これからどうする?」


振り返ったユリカの表情は穏やかで、少しだけ微笑んでいた。


「やれることをやりましょう」


「……やれること?」


「ええ。


 まずは教会の現状を見ましょう。


 何も知らずに嘆いても仕方がないわ。


 疲れているでしょうけど、後で一緒に来てくれると心強い」




その言葉に、ナーバが微かにうなる。


ミスティアスは目を伏せ、かすかに息を吐いた。




「……わかった」




外では、朝日が灰を照らし、


静かな風が新しい一日を告げていた。






sideユリカ




石畳の上を、靴の音が静かに響いた。


教会の外壁は崩れ、屋根の一部は落ちていたが、


まるで長い眠りに入っただけのように、そこには穏やかな静けさがあった。




風は止み、音がない。


鐘楼の影だけが、淡い光の中で微かに揺れている。




ユリカは足を止め、崩れた壁を見上げた。


「……ここに、いたのね」


指先で石の欠片をなぞる。


その表面は冷たく、けれど焼けたような痛みはなかった。


すべての熱が奪われ、ただ“時間”だけが凍りついたようだった。




「お父さん……お母さん……」


フィリアの声が震える。


ユリカは首を横に振った。


「見えるものを見て。感じることを、止めないで」


淡々とした声は、祈りというより命令に近かった。


それがこの場所で唯一、現実に触れられる方法だと知っているから。






祭壇の前まで進むと、淡い光をまとった三つの影が静かに佇んでいた。


ルアルク、リリ、リシェリア。


彼らは倒れていなかった。


誰もが、立ったまま。


まるで最後の瞬間に、何かを守ろうとした姿勢のままで。




肌も衣も、淡く灰がかっている。


まるで時間だけが、この場所で止まってしまったかのようだった。




ユリカは震える手を伸ばした。


ほんの少しでも、その温度を確かめたかった。




けれど――その瞬間、空気が裂けた。


指先に鋭い痛みが走り、電気を浴びたような衝撃で手がはじき返される。


「……っ!」


思わず息を呑む。


手の甲には赤い痕が浮かび、痺れが腕の奥まで残った。




何が起きたのか、わからない。


けれど、確かに“拒まれた”のだと感じた。




「……触れられない」


その言葉が、吐息のようにこぼれる。




理由も理屈もわからない。


ただ、胸の奥に広がるのは――


彼らに近づいてはいけないという、説明のつかない恐怖だった。




ユリカはわずかに首を振り、静かに告げた。


「……だめ。近づかないで」




それでも、彼らは確かに“そこにいた”。


熱も息も感じないのに、存在だけが鮮やかに残っている。


その静けさは、祈りよりも深く、永遠のように思えた。


その言葉に、ミスティアスは息をのんだ。


闇は燃えも凍りもしない。ただ拒絶する。


生者を拒み、祈りすら弾き返す。




だが、彼らは温度はないのに、確かに“そこにいる”――そう感じた。




「……聞こえていますか」


静かな声が、閉ざされた空間に溶けていく。


「今日、確認に来ました。


 ……あなたたちは、まだここにいます」




それは祈りではなかった。


ただ、存在を確かめるための“報告”だった。




しばらく沈黙が続く。


風の音も鳥の声もない。


けれどその沈黙の奥に、


確かに“呼吸のようなもの”がある気がした。




ユリカは立ち上がり、崩れた天井を見上げる。


そこに光はない。


それでも、外から差す朝の色が、


ほんの少しだけ彼女の頬を照らした。




「……帰りましょう」


声は柔らかく、それでいて何かを決意した響きを持っていた。




彼女が踵を返したその瞬間、


ミスティアスの視界に、母の後ろ姿が深く焼きついた。






sideミスティアス




ユリカが歩き出す。


その足取りには迷いがなかった。


まるで何かを置いていくのではなく、“この場を預ける”ような静けさがあった。




彼は振り返る。


祭壇の三人は、微動だにしない。


それでもどこかで、誰かが見ているような気配を感じた。




「……ナーバ」


『聞こえてる』


「これは……死じゃないよな」


『そうだな。だが、生きてもいねぇ。


 あの中じゃ、“時間”が止まってる』




ミスティアスは拳を握る。


母の背中を見つめながら、小さく呟いた。


「止まってるなら、動かせばいい」




ナーバが低く笑う。


『言うじゃねぇか。


 ……お前の父なら、きっとそう言った』




ミスティアスは答えず、ただ前を向いた。


外には、薄く霞む朝の光。


その中で、母の影がゆっくりと伸びていく。




彼は歩きながら思う。


自分たちは“見届ける側”になったのだと。


そしていつか――動かす側にも。





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