ユーフォリア×ベイビーベイビー
◆
夕空が、好きだ。
まっすぐなきみの、瞳の色。
昏いようで明るい、暖かい色。
きみの優しさの色。
――きみが、好きだ。
◆
『ユーフォリア×ベイビーベイビー』
◆
もう昔からの決まり事になってしまっているのだけど。
朝は必ず、隣の家に住む一つ年下の幼馴染を部屋まで起こしに行く。これが私のルーティンだ。
今日も今日とて散らかった部屋で目覚ましもかけずに布団を被ってすうすう眠ってる幼馴染――イオリの身体から布団をひっぺがす。
「お~い、イオリッ! こら起きろーっ! 朝だぞー? 愛しのチハルちゃんが迎えに来たよ~!」
「……ん……っ、……げ、チハル! てめ、また勝手に部屋に……!」
「勝手にじゃないですー。ちゃーんとおじさんおばさんに頼まれた上で来てますー。ほら起きた起きた! 朝ご飯できてるよ!」
じとりと私を睨むその瞳に笑いかけて寝癖に手を伸ばすと、手を払われた上で布団を奪い返される。低血圧のくせに、朝から良くこんな力が出るなってくらい。
それから何やらぶつくさ言われる。多分文句だ。
「幼馴染とはいえ女が男の部屋に一人で入ってくるかフツー……ったく……警戒心ってもんが……」
「はいはい、昔からずっとこうなんだから文句言わない。下、降りてるからちゃんと起きてきなね?」
「あー……だりー……」
「だるがらなーいっ」
イオリの文句を遮って打ち切って、ぽんと背中を軽く叩いてから離れる。
部屋を出る前、振り返ってもいないのにまだ背後からぶつぶつ続く拗ねた声が空気を震わせている気がして、その鬱屈に笑いそうになった。
これが、私――水谷チハルと、幼馴染――黒坂イオリの朝のはじまりだ。
思えばイオリとはずっと一緒だった。
私とイオリは隣の家に住む幼馴染で、私の方が一つ年上だけど不思議と縁が切れたことはない。
お互い両親が忙しい家庭なので、一般的な幼馴染よりはだいぶ距離が近いと思う。
私が高校2年生、イオリが高校1年生になった今でも同じ学校に通っているので安定して交流は続いている。
学校であんまり話しかけたり構ったりしたら嫌がられるけど。
ただ、それでも私の朝はイオリから始まる。
最初にイオリに会いに行くのが、目覚めて最初にイオリを探すのが私のはじまり。
イオリを起こして目が合ったその時、あの夕空に似た色の瞳に。
私の愛しい夕闇に、不機嫌そうに睨まれたその時。
私はやっと、私になる。ずっとそんな気でいる。
朝の澄んだ青の下、イオリと歩く。
最近しばらく雨を見ていない気がする。
二人で一つの傘を差していない。イオリと遠い。イオリの肩の温度を、忘れそうになっている。
隣にいることは多いけど、それらしい理由がないとイオリは一定の線を越えることを許してくれない。急な雨とか雪とか、空模様は時々私と彼の間の壁を壊してくれる。
不機嫌そうな表情や、纏う刺々しい空気くらいなら私一人でも簡単に壁を壊せる。
だけどずっと、最後の壁が守られている。
警戒に警戒を重ねたきみの、最後の拒絶。
きみなりの理由で作られた壁が、ずっと私を拒んでいる。
イオリは元々何でも出来る器用なタイプだけど、やる気と協調性は壊滅的に欠けている。だから大きな輪からは外れがち。
頭は良い方なのにひねくれた性格で、世の中に嫌いなものが多い。
好きを伝えるのだって、私よりは下手。
なんやかんや付き合いの長い私にも線を引くイオリを、私はずっと。
「……あ、ほら、イオリ? ネクタイ曲がってるよ」
「ん……って、ちょ、チハル、近い。近ぇよ。ネクタイくらい自分で結べるって。子供じゃねーんだから」
「あはは、わかってるってば。イオリはかっこいいかっこいい」
「ちょっとバカにしてんだろ……」
今日もいつものように、私はイオリに手を伸ばした。
イオリの雑に結ばれたネクタイを直す。
これも私の日課の一つになっている。
先生に口うるさく言われるの嫌いでしょ、とか。一応私は生徒会長なんだからルールとしてマナーとして、だとか。
イオリが望む理由を色々ひっさげた上で伸ばし続けた手が今日も、イオリに数秒触れた。
「はい。これでオッケー」
「……ん、さんきゅ」
「どういたしまして!」
手を離した、一瞬だ。
イオリからいつもと違う文句が聴こえた。
「……チハルは、俺の母ちゃんかよ」
「ばか。こんな大きな子ども産んだ覚えはないってば」
「産……っ、ば、変なこと言うな!」
最初に変なことを言ったのはイオリなのに、少しいつもと違う、でも時々は見る拗ね方でイオリは私から顔を背ける。
この時々に、私は焦がれて惹かれていた。
合わない視線も突っぱねる言葉も、気にならない。
コンパスが違うはずのきみの歩幅が、私のすぐ隣に在る。その許しがあればいい。
好きを伝えるのが、私はやっぱりイオリよりは得意だから。
きみに手を伸ばすのを諦める理由が、私にはない。
前に向かって進めていた足取りを少し止めて、ステップを変える。
今日の私は欲張りで、全身をイオリに預けるように寄り添ってくっついて、イオリの肩に頭を預ける。
忘れていたきみの体温の記憶が、現実となって私に出会う。
それは暖かくて、優しくて。
きみの温度は、きみの瞳の色に似てる。
世界に散らばるきみの色が、きみが、ずっと私は愛おしい。
「……なんだよ」
「……なんだろね」
「…………なんなんだよ」
何一つ意味を成さない言葉のやり取り。
会話にもならないそれがおかしくて、私は笑いながらぐり、と自分の額をイオリの肩に押しつける。ふざけた振りで、イオリとの壁をむりやり壊す。
拒まれない短い時間に、祝福を感じる。
イオリが好きだ。
私が私である、理由。
無知で無垢な私はきっと早くからいない。
恋も愛も早くに在った。ずっと最初からきみを見ていた。
私のはじまりはきみからはじまる。
きっときみのはじまりも。
手を、伸ばし合っていると思う。
私たちはずっと求め合って、求め方を間違い合っている。
青々とした中、一瞬きみの夕闇を感じた。
ほんの一瞬、目だけ合って、それを合図に音もなく全てが離れる。
また一定の距離で歩き出す。ついさっきあったはずの触れ合いを、なかったことにするように。
空はどんな色でも好き。景色も好き。
子どもの頃は、それら全てをきみと共に感じた。
きみと私の世界が繋がる瞬間が、私は嬉しかった。
だけど今は知っている。
きみと私は同じものを同じように見ていない。
同じことを同じように考えていない。
イオリならいくらでも理由と理屈を付けてその違いを語れるんだろうけど、私の言葉で言うなら。
私とイオリは、信じるかみさまが違うんだろう。
だからイオリは私にも壁を作るんだろうし、私はその壁の壊し方ばかり考えている。
好きなものはたくさんあるけど、私の一番好きな空は、夕空。
私はずっとこうだ。ずっと、きみとの繋がり方ばかり考えてる。
イオリの伸ばす手に、イオリの手の伸ばし方に、私は私が気付く日を求めて私はイオリの傍にいる。
そんな生き方が、きみを探すことが。
この背信が、私の生き方だった。
◆
ずっと、あいつと同じ朝に生きてる振りをしている。
何度も何度も共に朝を迎えてきたはずなのに、俺とチハルの朝には隔絶がある。
チハルは俺の瞳の色をしょっちゅう褒めるけど、俺にはあいつの瞳の色なんてわかりにくい。
眼鏡をかけて矯正されているチハルの眼と、なんでか一回も視力検査に引っかかったことがない俺の眼じゃ視力がまず違う。
チハルからレンズを取り払ってしまえば、ただでさえ同じものが見えていない俺たちにはまた隔たりができる。
ずっとそんな違いばかり気にしてしてる。
最初は確か身長差。
ずっと昔だ。チハルが俺より少し背が高いのが何だかめちゃくちゃ悔しくて、必死に背伸びばかりしていた。
気がついたら、俺の方がずっと背丈は高くなってしまったけれど。立ったままチハルが俺の肩に頭を預けられるくらい。
次に違いを気にしたのがさっきの視力。
チハルが小学校の途中から眼鏡をかけるようになって、それが今に至るまでずっと続いている。
次に気にしたのが、髪の長さ。
髪なんてある程度短ければ、邪魔にならなければいいとしか思ってない俺と違って、中学生になった辺りからチハルは意図的に髪を伸ばし始めた。
知らない名前の髪飾りがどんどん増えた。今付けてるのは確かバレッタ。
一応進学校なこともあってある程度校則が緩いうちの高校の空気感を、チハルは俺とは違う方法で楽しんでいるらしい。
知らない、正確には興味が無い名前をチハルの口から聞くことが多くなった。
俺はチハルのスカート姿にだって正直まだ慣れてないし、がちがちに校則に縛られていた中学の頃と違って、チハルが今は当たり前のように知ってるスカートの折り方だって、知りたくもないのに。
それから次が、ああ、やっと性別だ。
見ない振りをしていた決定的な違いを突きつけられる瞬間が増えた。
チハルが俺より背が低いのも、骨格から違うのも、良く手入れされた髪が長いのも、チハルが「可愛い」に興味を持つのも、スカートから覗く脚が俺とは全てが違うのも、チハルが女の子である事実がいつも俺を容赦なく襲った。
背伸びして追いかけていたはずなのに、途中からわかりやすく手を伸ばせなくなった。
目を見られるのが怖くなった。
俺のきれいではない部分を知られるのが怖くなった。
そのくせ、二人でいる時は伸びた影が混ざる度にこっそりと安堵した。
チハルは俺の瞳を夕空だとたまに比喩した。
だからか最近、チハルの前で空をまっすぐに見れなくなった。
空と繋がるのが嫌だと思った。
俺が世界と繋がってしまえば、チハルの言う夕空を通して、チハルとも繋がってしまう。全部繋がる勇気がまだなかった。
直接目を見られるより、今の俺の全てを知られるより、俺の中にもある、あいつと手を繋いだ記憶を通して俺たちは繋がっていてほしかった。
休み時間、俺にとってのサボり場所にもなっている裏庭のベンチで。
頭の後ろに雑に読みかけの本を積み重ねたまま寝っ転がっていると、校舎の二階の窓の奥にチハルを見つけた。
いつものように背筋を伸ばして、いつものように快活に笑って、クリップボードを抱えて俺の知らない連中と、やっぱり笑い合っていた。
授業態度が悪くて、相性の悪い教師が担当する授業だと興味がなくてサボったりもする、枠組みから少し外れた俺と違ってチハルは生徒会長なんてものを中学からずっと務めていた。
俺にとっては息が詰まる箱庭でも、チハルにとっては息がしやすい安全な場所。リーダーにだってなれる場所。
こうしてまた、チハルとの生き方や捉え方の違いを俺は知る。
朝は俺のすぐ隣にいたのに、俺に手を伸ばしてきてくれたのに。
今は、チハルの見えないところで俺がチハルに手を伸ばしている。
陽の光を片手で遮る振りをして、それらしい言い訳を用意した状態で、俺は本当は今日もチハルだけに手を伸ばしていた。
俺の知らないチハルがいることなんてとっくに知ってた。
背を越したから何だって言うんだ。
一つの歳の差がずっと消えない。性差がずっと消えない。
制服で、学年ごとに違うネクタイの色やスニーカーの色で、俺だけが作ったわけじゃない壁にだって俺たちは隔てられている。
チハルはどちらかと言うと、視覚的な情報から感覚的に物事を捉える方だ。
あいつは空や景色が好きだ、風景画が好きだ、写真が好きだ。絵や写真や映画、目に映る多くのものを尊び想えるやつだ。
感性豊かで柔軟性も高いチハルを追いかけてこんな真面目寄りの学校まで来てしまった俺の方は、どちらかと言うと理論的な在り方を望んでいる。
本を読むのが好きだった。
全ての理由がわかる方がいい。
説明できる何かが欲しい。
文字列を、追ってたい。
文字列に縋っていれば、チハルにこの目を見られなくて済む。
俺とチハルの違いを、価値観に至るまでの断絶を知った時、最初に思ったのは恐怖だった。
チハルからの失望が、俺は怖い。
真面目そうなチハルよりずっと、俺は道徳に縛られている。
思春期だなんて時間に嫌悪があった。
衝動が憎かった。
チハルが思うほど俺の感情がきれいじゃないことを俺は知ってる。
中学の頃の周りの低俗を、俺が覚えた軽蔑を、チハルに伝わらないだろう世界をチハルに伝えるのが嫌だ。
美しさに、物事の良いところに目を向けがちなチハルのように俺はなれなかった。チハルほど、俺の周りには好きばかりがあるわけじゃない。
ほとんどが嫌いだ。
嫌うことが防衛本能になっていた。
文字を読むのが好きだ。思考することは俺にとっては低俗から離れることだった。息ができる場所が、俺には限られていた。
賢い振りをずっとしている。
全部わかる振りをずっとしている。
俺は未だに、チハルを求めて背伸びしたままだった。
漠然と詰め込んだ薄っぺらい知識を以て、覚えたての小難しい言葉と理屈を振りかざして、俺はチハルの夢や理想を否定してばかりいる。きれいではない、に。嫌いに、拒絶に、言い訳を探している。
可能性だとか確率だとか、チハルが好きなかみさまが多く出てくる神話に纏わる星座の位置関係とか、チハルが惹かれる色のカラーコードの数列の覚え方だとか。
気になることが、感じることが、俺の知りたいものがチハルと違う。それだけのことに多くの余計な理由をひっさげてしまっていた。
数学的でも天文学的でも、化学的でもなんでもよくて、片っ端からつまらない理由や言葉を、定義付けをすぐに探してしまう。
本質を見ていないくせに、たまたま読んだ本の一片から、たまたま聴いたイヤホンの奥の音楽の歌詞の一片から、都合良く言葉や情報を借りて。自分の言葉ではないもので武装して。
チハル相手にすら物理的に距離を取って、自分が手を伸ばしすぎないよう無理やり制御している。
退屈な意地で俺は出来ていた。
背伸びして背伸びして、格好悪いものを嫌いすぎた。
今の俺がどれだけ不格好なのか、俺は目を逸らしている。
それでも俺の朝は今もチハルから始まる。
チハルにとっての朝は俺に会いに行くことから始まるんだろう。
俺は違う。目覚めたらもうチハルがそこにいる。
最初から俺は、チハルで始まっている。
要らない知識を沢山得て、情けない言い訳を沢山身につけたけど、それでも俺はチハルとの距離と差異を正しく言語化できない。
ただわかるのは、遠い昔に知識を求めた最初のきっかけは逃げるためじゃなかった。目的は拒絶じゃなかった。
俺とチハルが違うものばかりなことの理由が欲しかったんだ。
その理由に納得した上で、チハルの傍にいる正当な方法を俺は求めていた。
少しでいいから重なってくれと願っていた。
だって俺は、ずっとお前を探してる。お前に手を伸ばしている。お前とは違う視点で、お前とは違うやり方で。
チャイムの音が、鳴る。
昼休みの終わりが迫る音。
息をついてベンチから上体を起こし、のろのろと校舎に戻る。次の授業は嫌いじゃない。
一人で廊下を歩いていると、たまたまチハルと鉢合わせた。
うっかり目が合うなり挨拶もなくチハルはクリップボードで俺の腕を軽く小突く。
「こーら、イオリ。聞いたぞ? また午前中サボったな~?」
「……悪かったって。次から気をつける」
「全くもう……」
呆れるチハルの手元を見る。
さっきも遠目で見たクリップボード。
さっきの俺がチハルに手を伸ばした記憶、朝のチハルが俺に近づいた記憶。
色々が一瞬で駆け巡って、足取りが鈍くなった。
いつも意識して合わせているチハルとの歩幅が、より縮まる。
急に足を緩めた俺を不思議に思ったのか、チハルが怪訝そうに俺を呼ぶ。
「イオリ……? 急がなくて良いの?」
普段の校内ではチハルとの接触は少なくするようにしていた。
チハルには俺の目を見られるのが怖い。
他の奴らに関しては、俺といるチハルを見られるのが嫌だ。
そして、今日の俺は俺にしては素直な方で。
「……うるせ。学年違うんだから、こういう時くらい少しでも一緒にいたいと思っちゃ悪いのかよ」
息の音が、聴こえた。
多分、チハルの音。
チハルの足が驚いたように止まるのに合わせ俺も足を止めると、自然とぶつかった。
朝のチハルのじゃれあいと似た体勢。だけど静かだ。
はっきりと目が合って、同じ空間に居るのがわかる。
「……あ、いや、別にそんなことは無いけど……」
もごもごそう言うチハルに俺は何も言わなかったし、チハルも俺を拒絶しなかった。
お互い抵抗することなく、この時間に身を預けていた。
ゆっくりと口を開いたのはチハルの方だ。
俺より真面目で立場がある人間としての行動。
「……私、もう行かなきゃ」
「……ああ、そうだな」
「……午後の授業ちゃんと出るんだよ?」
「わかってるよ」
「……あと、さ」
チハルが珍しく、俺から目を逸らした。
泳ぐ目線を、今は俺の方から追いかけたくなる。
「……あと、今日は一緒に帰ろ?」
「……ああ」
「約束だよ」
「……分かった」
それだけ言って、俺たちは合図もなく歩き出す。
途中で行く道を違えたチハルの背中をただ見送った。恋しいと思ったそれを、求め切れなかった。
今日は、陽の落ち方はどうだったか。
あいつの好きな夕空は見えるだろうか。
色々止まらない思考を重ねる。
俺は数年かけて積み上がった俺のつまらなさを、いつになったら否定できるだろう。
思春期を言い訳にしたもどかしい弱さを、いつくだらないと言って笑えるだろう。
大人になりたかった。チハルに近づきたかった。
いくら世の中を知った気になっても、この気持ちには。
チハルが好きな理由なんて上手く見つからないのが全てだと、早く認めてしまえばいいのに。
それを笑い飛ばせるようになれば、俺はやっとお前に近付けるのに。
◆
ああ、夕空だ。
映る景色を見て、私は途方もなく安心した。
イオリの色だ。私の好きが、そこに詰まっている。
約束した帰り道、イオリと二人、いつもより歩いていた。
今日は朝から何かが違った。私も、イオリも。
幼馴染で――そう、一般的な幼馴染よりずっと距離が近くて、これは私たちだけの距離感で、私たちだけの時間。
当たり前のように私はイオリがずっと好き。
これは私だけの気持ち。たまたまイオリと最初から出会えた私だけの奇跡。
イオリと居る時間をひたすら愛おしんできた私だけの、特権。
イオリとはきっと同じ名前の気持ち。
中身が少し違うけど、奥の奥は同じはずの気持ち。
イオリは好きを伝えるのが下手だ。
好きを認めるのも、受け入れるのも下手だ。
私より年下だけど私より賢い彼は、私より多くのことを考えすぎてしまうから。
でも下手な、だけだ。
私がイオリの目を見るのが好きなのは、彼の目は何よりも雄弁だったから。
きみの言葉が難しくても、きみの感情そのものはまっすぐだから。
じょうずじゃないだけで、ずっとわかってた。
やっぱり今日はいつもと違う。
最近すぐ逸らされるイオリの目が、私を見ている。私を映している。
きみの切実が、私を抉る。
突き抜ける痛みが、私をちょっとだけ臆病にする。
こわいのはきみもきっと同じだ。
この気持ちのかたちを知ってから、私たちはお互いかたちの見えない恐怖の存在を知っている。
でも私の場合はきみと少し違う。
痛みの先の呼吸が、きみを探す。
朝目覚めて、きみに会いに行くのと同じ。
私、いつもきみを求めてる。
きみの声を、きみが喋る時の風の震え方を、きみの想うものを、きみの見るものを、私と違うものと繋がりすぎているけどずっと私を呼んでくれるきみの彼方を。
ただ、きみと私の繋がりを探し続けて、線を超えてく。広がっていく。
きみには、果てがない。
私のぜんぶにきみがいる。
なんて、占有。なんて、充足。なんて――全能。
私はきみが、イオリが好き。
私ときみの占有は、二人だけの共有で、私たちは共犯になる。
伸ばし合った手がいつか線を超えて、お互いの領域を侵して。
そして、きみに辿り着く。
その時やっと、きみとわかり合う為に、ようやくきみと触れ合える。
「ねえ」、と呟くと、きみが私を呼ぶ声が、それを遮った。
◆
名前を、呼んだ。
手を伸ばした。心じゃなく、想像じゃなく、現実で、チハルに。
頬の輪郭に添えた両手が、チハルと俺の今の繋がりになってる。
夕空に興味はあまり無い。景色に想いを馳せることは無い。
だけどいま、チハルが言うところの俺の色になるチハルが、好きだ。
いくら好きを増やせるだろう。いくら擦り合わせられるだろう。どのくらい繋がれるだろう。
そんなことをずっと考えてきた俺の思考を、存在を、俺の価値を。
お前に伸ばした手が、超える。
今日はそういう日だった。
俺とお前が同時に手を伸ばした日。
いつか来るかもしれなかった日が来たのが、今日だった。
全てを好きにはなれないし、16の俺はまだぶつくさとあらゆる敵意と嫌悪を垂れ流すんだろう。
だけど一番の好きを、今。
それを言える今、言いたかった。
「……好きだ、チハル」
「……うん。私も、イオリが大好き」
繋がる目線をそのまま近づけるわけでもなく、ただチハルを抱き寄せた。
俺の線の内側に、チハルを引き入れる。
隔たりを超える、一歩になる。
これは終焉じゃなくて、ほんの変化。
明日から俺たちは今までと違う朝を共に迎え、違う歩き方で、また隣を生きる。
俺の想像を超えた恐怖も痛みも苦しみも、幸せも陶酔も祈りも、きっとこの先いくらでもある。それを受け止めるようにチハルを抱き締めた。
俺の始まりは、ずっとチハルで。
チハルに辿り着いた今、チハルと一緒に、新しい景色に辿り着く為に歩き出す。
たった一つの、心の独立。
それが、俺の思考の絶筆。
手が届き合ったこの先。
チハルが最初に何を求めるかはわからないけど、俺は――じょうずな愛し方を求めたい。
今の一回言ったんじゃ足りない好きをどれだけ、どんな方法で伝えられるか考えて。
頬に触れた手に重ねられた小さな手を、握る。
俺はこいつの手のかたちすら、永らく忘れていた気がする。
同じ影の中にいる。同じ光の中に包まれている。
同じ、好きの言葉を持っている。
これが、俺の創世。
此処は明るく暖かく優しく、まっすぐで。
そんなものを俺にくれるチハルが、お前が。
――お前が、好きだ。
◆
『ユーフォリア×ベイビーベイビー』
完
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