第10話 静かな日常の影
三月に入った東京は、冬の名残と花粉の兆しが同居していた。朝の空気はまだ刺すように冷たいのに、駅前の街路樹はうっすら色づき始めている。ウォークスルー改札を抜ける足取りは自然と早くなり、ビルの隙間に差し込む光に、春が近いことだけは確かだと知らされる。
鳳栄出版「週刊ビジョン」編集部。午前のフロアはいつも通りざわめいていた。ニュースサイトの速報音、電話の呼び出し、コピー機の回転音。デスクの三郷がコーヒーを片手にこちらへ来て、眉を持ち上げる。
「ミサ、ボタン。上から二つ、掛け違えてる」
「……うそでしょ」
慌ててブラウスを直すと、三郷は笑って肩をすくめた。
「緊張感が抜けてる証拠。いい意味でね。八話と九話、よく走ったよ」
「ありがとう。今日は小さいネタ、まとめます」
机に積まれた紙束の上には、復旧とくらしの小さな断片が重なっている。被災地域の学校再開の目処、保育施設の仮設プレハブ、商店街の募金箱、新たな移住相談窓口の設置――いずれも記事にすると半ページに満たないが、誰かの生活の芯に触れている。
昼前、スマホが震えた。画面には「由紀」の名前。あの台風の夜、荒川沿いで胸を締め付ける思いをした友人だ。
《週末、自治会で防災訓練やるって。うちの班、備蓄の棚卸し担当にされた笑》
《いいね。写真送って。記事に小さく載せるかも》
《如月さんの法案、うちの保育園でも話題。みんな“生きていける気がする”って》
《……生きていける気がする、か》
《そう。現実は大変でも、気持ちが変わるのが大事だって》
短いやり取りのあと、由紀が送ってきた写真には、町内会館の畳の上に水やカセットボンベが整然と並べられていた。整頓された備蓄の列が、妙に頼もしい。
夕方、定時を少しだけ早めに切り上げて、弟の翔太と待ち合わせた。駅前のカウンターだけの小さな食堂。湯気の立つ味噌汁と焼き魚の匂いが落ち着く。
「こっちはどう? 仕事、忙しい?」
「忙しいよ。けど、やりがいはある。先週までボランティアで行ってた地域、商店街が再開するって。電気が戻ると、全部が動き出す感じがするんだ」
「うん……ありがとうね。危ないところは、もう行かなくていいから」
「心配性だな」
翔太は笑って、味噌汁をすすった。妹にとっては頼もしく、時にヒヤヒヤする存在。あの日、夜通し連絡がつかなかった時間を思い出すと、今こうして向かい合っていることが、少しだけ奇跡に思える。
「そういえば」
翔太が箸を置いた。
「記事、読んだよ。政局のやつ。俺でもわかった。大賀さん、怖いね」
「怖いのは、力の差じゃなくて、ルールの差かな。どのルールで戦うか、って話だから」
「姉ちゃん、かっこいいこと言うな」
「言いながら自分で若干痒いよ」
店を出ると、冷気が頬に刺さった。空を見上げると、街灯の光の輪の中で、花粉なのか細かな埃なのか、白い粒がふわふわと揺れている。春は、いつもこうやって街を曖昧にする。
マンションのポストに寄ると、チラシの束に紛れて一通、厚みのある封筒が挟まっていた。角型の茶封筒。宛名は活字で「東條美沙様」。差出人の欄は空白だ。消印は都内。手に取ると、紙の多層な重みが掌に移る。
部屋に戻り、コートを椅子にかけ、封を切る。中から出てきたのは、コンビニのコピー用紙特有のざらついた白に、黒い表と罫線。表紙には小さくこう印字されていた。
――「令和五年度 災害対応関連 随意契約・入札結果一覧(抜粋)」
ぱらぱらとめくる。所管、品目、数量、調達方法、特定/落札業者名、落札額。目に馴染みのない社名が縦に並ぶ。東陽機電産業株式会社、白岳金属コンポーネンツ、瑞峰システム制御……どれも聞いたことがない。だが、どの行にも小さな蛍光ペンの線が引かれている。業者名の末尾や住所の一部だけ、色が差してある。意味は分からない。誰かの癖のようにも見える。最後のページには、付箋が一枚。
――〈事実だけ。判断はあなたに〉
誰から? 何のために? 頭の中でいくつかの顔が浮かんでは消えた。だが、今すぐ結びつく名前はない。匿名の資料は、記者の机には時々届く。差出人が立場を明かせない事情があるのは珍しくない。
「差出人不明。資料提供」
淡々とメモを付け、クリアファイルに挟む。ファイルの背に、日付と「随意契約・入札結果(抜粋)」と書き込む。机の右端、未精査の資料の列にそっと差し込む。まだ追いかける時ではない。今は、街の小さな回復を、一本一本記事にする役目がある。
ノートPCを開いて、今日の短い記事の見出しを並べる。
――「避難所、仮設の電源設備が稼働開始」「荒川沿い、小学校の体育館に除湿機追加」「江戸川区、子育て世帯向け相談窓口きょう開設」「地方移住相談会、参加者の三割が20代」
キーボードを叩く指が、ふと止まる。封筒から取り出した紙束の匂いが、まだ部屋のどこかに漂っている気がした。
スマホに、由紀から写真がもう一枚届く。棚卸しを終えた備蓄品の前で、自治会の年配者と若い母親たちが並んで笑っている。一人ひとりの笑顔は、きっと制度の数字よりも、ずっと重い。私はそれを紙面に載せるために、ここにいる。
その夜、枕元のランプを落とす直前、机の上のクリアファイルの背が、薄闇の中で白く光った。蛍光ペンの線が、記憶のどこかに引っかかっている。東陽機電産業。白岳金属。瑞峰システム制御。どこで見たのだろう。
考えるのをやめて、灯りを消す。静かな夜。冷えた空気の中で、遠くで電車の音が低く続いて、やがて途切れた。日常は戻ってきている。戻りながら、少しずつ別の形に変わっていく。私の机の右端で、薄い紙の束もまた、ひっそりと、何かを待っていた。