電話を待つ時間分
彼女までの距離 ~電話を待つ時間分~
手から放した携帯電話をじっと見つめてみても、それが音を発することはなかった。
きっと用事があったのだろうと自分のためにしかならない言い訳を口の中で転がして、未だに乱雑におかれた段ボールだらけの部屋を見渡した。荷物、少なかったんだな、と意味の分からない考えが思考を占める。
咲が見たらきっと笑って、それから『もう少し何か増やせばいいのに。不便じゃないの?』と言うんだろう。そこまで考えて、また自分の髪をぐしゃりとかき上げた。何から何まで思考が咲を占めるのか。
「溺れてるのな、俺」
返事の帰されない空間へ、その言葉はすんなりとなじんで溶けていく。返事を期待したわけでもないのに急に不安になって、鳴らない携帯電話を握りしめた。
用事があるなんてそんなの分からない。ただ直感でいえばない気がした。彼女は故意に電話に出なかったのではないか、話したくなかったのではないか。
そんなことばかり浮かんできて嫌気がさす。それでも、その嫌な想像を否定するような材料なんてなくて、ただただ昨日のことばかり思い出した。
気まずいより話したいと思うのは俺だけなのか。
「咲」
頼むよ、本当に。
「俺から、逃げるな」
違う。俺から、なんかじゃない。俺から逃げるだけならいい。でも。
「関係から、逃げないでくれっ」
自分たちは遠く離れていて、だから一方的につながろうとするなんて無理で、二人の関係を繫ぎ続けていくには多分、自分の努力だけじゃどうにもならない。
自分だけがどんなに足掻いたって、彼女が電話をとらないというただ一つの行動で、自分たちはこんなにも遠く離れてしまう。実際の距離以上に離れて、何もできなくなる。
取られない電話はこんなにも辛いと自分は初めて知った。のろのろと携帯を持ち上げて、往生際が悪くもメールを作成する。
いくら考えたところで上手い慰めやら言葉などは思いつくはずもなく、もし本当に用事があって出れないだけだとしたら何か言うのもおかしいと思い、簡単な言葉だけで送った。送ったそばからあれでよかったのか不安になったが、それはもうどうしようもないことなので考えないようにする。
『咲、折り返しはいいです。夜遅くにかけて、ごめんな』
思った以上に、この距離は辛いんだと送ったばかりのメールを読み返して思う。
もし大学が始まって、新しい生活に四苦八苦しながら時を過ごせば、この不安感は拭えるのだろうか。
忙しさに身をやつして、そうしてバスケにでも何でも熱中すればするほど、彼女の存在は頭から離れていくだろうか。学校のにぎやかさに、彼女の静けさは溶けていってくれるだろうか。
傷つくこともなく、不安に思うこともなく、苛立つこともなく、悲しむこともなく……??
そのとき急に携帯が震え、それを感じて慌てて飛び起きた。一瞬電話かと思ったそれは、メールの着信を伝えるもので息をついて携帯のボタンを押す。
宛名を見るまでもなく彼女だと分かった。帰してくれたことに少しの安堵を感じる。まだ大丈夫なのだと、そんなことを考えた。
何が、大丈夫なのかは知らないけれど。
『出れなくてごめんなさい。また明日かけるね。ごめんね』
明るい言葉なのか、それとも暗い言葉なのか、メールではそれを確かめるすべなどない。どちらにもとれるそのメールの『ごめん』だけがやけに頭に張り付いてどうしようもなかった。
ごめんって、電話に出れないことを謝っているのか。なら出れなかった理由は何なんだろう。単純に立て込んでたのか、それとも昨日の会話が原因か。
……それよりもっと前の、二人が離れてしまうところが原因か。
離れたくなんてなかった。……でもバスケをしなくなるなんてことも考えたことがなかった。彼女とは離れていてもやっていけると甘えていたのか。それともそんなことを考えることさえしなかったんだろうか。
自分はどうして、この道を選んだ? 何を根拠に、この道が最善なのだと思った??
一体何をよりどころにして、根拠にして、そうやって彼女の隣にいる以外の道を選択したんだったか。携帯を充電器に差し込んで、ごろりとベッドに寝転んだ。そのままぐるりと体を回転させて、枕に顔を押しつけた。
「バスケ、したい」
がむしゃらに走って、走って、ボールを追いかけて、走って。ゴールリングをひたすら見つめていれば、今のこのもやもやとした気持ちも忘れてしまえる気がした。
この気持ちの悪い考えも、後ろ向きな思いつきも全部汗と一緒に流れていってしまえばいいのに。それでもバスケをするところを想像しようとすると、何故か思い出すのは彼女がバスケットボールを持っている姿だった。
随分と前、まだ受験という言葉が現実味を帯びていなかった頃に、二人でボール遊びをしたときの思い出。
自分の手にはよくなじんだボールでも、彼女の手に収まってしまえばとても大きなものにしか見れなくて、そのとき彼女が『女の子』であることを強く意識した。当たり前のように操るそれが実は重くて、彼女が何度かボールに操られているように見えたのが面白かった。
「湊くんはいっつもこんなふうにボールを操ってるんだね」
そう楽しそうに言ってくれた彼女が可愛いと、素直に思ったのだ。彼女がボールを持って走る。それは反則だと指摘すれば、当然のように『ハンデ』と笑った。
それでも彼女の手から離れたボールはゴールリングを掠ることさえなくて、二人で笑った。彼女が緩く膝を曲げ、ボールを両手で持って、真剣な顔で何度も何度もゴールを狙う姿を自分は横からじっと見つめていた。
自分が好きなことを彼女も当然のように楽しんでいて、それが新鮮でとても嬉しかったんだ。無理をしているんじゃなくて、楽しそうだからしてみたいと言ってくれた彼女がとても大切だと思ったんだ。
それは本当に、嘘偽りなく。それを伝えることなんて上手くできなかったから、ただ笑ってたんだけど。
「湊くん、バスケ、楽しそうだね。うまくできたら楽しいね、きっと。体育館の中でも風ってあるんだね!」
興奮したように話す彼女を、ただ笑って抱きしめたんだ。ありがとうなんて言えなくて、なんか少し違う気がして、それでも感謝はすべきなのかな、とか考えて。
嬉しくて、愛しくて、とにかく彼女を腕の中に閉じ込めた。彼女が抱きしめたバスケットボールが邪魔だったけど、それさえ彼女と自分を繫いでくれたものだと思った。
「湊くん?」
「試合、見に来てよ」
「うん!」
「頑張るから」
「楽しみにしてるね」
柔らかく笑んだ彼女を、目を輝かせていう彼女を、自分はどうしてあの場所へ置いてきたんだろう。どうして彼女から離れようなんて思ったんだろう。
考えれば考えるだけ『後悔』という文字が浮かんできて、それでもそれを自分に許してはいけなくて、ただ枕に顔を押しつけた。
バスケを考えるとき、自分は咲を思い出す。咲を思い出すときにバスケなんて掠めもしないのに。
咲はバスケを思い出すとき、俺を思い出すんだろうか。俺を思い出すとき、バスケを記憶に浮かび上がらせるんだろうか。
傷ついて、傷つけて、また傷ついて、膝を抱えて、忘れようと努力して。そんなことを続けていれば、自分は強くなれるんだろうか。
距離を気にしないほど強く、彼女を気遣えるほど優しく、なれるんだろうか。自分の選択に自信を持って後悔することもなくなって、そうやって彼女のことだけをひたすら考えるだけになれば……それはいいことなんだろうか。