ボール数個分
彼女までの距離 ~ボール数個分~
切ってすぐ投げ出した携帯は、ベッドを横切って床へ落ちた。ゴトンと鈍い音が響いても、拾いに行く気にはなれない。
ただ空しくてどうしようもなくなり、膝を抱えて横になった。寝てしまえば楽になるのかと考えつつ、悪い夢でも見そうで止める。
今寝てしまえば、自分は自身が思い描く『これから』を夢の中で見るはずだ。それが悪い夢というのは耐えられない。
彼女が大切には違いない。
それでも『どう』大切にすればいいかなんて分からない。分からないけれど、そうしなければいけないということはきちんと知っているつもりだ。
彼女に出会うまで知らなかった感情を、彼女に触れるまでは理解できなかった衝動を、自分は今手に入れている。
それは自分にとって何ものにも替え難いことであるし、嬉しいことだ。だからこそ、彼女を大切にしたい。
もしもっと早く出会えて、自分が今の大学の可能性も考えていないときに付き合い始めていたら、何か変わっていたのだろうか。
彼女と同じ大学に行くことを初めに決めていたら、今ここへはいないのだろうか。
こんなこと考えても仕方ないのに、彼女と離れると決まっていたときからずっと考えていた。彼女に話すべきだと思いつつ、大学に行くという決意さえ揺らいでいた。
「咲、何を考えてる?」
初めて出会って、話すようになって、よく自分のことを話す人なのだと思った。
考えたこと、感じたこと、思ったことを口に出して色んな話をしてくれた。口下手な自分からしてみれば、羨ましいくらいで、彼女の考えていることをいつでも分かった気になってしまっていた。
心地いいその感覚に、甘えていたのだ。
その分だけ、自分も返したいと思ったのはいつくらいだったか。
彼女が話してくれるように、自分も彼女に話しかけたいと思ったのは、一体彼女と知り合ってどれくらい経ったときだったのだろう。
朝練を見てみたいと彼女は言った。
蒸し暑いあの中に、彼女を入れるのは心が引けたが、あまりにも熱心に言うものだからつい『見に来る?』と声をかけてしまった。
そのときの彼女の笑顔をなんと表現しよう。すごく、嬉しそうに笑われた。
同級生の女の子と話す機会なんて滅多にないことだから、訳もなく緊張してしまう。暑い中彼女はこちらをじっと見ていて、いつもより少し緊張した。
試合中の、心地よい緊張感ではない。
ボールをやり取りする、ピンと張り詰めた感じでもない。
なんだか失敗したくないような、できれば上手く出来たところだけ見てほしいような、そんな感じ。ボールを持つ手に思わず力が入った。
壁に寄りかかってこちらを見ていた彼女は、時間が経つにつれてぼんやりとし始めた。
まだ夏真っ盛りと言うわけでもないが、体育館というのは熱がこもりやすい分、熱中症にも注意が必要だ。
気分でも悪くなったんだろうかと近づけば、彼女はまた笑った。
「日野くんが持つと、ボールは素直になるね」
彼女の言葉はいつも不思議だ。思ってもみないことを口に出される。
その言葉が妙に嬉しくて、照れてしまう。『ボールが素直』に見えるということは、それだけ上手いと思われたのだろうか。
上手いと思われたいなどと、初めて思った。
怒っているかと聞かれて驚いたが、自分が黙って考え事をすると顔が険しくなるらしい。
彼女に指摘されて眉間のしわを伸ばそうとする。その動作に再び笑われて、今度は本当に照れてしまう。言い訳のように説明して、今度から気をつけようと心に決めた。
別に彼女の発言が不愉快なわけではない。それなのに、彼女にそんなことを思われるのはイヤだった。
ボールを持ったままだったことに気がつき、その場からシュートする。
ボールは思ったような曲線を描き、ボードにあたることもなくリングに入った。いつもよりちょっとだけ緊張して、入ったときはいつもより嬉しくなる。
この感覚は、バスケを始めたときのようだった。
「よく入るね。ボール。あんなに小さい枠なのに」
恥ずかしいような、嬉しいようなそんな言葉だった。
彼女がボールを持つと、いつもよりボールは大きく重いもののように思えた。彼女の手が小さいのだと気付くのにしばらくかかり、それから自分の手を見つめてしまう。
易々と扱えるようになったボールは、彼女が持つとなんだかすごく扱いにくいもののように思えてしまう。
それは彼女も同じらしい、慣れない仕草でゴール前に立つと、シュートした。
シュートと呼ぶには、弱々しいようなそれは、見ていると微笑ましくなる。ボールは遅いスピードで歪な軌跡を描き、ボードの下をかすって下に落ちた。
ダンダン、と空しく響く音は失敗したという事実を彼女に突きつける。
彼女がむっとしたように眉を寄せるのがおかしくて、つい笑いが零れた。
その笑い声に反応したのか、彼女が振り向く。その顔を見て、笑いは一層大きくなり、今度こそ噴出してしまった。
慌てて謝るが、彼女は怒ったまま口を尖らせて怒った。ボールを片付けて、帰ろうかと笑うと、むっとしたまま頷いた。
まだ怒っているのか心配すると、今度はにっこりと笑われてる。
「ねぇ、わたしも練習したら上手くなると思う?」
「それは……、どうだろう」
彼女の運動している姿が予想できない。もちろん同じクラスなのだから、体育の時間は同じなんだけど。男子と女子とでは科目も違うから、あまり女子の方なんて見ないし。
彼女は、運動が好きなんだろうか。そこまで思って、やっと自分が彼女のことをあまり知らないと言うことに気がついた。
確かに、自分たちは朝早く来たもの同士でよく話すが、友人が来ればそれもなくなる。
授業がある時間帯に話すことは滅多にないし、帰るときもばらばらだから挨拶もしない。だから自分は彼女のことを何も知らない。
たまに読書をしているから、本を読むことが好きということくらいか。少しずつ話された彼女からの情報を、自分は見たことがなかった。
人ごみが少し苦手だというわりに、彼女はごく自然にクラスに馴染んでいたから。
彼女のことを、もっと知りたい。
……それはもう、そのときから恋だったのかもしれない。今思えばそう思うのに、あの頃はそんなこと考えもしなかった。
自分がバスケ以外に執着するなんて、考えもしていなかった。
ありえないとさえ思っていたのだ。
「高木さんが運動してるの見たことないけど、練習するの?」
「んー、運動は得意じゃないけどね」
日野くんの話聞いてたら、楽しそうだなぁって思った。
そんな彼女の言葉を聞いて、ドキッとしたのは秘密だ。自分の話を聞いて、バスケに興味を持ってくれるなんて嬉しかった。
自分が好きなものに、そんなふうに興味を持ってくれるだけで。
「今度、試合みたいなって思った」
「今日の体育、バスケだよ。男子」
ボール数個分の距離で、彼女が笑う。
それから頷いて、『女子はバレーなんだよ』と言った。
「じゃあ、今日はずっと日野くんの活躍見てよっと」
「授業は?」
「授業はー、まぁ、ね?」
彼女は少しだけ首を傾げて、誤魔化すように笑った。
それは少しだけ気まずさを含んでいて、彼女が体育があまり好きではないと知る。体育館から出ると風が頬に当たり、汗をかいた体が冷えた。
タオルで拭ったはずの首筋がほんの少し寒くて、隣の彼女も『涼しいね』と笑う。同じように感じることが、嬉しいなんて知らなかった。
同じ感覚を共有することが、こんなに恥ずかしいことだということも。
どこか照れくさくて、足を速める。彼女はほんの少し小走りになって、彼女が小柄なことを知る。
全てが、初めての経験だった。
久々に更新です。
初々しい二人が書けてるといいな。