ルームシェア、逃げられるはずがありませんでした ☆
お待たせしました……忘れてました
「どうした、藤本。何かお前、ここ最近変だぞ」
研究室でカップラーメンをすすっていると、友人が隣に座ってからこちらを覗きこんだ。
「どこが。別にいつも通りやってるだろ。……どこも、変じゃない」
「嘘つけ。第一に、弁当を持ってこなくなった。不健康食ばっかり食べてる。第二に、お前の付き合いがめちゃくちゃよくなった。前はどんなに誘っても日をまたぐことなんて滅多になかったくせに」
同じく不健康食ばっかり食べているお前に言われたくねえよ、と言い返す気にもならずため息をつけば、それが誤魔化していると思ったのか、友人はこちらからカップめんを奪い取って脇に置きながら、人差し指を立てて最後の証拠を示してきた。
「第三に、このたび初めてお前の家に招かれた。引っ越しして一年以上経って、やっとだぞ」
にやっと人の悪そうな笑みを浮かべてこちらを見つめる。すると向こう側にいた違う友人も興味を持ったらしく、近くのコンビニで買ってきたらしい弁当を食べながらこちらへと近寄ってくる。……つくづくお前ら暇だな、と小さく呟いた。
お前彼女いるだろう、とそんなことを言われたが、彼女なんていないので素直に『そんなんじゃない』と返す。
「じゃあ、今あげた三つのことを説明してみろ」
しつこく食い下がってくるので、ため息をついて口を開く。もう隠し通すのも面倒だし、もしかしたら彼女との同居生活も終わりかもしれない。そう思ったら隠すこと自体バカらしくなってしまい、つい重かった口が綻びだす。
「一緒に住んでいる奴が実家に帰った。だから弁当作る必要もなくなったし、日をまたぐ飲み会にだって出られるようになった。ついでにお前らを呼んで家で酒が飲めるようになった。以上」
「同棲か?! お前、彼女いないとか言ってたくせに、同棲か!」
「違う、『いとこ』」
なんだ男かよ。男相手にそんなことしてたのかよ。別にいいじゃん、そのいとこも交えて酒飲もう! とか何とか奴らは好き勝手に語り始める。誰も男と言ってない、とつい不満げに洩らせば、気付いた時にはもう遅く『女の子か?!』とまた目を見開かれた。
「何歳?」
「同い年」
「いとこ?」
「従妹」
「可愛い?」
「……」
最後の質問にだけわざとらしく口を閉じれば、何だ藤本、お前も男だったんだな、などと腹の立つ言葉を告げられた。
「うるせえよ」
言葉少なげに不満を漏らせば、また彼らはうっそりと笑う。あぁ、今日は長くなるな、と思った。
「だぁかぁら、そういうんじゃねえつってるだろ。いい加減にしろよ」
相変わらず酒が入るとより一層口悪くなるのな、お前ってと友人が缶ビール片手につぶやいた。彼女が出て行って数週間経つが、やはり『女の子』が住んでいると違うようで、入ってきた友人たちは『男の住まいって感じじゃねえな』と笑った。余計なお世話だ。
「でも避けられるのに我慢できなくなって、だまし討ちみたいに同棲しだしたんだろ」
「ルームシェアだって何度言えば」
「どっちでもいいけど、とりあえず話したかったんだろう」
そんな端的な問いに、思わず息が詰まった。そうだよ、近くにいたかったよ。元通りに戻りたかったよ。あの笑顔がまた見れたらどんなにかいいだろうと、そんなことを考えていたよ。
「で、甲斐甲斐しく弁当作ってやって、飲み会に行っても随分と早い時間に帰るくらい心配して、ついでに俺らに会わせないようにしてた。話にも出さなかったくらいだしな。お前らしくねえの」
からかうようなその口調に、どういう意味だよと唸れば、友人はにっこりとそれはとてもいい笑顔で缶ビールをあおった。
「うちの数少ない女子たちの視線も何のその。話しかけられても大したこと言わない。そんなお前が、従妹ちゃんには太刀打ちできない。こんな面白いことってないだろ」
「他人事だからっていい気なもんだな」
ついつい口をついて出てきた言葉に、次は何を飲もうかなどと悩んでいた友人は袋から顔を上げてこちらを見つめた。
「拗ねてるのか。だって俺たち彼女いないし」
「おれだっていないだろ」
「まぁ、待て。お前はいないにしても、候補がいる。俺たちは候補さえいない」
胸を張って言うことかと突っ込めば、今まさに振られてうだうだしているお前にだけは言われたくないと言い返される。余計に腹が立って、ついさっき開けたばかりの酒を無理やりに喉へと流し込んだ。本来大して好きでもない酒を、こんな風に飲んだのは初めてだ。都と暮らし始めて飲まないように気を付けていたならなおさらだ。
「元に戻ってよかったって、そうやって笑うあいつにどうしろっていうんだよ」
あの頃のままなわけない。あいつが昔に戻っただけだろ。
違う、あの頃と同じ気持ちでなんて彼女を見てない。今の状態は、あの頃と同じなわけじゃない。今は。
「今は、おれがギリギリ自分を抑えてるだけだ」
いくら都があの頃と同じように自分を見ていようと、同じように大切だと思っていようと、こちらの思いが違う時点であの頃と同じなんて言えない。
「藤本ってさ、意外に女々しいのな」
「うるせえ」
苦し紛れに出したその声は思ったよりも覇気がなく、自分でも眉を寄せる。
「いいじゃん、加害者になれば」
友人が缶を開けながら言った。こちらに視線さえよこさず、心底どうでもいいというように口へ出す。
「今のお前は彼女に突っぱねられて、何もできなくなってる被害者だ。彼女のことを思って、行動を起こさないようにしている」
だけど、それだと彼女が加害者になっちゃうだろ。
「思いっきり告白して、振られればいいじゃん。彼女が望んだ関係なんて壊して、彼女が大切にしていたものなんて崩して」
そうすれば彼女は、被害者になって大人しく泣けるよ。全部お前のせいにして。
「ホワイトデーに振られるなんて季節感たっぷりじゃん」
どうかしている。こんな言葉に心が揺れてしまうなんて。加害者になってしまえというその言葉に、どうしようもなくなった。彼女がこちらを傷つけたと気に病むくらいなら、いっそ被害者面で泣けばいいと思ったのは事実だ。悪いのは全てこっちで、自分はただの被害者だとそう思わせることができたらいいのに。
「藤本振られろ。そして卒業まで独り身通そうぜっ!」
これが何年来の恋だと思っているのやら。多くの後悔と期待と絶望と、そんなものを数年単位でこの身に閉じ込めていたんだ。どうやったところで綺麗なものなど出てくるはずもない。多分振られたからと言って、すぐさま吹っ切ることもできないだろう。それだけ自分にとってこの思いは重いのだ。もう自分の一部になってしまうくらい長い間持ち続けたものは、簡単に手放せないのだから。
「おれ、絶対後悔する……」
告げる前から分かっていることだ。きっと彼女を泣かせるだろう。傷つけるだろう。やっと元に戻った関係をまた自分の手で崩すのだろう。やる前から分かっている。どんな結果になろうと、自分はこの行動を後悔すると。
――それでも、何もせずに蹲っているのはもう限界だった。
意気地がないのは元々。逃げ癖がついているのだって分かってる。
だって、私、同じことを十年ほど前に一度やってるんだから。いや、違う。今回の方がよっぽど酷いことをしてる。それは分かってた。また、彼を傷つけてしまう。だけど自覚したばかりの気持ちを整理しきれず、彼の前から逃げ出した。
傷つけたいわけじゃない。だから、避け続けるのは止めて、下宿先に戻ればいい。そんなこと、あの家を出た直後から分かっていたことだ。
置手紙を読んだ彼はきっと傷つく。
そんなことを考えて、こっそりと下宿先に視線をやった。来るのに躊躇しつつ、やっぱり隆介が気になって、ここまで来てしまった。こっそりのぞいて、それで一目隆介が見れたらいいな、なんて考えてその思考に落ち込む。見てどうする。傷ついてたら、どうしよう。
それより前に……。
「あ、やばい」
平気な顔される方が辛い、なんて一瞬でも考えてしまった。
ぐっと手を握り締めると、じんわり手の平に汗をかいていた。彼が傷つくのは嫌だ。でも、何でもないように、まるで私なんて初めからいなかったように生活していると考えると、胸が痛くなる。何とも身勝手な感情だ。
そうだ、私はいつだって身勝手で我儘で、彼を傷つけては懲りずに繰り返す。
もう強くなっているんだと思っていた。少なくとも、もう比べられて傷つきはしないって決めていた。たとえ比べられたって、私の価値が下がるわけじゃないと、彼との生活で十分気付けたはずだ。だから、強くなったんだとそう思っていた。それなのに、こんなに弱かった。
自覚したら、壊れることにばかり気を取られた。一度壊れてしまえば、もう二度と彼の笑顔は私の手には残らないと思った。いつ壊れるかしれないものを、いつ手放さなければいけなくなるか分からないものを、求めようなどとは思えなかった。
迷って、傷つけてようやく元に戻った距離。今のところこれ以上手に入れたいものなどないはずだ。
ないはず、だった。
下を向いて唇をかみ、何とか涙を堪えた。こんなことで傷つく自分が、こんなことで彼を傷つける自分が、許せないと思う。その一方で、解決方法など見出せるはずもなくただ耐えるしかなかった。四月が始まる前に、この思いを消し去らなければいけない。消し去るまで行かなくとも、せめて、隠し通せる程度にはならなければ。
でなければ……。
「戻れないもん」
幸い、帰るまであと半月はあるし、学校が始まってしまえば日中彼に会わなくても済む。新歓などで忙しく、きっと初めの方は帰りも遅くなるだろう。
やっとそこまで考えて、顔を上げた。
瞬間、家の扉が開いて彼が出てきた。隠れなきゃと思うのに体は言うことを聞かず、彼の背中を見つめるしかできなかった。ポケットから鍵を出し、閉めているのだろう。そんなことを冷静に考えながら、彼がこちらを向く前に走り出さなくてはと震える足を叱咤する。しかしもう一人の自分は、隆介は気づかないから動かなくてもいいだろうなんて甘い考えを囁いた。
もう少し見つめるくらいなら、罰も当たらないだろう。諦める前に少しだけ、見つめるくらいなら許されるはずだ。
そんなことを思っていると、彼がふいにこちらを振り向いた、気がした。とっさに背を向けて歩き出したので、目は合っていない。だから彼が私を見つけたかどうかは分からない。しかし痛いほど鳴る心臓に突き動かされて、足はパタパタと落ち着きがなくなる。理屈などもはや必要なくなり、今はひたすら逃げていた。
そう、結局私は、いざというとき何も考えられずに体が動くままに従うのだ。いくらその前に考えていようと、決めていようと、一瞬で理性は吹き飛び感情のままに行動してしまう。私を動かす感情で一番大きいのは恐怖と焦りだった。
多分、隆介は大学へ向かうはずだ。だとすれば反対方向に逃げなくてはならない。
そこまで考えて、私はようやく真反対に歩いていることに気が付き、慌てて進路を変えようとした。このままだと大学へ向かう大通りに出てしまう。しかし万が一引き返して、隆介と鉢合わせるのも嫌だ。前進するか後退するか、決めかねて立ち止まった瞬間、強く腕を引かれて肩が跳ねた。
「随分、余裕じゃねえか。都」
いつもより低い声に、彼が不機嫌なのが分かる。振り返るのも恐ろしくて、言い訳するなんてもっとできなくて体をよじった。それでも逃げていた時より冷静になっている自分に気が付いて少し安堵した。
あぁ、よかった。取り乱して泣くなんて絶対に嫌だから。動悸は相変わらずひどいけど、とりあえず喉が詰まるような感覚もなく、心配していた胸の痛みも辛くはなかった。
「余裕なんてっ」
「わざわざ捕まりに来るなんて、余裕以外の何ものでもねえよ」
ぐっと掴んだ手に力を入れられて、またびくりと肩が跳ねた。それはまるで彼を恐れているようで、それを感じたのか彼もこちらを見て一瞬眉を寄せた。また傷つけた、と思ってももう遅く、私は唇を噛みしめるしかなくなった。
「で、一か月帰らなかったお前が、どうした?」
「……たまたま、近くを通ったから」
言い訳じみたその言葉に、隆介は一瞬眉を片方上げたが特に何か言うこともなくそうか、と頷くだけだった。しばらく気まずい沈黙が流れたが、次に顔を上げたときには隆介はもうこちらを見ていなかった。そのことに安堵して、同じくらい落胆する。
「か、帰る、ね」
沈黙に耐えきれなくなった私が早々に白旗を上げ、彼の手から逃れようと腕を引く。しかし彼の力は思ったより強く、簡単には外れなかった。ばかりか、私が抵抗したのを感じてさらに強く握られた。
ぐっと腕を強く掴まれて息が詰まる。何か言われるかと思ったけれど、彼は口を閉ざしたまま歩き出した。私の腕は掴んだままで、ぐんぐんと進んでいく。
「隆介っ。放して」
「離したら、お前逃げるだろ」
そんな見透かしたような言い方をして、隆介はこちらを向かないまま進み続ける。斜め後ろから見える彼の口元は引き結ばれていて、何かを我慢しているようだった。怒鳴るのを、我慢したんだろうか。
その力強さに逃げることなど諦めて、大人しく隆介に従ってしまえば彼の歩調は案外穏やかだった。それでも私にはどうしたって怖くって、つい手を握り締める。
そのまま家に連れ帰られて、靴をそろえる暇もなく二人の共有スペースへと追い込まれた。改めて彼を見上げれば、完全に怒っている顔。不機嫌な顔をすることはあれど、怒りを顔に出すことの少ない彼だから、少なからず驚いてまじまじと見つめた。
そして、滅多に怒りの感情を顔に乗せない彼がこんな顔を見せるという事実に動揺する。
「隆介?」
恐る恐る呼びかければ、彼はゆっくりと息を吐き出して、髪をかきあげる。こちらから見えた彼は、もう眉間にしわもよっていないし、口元も引き結ばれてはいなかった。ただ、眉がほんの少し下がって、それなのに口の端はわずかに上がっている。
「話、させて」
言われた言葉はたったこれだけ。どういう意味か測りかねて彼を見つめると、彼はより一層眉を下げてさらに言いつのった。
「この話が終わったら、帰っていい。逃げても、いいから」
緊張しているのは彼も同じなのか、拙く紡がれたその言葉に頷けば、彼はようやく安心したように緩く息を吐き出した。それにつられるように私も息を吐いたが、『話』は気になった。一体何を言われるのか、当然いきなりいなくなったことだろうけど、それに対するお叱りだろうか。
甘んじて受けなければいけないと思う反面、責められれば言わなくていいことまで口に出してしまいそうで少し怖くなった。
「都」
不意に名を呼ばれ、へたり込んだ彼の方へ顔を向ける。同じようにその場に座り込んで、そのあとで意外に近い二人の距離に気が付いた。投げ出された手が触れあいそうな距離に、また違った意味で緊張してしまう。
「ごめん。おれは、お前を傷つけてばかりだ」
そんなセリフがいきなり聞こえてきて、目を見開いた。違う、という咄嗟の否定もできず呆然と隆介を見つめた。
「ごめん、都。傷つけるって分かってても、お前が好きだ」
彼の指先が、わずかに動く。逃げようとした手は捕まって、ぎゅっと握りこまれた。
熱いのは私の手だろうか。さっきまで風にさらされていたはずの指先は驚くほど熱く、それなのに不快ではなくて困る。
言葉の意味なんて考えるまでもない。取り間違えることさえ許されない。それほど真剣な目がこちらに向いていて、その心を否定することさえできなかった。そんなこと、許されない。
「お前が、変わらない関係がいいっていうのは知ってる。元に戻ったのが本当に嬉しいと思っていることも、よく分かってる。お前が、都がちゃんと、おれのことを大切に思っているのも知ってる……本当に、分かってるよ」
柔らかくなった口調と、包むように掴まれた手の力がその気持ちをよほど正しく表していた。
「でも、もうあの頃には戻れない。同じように、可愛い従妹として見ることなんてできない。都を傷つけても」
一度、彼は息を吸って小さく微笑んだ。
見たことがないような表情で、知らない顔をして、懺悔するように言葉を絞りだした。
「都を傷つけてまで、伝えたかった」
涙が出そうになった。喉の奥が急に熱くなって、目も開けていられなくて、それでも最後の最後で歯を食いしばって涙を止める。
俯いて必死に息を吸い、何とか涙を誤魔化そうと目に力を込める。そんな私の頭に彼は手を置いて、そして聞き取れないほど小さな声で笑った。
「ありがとう、都。聞いてくれて、よかった。送ってくから」
顔を上げたとき、彼はもうこちらを見てはいなくて玄関に向かって歩き出しているところだった。
その背中は私の答え何て求めていなくて、そこまで考えてようやく私はどうしようもなく彼を傷つけていたんだと気付く。急に出て行ったとか、このままがいいと、元の関係に戻ったのが嬉しいと口に出したこととか、そんなのは後付けの理由だ。
彼を傷つけたのは他でもない、私が彼から目を背けたのが理由だった。
自分が傷つくのが怖くて、また離れるのが怖くて、一時の感情に振り回されてなるものかと見ないふりをした。
彼の優しさだとか、助けてくれる手だとか、そんなものに背を向けた。ずっと今のままでいたいと思っていたのに、今のこの関係さえ犠牲にしようとしていた。
ここで手を離せば、きっともう絶対に彼は私を見て笑ったりなんてしない。間違いなく『失敗』する。今度は私が避けられる番だ。
そして、今度の失敗はもうどんなことをしたって取り返せない。あのときのようにはもう絶対に。
そう思った瞬間、こちらに背を向けた彼に手を伸ばすことができた。きっと抱き着くとかそういう甘ったるいものではなかっただろう。半ば突っ込むようにその背中へと体を押し当てて、こちらを向こうとする彼へと声を上げた。
「そのままで聞いてて!!」
きっと今まで彼に向けた言葉の中で、一番強い言葉だったと思う。
何に背中を押されたのか、私の口からは驚くほどしっかりと言葉が出てきた。それでも彼のシャツを握る手は震えているし、足はもう立っているのもやっとだった。
「ごめんなさい。黙って出て行って。傷つけるつもりなんてなかったって言ったら嘘だけど、でも本当に」
違う。言い訳したいわけじゃない。謝るのはもっと別の。
「私、怖くてっ」
もう自分が何を言うつもりかさえ分からない。動き出した口は止まることを知らず、ただひたすらに彼を引き留める言葉を紡いでいた。
今ここで彼を手放したら、もう二度と手に入らない。元の関係にも戻れない。何も私には残らない。それだけは嫌だ。自分勝手でもいい。それだけは絶対に嫌なんだ。
「隆介が大切だから、今の関係が壊れるのが嫌で、一時の感情で何か変わるのも怖くて、だから見ないふりしてて」
要領を得ない。何が伝えたいのかも分からない。だけど一度止まってしまえば、もう口を動かせる自信などないからそのまま隆介の背中に額を押し当てて声を絞り出した。
どうにでもなってしまえ。
「私も隆介のこと好きだよ。大切だよ」
やっとのことで言ったその言葉に、彼の背中は一瞬だけ震えた。そして次の瞬間、『あぁぁーーー』と深く息を吐き出してその場に座り込んだ。
抱きつくようにしてその背中に縋り付いていた私もつられて座り込めば、彼はくるりとこちらへと振り向いた。まさかこちらを向かれるとは思っていなかったので、逃げるのが一瞬遅れる。
「そ、そのまま聞いてって言ったのに!」
「お前は馬鹿か! いや、馬鹿だ。あんなの聞いて向かないやつがいるか」
叫ぶように批判すれば間髪入れずに彼が反論してくる。さらに言い返そうと口を開けば、それよりも早く真正面から抱きしめられて文句も何もかもが喉の奥で萎えて消えた。代わりに頭の中で今の状況がぐるぐるとまわり始める。
「……というか、おれが一番馬鹿だな」
「え?」
「都の考えてること、全然わかってなかったし。そもそもそういう風に見れないから、避けられてるんだと思ってた」
ぽんぽんと背中をあやすように叩かれて、『そもそもお前のことに関しては自信なんて持ち合わせてないしな』と苦く笑われた。
「ま、お互い相手に負い目があるから仕方ないかもな」
そんなことを言って、隆介は背中から腕を外し立ちあがった。そしてちらりとこっちを見て、ほんの少し迷ってこちらに手を伸ばす。
「とりあえず、一歩前進ってことで」
「ん?」
「いきなり色々進むのは難しいから、この辺からで丁度いいだろ」
都のペースに合わせてやるよ、なんて隆介はいたずらっ子のように笑った。
久しぶりに見た含みも何もない笑顔で、ついそんな顔につられてこちらも笑ってしまう。大人しく彼の手を取って立ち上がれば、また嬉しそうに目を細められた。
たまにするこの表情が、どういう意味で私に向けられていたのか分かり、どきりとした。
そっか、隆介はちゃんと私のことを見ていてくれたんだ。
そう思うとなんだか嬉しくて、握られた手をぎゅっと握り返してとりあえずここに帰ってくる心づもりをする。
さて、いつ帰ってこよう。
「隆介、これから大学?」
「ん? お前の実家」
「え?? 一人で帰れるよ?」
「荷物持ち、必要だろ」
さらりとそんなことを言って、玄関に立つ彼を見て、思わず笑ってしまった。
何だ、心配しなくても平気だったのかもしれない。関係が変わってもすぐに全てが変わるわけじゃないし、変わらないものだってたくさんあるのだと知った。
「そんなに早く帰ってきてほしいの?」
ふざけてそう問えば、前に立つ彼は靴を履くために話していた手を再び繋いでからにやっと口角を上げた。
失敗した、かもしれない。深刻な失敗じゃないのは分かるけれど。
「まぁ、聞きたいこともあるし?」
「聞きたいこと?」
「いつぐらいからおれのこと気にし始めたのか、とか」
な、と文句を言いかけた私だったが、歩き出した彼にそんな声は届くはずもなく、ただ今からどう言い逃れしようかと思考を巡らせた。
ルームシェア、逃げられるはずがありませんでした
逃げる気あったのかと聞かれたら、少し怪しいけれど。