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larme ~短編集~  作者: いつき
ルームシェアシリーズ
29/50

ルームシェア、気付けば手遅れでした

 今年のバレンタインデーのお話。去年のお話と直接の関係はありませんが、比較のために去年のもあげていますのでよろしければそちらからどうぞ。

 目の前にある茶色い物体を見つめる。じーっと見つめ続けてみたところで、その茶色い物体が他の何かに変わってしまうはずもなく、一つため息をついた。

 大きな、円形の茶色い物体。

 それは紛れもなく、チョコレートケーキでため息がまた漏れた。そして動き出さないことにはこの茶色い物体を処分できないので、のろのろと行動を開始する。

 まず最初に携帯を手に取り、電話を掛けた。

『もしもし? 都?』

「いきなりで悪いんだけどさ、チョコケーキいらない?」

 しばらくのコールの後に出た友人に、用件だけを端的に伝える。

 頼むのはこちらなのは百も承知だし、今一つ理解できない問いかけだと思うが迷っている暇は残されていなかった。

 いや、さっきまでの時間で使い切ってしまった。さんざん迷ったのだから、もう迷っている時間はない。

『え? チョコが何?』

「だから、チョコレートケーキ、いらない?」

 友人の疑問に、少し強い調子で返す。

 あぁ、本当はこんな強い口調で話したいわけじゃないのに、焦りのせいか私の口調はかなり厳しくなっていた。

『都、どうしたの? 変だよ』

「いや、ごめん……大した用事じゃないんだけど」

『大した用事だよ、いきなり電話かけてきてチョコケーキいらないかって……』

 友人は問い詰めようとしていた言葉を急に止め、それから『あぁ』と納得したように吐息を漏らした。それに自分の思惑がばれてしまったのかと肩を震わせる。

『いとこくんに渡すための試作品か』

 あぁ、よかった気づいていない。

『食べられる味なら喜んでもらうけど』

「美味しいと思うよ」

 返事をする自分の声には覇気がない。

『え、渡すやつ味見したの?』

「してないけど……」

 今日までは、いい思い付きだと思った。

 いつものお礼として、去年より上手に作ることが。去年より手の込んだものを、丁寧に丁寧に作ろうと練習した。

 彼が納得するようにと、暇を見つけるたびに、彼が大学の授業で遅くなるたびに、飲み会や他の用事で家にいなくなるたびに。

 美味しいものを、渡したくて。

『ねぇ、それ本当に試作のケーキ?』

 いきなり核心を突かれて、思わず言葉が詰まる。電話の向こうでは小さくため息をつかれて、言い聞かせるような声が続いた。

『作ったのに、渡さないつもりなんだ』

「……そういうんじゃないよ」

 どういうんじゃないんだ、と自分でも思った。どういうつもりなんだ、と自分でも問いかけてみる。

 だけどどうしても、いまさらこの目の前にあるものを彼に渡す気にはなれなかった。

『で、わたしに押し付けようと思ったわけだ』

「ごめん」

 素直に謝ると、別に責めてるわけじゃないよと笑われた。だけど責められるよりも心が痛くて、思わずエプロンの裾を握る。

 その拍子にエプロンの裾が目に入り、顔が歪むのが分かった。鼻の奥が痛くなって、じんわりと視界がにじむ。

 このエプロン、前に出かけたときに買って帰ったものだった。二人で出かけることに抵抗がなくなって、不自然さもなくなって、それが自然になっていた。

 それを不快に思うことなんてなくて、むしろ楽しいくらいだった。雑貨店で揃いのエプロンを見たときに、興味を示したのは私だ。

 いつものお礼と押し切って、青と赤のエプロンを買ったのだ。そのとき店員さんに、彼氏さんにですかと聞かれて、苦笑いで誤魔化したのだ。

 ……誤魔化したのだ。

 今まで一度だってあいまいにしたことのなかった、『従兄妹』という関係を、あのとき初めて明言しなかった。

 それは、それはもしかしたら……。もしかしたら、私は。

「でも、嫌なんだよ」

 やっと、元に戻ったこの関係を壊すのが嫌なんだ。自分の気まぐれで、歩み寄ってくれた彼の信用を損なうようなことしたくなかった。

 こんないつか消えてしまうかもしれない一時の感情で、彼との大切な関係を壊すのがどうしても嫌なんだ。

 だって、やっとだ。

 やっと、やっと――彼と一緒にいて楽しいと思えるようになった。気後れより先に、気まずさよりも先に、その感情が来る。

 それがどれだけ私にとって大切か、きっと誰にも分からない。

 目の前のチョコレートケーキは艶々と照明を照り返す。そして喉につかえたままだった言葉を絞り出した。

「……気付かなかったんだよ、好きだなんて」

 彼との関係は元に戻っただけじゃなかった。昔のように仲良くなるだけじゃなかった。いつの間にか、あの頃とは違う感情が育っていた。

 元通りに修復されたはずの私の心に、思いもよらないモノがあった。それは決して、望んでいるものじゃなかった。

「作るまで、気づかなかった」

 作り終えて、片づけて、そして彼が帰ってくる時間を確認して――そんなことをしていたら唐突に気が付いたのだ。

 これは、この手の込んだチョコレートは、ただの義理じゃないんだって。

 友チョコなんかじゃなくて、お世話になっているからなんてただの言い訳で。

 自分が、それを見た隆介の顔をとても楽しみにしていることに気が付いた。喜んでくれるとどれだけ嬉しいだろうと思った。

 そんな思い、もう『元通り』なんて位置を越えてしまっていた。

 私が取り戻したかった彼の隣は、いつしか今まで考えたこともなかった彼の特別な隣になっていた。取り戻したいと願っていたものが変質していたことに、もはや『取り戻したい』ではなく『手に入れたい』と願っていたものに、恐れをなした。

 こんなの、彼に見せられるはずがなかった。

『都の恋心入りのチョコレートケーキかぁ』

「……まだ無自覚だったもん」

 言い訳がましくそう言って、私は電話を切った。




「ただいま」

 玄関を開けるとふわりと甘い香りが漂ってきて、つい口元が緩んだ。相変わらず隠し事の苦手な従妹殿はここ最近、この甘い香りをよく身にまとっている。

 一応家の換気はしているようだったが、すれ違って彼女の髪が揺れるたびに香ってくるこの匂いは、間違えようもなく甘いお菓子の香りだった。それがとうとう今日になって、玄関まで香るようになっている。

 しかし家に入ってみると、人の気配はなく甘い香りだけが彼女の存在を伝えて来ていた。

 ぱちりと暗くなりかけの部屋へ明かりを灯す。改めて見たところで従妹はいるはずもなく、自室へとカバンを置きに行く。

 台所を横切るとより一層甘い香りは強くなって、ついシンクの中を覗く。しかしそこは出かける前同様綺麗なものだった。

 それでも水切りかごに伏せてあるボールと泡だて器、それからケーキの型が目に入って、また小さく笑った。

「証拠隠滅できてねえじゃん」

 誰に言うでもなく呟いて、冷蔵庫に向き直る。

 今日の夕飯何にしようかな、と考えながら開けるとひき肉が少し。どのみち買い物に行かなければならないならば、ひき肉を買い足して麻婆豆腐とかどうだろうか。

 彼女は甘党ではあるが、辛いものも普通に好きだし、確か今日は豆腐が安いはず。

 そんなことを考えながら、ざっと野菜室の野菜も確認して財布を持つ。ついでにエコバッグも準備すれば出かける用意は整った。

 ここまでしておいて今更だが、本当に自分はできた大学生だと思う。周りの友人は料理と言えばせいぜい野菜炒め程度と言っていたので、自分の主夫レベルはかなりのものではないんだろうか。

 そうして玄関の扉を開ければ、丁度カバンから鍵を出そうとしていた彼女が目に入った。

「おかえり、都」

「あ、帰ってたんだ。ただいま」

 ほんの少し、彼女が驚いた顔をする。しかしそれもすぐに引っ込めて、彼女は小さく笑った。

 やっとこんな笑い方をしてくれるようになった。こちらに警戒心がない証明のような、心を開いているようなそんな笑顔。

 エコバッグを見て買い物に行くと気付いたのだろう。彼女が一緒に行ってもいい、と首を傾げて訪ねてくる。頷けばまたふわりと笑われた。

 このルームシェアはもう一年を過ぎていた。

 あっという間と言えばあっという間だったが、それぞれに思うところがあり、こんなふうに穏やかに相手のことを考えるようになったのはつい最近だ。

 ぎこちなさのない会話も、自然と並ぶ二人も、本当に、やっと手に入れたものだった。彼女が何の衒いもなく笑い、楽しそうに歩き、そしてあれこれ話しながら街を歩く。

 それがどれだけ得難いものか、自分はよく知っているつもりだ。それでも人間というものは強欲なもので、最近の自分は小さな期待を抱きつつあった。

 今は過去の二人に戻っただけだ。でもこの後は?

 この後自分たちはこの昔のままの状態を維持し続けるだけなんだろうか。

「あ、ねぇ隆介。まだチョコレート売ってるかな? さすがに当日は品薄かな」

「まだ買うのか、チョコ。家中チョコの匂いしてたぞ」

 からかうつもりでそう言った瞬間、隣の彼女の肩が驚くほど大きく跳ねた。それからぴたりと足を止める。

 おかしいと思ってそちらを向けば、呆然とする彼女の表情が目に入った。何でそんな、今にも泣きそうな顔するんだ、お前は。

「都……?」

「ん、何でもない」

 彼女が眉を下げたまま口元を引き上げた。

 笑っているつもりなのか、それとも誤魔化したつもりなのか、どちらにせよそれはまったく意味を成しておらず、泣きそうな目元だけがいやに目に入ってしまう。

「友チョコ作ってたんだけど、そんなにチョコの匂いしてた? 換気してたんだけどなぁ」

 こちらが再び問いかける前に彼女は歩きだし、今はもう彼女の後ろ姿しか見えない。それなのに彼女は何も気にせずに歩き続けた。

 そしてふと立ち止まり、都はゆっくりとこちらを振り向いた。今度はちゃんとした笑顔で、それからいつもの口調で言った。

「あのね、隆介」

 優しい、穏やかな声だった。

 先ほどの泣き出しそうな表情はもうその顔のどこにもなく、しかし最近見ていた笑顔もそこにはなかった。

 ただルームシェアを始める前のような、こちらを拒絶する無関心な表情があって背中が震える。

「私ね、このルームシェア初めて本当によかったって思ってるの」

 思ってるんだったら、そんな顔をするな。

 今までの笑顔がなかったように、自然に並んで歩きあっていたことさえ全て忘れたように、そんな顔で、『よかった』って言うな。

「隆介と、元に戻れてよかったよ。きっかけがなかったら、きっと私ずっと隆介のことが苦手なままだった」

 そんなの勿体ないよね、と彼女が苦笑いをしてこちらに近づく。ゆっくりと歩み寄り、それからこちらの目を見て言った。

 ほんの少しだけ、少しだけ声を震わせて、それでも笑顔で。

「今のこの関係が、一番いい状態ってことだよね?」

 その言葉に反論さえできずにいるこちらを放置して、彼女は再び歩き出した。

 違う、とそんなことない、と彼女の泣きそうな顔を目の前にしては言えなかった。

 前のように彼女が悩んでいるならよかった。説得だって何だってしてやると思った。不安に思っているだけならいくらでも言葉を紡ごうと思っていた。そんなもの苦じゃないと思った。

 だけど違うんだ。彼女はもう、『決めて』いるんだ。

 こちらの言葉も思いも必要とせず、彼女は答えをすでに出していた。簡単には翻さないという決意も込めて。




 次の日、朝目が覚めると彼女の気配は消えていた。昨日買ったらしい市販のチョコレートと便箋一枚を残して。

 水切りかごにあった昨日の名残は全て片づけられており、甘い香りももうしていなかった。それを呆然と見つめ、手元の便箋に目を落とした。

『春休みになったので、実家に帰ります。

 新学期までには戻るので、心配しないでください。

 机の上のチョコはいつものお礼です。いつもありがとう。  都』

 そんな当たり障りのない文章が、当たり障りのない文字で綴られていた。

 それでも考えずにはいられなかった。あの声を震わせて笑顔で語った彼女が、一体どんな気持ちでこの便箋に文字を落としていったのか。

 一体どんな顔をして、苦手な早起きまでしてこの家を出て行ったのか。

 ……泣いては、いなかっただろうか。


 ホワイトデーにちゃんと解決編をあげられたらいい。

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