クリスマスには
クリスマスシーズンなんで。
随分と前に書いたものを手直しして上げます。この頃はこういうのが好きだったんだなぁ、と今更気付く。
『クリスマスに帰るから』
――そんな、本気と取れない彼の声を信じ、私は待っている。
凍てつくような空気が髪を揺らし、頬を刺す。
手はあまりの寒さに、ほとんど感覚がなくなっている。こんな寒空に手袋もマフラーもしていない私は、馬鹿以外の何者でもないという自覚は一応あった。
何度息を吹きかけても、すぐに冷たくなっていく手。
カタカタとかみ合わない歯。
そのどれもが、もう自分が限界だということを知らしめている。それなのに……動こうとしない。
手持ち無沙汰に携帯をコートのポケットから携帯を取り出して時間を確かめる。
短い針が"Ⅸ"のところを指そうとしていた。彼との約束の時間は確か八時だったはず、いや何度も確かめたので八時に間違いない。
何度も何度も、それはもう自分でもしつこいと思うくらいに確かめたのだ。間違えているはずなんてなかった。それでも今、間違えていればいいと思った。
彼が来るわけない、と自分に言い聞かせてももう少し、もう少し、と思っているうちに変えるタイミングを逃し、結局一時間近くも待たされている。
いい加減、諦めて帰ればいいのに。そう自分に呼びかけて携帯をしまった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。そこには大きなクリスマスツリーがある。キラキラと飾りがライトの光を反射させて、煌いていた。
大きな木に、どれくらいの時間をかけて飾ったのだろうライトがたくさんついている。天使やサンタクロースの飾りが揺れて、一番上にはお決まりの大きな星があった。
あぁ、綺麗だな、と自分のおかれている状況も忘れて思う。
彼との初デートも確かここだった。
クリスマス当日ではなく、イブにここで待ち合わせたのだ。学生時代からの付き合いで、一見惰性とも取れる付き合いを続けている。
そんな彼が今いるのは、イギリスにある会社だ。優秀な彼は、研修と言う名目でもう半年以上もこちらへは帰ってきていなかった。
だからきっと、電話は酔っていたか何かの、戯言だったんだ。
もう一度携帯を取り出し、もう何回再生したか分からない留守番電話を再生した。これがテープか何かだったらきっともう擦り切れているだろうと思える回数、再生し続けていた。
それが私の心の安定を保っているとでもいうように。情けない話だが、事実だった。
『クリスマスに帰るから。あのクリスマスツリーの前で、な』
無駄を省いた口調と、抑揚の少ない声。
私は何でこの人と付き合っているんだろうと、今更ながらに考えた。付き合いだした当時は、そこら辺にいるカップルと大差なかったはずなのに。
傍にいれるだけでいい、と思っていたはずなのに。
いつの間にか傍にさえいられなくなっていた。どこで間違ってしまったのだ、と白く色付いては消えると息を見つめて笑う。
彼が向こうへ行ってしまってから、連絡はたまにしか来なくなった。
九時間という、時差の所為かいつもいつも時間のことを気にしていた。生きる世界さえ違った気がして、もう彼とは会えないじゃないかなんて思った。
「来るはず、ないじゃない……」
何度かここに来て言った言葉を、もう一度呟く。
そうしてやっと、ここを立ち去る決心がついた。一歩、踏み出した瞬間、それは聞こえてきた。
聞き慣れた、だけどここ数週間聞くことのなかった着信音。
彼だと分かるために、一人だけ違う音にしている音楽。それと同時に、コートの中で携帯が震えた。そして、私の心も震えた。
思わず、携帯を取り落としそうになる。それでも震える手を叱咤して、通話ボタンを押した。
「もしもし」
なるべく普通を装ったつもりだったのに、その声は震えていた。あぁ、泣きそうだ。声がわなないて、向こうに聞こえているかもしれない。
体全体が震えているのは、寒さのせいなんかじゃない。
『今日子?』
確かめるように、名前を呼ばれる。
この声だ。体中が、その声を覚えている。響き渡るような、深い声。私が、大好きで手に入れたいと願った声。
まだ、好きなんだ。
だから、なかなかここから離れられなかったんだと、今更ながらに実感した。そして、そう思うほどに身体の震えは大きくなっていった。
『今、どこにいんの?』
その言葉を聞くと、今度は違う意味で肩が震えた。
彼は、彼はあの言葉を覚えているだろうか、と微かな望みを抱いてしまう。しかし私はその言葉をすぐに取り消した。大きく頭を振る。
きっと覚えてないだろう。だから、嘘をついた。自分が傷つかないように『クリスマスツリーの前』と言って、笑われてしまわないように。
「家、だよ?」
電話の向こうで、かすかな溜め息が聞こえる。
疲れたような、呆れたような。
『今日子、俺は今、一瞬のうちにお前が嘘をついていることに気が付きました。さて、それは何故でしょうか? 十文字以内で答えなさい』
試すような、からかうような口調。
何故、嘘だと気が付いたんだろう。やっぱり声が震えているのが分かったのだろうか。
「う、嘘なんかじゃ……」
『嘘だろう?』
焦って言い訳をするも、彼はそれを最後まで言わせずに遮った。
私はどこか笑いを含んでいるその声を聞き、思わずムッとする。
その様子に気が付いたのか、彼はもう一度薄く笑った。根性が悪い男と言うのは、きっとこういう男のことを言うんだと、小さく思う。
好きだけど、こういうときの人をからかう感じは好きじゃない。昔からそうだ。この男は自分が賢いのをいいことに、私をからかって遊ぶのが好きだった。
初めの頃、嫌われているんじゃないかと誤解するくらいに。
『ヒントをあげよう。ヒント一、俺はちゃんと約束を覚えてる』
何の、とは言わなかったけれど、それは確実に今日のことだろう。
彼は口には出さないが『忘れているとでも思ったか?』と言っているようで、何だか悔しかった。酔った勢いかなんかだと思っていた私に、半ば失望するようだった。
電話しといて忘れるか? と逆に問われている気分だった。
『ヒント二、今日はとっても寒いな、ここ』
天気予報では、そんなに寒くないって言ってたのに、彼はそう言った。
何故だろう、何故彼が今日の気温のことを知っているのだろう。ましてや、ここって、どこのことを言ってるの?
私がいる、ここ――?
私の疑問はますます深まっていく。
『ヒント三、俺の目の前にいる奴は、黒のコートに少し長めのスカートを履いている女だ。髪はセミロングで、背中に流してる。
だが、そいつはマフラーも手袋もつけていないアホだ、と俺は思う。しかも、携帯を片手に持って仏頂面。なかなか近付きにくい女だな』
それは、まるで……。
まるで、私みたい?
「ちょ、それって、えっ?」
『さてさて、このヒントから導き出される答えとは何ですか? 今日子くん』
彼の言葉の最後の方は、ほとんど私の耳に入っては来なかった。
そのヒントから導き出される答えを、私はもう持っているから。それを確かめるために、私は後ろを振り向いた。
用心深く、見逃さないように。それでも早く確かめたくて、小さな希望をかけて、振り向いた。
「久しぶり、今日子」
「浩一――?」
真後ろに、五メートルくらい後ろにいたのは、
最後に見た時よりも髪が伸びた彼。彼は私と違って、コートにマフラー、手袋まで完璧だった。すごく、温かそうで文句の一つも言いたくなる。
こっちはこんなに寒い思いして待ってたのに!!
「何で、何でここにいるのよ!!」
嬉しさより、驚きが。
驚きよりも、怒りが込み上げてきて叫んだ。
みっともないくらい、涙声だったけれど……。
みっともないくらい、震えていたけれど。冷たい頬に、温かい涙が流れて俯いた。きっと、今の私ひどい顔をしているに決まってる。
真っ赤な頬と鼻が想像できて、何より泣いてしまった自分が恨めしくて、顔を上げて彼を見ることが戸惑われる。
こんな顔、久しぶりに会った彼氏に見せたくない。
「ごめん、今日子」
それでも、頭の上から聞こえてきた声は、先程とは違い、真剣で悲しいくらい優しい声だった。
いつもの彼らしくない、そんな声。その声を聞いたのは、『付き合わないか』と言われた時以来だと、そっと思った。
そうだった。大切なことを言われるとき、彼は決まって悲しいくらいに優しい声で私に語りかける。すごく、辛いんだ。何を言われるのかと身構えてしまう。
付き合わないか、と言われたとき。
仕事で何もかもが上手くいかなくて、全てを投げ出したくなったときに叱ったとき。
あぁ、それから。
それから、イギリスに行くと告げられたときもこんな声だった。
「だ、誰も謝って欲しくて」
「でも、約束守れなかったから」
途切れる声に重なる声。
ぎゅっと音がするぐらい抱きしめて、耳元で囁く彼の言葉に瞳を閉じた。温かくて、優しくて、何故かは分からないけれど痛そうな声だった。
さらさらと彼が髪を梳くのが、とても気持ちよくて彼の背中に手を回すことも忘れて身体を預けた。
「俺は、最低だ。仕事が忙しくて、約束時間守れなさそうだ、って分かった時さ。きっと、今日子はきっと冗談だと思ってこないだろうな、って。
少々遅れたって来ないから大丈夫だって、思おうとしたんだ。絶対来るって知ってたくせに。今日子は絶対来るって、約束は守るって、俺が一番知ってたはずなのに。
電話を入れるのが怖かったんだ。『あれ、冗談じゃなかったんだ』って言われるのが怖くて、どうしようもなかった」
彼が腕に力を込める。
痛いくらいに抱きしめられて、私はやっと目を開けた。
「私も……浩一は忙しいから、あの電話は冗談で、来ないって。来るはずないんだって。思ってた。さっさと帰ってしまおうって、そう思ってた」
頭一つ分も高い彼を見上げて言った。
「でも、浩一はちゃんと約束守ってくれたでしょう?」
「今日子だって守ったじゃん」
おあいこだね、そう言うと、泣き出しそうだった彼の瞳が小さく笑った。
その笑顔が嬉しくて、私も笑顔を作る。
「帰ろっか」
「寒いしな」
しばらく見詰め合っていたけれど、今更ながらに寒さが身にしみて言葉をかけた。
ロマンスの欠片もないけれど、やはり寒い中抱き合っていても何の得にもなりはしないから。でも、でもね。少しだけ昔に返ろうよ。
二人で手を繋いで、肩が引っ付くくらい寄り添って、付き合いたてですって言うように。他愛もない話で笑って、何でか分からないけど唐突に見つめ合って。
「俺、今日は大切な話が合って戻ってきたんだ。……思いっきり遅れたけど」
「何? 大事な話って?」
私の言葉を聞いて、彼は小さく肩を落とした気がした。
何にも分かってないなぁ、今日子は。
そんな彼の呟きが耳に入る。それってどういう意味だ。一体。まるで私が鈍感みたいな言い方しないでくれ。
私に関係あることなのか、それとも彼に関係あることなのか。
彼が顔を赤らめる理由なんて分からない。顔を赤くした彼が私の耳元で小さく呟く。ちょっと風が吹いてしまったら、風に飛ばされてしまうような小さな声で。
その前に、私が飛び上がってしまうのだけれど。
嬉しくて、少しだけ不安な……、だけど大切な言葉――。
もしかしたら、言われないかもしれないと思っていた言葉。
答えなんか分かってるくせに、それでも不安そうに聞いてくるものだから、こちらまで背筋が伸びてしまう。
答えはどう変えそうか、そんなことを思いながら、私は口を開くのだ。
「俺と、結婚してくれませんか?」
そう言った彼の言葉に答えるために。
久々に際限なく甘いものを!
友人の『リア充爆発しろ!』という台詞を聞いて、そういえば随分前にそんなものを書いたなぁと思い出したので。