唄を忘れたカナリヤは
リアルに夢の話です。
休みの日だった。
私は2階にあるカウンターキッチンで、たて半分に割ったコッペパンに、レタスとトマト、ベーコンとチーズ、マスタードにマヨネーズ。
オーソドックスなボートサンドを用意していた。
リビングを挟んで広いベランダから見える外は、薄曇りではあるが過ごしやすい良い天気のようだ。
「窓を開けようか」
夫が言った。よろしく、と頷くと、隣でサラダを作っていた手を止めて、彼はベランダのサッシを開けにいった。
まだ残る朝の匂いが、気持ちのいい風と共に家の中へ入り込んでくる。前の電線で、雀が囀っているのも聞こえた。
「……これなら外で食べられそうだね」
「そうだね」
ベランダには、木製のガーデンテーブルが一台とチェアが二脚ある。
天気のいい休みの日には、時々こうしてベランダで食事をしているのだ。
「もう全部つくったし、食べられるよ」
私がそう言ったのを合図に、二人でベランダのテーブルへお皿を並べ始める。同時に動物が好きな私たちは、ベランダに出てきた人間を警戒してどこかへ飛んでいってしまった雀たちを、名残惜しく思ったりしていた。
しかしその時だった。
『♪~~唄を忘れた カナリヤは……♪』
うちの屋根の上から、澄んだ綺麗な歌声が聞こえてくる。女性の声で、歌い方はすこしオペラに近い。
「ん?」「なんか歌ってるね」
配膳の手を止めて、私はベランダから身を乗り出した。
家の屋根端から本線につながる光ケーブルの電線に、黄色とクリーム色の綺麗なグラデーションをしたカナリヤが一羽、ちょこんと止まっている。
『♪~~後ろの山に 捨てましょか~~
~~いえいえ それは なりませぬ~~♪』
唄っているのは、そのカナリヤだった。
「綺麗な声ねえ」
思わず私が口に上らせると、囀りはぱたりとやんだ。
きっと見上げる二人の視線に驚いたのだろう。カナリヤはそのままパサパサと翼を羽ばたかせ、どこかに飛んでいってしまった。
「あー、いっちゃったよ? 猫乃……」
声を立てなければ最後まで聴けたのに、とでもいいたげに、残念そうな視線でこちらに向けてく夫。
いやいや、そんなこといわれてもキミもみてたやろがい。
そうして、それでも『いい声だったねー、もうちょっと聴いていたかったねー』と言い合いながら、配膳の続きを終わらせる。
そのうち、テーブルの上に箸とフォークが置かれると、我が家のベランダには休日限定のオープンカフェが完成する。
はい、と夫から追加された淹れたてのコーヒーを受け取り、
「では食べましょうか」「いただきます」「はい、いただきます」
手を合わせた。しかしそれも、すぐに食べ始めることはできなかった。
パサパサと聞こえた、小さい羽音。
「……もし、そこの方がた」
ついで聞こえたのは、低くて柔らかに落ち着いた、少年のような声だった。
二人して、一口目の食事につけようとしていた手を止める。顔を上げる。
さっき見たカナリヤと全く同じ色合いをしたカナリヤが、家のベランダの太い手すりにちょこんと一羽で止まっていた。
「はい、何かご用でしょうか?」
答えたのは私だった。
カナリヤに話しかけられるなんて、奇特なこともあるものだ。さっき人語で歌うカナリヤを目撃しておきながら、私は感慨深げに思っている。
するとカナリヤは、すこし申し訳なさそうに声のトーンを落とし、
「すこし、お尋ねしたいことがあります」
という。
「この辺りで、私の妻を見かけませんでしたか? ずっと探しているんです」
「妻」
夫が反応する。
「妻というと、奥さん。……ちなみにやはりカナリヤなんですか?」
「そうです、カナリヤです!」
鳥の表情はよくわからないが、声のトーンと口の開きかたとで、彼が話を聴いてもらえることを嬉しく思っていることは、なんとなく伝わってきた。
「私の妻は、私などとは違い、さる高貴な血筋の生まれなのですが……――」
カナリヤにも『高貴』とかあるんだ……まあ、そうか、血統とかでめちゃくちゃ高値なやつとか居そうだもんね。
など、私がその話に下世話な独り合点をしている間にも、夫カナリヤの話は続く。
その、高貴な生まれの彼の奥さまは、やはり高貴なお宅に飼われていたらしい。聴く限りでは、カナリヤのブリーダーかなにかをしている家のようにも思えた。
夫カナリヤの歌声もなかなからしいのだが、彼からしてみれば、奥さんの歌声はそれこそ天上の囀りのようだという。
「その歌声は、主に仕込まれるうちにますます輝きを増していきまして、そのうち私も、その美声にすっかり心を奪われてしまったのです」
目を細めて、うっとりしながら伴侶について語る彼の姿を、私は(んまあ! ベタ惚れだなぁ……!)と微笑ましさと共に生あたたかい微笑みを浮かべて見つめた。
けれどそこで、彼の声が急に暗くなる。
「……ですが一週間ほど前、鳥かごの扉が開いていることに気づいた妻は、午睡に微睡む私になにも言い残さず、家を出ていってしまったのです」
聞けばその時、二羽の暮らす鳥かごも、庭に面した家のサッシも、全部開きっぱなしになっていたらしい。
「妻はどこかに行ってしまいました。元々思い立ったらすぐ行動してしまう雌でしたから、ちょっと冒険するつもりで外に翔び出して、きっと帰り道がわからなくなっているのだと思うのです」
「ですので私も妻の姿をさがし、こうして主人にも無断で家を抜け出してきている所存。……お二人とも、私の妻を見かけませんでしたか」
話を遮るのもどうかと思い、黙って聴いていた私たちだったが、驚くことに思い当たる節がひとつしかない。
「今頃、彼女はどうしているやら。――ああ、蛇に呑まれていたら、猫に襲われていたらと思うと、私は居ても立ってもいられません。
ご存知ありませんか? 人の言葉で歌う、私と瓜二つの姿をした世界に一羽だけの美しいカナリヤなのです」
うん、やっぱりそのひとつしかない。
「そのカナリヤなら、さっき見かけましたよ」
私が答える。
「えっ、どこでですか!!」
「「ウチの屋根」」
夫婦で声が被った。
ついでに私は座ったまま目線と指さしで、さっきのカナリヤが止まっていた辺りを示している。
「……!!」
とたん、少年の声で話すカナリヤの嘴が、あんぐり半開きになった。
「――ほ、本当ですか!」
「――本当ですよ。ね、猫乃、歌ってたよね、『歌を忘れたカナリヤは~』って」
夫の確認に、私も頷く。
「歌ってた、歌ってた、綺麗な声で、『歌を忘れたカナリヤは~』って」
――『♪~~唄を忘れた カナリヤは~~♪
♪~~背戸の小薮に捨てましょか~~♪』
「そうそう、今ちょうど、屋根の上から聞こえてるみたいな、この……――」
「「「?!」」」
その瞬間、夫カナリヤの驚愕が私たちにも伝播したようになって、一羽と二人、揃って動きを、止めた。
そこにまだ聞こえる、その唄声。
――『♪~~いえいえ それは なりませぬ~~♪』
「――――わー?! これ! この声! これ絶対アナタの奥さんでしょ」
「はっ、ホントだ! これこそ妻?! 私の妻です!?!」
次に三人の間に止まった時間が動き出した瞬間、立ち上がった私はコーヒーをひっくり返しそうになったし、カナリヤは翼があるのにベランダから滑り落ちそうになっていた。夫は私の動きを察知してそっとテーブルを押さえていた。
「あっ、ありがとうございます、ちょっと行ってきます!」
そうしてカナリヤはパサパサ!と羽音を残して、うちの屋根の上に消える。すぐにぴょろぴょろちーちーと鳥の言葉で、興奮したように何か話しているのが聞こえてきたが、人間の私にはよくわからなかった。
気を揉んだ夫がベランダから身を乗り出して様子を見にいったが、
「屋根の上だ、見えない」
とすごすご戻ってくる。
でもすぐに、またパサパサと羽ばたきが聞こえた。戻ってきた夫カナリヤの横には、ちゃんと妻カナリヤが並んでいる。
「あ、ありがとうございます、おかげで見つかりました!」
声がすこし震えて涙ぐんでいる夫カナリヤ。ただ、奥さんは何も言わない。さっきは鳥の言葉が聞こえたし、歌えばするけど喋れないのかもしれない。
「見つかって良かったですね!」
本当に喜ばしくおもい、夫婦二人で拍手する。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます! これもお二方のおかげです!」
ペコペコと頭を下げだす夫カナリヤは、私たちの拍手が途切れると、
「そ、それで、なんですけど」
とまだ言葉を続ける。
「お礼といってはなんですが、妻の歌声をここで披露していっても構わないでしょうか」
「それは……とても嬉しいですけど、奥さん人見知りっぽくないですか?」
私は遠慮がちに聞いた。
さっきは奥さん、目が合っただけで逃げていたのに、大丈夫だろうか。
するとぴょろぴょろと何事か囀る妻カナリヤ。やっぱり人語は話せないらしい。
「妻も、勇気を出すと言っております!」
思いのほか豪気だ。
私と夫は顔を見合わせた。
「そういうことなら是非……」「奥さんの負担にならない範囲で是非……」
「では、ちょっと妻が心の準備をしたいと申しておりますので、すこしお待ちいただいて……」
そう言い残すと、すぐに二羽はどこかに飛び去ってしまった。
……アーティストって、コンサートの前には気持ちをつくるって言うけど、カナリヤもそうなんだろうか?
くりぬきの木のお椀のなかで、ちょっとだけぬるくなってしまった野菜スープをすする。輪切りにしたシャウエッセンの旨味と、たっぷりふるい入れた乾燥バジルの風味が合わさって美味しい。
「……いいことしたね」
そこへ、同じく朝食の続きに手をつけ出した夫が清々しい声で話しかけてくる。
「いやー、怒涛の展開だったけど、良かったよね」
そうして進む、二人の食卓。
けれどコンサートが始まるのには、そんなに時間はかからなかった。
私がスープを飲みきって、つくったオープンサンドに手をつけ出したくらいだ。
またパサパサ、と、二羽分の羽音が聞こえた。
目前のサンドの断面に落としていた視線を上げると、さっきまで雀が留まっていたその電線に、黄色とクリーム色がグラデーションになったカナリヤが二羽、とまっている。口を開かなければどっちがどっちかわからないくらい、やはりそっくりな二羽だった。
電線は道の真ん中を渡り、ここからは二メートルとすこしは離れている。
(ああ、この距離ね……)
人見知りのカナリヤが勇気をふるって、落ち着いて唄える精一杯の距離は、きっとあの位置だったのだろう。
私はすこし遠くなってしまったことが寂しかったが、しかし唄い出せば、その声は充分耳に届いた。
《♪~~唄を忘れた カナリヤは~~♪
~~後ろの山に 捨てましょか~~♪
♪~~いえいえ それは なりませぬ~~♪》
休日限定の自宅カフェめしを食しながら、おそらく人生一度きり、自分たちのために唄ってくれるカナリヤの歌を聴く。
なんとも贅沢な瞬間だと思った。
《♪~~唄を忘れた カナリヤは~~♪
~~背戸の小薮に 埋めましょか~~♪
♪~~いえいえ それは なりませぬ~~♪》
ちなみに妻カナリヤが歌ってくれるこの曲は、昔、小さな私が繰り返しオーディオプレーヤーで聴いていた、思い出の曲だった。
歌詞の意味すらわからない頃から親に聴かされて、意味もわからないまま口ずさみ、そして今、意味を理解して聞けば、なかなかどうして美しい曲だった。
《♪~~唄を忘れた カナリヤは~~
~~柳の鞭で 打ちましょか~~♪
~~いえいえ それは 可哀想~~♪》
この後はいよいよ大サビである。いちばん聞きたいクライマックスである。
…………しかし、
――――「猫乃、もう7時25分だよ!!」
そこではっ、と目が覚めた。というか起こされてしまった。
私は普段より一時間寝坊し、そしてせっかくのカナリヤ夫婦のお礼を、全て受け取りきれなかった。
2025年、7月4日。残念な気持ちと共に、その日の私の1日は始まったのだった。
(終わり)
割と感動した夢でしたよ。
でも夢の中の夫、ぜんぜん知らない人だったし、ウチの2階にキッチンやリビングはないし、休みの日にベランダで飯を食べるような習慣も、ウチにはないんですよね。
※7月12日から予定している大きい連載にそなえ、本文読み上げの音声ファイルをページごとに添付できないか、こちらの作品で試行中です。うまく再生できなかったらごめんなさい。
漢字の読み、台詞や地の文の行間に存在する『間』も、ちゃんと監修し、できるだけ書き手の想定するものに近くなるように調整しました。イントネーションはちょっとたまに御しきれず怪しいです。
Googleアカウントは必要ですが、以下のURLに飛べばきける……はずです。
『唄を忘れたカナリヤは』
https://drive.google.com/file/d/1txFJ5TV8I76hxVvIJvNnquDUkT4hB29I/view?usp=drivesdk