強さの対価
最後の一段を上がり、ドアノブに手をかけて扉を開く。
白い月の光が降り注ぎ、咄嗟に手のひらで顔を覆った。
「ちょうどいいね」
腕時計に目をやりながらアスファルトの上を歩く。
屋上はそれほど広くはない。
四方には背の高い鉄製の柵が設置されていた。
その景色は、デパートの最上階にある殺風景な屋上を連想させる。
「十年くらい前は、俺もあの大陸のどこかにいたんだよな」
左手に広がる景色を眺めながらシオンがポツリと呟いた。
その視線の先に、こぢんまりとした港があった。
漁用に作られた背の低い船たちが船着場で眠りに就いている。
大きなコンテナや工場のようなものはない。
あるのは、平屋の建物ばかりだ。
「もうずっとむかしの話だね」
穏やかな波の音が潮風に乗って耳をくすぐる。
左手のひらを地面に向けて腕時計で時間を確認した。
カチカチと秒針の足音が鳴る。
数字の上を駆けていき、分針や時針を追い越していった。
心臓の打つスピードと同時に移動して、てっぺんへと向かっていく。
「くるよ」
雲一つない真っ黒な空に視線を上げて、呟く。
四つの光の種が、大地から夜空へと勢いよく駆けていった。
淡い足跡を残しながら風を追い越して飛んでいく。
高い場所へ昇った光の種は、その輝きを人々に見せるために黒い空にスッと溶けた。
期待と緊張で膨れ上がった感情が、息を吐くことすら忘れさせる。
破裂音が静寂を引き裂いた。
黒く染まった空のキャンバスに大きな花が咲く。
無数の光で作られたその花は、瞬く間に幾つもの色彩を放って闇夜の空に溶けていった。
「綺麗だね」
「だな」
「この花火、生きてる人も見てるんだよね」
光の結晶は途切れることなく夜空に浮かんでいった。
大陸のどこかでは、この景色を一人で、あるいは大切な相手や家族と見ている人がいる。
「そりゃそうだろ。この光も街の景色も、ぜんぶ生きた人間の作ったものだからな」
「不思議だね。死んでも生きていても、この景色が綺麗に見える」
「幽霊になったって、変わらないものもあるからな」
「そうだね」
視線を下げ、目を細めて平屋を見る。
建物の中心に玄関が設置されており、右手には車を二台停めることができるガレージがあった。
左手に取り付けられた四角の窓からは部屋の明かりが漏れていた。
小さな窓枠の中には、親子で暮らす家族の景色が収められている。
テレビでも見ているのか、家族揃って表情を笑顔に変えた。
「これを見ている人たちもいつかは死んで、この船に乗るんだろうな」
顎を上げたままシオンが言った。
薄い吐息に引っ張られて出てきたような静かな声だった。
「また、お前に助けられる人が増える」
「大袈裟だよ。そんな大層なことしてない」
「お前はそういう人間だよな」
シオンが横目で僕を見た。
「誰かを助けることができるのは強さがあるからなんだよ。俺がエリカと付き合うことができたのも、今ここで花火を見ていられるのも、お前の強さのおかげなんだ」
「そんなこと言ったら、シオンだって似たような強さがあるでしょ」
死という概念がまだ曖昧だった中学生の頃の記憶が頭に浮かぶ。
すべてを解った気になりながらも、実際は何一つできることなどなかった頃の記憶だ。
あの時は僕もシオンもまだ子供で現在の自分のことで手一杯だった。
「この関係が始まったのは、シオンが助けてくれたからだよ」
今以上に人見知りだった中学生の僕は、クラスに溶け込むことができずにいた。
休み時間には本を読み、給食の時間は一言も発することなく黙々と食べ続けていた。
他の生徒には見向きもされないほどの無口でひ弱な子供だった。
そんなジメジメとした日常から僕を連れ出してくれたのがシオンだった。
真っ暗な井戸の中に光が差し込むように、僕の前に現れた。
「それなのに、僕は助けることができなかった」
太腿の横に垂れ下がった両腕の先に力を込め、ギュッと拳を握り込む。
シオンが命を絶ってから数日後、エリカから訃報を受けた時も同じような動きをしていただろう。
「今でも心残りなんだ。シオンには生きていて欲しかった。生きて、エリカと幸せになって欲しかった。本当はこんな船、作りたくなかった」
「そう言われると、少しだけ嬉しくなるな」
「え……?」
「だって、俺が幽霊になったからこんなにもたくさんの人が救われたんだろ?」
シオンが右腕を伸ばして人差し指を船の側面に向ける。
そこには、打ち上がる花火に目を輝かせる無数の乗客たちの姿があった。
「今でもエリカとの将来を捨てたのは後悔してるよ。一緒にいて幸せだって思える相手はいくらお金を払っても出会えるもんじゃないからな。それだけ希少で、特別な存在だった」
船に乗っている時点でシオンから恋愛感情が消え失せていることはわかっている。
彼の発言は、あくまで記憶に残っている二人の関係を客観的に見ているだけだ。
そうだと理解していても、エリカを語るシオンになんと返せばいいのか迷ってしまう。
感情は無くなっていても、話す口調や瞳の動きはエリカとの思い出を忘れてはいないからだ。
「でも仮に、本当にこの船ができた要因の一つに俺の死があるとするなら、それはきっと誇りに思うべきことなんだと思う。こんだけたくさんの人を幸せにする手助けができたなら、若い年齢で亡くなったのにも少しくらい意味があったってことだからな」
ニッと笑ったシオンの横顔が、花火の光に照らされて闇の中から姿を見せた。
その笑顔が僕を元気づけるために作られたものでないことはすぐにわかった。
「シオンのおかげで、乗客たちは笑ってるよ」
小声で言って、夜空に視線を向ける。
僕たちの会話は止んだが、未だ花火は打ち上げられていた。