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昔の話

「もうすぐだな」

 

左腕に巻いた腕時計に目を落としてシオンが呟く。


屋上へと続く道には人の影がない。

静まり返った廊下に響くのは、僕たちの足音と話し声だけだ。

 

静寂に気圧されてか、口数は先ほどに比べて明らかに少なくなっていた。


徐々に膨れ上がっていく緊張感に影響されて、心臓の鼓動が早まっていく。

手足が微かに震えているせいで、歩くのにも一苦労だ。

 

行き場を失った視線が正方形の窓ガラスに移る。


透明なガラスの先に映し出された景色には、祭りを満喫する乗客たちの姿があった。

ここからでは船首の様子は見えない。

食べ物やぬいぐるみやヨーヨーなどを抱えた人々が友人たちと笑い合っている。


命がないことが嘘のように、彼らはこの船の生活を満喫していた。


「エリカ、元気にしてっかな」


「どうだろうね。でも、きっとあの子なら幸せに生きてると思う」

 

シオンがふと口にした名前からその人物の容姿を頭に浮かべた。

 

女性にしては髪が短く、スカートは履かないような人だった。

大雑把で適当なせいか友人は男ばかりで、普段は僕やシオンとばかり一緒にいた。

そのくせ提出物の期限は厳守するし、高校を卒業する際には無遅刻無欠席で褒められてもいた。

 

世を渡るのが上手なタイプの人間だ。エリカの周囲は、決まって笑い声で満ちていた。


「だといいけどな」

 

シオンはゆったりとした口調で呟き、静かにため息を吐いた。

 

窓の端っこには、綺麗な円形の月が浮かんでいる。


世界を見下ろしているあの月は、十年前と同じものだ。

十年前と同じように、何も知らない僕たちを反射した光で照らしている。


「むかしにした約束、覚えてる?」


「覚えてるとは思うけど、どの約束なのかは見当もつかない。どれだ?」


「そんなにしたっけ?」


「わからないけど、ずっと一緒にいるんだからすごい量してるんじゃないか?」


「それもそうだね」

 

窓から目線を外してシオンへと向ける。


「三人で祭りに行って花火を見ようって約束」


「あぁ、ちょうど十年前ぐらいのやつか」


「うん」

 

二人の認識している約束が同じものだと知って、安堵と悲しみが同時に襲いかかってきた。


「ごめんな。行けなくなっちゃって」


「いいよ別に。気にしてないから」


「それはそれでちょっと寂しいな」


「寂しかったのは、僕とエリカも同じだよ」


「二人で行かなかったのか?」


「行くわけないよ。彼氏が亡くなったばかりの女性と出かけられるわけない。それにそんな気分でもなかった」


「それもそうだな」

 

他人行儀に言って、頬を上げて白い歯を見せた。


「俺も楽しみだったんだけどな。でも、祭りの日まで待てなかったんだ」

 

シオンが淡々とした口調で話す。


「人は追い込まれると狂っちゃうみたいでさ、俺自身も当時の自分は壊れてたと思う」

 

放たれる言葉がひどく冷たいものに感じられた。


声が鼓膜を揺らすたびに、首筋をスッと撫でられたような悪寒がした。

この薄気味悪さは、きっとシオンの抱えた苦しみや孤独からくるものだ。


「生きてればいいことがあるなんてのは、わかってる。クジが当たって億万長者になる可能性だってあるし、芸能人と劇的な出会いをすることだって否定できない。あの時は辛かった、なんて言える日が来ることだって薄々は気づいてるんだよ」

 

会話が進むと同時に、屋上との距離も縮んでいく。


薄暗く狭いこの道を抜けて階段を登れば目的地に辿り着く。

遅くもなく早すぎるわけでもない、いい時間だ。


「でも、だからこそ辛いんだよ。リレーと同じなんだ。ゴール目掛けて走ってる方が、諦めて離脱するよりも断然大変だし体力も使う」

 

目だけをシオンに向けて、時折首を上下させながら話を聞いた。

予兆に気付かず助けることができなかった僕に、口を挟んで気の利いた言葉を掛けることなどできない。


「お前との会話もエリカとの将来も、全部投げ出して消えたかった。正常な思考をしてるのに正常な判断ができないくらいに壊れてた」

 

シオンは左の手のひらを開いて視線を落とした。


右手を手首にやり、ギュッと握り込む。


顔を顰めて大きくため息を吐いた。


「どうにか生きてりゃよかったなー、なんてしょっちゅう思ってた。お前はどんどんおっさんになっていくし、エリカもまったく知らない人と結婚するし。自分以外が成長していく姿を見てると、やっぱりちょっとだけ寂しくなるし後悔もする。お前と一緒に漫画の話をするものエリカを幸せにするのも、俺がよかった。彷徨ってる間は、ずっとそんなことばっかり考えてた」

 

言い終えたシオンは、しばらくの間口を閉じていた。


「だから、本当に感謝してる。船を作って、俺を乗せてくれて、ありがとう」

 

囁くような声だったが、周囲が静かなおかげではっきりと聞くことができた。


「感謝されるようなことしてないよ」

 

シオンを失った悲しみと、抱えていた苦悩に気がつくことのできなかった自分に対しての苛立ちをエネルギーに船を作った。

褒められるような、ましてや感謝されるようなことなどしていない。


この船は、いわば僕の鈍感さから生まれたものだ。


「お前がいなかったら、今も俺は人に避けられながら夜道を彷徨ってたと思う。エリカのことももっと引きずってただろうし、こうやって祭りに参加することもなかった」

 

返答をしないまま、薄い月明かりが落ちた床に視線を落として歩いた。

 

静寂に包まれながら足を進めた。


僕が言葉を発さずともシオンは何も言わずにいた。

足音が壁を何度も跳ね返って通路の奥へと消えていく。

窓の外に耳を向けると、乗客たちの話し声がうっすらと聞こえてきた。


「着いたよ」

 

ポケットから鍵を取り出して挿入し、重い扉を引く。

軋む音が立ち、螺旋状の階段が視界に飛び込んできた。


この階段を登れば屋上だ。


「行こっか」

 

踏み出した足を階段にかける。

 

狭い空間に、僕の弱々しい足音が響いていった。

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