運命
老人と別れた後、パーティ会場を抜けて外に出た。
潮の匂いが鼻先を掠める。
たくさんの屋台が海に背を向けて一列に並んでいた。
チョコバナナやりんご飴などの食べ物の他、金魚掬いや射的などの屋台もあった。
船の上に祭りを持ってきたみたいだ。
会場内で見たようなスーツ姿の人たちは殆どおらず、代わりに浴衣を着た若い人たちがいる。
パーティ会場が大人たちの遊び場だとすれば、こちらは若者がアミューズメントを楽しむ場所だった。
「人、多いですね」
ユリさんが背筋を伸ばして長々と伸びる人の列を見た。
屋台の周囲はパーティ会場よりも混み合っている。
外の祭りに参加している大半が、高校生から大学生くらいまでの年齢層である。
「ここ数年で若い乗客が増えましたから」
船が港を出てからの数年間は、船の乗客の割合は老人や四十代近く男性が多く、十代の若者の姿を見ることは殆どなかった。
当時は幽霊になった原因のほとんどがバイクでの事故や病気で、自ら命を経ってしまった人は月に一人いるかどうかという程度だった。
「みんな楽しそうですね」
「はい」
乗客たちの笑顔を見ると、時折、生きるとは何かを考える。
彼らの中には、生きることや将来に希望を持つことに疲れて命を経ってしまった人もいる。
きっと、井戸の中にいるような恐怖心や疎外感を覚えながら、行き場を探して真っ暗な世間を彷徨い続けていたはずだ。
そんな彼らが、楽しげに笑っている。
屈託のない笑みを見せて、子供に戻ったみたいに祭りを楽しんでいる。
死後の世界が必ずしもこの船のように愉快なものではないだろう。
針山に囲まれた場所で逃げ惑う人々の絵を見たこともある。
こうしているうちにも、大陸で迷い行き場に困っている幽霊が存在していることも事実だ。
けれど、だからこそ生きているとは何かを考えてしまう。
笑顔の絶えた世界で、生命を維持している意味はあるのか。
生きることに固執して長い道のりを歩む必要性はあるのか。
この船を作り様々な幽霊を乗せてから、生と死の境界線が曖昧になった。
感情を失った幽霊が、ある日を境に笑顔を取り戻す。
生きている間に失ってしまった希望や喜びという感情が修復されていった。
死んだ表情で生きていた人々が、亡くなってからいきいきと生きている。
「ねぇ、あれやりたい」
ユリさんの手を引っ張って、左側に並んだ屋台を指差した。
金魚掬いの屋台だ。透明のガラスケースの中で、金魚たちが元気よく泳ぎ回っている。
ほとんどが赤い金魚だったが、数匹だけデメキンも混じっている。
イチゴちゃんの視線に気がついたのか、店番をしている若い女性が腰を折ってこちらに視線を向けた。
「いらっしゃいませ」
女性が浅く頭を下げる。
イチゴちゃんは水槽の前で足を止めると、金魚を見つめながら屈んだ。
「みんな生きてるの?」
「もちろん」
「そっか。なんか、不思議」
「どうして?」
「どうしてだろう」
イチゴちゃんが胸に手を当てて目を閉じた。
心臓の鼓動を探しているのかもしれない。
「ねぇ、お姉ちゃん。この金魚たちは死んだらどこに行くの?」
目を開いたイチゴちゃんがユリさんを見上げる。
ユリさんは無垢な瞳を見つめたまま、黙って答えを探していた。
「僕たちは死んじゃったけど、こうやって幸せに暮らしてる。お母さんと一緒にいられるし、お話もできるでしょ?」
止まることなく、疑問は続いていく。
「この子たちは、幸せなのかな……」
イチゴちゃんが瞼を上げて、寂しげな視線を金魚たちに向けた。
金魚たちは、口をパクパクとさせて水槽の中を必死に泳ぎ回っている。
数十匹で群れを作って左や右へとヒラヒラと移動した。
「一度やらせてもらってもいいですか?」
ユリさんが女性に言う。
女性は背後を向いてポイを手に取り、ユリさんの前に差し出した。
「はい、イチゴちゃん」
「やらない。可哀想だもん」
「幸せにしたいと思う子、選んで」
ユリさんはそう言うと、膝に手を当て視線を下げてイチゴちゃんを覗き込んだ。
「幸せかどうかわからないなら、イチゴちゃんが幸せにしてあげればいいんだよ」
「僕が?」
「うん。生きていて良かったって思うように、イチゴちゃんが大切に育ててあげるの。そうすれば、きっと死んじゃった後も幸せになれるよ」
ユリさんはポイの持ち手をイチゴちゃんに向けて「私たちみたいにね」と付け加えた。
「わかった」
イチゴちゃんはポイの持ち手をギュッと握り、動き回る金魚を目で追った。
長方形の水槽の中を、数十匹の金魚が泳ぎ回っている。
選ばれたいのかそれとも逃れたいのか、水面に落ちた子供の影の辺りをウロウロとしていた。
「この子にする」
そう言って指を差したのは、水槽の左端だった。
ポンプの側で、金魚の密度は少ない。
そこには水の流れに任せて力なく浮かぶ一匹の金魚がいた。
泳いでいるというよりかは、流れに身を任せて漂っているといった様子だ。
「その子でいいの?」
「うん」
「元気なさそうだよ?」
「いいの。僕が幸せにするから」
「そう」
イチゴちゃんが水面に浮かんだ木製の茶碗を手に取り、左に二歩移動した。
水面に差し込まれたポイがうっすらと色を変えて、弱々しく泳ぐ金魚の影を捉える。
小刻みに震えながら水面へと浮上していき、オレンジ色の身体をそっと紙に乗せた。
金魚は抵抗することもなく、水の外へと出ていった。
「お願いします」
茶碗に金魚を入れて女性に手渡した。
女性は慣れた手つきで金魚袋に入れると、持ち手を引っ張って口を閉じた。
「幸せにしてあげてね」
女性の手からイチゴちゃんへと金魚の入った袋が渡る。
イチゴちゃんは袋に入った生命をじっと観察していた。
金魚はヒレを優雅に動かして口をパクパクとさせている。
人間の顔を近くで見るのは初めてなのか、あちらも僕たちの顔を瞬きさせながら眺めていた。
「元気になった」
屋台を離れて一分も経たない頃に、ユリさんの手を引っ張ってイチゴちゃんが言った。
袋の中の金魚は、先ほどまでの調子が演技だったかのように勢いよく泳ぎ回っていた。
死ぬ前のがむしゃらな動きとは違う。
自由を手にして心地よく泳ぎ回っているみたいだ。
「よかったね、イチゴちゃんに取ってもらえたからかな?」
「だといいな」
元気を取り戻した金魚を見て、イチゴちゃんが頬を緩ませる。
金魚掬いをする前の寂しげな表情は、すっかり消えていた。
「あれ、やりたい」
船の先に到着した頃、イチゴちゃんが人混みを指差してそう言った。
長い人の列の先には、おみくじ売り場があった。
販売窓口が四つあり、店番を務めている女性たちは巫女服を着ている。
「結構並んでるけど、大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
シオンの質問に二つ返事で答えたイチゴちゃんは、握っていたユリさんの手を解いて列の最後尾へと駆けていった。
男女二人組の背後に並んで、金魚を持っていない右腕を大きく上げて手を振っている。
「これ、神様にお願いできるんでしょ?」
僕たちが列に入って足を止めると、イチゴちゃんがおみくじ売り場を指差して訊いた。
毎月、満月の日に行われる祭りでのみ販売されるおみくじだ。
おみくじには短い言葉を添えることが可能な欄があり、そこに書き込んだ願いは神様に届けられると言われている。
祭りの一大イベントの一だ。
「何かお願いしたいことがあるの?」
ユリさんが問うと、イチゴちゃんは小気味よく首を縦に振った。
「これからもずっとお母さんと一緒にいられるように、ってお願いするの」
胸元に垂れ下がったペンダントを右手で摘む。
指先を器用に動かして開くと、親子二人で笑い合う写真が顔を見せた。
イチゴちゃんと、母親だろうか。
背景から二人が生きていた頃に撮った写真であることがわかった。
辺り一面に真っ赤な花が咲いている。
五重塔の屋根のようにいくつもの葉が並び、まっすぐに伸びる一本の茎からたくさんの花びらをつけたこの花の名前はなんと言っただろうか。
「お母さん、大好きなんだね」
「うん。最近のお母さんは特に大好き。笑ってて、幸せそうだから」
イチゴちゃんが胸元で笑う母親に目を向けてうっすらと微笑んだ。
「次だよ」
ユリさんが売り場に指先を向けると、イチゴちゃんの視線は背後に向いた。
果てしなく感じられた人の列は、気がつけば腕の長さくらいまで縮んでいた。
一つ前に並んだ男女二人組が売り子と会話している。
女性の方は若々しい服を身につけていたが、隣に並ぶ男性は黒いスーツにネクタイとパーティ会場で見たような服装をしていた。
十五歳以上は離れているように見える。親子だろうか。
「安泰だって」
「俺もだよ、ほら」
二人はおみくじに目を落としたままそう言うと、列を離れておみくじ掛けのある広場へと足を進めていった。
売り場を正面にして左に曲がったところにある。
願いを書いたおみくじを括り付けて、神様に願いを伝えるための場所だった。
「お願い、します」
イチゴちゃんは子供用の台に乗ると、売り子と目線を合わせた。
数字を選んで、おみくじの場所を指定する。
売り子は柔らかな笑顔を見せて売り場の奥へと姿を消した。
「どうぞ」
しばらくして戻ってきた売り子は、手に持っていたおみくじをイチゴちゃんに差し出しつつそう言った。
おみくじは巻物のように丸められており、真ん中には真っ赤な糸がリボン状に結ばれている。
「ありがとう」
イチゴちゃんが会釈して列を離れる。
空いた場所にユリさんが入り、同じように数字を選択しておみくじを引いた。
ユリさんがイチゴちゃんの跡を追う。その姿に目を向けつつ、僕とシオンも売り場へと向かった。
「どうだった?」
受け取ったおみくじに目を通してシオンに聞いた。
「小吉だった。でも、悪くないみたい」
人間界とは違って、このおみくじには恋愛や縁談、出産などといった項目が存在しない。
幽霊がこの船に乗る条件として、恋愛感情や嫉妬心、集団心理を捨てるといった制約があったからだ。
捨てることを条件に添えた理由は、諍いごとをなくすためだった。
感情を持った生き物は、人に限らず何かを取り合い争いを起こす。
この船に乗っている人たちの中には、そんな生き物の社会に疲弊して命を絶ってしまった過去を持つ人もいた。
恋愛感情の裏側には嫉妬心が存在しており、一人の幸せと引き換えに数人の不幸が生じている。
この船に、争いごとや悩みごとはいらない。
乗客全員が自己を表現して、伸び伸びと暮らすことのできる場所にしたかった。
「僕も。ちょっとした困難はあるみたいだけど、人間関係は概ね良好だって」
シオンの手元を見たまま足を進める。
チラリと横目で前を見ると、イチゴちゃんが何か言いたげな表情をしているのがわかった。
「ねぇ、見て見て」
合流するなり、イチゴちゃんは両手を使っておみくじを開いた。
太い黒枠の中に大吉と書かれている。
学問や健康の項目にはポジティブな言葉が書かれており、失物についても『人もて』と記されていた。
「すごいじゃん」
「でしょ」
シオンに頭を撫でられ、イチゴちゃんは嬉しそうな表情を見せた。
出会った当時の恐怖心や警戒心はなくなっていた。
側から見れば、仲の良い兄弟だろう。
「それじゃあ、願いごと書きましょうか」
「ですね」
ユリさんの一言を聞き、僕たち四人はそれぞれ別の椅子に手を伸ばした。
椅子に腰をかけて、中心に置かれた木製のケースから黒いペンを一本引っ張り出す。
おみくじをひっくり返して、願いを綴るための赤い枠組の中にペン先を当てた。
「何にするんだ?」
隣に座ったシオンが僕の手元を覗き込んで訊いた。
「どうしようかな」
ペン先をじっと見つめたまま思考を巡らせる。
イチゴちゃんのように、パッと願いごとが浮かんでくることはなかった。
「シオンは決まってるの?」
「まあね」
自身ありげに頷いて、横書きでつらつらと願いごとを綴った。
「いつもと同じ。俺は今でも幸せだからな」
こちらに見せるように、おみくじの向きを変えてシオンが言う。
「何事もなく、来月も祭りに参加できますように、か」
「もちろん、お前と一緒に」
無邪気な笑顔から視線を外し、左手の指先を顎の下に当てる。
添えられた一言にどう返事をしていいのかわからない。
逃げるように目を閉じて考え込み、必死になって自分が求めているものの正体を探した。
「……じゃあ僕は」
呟いた後、指先をゆっくりと動かした。
「大切な人たちが幸せでありますように」
書き上げた文章を読み上げる。
横に並んだ文字たちは、大きさも角度もバラバラでお世辞にも綺麗と言えるものではない。
「お前らしい願いだな」
「うん。シオンと同じで、僕ももう十分幸せだからさ」
深い部分まで潜っていき自分と向き合っても、神様にねだってまで手にしたいと思えるものはなかった。
諍いや別れのない場所で、シオンと共に時を過ごすことができる。
これ以上の環境を神様に望むというならば、それこそ欲張りがすぎるだろう。
「それじゃ、結びに行きましょうか」
四人の手元を流し見て、ユリさんが席を立った。
腰を上げて椅子を机の下に滑り込ませ、船首にできた人だかりへとつま先を向けた。
おみくじ掛けまでの距離は短い。
潮風が人々の肌を撫でるように吹き抜けて、夜空を突き刺すように高く伸びる船のマストを揺らした。
おみくじ掛けには、数えきれないほどの願いが掛けられていた。
願いが見えるように結ばれているものもあれば、反対側に折られているものもある。
二枚のおみくじが左端で恋人のように寄り添いあっていた。
「ユリさん、弟さんいたんですね」
おみくじを折るユリさんの手元を見て呟く。
人の願いごとを盗み見たようでいい気はしなかったが、整った字で書かれたその言葉を前に質問を止めることなどできなかった。
「私よりも八歳下なので、今年で二十二です」
「だから面倒見がいいんですね」
背後のイチゴちゃんに視線を向ける。
おみくじがうまく結べないようで、シオンに手伝って貰っていた。
「はい。基本的に私が面倒を見ていたので」
ユリさんが目を細めた。
弟のことを思い出しているようだ。
その横顔から、ユリさんがどれほど弟を愛していたのかがわかった。
「今じゃ私よりも歳上になっちゃっているんですよね。きっと背も越されていて、話しかけられても気がつかないくらい声も低くなっている」
ユリさんは呟きながら細い指をおみくじ掛けの糸に通した。
「本当の願いは弟に会うことなんですけど。でもきっとあったところでお互いにいいことなんてないから、これでいいんですよ」
無駄なシワなど一つもつかないまま、おみくじは綺麗に結ばれた。
『私を忘れて、弟たちが幸せに暮らせますように』
願いごとを書いている間、ユリさんは一体何を考えていたのだろうか。
数分前の光景をふと思い出す。
ユリさんは席に着くなり、悩むことなく筆を走らせていた。
「養子だったんです、私」
「そうなんですか」
「本当の両親が事故で亡くなって、しばらくしてから生前お世話になっていた家族に引き取られました」
どんな表情をしていいのかわからなくなって、おみくじを結ぶ動作を大袈裟に行った。
「貧乏だけどいい家庭でした。両親はほとんど家を空けていたけれど、休みの日は必ずどこかに連れていってもらいましたから。実の子供じゃない私にだって、平等に接してくれました」
目は合わせず、けれど言葉の意味を一つずつ咀嚼してユリさんの話を聞く。
「今なら心からの優しさだってわかるんです。かけてもらった言葉も自然と差し出された愛情も、すべて本物だったということは。でも当時の私は、それを本物だとして素直に受け入れることができなかった。信じたものが偽物で、集めた過去すべてを失うのが怖かったんです」
「……集めた過去すべて」
ユリさんの隣におみくじを括り付けつつ、ポツリと呟く。
声に出してみると、その言葉の意味が手に取るようにわかった。
僕の過去にも、似たような感触のする恐怖が存在している。
本物だと認めるということは、偽物と決めつけて目を背けるといった逃げ道を失うということでもある。
多くの期待や不安を抱えたまま、現実と向き合わなければならない。
自分の予測と現実との間に大きなズレが生じていたとしても、それを受け入れる必要があった。
裏切られる覚悟をしたまま、世界を純粋な目で見ることはこの上なく難しい。
「幽霊になった今でも時々思うんです。あの人たちを信じる強さが私にあったら、少しは変わっていたんじゃないかって」
落ち着いた声で発したが、表情はそれほど悲しそうには見えなかった。
「ごめんなさい。色々と話してしまって」
「いえいえ。その気持ち、よくわかりますよ」
僕も、恋愛で同じような思いをしたことがあります、と続けようとしたが、咄嗟に口元に手を当てて言葉が飛び出していくのを阻んだ。
過去の記憶は、脳と写真の中に留めておこうと決めている。
今更、こんな場所で話す必要はない。
「ひろくん?」
女性の声が降り掛かり、僕たち四人は揃って背後を見る。
名前を呼ぶ雰囲気や声の抑揚から、声の主がイチゴちゃんの母親であることはすぐに理解できた。
「お母さん」
イチゴちゃんは甲高い声を発すると、弾かれたように駆け出して人混みの隙間を抜けていった。
幼い後ろ姿が、安堵の表情を浮かべる母親の元へと向かっていく。
袋の中の金魚は居心地が悪そうに身体を動かして泳いでいた。
二人の距離が縮まっていく。
母親が両腕を広げて、イチゴちゃんを迎え入れる準備をした。
「見てこれ、金魚」
立ち止まるなり、イチゴちゃんは左腕を高く上げて金魚を見せつけた。
「本当。よかったわね」
母親が袋の中を泳ぎ回る金魚に視線を落として、微笑する。
金魚の方も挨拶代わりにくるりと弧を描いて泳いでみせた。
「ユリさんたちがね、一緒にお母さんを探してくれたの」
イチゴちゃんが嬉々として話し、こちらを指差す。
二人は足並みを揃えて歩き、僕たちとの距離を詰めた。
歩く姿を見た周囲の人たちが笑みを浮かべて道を開ける。
イチゴちゃんは細い手をギュッと掴んだまま、母親を見上げていた。
「はじめまして」
ユリさんが会釈をし、それに習うように僕とシオンも頭を下げた。
ゆっくりと近づいてきた二つの影が僕のつま先に当たってピタリと止まる。
背は女性にしては高く、ユリさんよりも大きい。
茶色の小さな皮カバンを肩から下げて、長い髪を背中で結んでいた。
黒いワンピースやその上に羽織られた紺色のカーディガンが、大人びた印象を与えている。
「ひろくんがお世話になりました」
「こちらこそ。船の中とはいえ、連れ回してしまい、すみませんでした」
再びユリさんが頭を下げる。
イチゴちゃんの母親は大袈裟に手を動かして、「そんなことないですよ」と言葉を返した。
「それじゃあ、行こっか」
母親はそう言うと、こくりと頭を下げてイチゴちゃんに耳打ちをした。
「……バイバイ」
もの悲しげに呟いて、手を振った。
大小二つの後ろ姿が人混みの奥へと消えていく。
踵から伸びる背の低い影は落ち着かない様子だ。
活気溢れる喧騒の中に、荒々しい呼吸が潜んでいるのがわかった。
目だけを動かしてそちらを盗み見る。
風が吹き抜けて、長い髪の毛が宙を舞った。
緊張感を孕んだ荒い呼吸はユリさんのものだった。
強く拳を握ってうっすらと開いた口を開閉させている。
今にも駆け出しそうな、そんな雰囲気だ。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでも」
ユリさんははっと息を吸ったあと、我に返った様子で僕と目を合わせて口元を歪めた。
僕を映した瞳が人混みの奥へと流れていった。
無理に作った笑顔が崩れていく。
ユリさんの表情に残ったのは、やはり寂しさだけだった。
「まだ一緒にいたいみたいですよ」
右腕を上げて、人差し指を背中に向ける。
次の瞬間、まるで気持ちを汲み取るかのように、イチゴちゃんが首を回してちらりと背後に目をやった。
「あの」
一歩前に足を踏み出してユリさんが口を開いた。
二つの影がピタリと止まる。
言葉が続くよりも先にイチゴちゃんが振り返った。
「私もそろそろ部屋に戻ろうと思うので」
ユリさんが話しながら、二人との距離を縮めていく。
歩く速度は先ほどよりも随分と速い。
「一緒に帰らない?」
小さな肩にそっと右手を乗せて、膝を折って視線を合わせ訊いた。
「うん」
子供らしい溌剌とした声が、祭りの会場に響いた。