お守り
四つ目のテーブルを超えると、絵や音楽などが販売されている創作ブースに当たった。
外観こそ祭りの屋台と変わらないが、売り出しているものはすべて自作の作品たちだ。
ステージ手前から音楽、写真、漫画と続き、入り口に近づくと絵画のコーナーが並んだ。
店主の年齢層は幅広く、若い女性から白い髭を生やした男の老人までいる。
各々が自身の中で生まれた作品を捻出し、月に一度のこの祭りで披露した。
「やっぱり、子供は少ないね」
壁を横目で見たまま、イチゴちゃんが呟いた。
視線の先には、ピンク色の花びらをつけた植物の絵画がある。
たしか、バーベナという名前の花だ。屋台の奥に立つ女性は、向けられた視線に気がつくと首を少々傾げて薄っすら笑みを浮かべた。
「僕よりもずっとずっと歳上の人ばっかり」
そう言って辺りを見上げるイチゴちゃんの周囲には、頭一つ分やそれ以上に離れた人間ばかりが歩いている。
年齢にはばらつきがあって高校生から髭を生やした高齢の男性までいたが、イチゴちゃんほど若い乗客とは出会うことがなかった。
小さな手を握って歩くユリさんが背後を歩く僕たちに困惑した表情を向けた。
素朴な疑問に対しての返事を探しているみたいだ。
僕自身も言葉を見つけることができず、とっさにシオンの方を見た。
幽霊は身体と命が分離した瞬間から容姿に変化が訪れなくなる。
細胞が新しく入れ替わることはなく、髪の毛や爪が伸びることもない。
何年経っても老いは訪れず、それは成長しないということも意味していた。
「イチゴちゃんは船に乗ってて楽しい?」
肩を叩いて、シオンが陽気に言った。
「……うん」
「どこらへんが楽しいの?」
イチゴちゃんが口を噤んで、視線を床に落とした。
シオンの質問に対しての返答を探しているみたいだ。
「ぜんぶ」
「ぜんぶ?」
「毎日ご飯が食べられるのも、寒くないのも」
細い指を折りながらゆっくりとイチゴちゃんは言う。
言葉の端々に乗った感情が、幼い身体で歩んできた人生の情景を彷彿とさせた。
「それにお母さんと一緒に居られるのも、ぜんぶ」
シオンと目を合わせて、吐息を吐くように言った。
最後の一つは、他と比べて一段と感情が込められているように思えた。
「そっか」
「うん。だから幽霊になれてよかった」
イチゴちゃんの声からは、寂しさや悔いのようなものを感じることはなかった。
何も包み隠さずに前を向いた感情だ。
「俺も一緒だよ。幽霊になってよかったことがたくさんある」
「そうなの?」
「幽霊になれて、というよりかはこの船に乗ってだけどな」
シオンが視線を左に流して僕を見た。
「幽霊になってからこの船に乗るまでの間も辛かったけど、生きてる時はもっと辛かった」
「シオンさんはどうして幽霊になったの?」
「気になる?」
「うん」
「じゃあ特別に教えてあげるよ」
イチゴちゃんが首を上下させる。
シオンは手を引いて足を止め、囁くようにイチゴちゃんに顔を近づけた。
いたずらっぽく笑っている。
僕は、死因を知っていた。
自殺だ。
二十歳の頃に勤めていた仕事場の環境が悪かった。
ある日突然、不満の一つも残さずに命を絶ってしまった。
僕もシオンの彼女も、予兆に気がつくことはできなかった。
線香花火が落ちるように、音を立てることもせずに生きることをやめてしまった。
「そうなの?」
シオンが顔を離すと、イチゴちゃんが目を輝かせて言った。
その反応を見て、真実を話さなかったのだと悟った。
耳元で囁かれた一言のおかげか、イチゴちゃんのシオンに対する警戒心が薄れたことがわかった。
しっかりと目を合わせたまま、シオンの言葉を待っている。
「そうだよ。だからイチゴちゃんとかお母さんが今幸せなのは、俺のおかげでもあるんだ」
「……すごい」
イチゴちゃんが目を輝かせて、無機質だった表情を明るくした。
「おい見ろよ、あの絵」
絵画の屋台が過ぎ去る頃、壁に掛かった一枚の大きな絵を指差してシオンが言った。
「うまいな」
シオンはピタッと足を止めると、屋台の上に手をついた。
椅子に座る一人の男性が、壁に立てかけた杖を手に取って腰を上げる。
彼が絵を描いたのだろうか。
白いタキシードを着た老人で、鼻の下や顎には真っ白な毛が生えていた。
「見てくれて、ありがとうございます」
少しだけ背を丸めて、老人がこちらに近づいてきた。
「あなたが描いたんですか?」
答え合わせをするように、シオンが訪ねた。
老人は屋台の向かい側で足を止めると、穏やかな笑顔を見せて首を縦に動かした。
「昨日、やっと完成したんですよ」
老人がチラと横目で背後の絵を見る。目元に入ったシワが微かに形を変えた。
壁に掛かっているのは、満月が浮かぶ海の景色を描いた絵だった。
水面から顔を出した二匹のイルカが、星で満ちた夜空を見上げている。
水面が静かに波を打ち、逆さまに映った空の景色を揺らしていた。
物静かな印象を受けるが、人の力では到底脅かすことのできない自然の力強さを感じることのできる作品だ。
「この船に乗る前は、絵を描くお仕事をされていたんですか?」
ユリさんが問う。老人は照れた様子で視線を屋台の上に落とした。
「生前は、無名の絵描きでした。価値の付かない絵を何度も描いては、妻にだけ見てもらっていたんです」
「……そうなんですか」
「私や妻からすれば愛の篭った素晴らしい作品なんですけど、世間に認めてもらうには何かが欠けていたみたいです」
老人はもの悲しそうな表情を浮かべて細い指先を見た。
いくらアニメや漫画が好きでシオンの絵を見てきたと言っても、これほどの作品を評価できるような肥えた目を僕は持っていない。
僕からすれば、ここの会場に展示されているすべての作品は、優劣をつけることが不可能な素敵なものように思えた。
テイストの違いこそあれど、作者にしか示すことのできない輝きを放っている作品ばかりだ。
「僕はおじいちゃんの絵、すごく素敵だと思うよ」
老人の描いた絵に釘付けになったまま、イチゴちゃんが呟いた。
背伸びをした状態で屋台に両手を乗せて、バランスを保っている。
「そうかい?」
「うん。イルカは可愛いし、空も綺麗だし、それに静かでとっても落ち着く」
「ありがとうね」
老人が腕を伸ばしてイチゴちゃんの頭をそっと撫でた。
「この船に乗ることができて、本当に良かったです」
「それは良かったです」
老人と目を合わせて笑顔を作る。
「お金も嫉妬もない場所だから、こうやって純粋な目で絵を見てくれる人たちがたくさんいるんです。あの絵画には値札が付けられていませんが、それでもしっかりとした価値がありますから」
「人間の価値観なんて、値札に書かれた数字ひとつで変わりますもんね」
「はい。経済と結びついた芸術を正当に評価するのは簡単なことではありません」
老人が視線を落とした屋台の上には、人々の名前が書かれたメモ用紙があった。筆跡が違うことから、記入したのが一人でないと予測できた。
「今日は、生きていた時には考えられないほどたくさんの感想をいただきました」
老人が骨張った手で用紙を撫でた。
宝物を手に取ったような柔らかな瞳をしている。
きっと絵を見た人々が名前を残していったのだろう。
パーティが始まってからそれほど時間が経過した訳ではなかったが、数十人の名前が書かれていた。
乗船する際につけた名前のため、性別や年齢を予測することはできなかったが、老人の絵に心を打たれた人々がたくさんいるということがわかった。
「批評されるのが嫌なわけじゃないんです。値札がついてなくても好んでもらえることが嬉しいんです」
老人の言葉を聞き、一番反応を示したのはシオンだった。
彼自身も、何度か描いた漫画を祭りに出店したことがあった。
彼の漫画に興味を持った人々が冊子を手に取り、時には続きが気になると残して屋台を去った。
幼い頃からシオンの側を生きていたが、あれほど嬉しそうな表情を見たのは彼に彼女ができた時以来だった。
「まあ妻に見てもらうことができれば、もっと良かったんですけどね」
老人が笑みを浮かべて僕たちを見る。おそらく、老人の妻はこの船には乗っていないようだ。
「僕も、名前書く」
イチゴちゃんがメモ用紙に目を落として言った。
「ありがとね」
老人はタキシードの胸ポケットからボールペンを取り出すと、姿勢を低くしてイチゴちゃんに差し出した。
細い指先から小さな手のひらへと、リレーのバトンのようにペンが渡る。
イチゴちゃんはギュッとペンを握ると、メモ用紙を手前に引き寄せてペン先を当てた。
「君は、何か将来なりたいものがあるのかい?」
老人が、名前を残すため必死に手先を動かしているイチゴちゃんに向けて言った。
「うん。大きくなったら、お医者さんになるの」
「そうか、それは凄いね。でも、どうしてお医者さんなの?」
「病気で苦しんでる人を助けたいの」
イチゴちゃんが腕を止めて、老人を見上げた。
「僕の家が貧乏になったのは、病気でお父さんがいなくなっちゃったからなんだ」
語るイチゴちゃんは、汚れ一つない純粋な瞳をしていた。
人見知りせずに、老人と目を合わせている。
「だから生きてる人が辛い思いをしないために、お医者さんになってたくさん病気を治すの」
イチゴちゃんはそう言うと、笑顔を作って用紙を手に取り、老人へと差し出した。
「君ならきっと、みんなを助ける凄いお医者さんになれるよ」
用紙を受け取り、老人が笑う。
「そうかな」
照れた様子でスカートを指先で摘んだ。
「絶対になれるよ。優しさっていうのは、世界で一番強い薬なんだから」
「……そっか。ありがと」
イチゴちゃんは俯いたまま、密かに表情を変えた。
口角が上がり、目の先にシワができた。
「そんなイチゴちゃんにいいものをあげるよ」
老人がタキシードの内側に手を滑り込ませて、内ポケットの中を探った。
「もしよければ、受け取ってくれないかな?」
そう言って取り出したのはネックレスだった。
銀色のチェーンの先に、薄ピンク色の石がついている。
可愛らしい服装を着たイチゴちゃんにピッタリのものだ。
「なにこれ?」
イチゴちゃんは目の前に差し出されたそれを、不思議そうな目で見ている。
「お守りだよ。どんなことがあっても夢を諦めないお守り」
「どういうこと?」
「それを持っていれば、どんなに辛くて悲しいことがあっても夢を追うことができる」
様々な角度からネックレスを観察しつつ、イチゴちゃんは手を伸ばした。
「だから、お医者さんになりたいって思っている限りはずっと持っていて欲しい。きっとイチゴちゃんの支えになるからね」
「うん。ありがとう」
イチゴちゃんは老人からもらったネックレスを首に掛けて、リズム良く首を上下させた。