5.おもてなし開催
ノックの音で目を覚ます。
カーテンの隙間から漏れる明かりは、ここへ来た時より明るい気がする。
この空間の天井から射すのは薄暗い陰鬱な光とはいえ、一応、昼間と夜間の光の差があるようだ。
テーブルを退かし、いきなり刃物が付きつけられることを想定しつつ、ドアを少しだけ開けて退き、部屋の中から「どうぞ」とドアの外へ声を掛ける。
「お着換えをお持ちいたしました」
昨夜、洗濯籠を持って行った女性のスタッフが、綺麗に折りたたまれた服と下着を手渡してくれた。下着は目立たないように、そのほかの服に挟んでおいてくれている。
それを有難く受け取り、乾いて清潔な服に着替える。
昨夜夕飯を食べずに眠ってしまったため、ここへ来てから紅茶しか口にしていないことを思い出す。
流石にお腹が減った。
あと、トイレに行きたい。
シャワー室の横にあったドアを開けると、そこはリネンが置かれていた。ミニバーの横の扉は酒類が格納されており、窓の横の扉は螺旋階段が上層に続いていた。
この部屋の中にトイレはないのかと、廊下へ出ようとして、思いとどまる。
一度部屋を出てしまうと、戻って来られる気がしないのだ。
仕方なく悪魔に連絡をしようかと、電話機のところまできて、クローゼットがやたら多いことに気付き、壁の端からクローゼットの扉を開く。
昨日戦闘服男が出てきたのとは別のクローゼットの奥の壁に、ドアを発見した。
クローゼットに踏み入りドアを開けてみると、五十メール程先にトイレの便座が見えた。
「まさかのトイレ! 便座遠ッ!」
ふと、トイレの入口のドアを開けたすぐのところにトイレットペーパーがフォルダーに掛かっているのに気付いた。
よく見ると、便座の横には何もない。
「紙の位置が事故ってる」
気付いたからよかったものの、気づかずに用を済ませてトイレットペーパーを探した際に、この距離だったら切なすぎる。
ソゴゥはフォルダーからロールを外して、手に持って便座に向かう。
ドアから便座までを、こんなに離す意味が分からない。
しかも、よく見ると便座が金で出来ている。
何がしたいんだ。
ソゴゥは漸く辿り着いた便座で用を足し、どうせまた使うと、紙を便座のすぐ横に置いておくことにした。
まだ衣服を整えている途中で、トイレのドアがノックされた。
いや、マジか。
「入ってます!」と大きな声で答える。
だが、ノックが止まず、絶叫に近い声で、中にいますよアピールをする。
ちょっと待って、俺カギを閉めてないな。
焦って、服を着て、ドアに向かっている最中で、ドアが開けられた。
ドアから入って来たのは、包丁を持った白い巨人、あのオーグルだった。
「今出るんで、今出るから! 一旦外に出てって!」
トイレから出るようにオーグル伝えるが、右手には包丁、左手はこちらに伸ばされ、背中から生えたような二つの腕は通せんぼするように、広げられどんどんこちらへとやって来る。
頭が天井につきそうなほど巨大なオーグルの体を躱して、トイレのドアへ辿り着ける気がしない。
ソゴゥはオーグルが寄ってくるまま後退して、ついに便座の蓋を閉めてその上によじ登り、突き当りの壁に背を付けて、ガタガタと震えた。
「いったん落ち着こう、な? 一回外に出よう」
オーグルの口から「しょくじ、たべる」という片言の言葉が涎と共に発せられる。
「僕は食事ではないんで! 美味しくないんで!」
ほぼ悲鳴のような主張にも、答えがなくオーグルがにじり寄って来る。
ソゴゥが背後の壁を手で突くと、壁の中央が凹んでスライドした。そこから、まさかの秘密通路が伸びているのを発見し、転がるように通路に逃げ込んだ。
猛ダッシュで、狭い通路を走りに走るが、後方から、包丁が壁を引っ搔く音と巨人の足音が猛然と迫って来る。
あの図体で、足も速いとか。
必要の倍鼓動が鳴り続け、指先が痺れたように震える。
螺旋状の通路をひたすら下り、通路の果てのドアを蹴破るようにして開けて、そして蹈鞴を踏んだ。
目の前には、フロアをぶち抜く滝が壁のように、触れたら手が折れそうな勢いで水を落としていた。
ドアの外には十センチほどの足場があり、それは滝を囲むように、壁をぐるりと巡っていて、滝の反対側にあるドアに続いていた。
壁に引っ付いて、この心もとない足場を伝って向こうのドアに逃げるしかないと、足を踏み出して、体重を乗せた途端、南部せんべいのみみ、もしくはマカロンのピエくらいの脆さで足場が崩れた。出した足を引っ込める間もなくバランスを失い、滝へと体が放り出される。
水に叩きつけられる瞬間、猪のように突進してきた巨人の数ある腕に絡めとられてそのまま滝つぼへと落下した。
紐なしバンジーを経て、滝つぼから何とか上昇し、水面に顔を出し、暗い水路の岸に引き上げられる。
この間、全て巨人の腕の中で身動きが取れずにいた。
現在、通路の壁に背中を付けて、びしょびしょで膝を抱えている。
横には白い巨人が座り、膝を抱え座っている。右手には包丁を持ったままだ。
亡霊だから、触れられても通り抜けるかもしれないと、わずかに期待していたが、どうやら触れるタイプの亡霊らしい。おかげで、滝の水圧にも滝つぼの渦からも、亡者の体がクッションになって助かった。
食料を守るための行動だったのか、単純に助けてくれたのか定かではないが。
「はら、へった、たべる」
ああ、前者だったか。
巨人が包丁を振り上げる。
何もかもが白い。白い体、白い服、白い髪、眼球も虹彩も白く、唇も爪も何もかもが白い。
男の腕の一つとソゴゥは左手を組み、右手で、振り上げらた包丁を持つ手を払う。一撃目をそれで躱したと確信していたにも拘らず、左腕に激痛がはしった。
「ぐあああああああ、クソッ! 痛てぇ!!」
見ると、切り落とされた腕が転がった。
栄養の行き届いていない細長い腕、指の数が明らかに多く、爪が退化している。
男は自分の腕のあった場所を布で巻き付ける。
血の色は白く、何もかもが白と黒で映し出されている。
男の目には世界の色彩が、ソゴゥのそれとは異なって映っていた。
切断されたと思っていた腕は、ソゴゥの腕ではなく男の腕だった。ただし、巨人の腕ではなく、今目の前にいる男こそが、本当の生前の姿だったのだろう。
ソゴゥはカルミアからもらった、左手の人差し指にはめていた指輪の石が発光していることに気付いた。彼女の特殊能力は、触れた者の記憶を見ること。
そこはソゴゥ達が落ちてきた水路ではなく、瓦礫に覆われた戦後の亡国だった。
男は切り落とした腕を、彼が調理場としている場所で細かく、骨ごと砕いて、色々な草と混ぜ合わせ、形成して火を通す。
その間も、腕の在った場所が崩れ落ちそうなほどに痛むのだが、男はそれに頓着せずに作業を続けている。やがて、調理し終わった自分の腕を、子猫のように身を寄せ合った子供たちのもとに運んでいる。
子供たちはそれが男の腕とは知らず、美味しいと言いて笑う。
男も笑った。
男には、細く動かない腕が多くあった。
腕は二つあればいい、いや、一つあれば子供たちに食料を取って来られる。
彼の考えが、自分の記憶のように流れてくる。
食料を見つけ遠くまで行く。動物も人間も、死体であれば持ち帰り、調理して、自分たちで食料を探せない子供に分け与える。
男は知っていた。人間を食べることの罪を、そうと知らずに子供たちに分け与えていることの罪を。ただ、飢えという苦しみから、子供たちをひと時でも解放してあげたかった。
男は何時も泣いていた。
胸が締め付けられる。
誰も、飢えることがないように。すべての腕を、他人へと差し出していた。
今まさに、目の前で巨人の男が自分自身の腕を切り落として、客に振舞おうとするかのように。
「やめろ!」
ソゴゥは、巨人の腕を押さえる。
「大丈夫だ、俺はお腹が減っていない。本当だ」
大きな体、ふくよかな腕。これらは、男の願望による姿だ。
少しでも大きく肉付きが良ければ、与えられる食料が増えると。
気が付くと、巨人にしがみ付いて泣いていた。
ソゴゥは、服のポケットに入れっぱなしにしていたドライフルーツを取り出し、巨人に手渡す。
「ほら、これは滋養があるから、少ない量でも体がもつんだ。一緒に食べよう」
ソゴゥがヴィントからもらったフルーツをまずは自分が食べてみせる。
オーグルは戸惑いながらも、フルーツを口に含む。
「ありがとう」
「はは、よかった。もう自分を差し出さないでくれよ」
ソゴゥは念押しし、男が置いた包丁を座ったまま足で遠くへ蹴やる。
やがて、びしょびしょの体が冷えてきて、いよいよここを脱出しないとマズイと感じ始めたころ、水路の奥から明かりが近づいてきた。
見ると、悪魔がカンテラを持ってやってくる。
字面だけ見ると絶望的な状況だが、ここでは希望の光だった。
「おやおや、ソゴゥ様、こんなところに立ち入られては困ります。夕食どころか、朝食の席にまで着かれずにお腹がすかれたことでしょう、さあ、お部屋へ戻りましょう」
腰の抜けたソゴゥをオーグルが背負い、部屋まで運んでくれた。
オーグルは悪魔を一瞥し、部屋を去っていく。
「彼はもういいみたいですね」
「ああ、十分過ぎるもてなしだったよ。短時間でホラーとアドベンチャーを満喫できた」
「そうですか、では、今度はジキタリスをお呼びしましょう」
「それはちょっと待ってくれるかな、またびしょ濡れだし、シャワーを浴びたいんだ」
「分かりました」
「それと、着替えあるかな? できれば下着も」
「ええ、では脱衣所に用意しておきましょう、どうぞ温まって来てください」
ソゴゥはありがたくシャワー室へ行き、シャワーを浴びる。
昨日に引き続き、いい加減風邪をひいてもおかしくない。
ソゴゥはシャワーヘッドに背を向けて、シャワーを浴びるスタイルだ。そうすると、目線はドアの方に向いているため、すりガラスの向こうで人が動いている影が映っているのが見える。
先ほどのオーグルのようにトイレに突然、ジキタリスが突進してきたらと思い、ドアに背を向けておいた方がいいのかと、シャワーヘッドに向き直るが、そうすると今度は背後からサスペンスドラマのように刺されたりしないか心配になる。
そもそも、ソゴゥがシャワーに背を向けてドア側を見ながら、シャワーを浴びるようになったのはドラマやホラー映画の影響と、兄達の悪戯回避に因るものだ。
とりあえず、急いでシャワーを済ませ、人影のなくなった脱衣所で、悪魔が用意してくれた服に着替える。
ソゴゥが着てきた司書服よりもだいぶ防御力が低そうな、ペラペラで肌触りの良い白いシャツに、黒いパンツ、下着はあるが靴下はない。
部屋で紅茶を入れてくれている悪魔が、ソゴゥに椅子をすすめる。
「ソゴゥ様の服は、オーナーのところのスタッフがクリーニングした後、お返しするとのことでした」
一口飲むが、昨日オーナーに入れてもらった紅茶の方が美味しかった。
パンにハムやレタスが挟まった軽食が用意されており、それを口にする。
「ジキタリスが来るまでの間、上の書斎で時間を潰されてはいかがでしょうか? そちらの窓の横のドアに階段がございます」
ソゴゥは食事を終えると、悪魔の提案の通り上の階に行ってみることにした。
螺旋階段を上った先は壁全体が書架となった書斎で、その中央にソファーがある。ソゴゥは新聞らしきものや、雑誌の様なものを見つけて、それらをサイドテーブルに置いて、目を通していく。
ここに来る前、イグドラシルで極東について書かれた図書にはあらかた目を通しておいたが、この新聞や雑誌は、この国の生々しい生活や情報が伝わってくる内容だった。
誰かの感想や視点で書かれた読み物と違い、戦前の政策や法案の状況、また当時起こった様々な事件などについての情報が伝えられている。
雑誌の情報には、根拠が希薄な分、誇張が多く情報としては価値の低いものと分かる。
前世でも、そういう物があったようだが、ソゴゥには興味がなかったためあまり触れてこなかった。
ふと、周囲にいい香りが立ち込める。母がたまに思い出したように始める、アロマオイルを熱したときに漂うような、ハーブの香りだ。
顔を上げると、螺旋階段の通路口にジキタリスと紹介された女性が立っていた。
「私の庭へご案内いしますわ」
ソゴゥは雑誌を閉じ、女性のもとへ近寄る。
「庭ですか?」
「ええ、付いて来てください。それとも迷子にならないよう、手を繋ぎましょうか?」
冗談ともつかない様子で、ジキタリスが黒い手袋の手を差し出す。
「いえ、大丈夫です、見失わないようについて行きますから」
「あら、遠慮しないで、大丈夫、ちゃんと触れることが出来ますのよ」
ジキタリスの指が、ソゴゥの頬に触れる。
ここにいる亡者が触れるタイプのやつだということは、もう知っている。
ソゴゥは彼女の手に自分の手を重ね、自分の唇のところまで持っていきキスをする。
こうすると、相手はそれ以上揶揄ってこないか、あるいは逃げることを経験則から知っている。だが、ジキタリスはソゴゥの思惑に反し、そのままソゴゥの胸に凭れ掛かって来る。ただし、その顔は馬の骨のマスクに覆われていて大変不気味だ。
「ここで、こうしていてもいいのだけれど、私の育てた花たちを貴方にもぜひ見てもらいたいわ」
「お供しましょう」
「うふふ、こっちよ、もう少し私に近寄って」
白く長い絹糸の様な髪を翻し、ジキタリスは書架の中から、一冊の本を傾ける。
書架が回転し、壁の反対側へと回転扉に押し出された先が、建物二階部分の高さの外、つまり今は床も何もない空中に放り出され、落下している。
ああ、これまた水没パターンだ。
既に諦観するソゴゥの落下先に、来るときに見た池がある。
池に落ちたのはソゴゥ一人で、ジキタリスは浮遊しながら地面へゆっくりと降りてくる。
池から上がったソゴゥはジキタリスの肩を掴んで、反対側を向かせる。
「ちょっと失礼」
彼女が向こうを向いている間に、シャツを脱いで、力の限り絞ってから羽織る。
もはや、文句を言うという選択肢を放棄し、毒の魔女という罪名を持った彼女が手招きする方へついて行く。
公園の様な庭の通路を、建物を回り込んで裏側へと進んでいく。奥の庭には植木の迷路があり、その下を潜る煉瓦のトンネルの道を行く。トンネル内は暗く、トンネルの端から射す光だけが光源となっている。
トンネルを抜けると、見渡す限り咲き誇る花が大地を赤紫色に染めていた。
「どうです、見事でしょう? もっと近くで見てください」
ジキタリスがソゴゥの手を取って、花の中へと誘う。
「これだけ、見事に咲かせられるのは、きっと私だけですわ。このお花はとても、魔力を欲しがるのです。水や光、温度、そういった管理はそれほど大変ではないの。それこそ雑草のように、どんな環境でも大丈夫、でも魔力を同時に与えてあげないと、こうまでは育たないのですよ」
ソゴゥは屈んで、足元の花を観察する。
いつもなら、ガイドと呼ばれるイグドラシルの蔵書を閲覧できる魔法書で、花の名前を調べたりするところだが、そうするまでもなく、ソゴゥはこの花が何かを知っていた。
この世界で最も危険な植物の一つである、夢幻花だ。
名前は儚く美しいイメージだが、毒性は強く、葉や茎や根っこ、それに花や実と手折った時に滲み出る汁、それら全てにそれぞれ種類の違う毒を含んでいる。
経口摂取すれば、痙攣や、嘔吐、精神障害を引き起こすが、乾燥させてから、火であぶり臭気を取り込むことで動悸、麻痺、発汗作用の他に、覚醒や興奮作用があり、精製されて麻薬として利用される。
茎から染み出る汁は、少量でも目に入れば失明し、皮膚につけば焼け爛れる。
夢幻花の群生地を通る小動物が命を落とすことから、「小動物の墓」という別名もある。
ジキタリスは、険しい顔をしているソゴゥの前にしゃがんで、覗き込むように小首を傾げる。
「その様子だと、これが何の花か知っているのね?」
「夢幻花ですね」
「そう、そんな素敵な名前なのね。みんなこれのせいで、痛かったのに、苦しかったのに、これのせいでみんな死んじゃったのに・・・・・・」
「ジキタリス!」
ふらついて倒れ込んできたと思い受け止めた彼女の体は、そのまま意思を持って圧し掛かってきた。夢幻花を下敷きに、ソゴゥは仰向けに倒れ込む。
目の前には馬の骨と、白い空が見える。
地面に縫いとめられた態勢を何とかしようと藻掻くが、まるで振りほどけない。
「うふふふ、動かないで、動いては駄目よ、貴方の顔が、草の汁で焼けてしまう。ただ、香りを楽しんで、ずっと眠って、目を覚まさないで、怖い現実へと戻って来ないで、きっとその方が幸せだから。ほら、息を、もっと吸い込んで」
頭を押さえつけてくる彼女の手首を掴む。
目が回る。
耳元で、パチパチと何かが爆ぜる音がする。
視界が一気に赤に染まる。
赤い炎が、一面の夢幻花を焼き払う。
これでもう、花を育てなくて済む。そう思っていた。
自分がいた薬花工場が全てだと思っていた。ここさえ焼け落ちてしまえば、この悪夢は終わるのだと。だが、結局私たちは、別の畑へと送られただけだった。
そこは、元居た畑よりももっと劣悪な環境だった。
私達は、花へ魔力を送り、防具もなく花の摘み取り作業を強いられた。私達の手足は焼け爛れ、藁の敷かれた狭い小屋で、痛みでまともに眠ることもできず、朝が来れば、また薬花の収穫に駆り出された。
それでもまだ、魔力の多い私は、優遇されていた。眠るところも、食事も他の子供たちより、ずっと良かった。私は自分の食事を持って、他の小屋へ行った。
前にいた畑でずっと一緒だった、友人のところへ。
彼は何処からか連れてきた、花の世話をすることのできないほど幼い子供を、小屋の隅に隠して匿い、ただでさえ少ない食事を分け与えていた。
その子は、黄色い瞳をしていた。澄んだ綺麗な目だった。
ただ、右側は窪みだけがあり、あるべき場所に目がなかった。その代わり、頬骨の下に目があって、その目には二つの黄色い瞳があった。
変わっているけど、綺麗だと、宝物を自慢するように彼は、その子を見せてくれた。
私も、綺麗だと思った、そして哀しいとも。
ここへ連れてこられる子供には、彼女の様な残酷な痕がある子供が多かった。手足が本来あるべき場所になかったり、首が二つある者もいた。
ここを仕切る大人たちと私だけが、本来の形を備えていた。いや、私もまた彼らとは違っていた。おそらく私は・・・・・・。
ここは、前の薬花工場よりもっと荒んでいた。大人たちは、乾燥した薬花を吸って、狂ったような声を上げ、暴力を振るい、子供たちの命を奪った。
壊れた道具を始末するように、命が失われていく。
ここも燃やしてしまおう。
大人たちが寝入った後、子供たちだけを逃がす計画を立てる。
友人は賛成してくれた。幼い彼女の存在がいつばれてもおかしくないと、早々にここを抜け出したがっていたのだ。
前は、畑が燃えても、塀の外まで逃れることが出来ず、ここへ連れてこられてしまったが、今度は、監視塔や住居ごと燃やすつもりでいた。
大人たちの武器は怖かったが、私は炎の魔法は得意だった。生木や岩ですら、消し炭にできるほどの力を、大人たちが知らないのは僥倖だ。私が魔術を使えると、彼らは知らないのだ。
決行の夜、畑や工場を燃やし、大人たちの住居と見張り塔を燃やし、あらかじめ開けておいた塀の穴を子供たちは目指し、友人もまた幼子を背負って走った。
そこを抜ければ、この軛からやっと逃れられる。
あちこちで上がる怒声、子供たちを奴隷と呼び、奴隷を逃がすなと叫んでいる。
燃えてしまえばいい。追ってこられないように、炎の壁を張り巡らせる。
永遠と思えるほど、長い間、彼らの声が全て止むまで、火は燃え続けた。
朝が来て、周囲が明るくなってきた頃、やっとそこが、何者も存在しないただの黒い焼野原となっていることに気づいた、
力尽きて倒れ、少しの間気を失って、そしてすぐに逃げた子供たちの様子を確認するために立ち上がった。
そして塀の内側に見つけた。
折り重なるように倒れた子供たちを。
どうして?
絶望と共に、その問いが体中を駆け巡る。
どの子にも外傷も、火傷もない。
ただ、皆眠るようにこと切れていた。
そして友人を見つけた。泣きながら近寄ると、その胸で眠る幼子が生きていることに気付いた。彼女の口元は布で覆われていた。
もともとは、右目を隠すために覆っていた布が、口元にずれて、そして薬花の焼けた煙を吸い込まずにすんでいたのだと気づく。
この工場には、大量の乾燥した薬花が保管されていた。
その焼けた煙が、この土地を覆い尽くして広がったのだ。
大人の体なら、あるいは少量なら助かったのかもしれない。
どう言い訳をしても私が、皆を殺してしまった事実は変わらない。
私の手を握り返してくる小さな手。
私は、やっと自分の足で立てるくらいの幼いその子を連れて、二人、塀の外へ出た。
せめて、この子だけでも守らないと。
「ごめんなさい、冗談のつもりだったのよ、そんなに怖かったの? まさか泣かせてしまうなんて」
視界が戻る。
水膜が張ったように、馬の骨がぼやけて見える。
「泣いていません」
「いえ、だって、その、直ぐ退くわね」
ジキタリスに手を引かれて、起き上がる。
「ここの花に、毒性はないわよ」
「知っています。花弁に斑点があったので、変質していることは分かっていました」
「あら、だったら何故泣いているの?」
「泣いていません」
腕で目元を隠し、説得力のない声で答える。
ジキタリスの方から、笑っている気配がした。
「ねえ、見ていて」
ジキタリスが手を打ち鳴らすと、赤紫色の花びらが一斉にオレンジ色に変化した。
「供給する魔力の質で、色が変化するのよ。機嫌を直してもらえたかしら?」
ソゴゥは頷き、やっと落ち着いたように息を吐いた。
カルミアにもらった指輪から光が引いて行くのをみて、ソゴゥは思った。
あと、五人。
ジキタリスに手を引かれて部屋に戻ると、ソゴゥの司書服が届いていた。
ソゴゥは本日二回目のシャワーを浴びて、服を着替えソファーに寝っ転がる。
今日はもういいんじゃないかと、勝手におもてなし受付を終了する。
ちょっと休憩してから、後は明日にしてもらうよう悪魔に電話しようと考えていると、クローゼットの扉が弾け飛ぶ勢いて開いた。
扉から「虐殺」が出てきた時には、ソゴゥは既にソファーの裏に身を隠していた。
「おい、お客様よ、次は俺の番だ」
恐る恐るソファーの後ろから顔を出す。
特に恐れていたのは「食人鬼」と「虐殺」、そして「爆弾魔」だ。
どちらにしろ、まともな扱いを受けるとは思えない。すでに、食人鬼のおもてなしは受けたが、残りの二人を飛ばすことは出来ないのだろうか。
虐殺は問答無用で襲い掛かってきそうであるし、爆弾魔は赤と青の二択を迫ってきそうだ。
「あー、はい、よろしくお願いします。というか、ここでお茶を飲みながらお話でもどうですか?」
ダメもとで提案してみる。
「死にたいのか?」
「いえ、滅相もない」
「だったら、四の五の言わず付いてこい」
ソゴゥは誰が見ても分かるくらい落ち込んだ様子で、血まみれ戦闘服の男、「虐殺」ことオレグの後をついて行く。男は、自分が名付けた樹精獣の一頭と同じ名前だった。
あの可愛いトラ模様のモフモフ、口元は白くてほわほわのオレグとは大違いだ。
部屋を出て廊下を進み、ひと際豪華な通路に入る。
天上からはいくつものシャンデリアが下がり、靴が沈むほど毛足の長い絨毯が敷かれ、謎の偉人達の肖像画が両側の壁に飾られているその前を通る。人間の国の皇帝のようだが、皆血塗られた歴史を築き、煉獄に堕ちた者のような陰鬱な表情をしている。
通過するたびに、目だけこちらを追うように動くのが怖い。
通路の奥に、重厚な両開きの扉があり、オレグはそれを片側だけ開いてソゴゥに続くように言い、中へと入っていく。
「うーわー」
え? これから戦争を始めるの?
広い正方形の部屋の壁という壁、さらに部屋の中央にある大きなテーブルの上に、所狭しと置かれているのは武器だ。
ありとあらゆる武器、驚いたことに銃まである。
片手で持てる物から、ライフルや、ショットガン、ロケットランチャーのような物もある。
ソゴゥは生まれて初めて、映像以外で銃という物を目にした。
銃把を握り、薬室を確認する。
そこに金属の弾丸はなく、また、よく見れば引き鉄の位置に、魔石が填め込まれている。
「お前の獲物は、それでいいのか? 魔力がないと、扱えないが」
ソゴゥは銃を置く。
「これは、何を射出する武器なんです?」
「そんなことも知らずに手にしたのか」
「珍しかったもので」
「そうか、お前はエルフの国から来たんだったな、エルフのように魔力量の多い者には必要が無い物かもな、っていうか、お前エルフなのか?」
「見ての通りですが」
「いや、エルフに見えないから聞いたんだが、まあいい、早いところ、獲物を決めろ。でないと、そろそろあいつらが来るぞ」
「あいつらって?」
「地獄の亡者だよ、地獄に引きずり込もうと現れやがる」
「それって、君のお客さんだよね」
「俺と居れば、必然的に巻き込まれる」
「マジか」
「何せ俺は、同胞を狩り続けた前例のない大量殺人鬼として、大層な人気者だからな」
ソゴゥは重厚なドア付近から、重苦しい気配を感じ、手近にあった武器を身に付けられるだけ身に着けて、後方に下がった。
「来るぞ」
オレグの声と共に、ドアが開かれ、黒い人の塊がなだれ込んでくる。
亡者対亡者だが、オレグがまだ人間に見えるのに対し、向かってくる亡者は怨霊となり果て、化け物じみている。人や、生物だったものというより、現象に近い印象だ。
オレグの動きは、まさに電光石火で、黒い塊を次々と切り崩していき、化け物がソゴゥに到達することはない。
「こいつらは、倒しても、倒しても、湧いて出やがる。俺を殺したいのか、それとも殺すこという行為が、こいつらの根幹なのか」
お互いに体力度外視で戦っているため、勢いが衰えることもない。
むしろ、ソゴゥという不確定要素を背後にして戦うオレグの方が、不利なのではと思えるほどで、ソゴゥは出来る限り空気に徹した。
余計な事をして足を引っ張るのはごめんだ。
ソゴゥは口が開いていてもおかしくないほどボーっとして、背後の壁と一体化していた。
そこに、黒い塊が、百足のように連なってオレグの頭を飛び越えて、こちらへ一直線に向かってきた。
怨霊に自分の存在を認識されていたことに驚きながらも、ソゴゥは横に飛び、百足の胴体に戦輪を投げつけた。百足の胴体にでも刺されば儲けものだと思って投げたが、思いのほか威力が強く、輪は百足の胴体を切り裂いて部屋を半周して壁に突き刺さった。
最初は人型をしていた怨霊は、今では多種多様な魔獣の形態をとり、戦闘が激化していく。
どうやら静観が無理そうなため、ソゴゥは剣や槍、ナイフや戦輪の投擲で応戦していた。
やがて、部屋を暗闇に変えてしまうほどひしめいていた怨霊も、その数を減らしていった。オレグと違い、しっかり消耗しているソゴゥは、もう何時間こうしているのかと、朦朧としながら反射神経で戦い、やがて床に座り込んだ。
「おい、大丈夫か」とオレグがソゴゥの肩を揺する。
「いや、もうマジ勘弁」
オレグの腕を掴み、肩から引き剥がす。
「震えてんじゃねえよ」
鉄の匂い、向かい合わせに座る兵士。巨大飛行竜の振動を感じる。
着陸と同時に戦闘を開始できるように、ライフルを肩に置き斜めに起こしたまま仮眠をとる。隣の奴の貧乏ゆすりを蹴って止める。
「震えてねえよ」
もはや、何処の国も撤退し、戦闘を終了させているというのに、何故ここへ来てまた兵士が派遣されたのか、末端の自分はその理由を知らない。
理由を問うことは、軍規違反となる。
主要都市部のみならず、この島は押しなべて焼け野原となり、瓦礫が敷き詰められた灰色の土地があるだけだ。そんなところへ今更何をしに行くというのか。
あらゆる禁止兵器が使用され、海も土地も汚染されている。
飛行竜が着陸し、灰色の空の下兵士たちが武器を構えて降り立つ。その横で、一緒に運ばれてきた檻が、地面に打ち付けられる。
「あれは何だ? 魔獣を連れてきたのか?」
「廃棄物だ、国に捨てるわけにもいかないんで、この島に戻しているんだ」
「どういう事だ?」
「化学班が使った試料だ。焼却廃棄ですら残留物がどう国内に影響するか分からないから、この土地に戻して廃棄することが決定された」
名前も分からない同胞の男が、こちらを見て笑う。
「楽な仕事だ、檻から放った後、撃ち殺すだけだ」
檻の中には、何か生物がうごめいているのが分かる。それを、兵士たちが取り囲み、武器を構えている。
その輪に加わり、そして目を疑う。
それは、どう見ても人間だったからだ。
「おい、あれはこの国の人間だろ」
「捕まえて、祖国に持ち帰り、人体実験をされたんだ。多少は軍事訓練となるんじゃないのか? まあ、見たところ子供ばかりだ、虐殺になってしまうかもな」
男が平然と言う。
これが、戦争か? これは人がすることか?
男の顔を見て、その目を覗き込む。
何の疑問も持っていない顔だ。
他の兵士たちを見る。誰一人、檻の中の子供から顔を背ける者はない。
「なあ、お前」
隣の男に問う。
「お前は、人間を辞めたのか?」
「なんだ、さっきから、お前志願して来たんじゃないのか?」
「志願?」
「ああ、狩猟だ。それも人間狩り、普通ならできない娯楽だろう?」
「そうか、ここに居る奴らは、そんなのばかりか」
気付いたら、隣の男を撃っていた。
驚きを顔に張り付かせ、一瞬でこと切れていた。そこからは、激しい戦闘が始まった。俺対そこにいる兵士たち全てだ。
不意打ちだったこともあり、生じた混乱を味方につけ、同胞を皆殺しにした。
檻の子供たちに兵士たちの服や武器、それと食料と水を分け与えて逃がした。
いいことをしているとは思わない。ただ、こうしないと同胞が、これ以上人でなしになる前に、俺一人が人でなしであればいいと思った。
そこからは、虐殺の日々だった。
次々と飛来する飛行竜に、仲間のふりをして近づいていき、同胞から檻の子供たちを逃がす。
何の疑いもなく、やって来る仲間だった者達は、自分たちは狩る側だと信じ、狩られることを一切疑っていなかった。
中には、まともな者もいたのかもしれない。
だが俺は、この地に来る者を全て問答無用で殺していった。
俺はどこかで、狂っていたのかもしれない。
多分、あの檻にいるのが、人間だと知った時に。
ある時、飛行竜で運ばれてきた檻に赤子がいた。
こんな小さな命にまで、祖国の毒牙が及んでいることに絶望した。
赤子の顔には、黄色の瞳が三つあった。左に一つ、右の頬に二つ。
ああ、この子はきっと助からない。こんな小さな赤子がどうやって生きていくことが出来るだろう。
同胞たちの死体の山の中で、俺は知識として知っていた魔法陣を血の海となった大地に刻み、膝をついて祈った。悪魔にだ。
赤い光が大地に奔り、真っ黒な悪魔が姿を見せたときは嬉しかった。
「ここに転がるクソどもの魂と、俺の魂を付けてやる、この赤子の命を守れ」
既にボロボロで、もう戦うこともできない身体を持て余していた。
最期ぐらい、何かの役に立ちたいと願った。
悪魔がその条件を飲んだのを最後に、意識が遠のいた。
俺がこの世界で最後に見たのは、悪魔の赤い瞳だった。
「いや、本当に大丈夫かよ」
「大丈夫なわけないだろ!」
「なんでいきなりキレてんだ、もう今日の襲撃は終わった。お前のおかげで、今日は早く済んだ、部屋に帰ってもいいぞ」
「部屋まで送り届けろや! おもてなしは、お客様を部屋に無事届けるまでだ」
疲れただけで、腰が抜けていたわけではないのだが、オレグにファイアーマンズキャリーで部屋に運ばれた。
「おや、どうかなさったのですか?」
「疲れたんだろ」
部屋にいた悪魔にオレグが言い、ソファーにソゴゥを下す。
棚の上にいた魔獣を見つけ、オレグは魔獣をひと撫でして部屋を出ていく。
「もう今日のところは、終了で良くない?」
悪魔が、ソゴゥが寝そべるソファーの前に丸テーブルを移動させてきて、紅茶とお菓子を運んで来る。
「実はもう、サハルさんが来られて、おもてなしの準備をされておりますよ」
「え?」
爆音と共に床が抜けて、ソファーごとワンフロア分を落下した。
着地の衝撃で、背中を強打して息が詰まる。
見上げると、ソファーの大きさ分崩れて空いた穴から、悪魔がこちらを見下ろしていた。
衝撃で声が出せず、ただ見上げていると、上の階から、お茶とお菓子が乗った丸テーブルがゆっくりと降りてくる。
悪魔が魔法で下したテーブルの向こうに、クマの被り物を被った幼い少女が、椅子に腰かけていた。
「どうです、驚かれましたかな」
(声が出ない)
「あれ、どうされました?」
ヒューヒューと、喉から掠れた音を発てるだけのソゴゥを不思議そうに見て、サハルが首を傾げる。
悪魔が上から降りてきて、ソゴゥの顔を覗き込む。
「声が出ないようですね」
ソゴゥの背中に治癒魔法をあて、萎縮した筋肉と神経がもとに戻る。
深呼吸を繰り返してから、ソゴゥは向かいのクマ頭少女に言う。
「もう二度としないで」
「え?」
「生身の人間が、受け身を取らず、ワンフロア落下したら死ぬから。もう二度としないで」
「こりゃあどうも済みませんねえ、亡霊となって長いものですから、うっかりしとりましたわ。おもてなしと言われて、それならサプライズがいいと思いましてね、張り切り過ぎたようですわい、ガハハハ」
ソゴゥは悪魔を睨みつける。
ストレスが限界に近かった。
男ばかりの末っ子で、兄達には体格や力で劣るため、腹が立つことをされても我慢してやり過ごす事が多いが、だからと言ってやり返さないわけではない。大概は、飛び掛かって相手の頭に噛みつく。兄弟の喧嘩で、髪を掴むのと噛みつきは反則とされていたが、ソゴゥは容赦なく噛む。
ソゴゥが最高潮にイライラしているときは、尖った犬歯を見せ始めるので、兄達のちょっかいはそこで止む。
ソゴゥは犬歯を見せ、悪魔を見つめる。
何故か悪魔は両手を上げている。勘のいい奴だ。
「俺の魔法ロックを解除しろ」
「それをしたら、皆さんのおもてなしの醍醐味がなくなるではありませんか。もう少しお付き合いください」
「いやだ」
「分かりました、では明日、必ず戻しますので、今日のところはこのままでお願いします」
「本当だな、約束を破るなよ」
「ええ、私は、約束は守りますよ。必ず」
ソゴゥは悪魔を一瞥し、クマ頭の少女に向き直った。
「いやあ、私の発破解体の腕を見ていただきたくてね、寸分の狂いもなく建物を倒壊させるのが得意なんですわ、まあ、晩年は爆弾魔などと呼ばれて、指名手配されとりましたがね、ガハハハ」
完全におっさん。おっさんが入っている。晩年とか言っているし。
体は少女だが、あの被り物を外した際、恐ろしい光景を目にすることになるかもしれない。
ソゴゥは青くなりながら、クマの目の奥を疑心に満ち満ちた目で覗き込む。
「それにしても、脱いでも、脱いでも、何故かこのクマの被り物を被っているんですわ。視界も悪いし、頭も重いしで、なんでしょうな? はあ、かなわん」
爆弾魔ことサハルがクマの被り物を取ろうと、両手を首周辺の被り物の縁を掴んで持ち上げようとするのを、ソゴゥは身を乗り出してサハルの腕を掴み止める。
「いやいやいや、それは被っておいた方がいいですって!」
カルミアの指輪の嵌った手でサハルに触れ、視界が一気に変わる。
よれよれの役人服を着た男が、地図上に危険個所に印を付け、上司と思しき者に熱く報告をしている。
「首都圏だけでも百二十の建物と十六か所の橋、これらは築年数と耐久年数、補修工事の有無から計算し、いつ倒壊してもおかしくない状態だとわかっています。そのうち、倒壊した際の影響度が高いものが六十か所、近隣に民家や、人が集まる場所があり、早急に手を打たないと危険です。こんなものを放置していてはなりません」
「そうは言っても、予算が出んよ、国は戦争にしか金を出さん。注意喚起が関の山だな」
「地雷を放置しているようなものですよ、橋があれば、いくら通行禁止札を立てても人は渡ってしまうものです」
「そんなのは、自業自得だろう。とにかく、予算はない。ここの部署だって、いつ全員前線に送られるか分からないんだ、目立つことはしてくれるな」
「しかし」
話途中で席を立つ上司を、男は呆然と見送る。
何か方法はないか、人が立ち入ることを恐れるような、それこそ地雷や不発弾があると偽看板を出して、人を遠ざけるか。
娘の体調が良くないという連絡があった。
とりあえず、今日は家に早めに帰り、明日また対策を考えよう。
橋は渡るな、高架橋も駄目だ。戦争が始まってから、それらは一度も補修も撤去もされず、老朽化が進んだまま放置されている。
妻には、毎日のように言い聞かせていたことだ。
その日、娘の容態が急変し、軍用の魔鉱車両がひっきりなしに通過して渡ることのできない幹線道路の先にある病院に行くため、妻は娘を背負い幹線道路の上に架かる高架橋を渡り、その崩落で、地面に落下すると同時に、軍用車にひかれた。
残っていた高架橋の階段部分に、娘が常に手にしていたクマのぬいぐるみが落ちていた。
橋があるから渡る。廃墟となり、死んだ建物にさえ侵入する者がいる。
これらを爆破して回るのが、自分の残りの人生の全てとなった。
人や動物を巻き込んでは本末転倒だ。緻密な計算と、再三にわたる警告を行った上、さらに、一気に爆破するのではなく、もし万が一まだ人が残っていても逃げられるように、段階的に爆破する。私は私の仕事に誇りを持っていた。
私の様な思いをする者が無いように、妻や娘のように、老朽化した建造物の犠牲者を出さないために。
だが、あの日、私が壊していたのは希望だったのかもしれないと、そう思った。
私が破壊した橋の袂で、立ち往生する馬車。
その中で息絶えた病人を抱え、男は私を罵った。例え落ちるかもしれない橋でも、落ちないことに賭けて渡らせてくれたなら、もしかしたら彼女を救えたかもしれないのにと。
この川の向こう、あの病院まで、彼女を連れて行けたなら。
ああ、そうか、私が今までしてきたことは、愛する者を失った悲しみと向き合うことをせず、暴走していただけに過ぎない。自己満足だったのだ。
私は、サナとハルとは同じところヘは行けないだろう。
もう、二人には会えないのだ。
キュポンという音と共に、クマの被り物が脱げた。
恐らく、ハルという娘さんの顔だろう。少女の体には、少女の顔がのっていた。おっさんのキメラじゃなくてよかった。口調はおっさんだが。
「いやあ、スッキリしました。ところで、どうして泣いていらっしゃるんです?」
「ああ、エルフは目から鼻水が出るんです、気にしないでください」
カルミアの指輪の光が収まっていく。
「そうなんですか、貴方は私達と同郷の方かと思いましたよ、島の人間は黒目、黒髪ですからな。親しみもわくというものですわ」
「それは、どうも」
サハルは紅茶とクッキーを口にして飲み込む。
亡霊にも味覚が残っているのだろうか?
「私は、お茶と、饅頭の方が好きですねえ、まあ、甘いものが食べられたのは戦争の前までの話でしたが。戦争は嫌ですねえ、嫌と言う事すらできない時代でした。食べ物がおいしいのも、ぐっすり眠れるのも、のびのびと過ごせるのも、戦争というやつがない所でなんですよねえ」
「僕も夜はぐっすり眠りたいし、好きな事を言いたい、何かに頭を押さえつけられて生きるなんて、想像したくないですね」
「気が合いますな」
どうにも、口調と見た目がしっくりこないサハルとの閑談もお開きとなり、ワンフロア上の部屋に縄梯子を伝って戻る。
「この穴、どうすんの」と悪魔に尋ねる。
「別室で夕食のご用意をしておりますので、そちらでお召し上がりください。その間に、ここを直しておきますから。別室へは、彼女がご案内いたします」
振り返ると、いつも服を洗ってくれる女性スタッフが、ドアのところに立っていた。
スタッフの元まで行くと、彼女は軽くお辞儀をしてソゴゥのためにドアを開け、部屋を出ると、廊下を先に立って案内する。
廊下の途中にドアがあり、ドアの向こうには、こちらと明るさや雰囲気がまるで違った通路が続いている。
通路は全体的に暗く蛇行していて、足元だけをほんのり乳白色の光が照らしている。
湾曲の引っ込んだ部分は暗くて見えず、人が隠れていて突然襲ってきても直前まで気づけないだろうな、などと怖い想像をしてしまう。
通路の突き当り部分は広く、何か料亭の入り口のように、建物の中に小さな庭があり、その奥にある扉までの間に、小さな太鼓橋が架かっている。橋の下にはちゃんと水を湛えた川が流れていた。
引き戸を開けると、そこは二十畳ほどの広さがあり、間接照明のみのため薄暗い。よく言えば、落ち着いた雰囲気を醸し出すため、光がかなり絞られているようだ。壁、天井、床が黒く、中央に三日月が合わさって円を作っているテーブルが一脚ある。金色と銀色の月には少し段差があり、金色の月の下に銀色の月がある。
その金属の質感が、室内でほんのり光り浮き上がって見える。
椅子は二脚あり、ソゴゥは奥の金色の月の前の椅子に案内された。
女性スタッフがお辞儀をして去り、代わりに部屋の奥に、壁と思っていた黒い目隠しから、グラスを持って、独裁者ことオーナーが現れる。
「お渡しした本は、お役に立ちましたかな?」
音もなく、ソゴゥの前のテーブルにグラスを置き、魔法のようにカトラリーを並べる。
「おかげさまで、貴方の手の甲にあるのが独裁者の印と分かります。それに、今日は朝から、食人鬼、毒の魔女、虐殺、爆弾魔と、おもてなしという、謎のふれあいを体験させていただきました」
「それは、お疲れ様です。それでは、今この時は食事を純粋に楽しみませんか、悪魔の用意した食材で色々とご用意させていただきました。どれも、自慢の逸品ですよ」
「そうさせていただけると助かります」
オーナーは柔らかく微笑み、片手を上げた。
男性スタッフが一品目の食事を運んで来る。
オーナーは、ソゴゥと真向かいとはならない、少し斜めにずれた位置で、銀色の月のテーブルの前に座り「私も、お付き合いさせていただきます」とソゴゥに言った。
「エルフの国の料理をご用意させていただこうと思い、山羊チーズのパイに挑戦したのですが、チーズが牛のものしかなく、燻製にして香りを似せてあります。昔、本場のイグドラムのパイをいただいたことがあったので、大分近付けてみたのです。こちらにあう赤ワインも、大分良いものがございました」
男性スタッフが一礼をして、ソゴゥとオーナーのグラスに赤ワインを注ぐ。
「どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます」
ソゴゥは子供の頃、よく園で連れて行ってもらったレストランで食べたものを思い出しながら、パイを口にし、赤ワインを飲む。
「食べやすい、それに美味しいです」
実のところ、山羊のチーズが少し苦手だったが、今食べたものは匂いにクセが無く、味も素直に美味しかった。
「エルフの貴方には少し物足りないのでは?」
「いえ、こちらの方が僕の好みです」
「それは良かった」
オーナーの皿は綺麗に空になっている。
ソゴゥもすぐに完食し、次の皿が運ばれてくる。
食材が限られていたため、同じ魚を、焼く、揚げる、蒸す、燻すなどして調理法を変え、味を変えてパレットの絵の具のように、色彩豊かに一口サイズで盛り付けらた皿が、目の前に置かれた。
見た目も楽しく、食べたときに驚きと感動がある。
その後、スープと肉が続き、デザートが来た辺りではすっかりオーナーと打ち解けて、兄弟の愚痴を言うまでになっていた。
とても話しやすく、聞き上手で癒される。
彼の罪状が戦争において最も憎むべき「独裁者」であるという事が、食事の時だけは頭の隅に追いやられるほどに。
食事が終わった際は、スタンディングオベーションを贈りたい気分だった。
ソゴゥは立ち上がり、オーナーのもとへ行く。
「僕の事を考えて用意していただいた食事は、どれもとても素晴らしかった。どうか、握手をしてもらえますか?」
ソゴゥが手を差し出す。
「もちろんです、喜んで頂けることが私の喜びなのです」
オーナーが差し出した手を握り、もう片方の手で包む。
「貴方の、記憶を見せていただきます」
ソゴゥは初めて、相手にカルミアの指輪の事を告げた。
オーナーは頷き、視界が彼の記憶へと引きずられていく。
白髪で目元の皴も美しい女性が頭を押さえていた、明らかに具合が悪いとわかる。
女性はオーナーの妻で、そして彼は病院へ彼女を連れていくのを躊躇っていた。
だが、信頼している友人が務める病院ならばと、遠出をしてそこに彼女を連れて行った。彼女はすぐに入院が決まり、不安な気持ちで、オーナーは家へと一旦戻った。
謎の病原菌が流行し、大病院では連日百を超える死亡者が出ていた。
巷では生物兵器が使用されたのだと噂されていたが、国はそれを否定していた。病原菌に対する治療薬が完成したが、それは症状が初期の段階でしか効かないため、少しでも症状のあるものはすぐに病院行くようにと通達がされた。
オーナーは国の通達には懐疑的だった。
毎日あれだけの人間が、病院へ行ったその数日後に亡くなっている。謎の病気に罹患しても、病院へ行かず自宅療養をしていた者は、数週間は持ち堪えていたというのに。
明らかに普通じゃない。
その夜、友人から至急の通信を受け取り、病院へと駆け付けた。時刻は夜中になっていたが、病院で彼の名を告げると医務室の場所を案内され、彼の部屋に向かった。
部屋のドアをノックするが、応答がない。
待ちくたびれて眠ってしまったのかと、ドアを開ける。
目の前の光景を理解するのに、かなりの時間を要した。
そこには、天井付近の梁に縄を通して首を吊った友人の姿があった。
急いで椅子を彼のもとに運んで、椅子に乗り、彼の体を持ち上げて縄から首を外し、転がるように二人分の体を床に叩きつけるようにして落ちた。
友人の顔を叩き、息を確認し、心臓を圧迫して蘇生を試みるも、初見から彼がすでに息絶えていることは分かっていた。
すでに弛緩した筋肉から、ありとあらゆる体液が漏れ出て臭気を放ち、万が一の可能性もなく骸となっていたが、それすら理解できないほど動転していたのだ。
どうしてこんなことを。
彼を床に横たわらせ、窓を開けようと、机に近寄りそこに自分あての手紙を見つけた。
明日の朝、ここに入院した多くの患者が死ぬ。
君の奥さんも、このままでは殺される。
彼の手紙には、これまで患者に処方して来た薬が、国から支給された毒薬だと記されていた。
国内に持ち込まれた生物兵器により、多くの国民が感染しており、感染者をいち早く排除することで、禍根を取り除くのが、国の方針だという事。医療費に金が回ることのないよう、不要なものを排除し、軍事費にのみに予算を使用するための方策であること。
具合が悪いといって来院したものは、感染していようがいまいが、無差別にその家族もよびつけられ、薬を飲むように渡されること。
そして、それを知って、医者たちは訪れた患者に薬を処方して来たこと。
もう耐えられない。
手紙は彼の吐血するような感情で終わっていた。
オーナーはすぐに部下を呼びつけて、何台かの大型魔鉱車両を病院へ持ってこさせ、院内の医者や看護師を催眠魔法で眠らせると、自分は医者の白衣を着て、入院患者全てを車へと移動させて病院から連れ去った。
部下達は事情を説明する前から、真夜中から明け方にかけて、病院から患者を連れ出すという大仕事を達成し、そして、連れ去った先、彼の経営する国内最大のホテルへと案内した。
以前は一万を超える従業員も、今は戦争に引っ張られていき、半数に満たない残ったスタッフで軍上層部の保養所となっていた施設から、軍人たちを追い出して立てこもりを始めた。
そこでは、妻と患者たち、そして自分が巻き込んでしまったスタッフが最期を過ごすこととなった。
人生の最後を、癒しと安らぎのある空間で過ごして欲しい。
患者たちと接するスタッフ達もまた感染し、次々に倒れていく。
私のエゴで、彼らの死期を早めてしまった。
本当に申し訳ない事をした。
私がしたかったことは、国への復讐でしかなかったのかもしれない。
経営者として、従業員の健康とその命を損ねてしまったのでは、罪深き独裁者と変わらない。
それでもソゴゥは、彼の記憶の中のスタッフ達が、最期まで笑顔でいたのを見ていた。
皆事情を知って彼についてきたのだ。
「貴方のおもてなしは本物でした。押しつけではない、いつだって相手を思って接しておられた」
ソゴゥは最後に握手の手を強く握った。
「いえ、お粗末様でございます」
「とんでもない、良い夜でした」
そのまま、にこやかな女性スタッフの後に続き、部屋へと戻る。
彼らもまた、オーナーの記憶にあった人達だ。
「今日はもう、これで寝ていいんだよな?」
部屋にいた悪魔に問う。
「はい、もう今日はこれまでにしましょう」
あと二人、オーナーからもらった本には、罪状は六までしかなく、残りは扇動者となっている。あと一人は、何の罪状なのか、それとも罪なき亡者なのだろうか。
これまで会った、亡者達の罪状は彼らの後悔であり、本当の罪とは違うとソゴゥは感じていた。
悪魔の退出後、本日三度目のシャワーを浴びて、ベッドに潜り込む。
首の上にぬるりとした感触が伝わり、乗っかってきた黒い鼬のような魔獣を引っぺがそうとするも、頑なに剥がれない。
起き上がって様子を見ると、何かショックを受けたように震えていた。
「何かあったのか?」
応えがあるわけではないが、樹精獣のこともあり、つい動物に話しかけてしまうのは癖だ。
掛ふとんの上に丸まっている魔獣を撫でているうちに、いつの間にか眠っていた。