4.夜の消失
ヨルが消えて数日後に、カルミアさんの娘さんを探しに向かっていた母から手紙が届いた。極東への立ち入りに際しては、現役の司書しか認められないと人間の国の各国から物言いが入ったことと、亡国の民の母の病状が悪く、最期にイグドラシルの最高位と話がしたいとの申し出があったことについて書かれていた。
母からの手紙を携えて、イグドラム国王へ国外への渡航許可の申告に王宮に向かう。
イグドラム国内において、ゼフィランサス王と、イグドラシル大司書は同等の権威となるため、ソゴゥが大司書となった暁には、ゼフィランサス王がイグドラシルへ来訪するという事態もあるが、今はまだ第一司書のため、ソゴゥが王宮に赴くのが決まりとなっている。
王宮の親しい来客用の応接に通されると、既にゼフィランサス王が待っていた。
ゼフィランサス王は無駄を嫌うため、勿体つけた登場や挨拶はない。
前王はあらゆる魔術に精通していて、二つ名を持つ世界的にも有名な王だったが、ソゴゥは今の現イグドラム国王のゼフィランサスを、前王のように派手な特徴を持たなくても、考え方、そして行動力を高く評価し尊敬していた。
迅速な裁量や判断が常でありながらも、決して浅慮ではなく、理論的であり合理的で無駄や不足がない。
ソゴゥが度肝を抜かれるような、大胆な決断も、最終的にはあらゆる事象を回収して、最適なところへと納めるといった、先見の明もある。
正しく年を重ね、国の最重要な責任を受け止めてきた、厳しく清らかな年輪をその顔に刻んでいる。
「護衛の悪魔の事は聞いた、太歳の時の功労者であった。残念であったな」
「お気遣い痛み入ります」
「さて、カルミアの娘の事は、余もずっと気掛かりであったのだ。当時は王宮を挙げての大掛かりな捜索がなされ、今現在も警察機関での継続捜査と合わせ、国外でも手がかりを得られるよう、外事に際し、人員の異動時には申し送り事項として必ず子の特徴が伝えられ、捜索が続いている。だが、その手掛かりが極東から届くとは」
「極東の小さな図書館に赴任していた司書が持ち帰りました。カルミアに確認してもらったところ、彼女の娘の持ち物であるという事が判明いたしましたので、カルミアと前司書長のジャカランダ、前大司書のヒャッカと、その夫のカデンが極東へ向かったところ、人間の国の各国の取り決めにより、現在亡国に立ち入りが許されている、小さな図書館を管理する現役の司書しか足を踏み入れる事が出来ないとの事で、足止めを受けている様です」
「極東戦争の戦争当事国は、極東の島を囲む大陸の東端に位置する、海に面した四つの国だ。これらが、今亡国の監視と周辺海域に縄張りを広げ、島の西側の海洋にまで領域を主張する空壁を展開し、海洋資源の採掘による海域の深刻な汚染が生じている」
「戦争当事国は、外部の者が亡国へ肩入れするのを排除し、亡国の民が物言わぬようにした上で、外部の者を遠ざけ極東海域の資源を独占するのが目的なのでしょうか?」
「それが分からぬのだ。外部の救済を拒んでいるのは、亡国の民側であることは間違いない」
「ですが、前大司書によると、十年前、極東に小さな図書館を作る話が上がった際の戦争当事国の横やりは凄まじかったそうで、細かなところまで監視と、査察が入り、武器やそれに転用できるものという理由で、図書館建物以外のインフラを整備することにも許可が下りなかたようです。ただ、今回は亡国の母が私を指名してこられましたので、直ちに極東へ向かおうと思います」
「あい分かった。それについてだが、ここに海将を呼んでいる」
ゼフィランサス王が護衛の騎士に手を挙げ、来客室のドアを開けて、中へと将軍職のエルフを招き入れる。
海将はゼフィランサス王に一礼し、ソゴゥを向いた。
「お初にお目にかかります、イグドラシル第一司書殿。私は海上幕僚長、ヴァーグ・パイシースと申します」
短く刈った灰色の髪に、鉄色の瞳、海軍らしく潮焼けした逞しい体躯をしていて、思慮深さと豪胆さを併せ持った風貌をしている。年のころは、ゼフィランサス王と同年代か少し若いようだ。
「イグドラシル第一司書、ソゴゥ・ノディマーです」
海軍の最高位の登場に、ソゴゥは説明を求めるようにゼフィランサス王へと視線を戻す。
「第一司書よ、海将の船に同乗してはどうか」
「海将殿、極東へは航路で何日掛かりますか?」
「極東へは三十日といったところです」
「出来れば、私は一日も早く極東へ向かいたいのですが」
「うむ、当然そうであろう。であれば、少しタイミングを合わせなくてはならぬな」
「タイミングですか?」
ソゴゥがゼフィランサスに尋ねる。
「極東には一万弱の民がおり、戦時下における土地の汚染に未だに苦しみ続けているという。亡国の母は、何故難民申請をして民を国外に退避させぬのであろう」
唐突にゼフィランサス王が、ソゴゥとヴァーグに問う。だが、答えを求めるために疑問を口にしたわけではないようだ。
「王は、何か事情があるとお考えなのですね」
ヴァーグの言葉にゼフィランサス王が頷く。
「第一司書は、まずはカルミアの子の事を頼む」
「はい」
「海将、それに第一司書よ、私の考えを聞いてそして判断して欲しい。これから話すことを二正面の愚策とするか、出来得る限りの手を施し好機とするか」
ゼフィランサス王の十八番が出たなと、ソゴゥはどこかワクワクした気持ちで王の言葉を待った。
エルフの国、イグドラム国のセイヴ港の美しさが奇跡のように思える。
三日月型の湾に、透き通った遠浅のエメラルドグリーンとパライバトルマリンの織り成す美しい色彩。イグドラム国に生まれたソゴゥは、この世界は人による汚染とは無縁の、理想の世界なのだとそう思っていた。
同じ惑星でありながら、ここの海は死んでいる。
まるで大洪水のあった川の汽水域のように、濁った茶色の海が広がり腐臭を放っている。
船を何重もの防護壁で覆わないと、息をすることもままならない。
「ここまでとは」
案内役として同行したセアノサスは、ソゴゥに付き従う二人の護衛、王宮騎士のブロン・サジタリアスとヴィント・トーラスに、船からあまり身を乗り出さないように注意する。
出国の際に、以前ソゴゥの護衛として貸し出された王宮騎士の二人を、ゼフィランサス王がソゴゥの護衛に付けてくれたのだ。
「この毒の海は、空壁で海洋に流出しないようにせき止められているのです。落ちたら命とりです」
「浄化は?」
「近隣諸国が少しずつ行っている様です。これが大洋に広がれば、人間と海洋人の国との戦争になりかねないと危惧されているため、人間側の諸国がこの五十年、海の除染に尽力している様です」
「どうやって、除染しているのでしょうか」
ヴィントの問いに、セアノサスは通過した空壁を指す。
「三段階の空壁を設置して、外洋の綺麗な海と、汚染された海を混ぜ時間経過による自然の自浄作用に任せている様です」
「それしか手段がないのか」
「ブロン、あまり大きな声では」
ヴィントは周囲の人間を気にして、ブロンを窘める。
ソゴゥ達は今、極東の亡国へと船で向かっていた。
そして、セアノサスの話は、以前人間がセアノサスにした説明だとわかっていた。
汚染の本当の理由は、大陸四か国による海底鉱脈の強引なボーリングにより吹き上がった、有毒ガスと鉱油のせいである。
客室付き巨大飛行竜船で、数日をかけて大陸の最東の国へ行き、そこで母と父、それにカルミアさんとジャカランダさんと落ち合った。
彼らの滞在していたホテルで、それまでの経緯などを聞き、また数日後にこの最東の人間の国から、極東の島である亡国へ向かう除染調査船への同乗を取り付けてもらっていたのだった。
ソゴゥの左手の人差し指には、カルミアさんから託された高価な魔石の嵌め込まれた指輪がある。カルミアさんの代わりに、娘さんの手がかりとなるものを探してきて欲しいと頼まれたのだ。
ソゴゥ達以外は、乗組員は全て人間である。
船上から陸地が確認できるようになり、目的の極東の島へと近づく。
接岸しても、下船できるのはソゴゥ一人。
ここまで案内してくれたセアノサスや、護衛を務めてくれたブロンとヴィントは、船と共に引き返して、最東の国でソゴゥからの連絡があるまで、母や父たちと共に待機することになっている。
かつては高い山と豊富な水資源があり、緑に覆われていたという島。
セアノサスは五年を過ごした土地を感慨深げに眺め、ブロンとヴィントはその横で言葉を失っている。
天災とは違う文明が破壊しつくされた、暴力の痕がそこにあった。
「ソゴゥ様、いま小さな図書館にいる二名の司書達にはソゴゥ様の来訪をお伝えしております。小さな図書館へお寄りください。それから、何かありましたらすぐに私を呼びつけてください」とセアノサスが極東の地図の名前をソゴゥに伝える。
地図自体はイグドラシルに保管されているが、司書ならガイドで検索して閲覧ができる。
「これ、やはり我々が付いて行ったらマズいですよね」
「このような場所に、ソゴゥ様おひとりにするのは、気が引けます。透明化の魔法を覚えておくんでしたね・・・・・・」
心配げに見送る王宮騎士の二人。
「あ、そうだ、よろしかったらこれを」
ヴィントがいつも持ち歩いているという塩と、梅干しの様なドライフルーツを渡してきた。
「なら、私も」
ブロンが高級スパイスのリシチの瓶を渡してくる。結構料理を選ぶ香辛料だから、使いどころがあるか分からないが、ありがたく受け取っておく。
何も渡すものが無かったせいか、セアノサスが青い顔をして見てくる。
ソゴゥは視線で、大丈夫だからと気を使わないようにと伝える。
停泊した除染調査船のタラップを、ただ一人降りる。
まずは、セアノサスの言う通り、小さな図書館へ向かう。船の停泊場所と定められた位置から、それほど離れていないところにあるらしい。
荒涼とした大地に足を踏み出す。
ここには痩せた灌木か、藁くずのように点々とした緑しかない。小動物や鳥どころか、虫さえ見かけず、別の惑星に来たようだった。
飛行場はなく、この土地の上空を飛行することすら、各国の取り決めで禁止されている。唯一の港として開かれたのが、先ほど除染調査船が停泊した場所で、島へ上陸できるのはイグドラシルの司書だけである。
既に西に傾いているが、まだ勢いのある太陽を避けるように、僻地訪問用の外套のフードを目深に被り、赤い土を踏みしめて歩み続け、小さな図書館の建物を発見した。
青い葉を付けたイグドラシルの若木が、まっすぐ天へ伸びている。
「館長!」と二人の司書がソゴゥに気付き、建物から飛び出してくる。
レベル4の中でも、ベテランのセダムとクラッスラだ。
心細かったのか、まだこの地に着任してセアノサスからの引継ぎ期間を含めて三ヶ月と満たないはずなのに、三年ぶりに戦地から戻ってきた息子を迎える家族のように、強烈な抱擁による歓迎を受けた。
最終的には、持ち上げられてグルグルと振り回された。
やっと地面に下ろされた時には、かなり真面目に目が回っていた。
「とりあえず、建物の中へお入りください。中の空気は正常ですから」
ヴィントほど空気を操る魔法には長けていないが、これまでなんとか自分の周囲を魔法で防御して汚染物質を取り込まないようにしていた。
二人の司書に促され、小さな図書館へ入る。
手前に公共の図書館スペースがあり、奥に司書達の執務室と居住スペースがある。また、別棟に水や食料、医療品、防寒具などが大量に格納されている。
これらは、司書の生活の分だけでなく、この地の人間に提供するために持ち込まれたものだが、いまだに受け取りに来た者はいないという。
たった今も、ソゴゥはその報告を二人の司書から受けていた。
この極東の任期は三年となるが、二年に短縮した方がいいかもしれない。
いくらエルフの寿命が長いとはいえ、こんなところに五年も一人でいたセアノサスには頭が下がるが、結果、彼のように妙な強迫観念を植え付けられてしまったのでは、やはり運営に問題があると言わざるを得ない。
「ここに女の子は来ていないか? セアノサスがよく来ていたと言っていた子なのだが」
「はい、その子ならセアノサスさんがいらっしゃるときには毎日来ていましたけど、セアノサスさんがイグドラムへ帰られたのを最後に、ここへは来ていないのです」
「我々は、あの子供が来るのを楽しみにしていたのです。今は図書館の中まで来られる人がいなくて、寂しい限りです」
クラッスラがしんみりと答える。
やはり、任期は一年交代にした方がいいかもしれない。
小さな図書館の書籍は全て共用語で書かれているが、来訪者が本を読めない場合、司書がその手助けをする。読み聞かせ、言葉の意味を教えたり、読み書き自体を教えることもある。
司書は人にものを教えるエキスパートであり、また、教えることが好きな者がほとんどだ。彼らはイグドラシルに仕える事を誇りとしているが、一人でも多くの人の役に立ちたいという奉仕の精神が強い。イグドラシルに司書として選ばれる者は、得てしてそういう傾向を持つ。
ふと視線を感じて図書館入口を振り返ると、一人の小さな青年が立っていた。
気配も音もなく、いつからそこにいたのかも分からない。
ソゴゥは言葉にならないほど驚いたが、何とか無表情、無反応で耐えきった。
赤銅色の肌に、布を工夫して巻き付けただけの着物から、棒のように細い素足が大地を踏みしめている。
「もしかして、私を迎えに来てくださったのですか?」
ソゴゥは図書館の椅子から立ち上がり、青年のもとに向かう。
青年は頷いた。
「母のもとまで、ご案内いたします」
綺麗な言葉遣いだった。
ただ、明らかに栄養が足りておらず、声量は細い。
青年期にある者だと判断できたのは、彼のしっかりした目を見ての事だ。
「ありがとうございます」
ソゴゥはセダムとクラッスラに「行って来る」と告げ、小さな図書館を後にした。
青年はふとイグドラシルの若木を振り返り「木をありがとうございます」と一筋の涙を流した。
ソゴゥには「何故」が沢山ある。
そして、いま一番表層にあるのは、「何故救済を拒むのか」ということだ。
敵対していた戦争当事国への拒絶ならわかるが、それ以外のエルフや海洋人、有翼人や有鱗人、その他にもこの惑星には、多種多様な人類が存在する。
人間以外の国には、平和を好む種族が沢山おり、そういう国家は、被災地や紛争地域への医療支援や人命救助を惜しむことなく手を差し伸べる。
だが、この亡国はその手を掴むことをよしとしない。
自分より頭一つ小さな人間の青年に続き、荒涼した赤い大地を歩く。
「あそこです」
図書館からそれほど遠くない岩を、青年が指す。
その赤い岩のところまで来ると岩の横に、明らかに人工物の、地下に続く真っ黒な穴が開いていた。
青年はしきりに足元に気を付けるように、こちらを気に掛ける。
彼が特別優しい人間なのか、それともこの国の人間はもともと優しい性質だったのか。
百年前の戦争の発端は、この国にある。
戦争を商売として、国庫を潤そうと考えた為政者と、傍観していた国民。法律は書き換えられ、戦争は悪い事ではないという、それまでとは真逆の意識を植え付けられ、周囲に同調するように、戦争の機運が高められていった。
誰が悪かったのか、誰にも分からない。
ここまで悲惨な状態を受け入れなくてはならないほど、彼らの罪は深いというのか。
暗がりを先に行く青年の足元を、魔法で照らす。
青年の足には、人間には本来そんな場所にはない器官がある。
戦時中の人体実験を受けた親から引き継いだものだろう。今、この亡国にいる人間には全て、世代を経てもそうした傷を体に残している。
ありとあらゆる地獄を経て、彼らはひっそりと滅びの時を待っている。
前世で言うところの地下鉄の駅の様な場所を通り、さらに奥に広がった空間に、頑丈なコンクリートの壁から温かい土色の壁に変化して掘り進められた先に、彼らが暮らしている場所があった。
まるでアリの巣の様だ。
中心の大きな空間に、布で仕切られた場所があり、そこへと案内される。
陽の光を吸収し、暗がりで発光する石があちこちに置かれ、それにより暗視を用いなくても視界が保たれている。
「母様、お連れしましたよ」
青年の呼びかけに、嗄れた声で応えがある。
青年が布を捲り、ソゴゥを中へ促す。
「失礼します。私をお呼びと伺いました」
地面に茅の様なものを敷いただけの寝床に、その人は臥せって、首だけをこちらに巡らせた。
手を伸ばしてきたので、ソゴゥはその場に膝を折って彼女の手を両手で包む。
彼女は顔の右半分を布で覆い、たぶん人間の八十、九十を超えたような容貌をしているが、その年は七十に満たないという。戦争の終盤に生まれ、戦争を終結させ、この地を不可侵領域と定めたとされる人物。
彼女は人体実験の被験者であり、この地に打ち捨てられたのち、異常に発達した知能を持って、諸外国にこの国の土地と、この国の人間への一切の干渉を排除することに成功したのだ。
ソゴゥは敬意をもって、彼女の手を取る。
「貴方を呼んだのは、私ではなく、この先の奥の間にいる者です、どうか力を貸してやってください」
「私にできる事なら」
「ふふ、こんなに怒っている人は久しぶりです、まるで私の友人たちのよう」
「私は、怒ってなど」
ソゴゥは驚いて、否定する。
「いいえ、貴方は怒っている。すぐに分かりましたよ。貴方は尊く、そして優しい。だからこそ怒っている。この地の人間すべてを救わせて欲しいと」
ソゴゥは言葉に詰まった。
本心では気が狂わんばかりに叫んでいた。
「何故助けてと言わないのか!」と。
矜持、思想、疑心、恨み、憎しみ。
彼らにとってどれだけ大切な事でも、それが命より大事であっても、救済を拒む理由足り得ない。命を取り戻すことは出来ないが、命を救うことは出来る。
今なら、いま生きている人間を救えるのに。
それでも、ソゴゥは静かに彼女を見つめて黙する。
「私の力を借りたいという方のもとへ、伺いましょう」
ソゴゥは彼女の手をそっとその体へ戻し、立ち上がる。
「お願いしますね、あの子たち、何か良くないことに巻き込まれてしまっている様で」
彼女は疲れたように言った。
ふと、彼女の枕元に置いてあった、黒い毛皮の様なものがフルフルっと動いて、グーっと伸び上がって耳をピルピルさせた。
「ん?」
ソゴゥはそれをさっと手で掴む。
ソゴゥの手の中でうねうねと身を捩り、ぬるりと手から逃れると毛を逆立てて怒っている。
「魔獣がこんなところに」
「その子は大丈夫、私のお友達だから。私が赤ちゃんの頃からずっと一緒にいたんですよ」
「そうでしたか、失礼しました」
「最期にもう一度顔を見せて」
ソゴゥは縁起でもないと思いながらも、彼女の目を覗き込んだ。魔獣も横で彼女の顔を見ている。
白く濁った瞳は、何も見えていないのかもしれない。
それでも、彼女を見つめる者を彼女は見ていた。
「行ってらっしゃい」
ソゴゥは布の外に出ると、外で控えていた先ほどの青年に奥の間へ案内してもらった。
「奥の間はこの扉の向こうです」
巨大な重々しい黒い扉の前に立ち、呆然と見上げた。
ここを通る者はすべての希望を捨てよと言わんばかりの意匠が凝らされおり、どこか模倣の様な歪さを感じる。
「私は、ここより先には行けません」
「案内していただいて、ありがとうございました」
青年にお礼を言い、ソゴゥはその先に一人歩を進める。
どうやって開けるのかと、とりあえず扉の中央に触れた瞬間、扉が弾け飛ぶように内側に開いた。外開きだったら、扉に弾かれて大惨事となるところだった。
ソゴゥはドキドキしながら、開いた扉が戻って来ないとも限らないと、早足にくぐり抜けて中へと入る。
それと同時に、今度は重たい金属がぶつかるような音を立てて、勢いよく扉がガンッと閉まった。
怪我が無かったら良いというわけじゃないからな! もっと、ゆとりと思いやりを、扉に持たせろ!
首を竦め、ソゴゥは両肩を擦りながら、恨みがましい目で扉を振り返る。
「あ、お前」
後ろから、あの黒い小さな魔獣が付いてきているのに気付いた。
何か肩に飛び乗ってこようとする気配を察し、ヒョイと身を躱す。
飛び上がった魔獣が、ビタンとそのまま地面に着地してフーフー言って怒っている。
「俺の肩は安くないぞ」
ソゴゥはニヤリと笑い、魔獣を置いて行く。
扉と同じ幅の通路が三十メートルほど続き、奥から光が差し込んでいる。
ソゴゥは足元を照らそうと、光魔法を出そうとして何度か失敗し、首をひねってとりあえず、火球を出そうとするが、これもうまくいかなかった。
また、脱出用にここら辺にもマーキングしておこうと、視点を瞬間移動用に切り替えようとして、それも失敗した。
ソゴゥは途端に緊張し、ありとあらゆる魔法の発動を試みる。
歩きながら、魔力を放出させようと感覚を研ぎ澄ませるも、ガスのないオイルライターのやすりを空回ししているようで、パチパチと魔力が爆ぜるが魔法に点る前にかき消えてしまう。以前、母にイグドラシルの根っこのぼりという過酷な修行をさせられていた際に、魔法を使えなくされたことがあったが、どうやら似たようなことが起きているようだ。
周囲に気を配ることを忘れ、魔法を発動させることに気を取られていたせいで、ソゴゥは暗い足元の先が無い事を、大胆に踏み出した一歩が空を踏んだところで気付いた。
バランスを崩し、空中に投げ出されて落下し、受け身を取ろうと地面を確認する間もなく、そのまま水柱を上げて水中に深く沈んだ。
水を掻いて、水面に顔を出すと、頭の上に何かが乗っかってきたが、手は水を掻くので精一杯のため払い落す事も出来ず明るい方に泳ぎ、岸を見つけて這い上がった。
頭の上に避難している魔獣を、頭を振って落とす。
魔法が使えないと服を乾かすこともできないと、びしょびしょの服をとりあえず外套だけ脱いで力の限り絞って、また羽織った。
振り返ると、かなりの高さから落ちてきたようで、下が水でなかったら大怪我を負っていただろう。それに、ここは地下であるが、まるで空があるように高く、天上は白く霞んでぼんやりと明るい。目指してきた明かりの方には、こちらもまた地下にあるには不自然な、ホテルの様な建物があり、その手前の広い庭園は塀で囲まれていた。
塀まで歩き、空いている個所からそのまま庭に踏み入ろうとしたところで、背後から「ようこそ」という声がした。
「お出迎えせずに失礼いたしました。世界樹の聖隷殿、貴方をお呼びしたのは、この私でございます」
ソゴゥは男を振り返り、不審げに見つめる。
「悪魔が、俺に何の用だ?」
不意に、魔獣が男に飛び掛かりそうになったので、ソゴゥは空中でキャッチして、後方にリリースした。
「魔法を封じられて、よく私が悪魔だと瞬時に見抜けましたね」
「当てずっぽうで言っただけだよ、本当に悪魔だったとは」
男は人の姿から、本性を現すように頭部に角と、ライオンの様な尻尾、蝙蝠の様な翼を出して、金色の目を眇めた。
「悪魔に女子はいないの?」
「おかしなことを言われる、悪魔に性別はありませんよ、人間の欲望を反映させる姿を取ることが主ですから、何でしたら女性の姿を取りましょうか?」
「悪魔に希望を述べて、言質を取られるのは勘弁だな。上辺だけの女子に興味はないし」
「用心深い事ですね。では、早速こちらの建物へご案内いたします。会っていただきたい亡者が、七名ほどおりますので。その七名にお会いになる前に、用件だけ、先ずはお伝え致します。歩きながらお話いたしますので、どうぞ付いて来てください」
悪魔は角や翼と尾を引っ込め、建物へソゴゥを案内する。
庭から建物までの道には真っ赤な絨毯が敷かれ、庭には池や東屋、石像の様なものが調和なくただ置かれている。
酷い趣味だと呆れながらも、口を出さずに悪魔について行く。
正面の扉が開かれ、建物の中へ入って絶句した。
ショッピングモールなどにあるカスケードのレベルを超えた、本物の滝が轟々と吹き抜けの最上部から、フロアの床に空いた穴に向かって落ちている。
轟音で、悪魔の声がまるで聞こえないばかりか、ただでさえびしょ濡れのところへ来ての、この湿気。マイナスイオンなど皆無の、室内の不快指数爆上がりの設備だ。
悪魔はこのエントランスを滝の周囲を半周して、滝の裏の扉を開けて奥へと先導する。扉を閉めた途端、滝の音と湿気が無くなった。
「私の趣味ではないのですよ。亡者たちはもはや記憶が曖昧で、このように歪な空間が出来上がってしまっていますが、出来る限り歪みを削る努力はしているのです。しかし、生身の体では、ここはかなり危険ですので、移動の際は注意してください」
「はあ」
「さあ、この奥の客間に集めている亡者達に会われる前に、話しておきましょう。私はある者との契約で、七人の亡者のうち一人を救わなくてはならないのです。その亡者を、第三者に決めていただくため、世界樹が選んだ貴方ならと、亡国の母に頼んで招待させていただいたのです。と言いますのも、この七人の亡者は全て、亡国の戦争に関わった者達で、被害者であり加害者である者達なのです。ですので、この戦争と関わりのない者の視点で、彼らを見て、そして判断していただきたい、それが貴方に来ていただいた理由です」
「亡国の母に、ある者の力になって欲しいと頼まれたが、まさか悪魔の願いとは。まあ、協力をしてもいいが、選ばれなかった亡者はどうなる?」
何を当たり前の事を聞くのかと言わんばかりに、悪魔が作り物めいた顔に笑みを浮かべる。
「貴方に選ばれなかった亡者は、地獄へ送られます」
ソゴゥは腕を組み、宙に視線を漂わせ、やがて下から睨み見上げるように瞳だけを悪魔へと向けた。
「どうして選べるのは一人だけなんだ?」
「そういう契約だからです。これは、私にも貴方にも変えることのできないルールです」
「救うとは、具体的にどういう事を指すのか、それと地獄へ送られるとどうなる?」
「救うとは、生き物の正しい死を与えるという事です。私は何度か経験しておりますが、捉え方は人にもよるでしょう。苦しみも寂しさもない、それどころか惑星の一部となり、壮大な記憶と、多くの生命を感じ、惑星創世記からの地殻変動や、海が姿を変える光景を目の当たりにしたり、時にその最中に放り込まれたり。エネルギーの一部であり、強大な力を感じたり、感動したりもしましたね。星はこんなにも生命に優しく、そして生命は惑星の一部だと感じる。といった体験ができます。いわば、巡る、流れ続けるといったイメージでしょうか。そこには星蝉や、おおいなる優しいものの気配が常にあり、光と温もりがある。片や地獄とは、生物が感じる全ての苦しみが際限なく繰り返される世界といったところでしょうかね、知能をもつ生物が陥る魂の牢獄のような場所です」
「そうか、俺なら地獄は願い下げだ。当然救われたいと願うね。それで、救うに値する亡者はいるのか?」
悪魔が片眉を上げ、驚きの表情をみせた。
「貴方の目で、貴方の思考で判断してください。こちらの部屋に亡者達がおります」
そういえば、服びしょびしょなんだけど。
悪魔がドアを開けて、中へどうぞと手を差し伸べる。
ソゴゥは促されるままに、部屋へ入り、そしてすぐに出てきてドアを閉めた。
「おい」
「おや、どうされましたか?」
「人間だよな?」
「人だったものですね、もう亡くなられてかなり経ちますし、魂だけだった彼らに、彼らの記憶を元にその姿を肉付けしてみたのですが、どうも鏡を見たことがない者や、自分であることを厭うあまり、姿を変えられているような方がほとんどのようです」
ソゴゥは深呼吸をして、心臓を叩いて、さらに両頬を手でたたき気合いを入れる。
「よし」
ドアを開け、数秒制止し、そして静かに閉める。
「俺、これ殺されるんじゃない?」
「まさか、たぶん大丈夫ですよ」
「完全に俺の事、食料と思っていそうなヤツいたけど、手に出刃包丁もっていたけど、涎たらしていましたけど!」
「世界樹の使途を食べたいなんて、グルメですね、フフフ」
「ちょっと!」
「大丈夫、大丈夫。肉体が無くなったら、魂は私が食べて差し上げますので」
「大丈夫じゃなくない? それ」
「まあ、いいからお入りください」
悪魔に背中を押されて、部屋に押しやられる。
七人の目がこちらに集まる。
ものすごい圧だ。
大きなテーブルの左右に三人ずつ、手前に一人座っている。
悪魔が奥の椅子を引き、そこへ座るように促される。
ソゴゥは無表情を取り繕い、亡者の後ろを回って奥の椅子に座る。
ソゴゥが最初に見て、一番びびった相手がすぐ左隣にいる。
悪魔がソゴゥの後ろに立ち、そして七人に紹介を始める。
「こちらはイグドラム国からいらした方で、しばらくこの屋敷に滞在されます。まずは、自己紹介をお願いできますか」と悪魔はソゴゥに向かって言う。
「イグドラム国からきました、ソゴゥ・ノディマーです」
悪魔が「え、それだけですか?」と視線で訴えてくる。
ソゴゥは左側を見ないように、さらに声が震えないように続ける。
「五人兄弟の末っ子で、公務員をしています。趣味は読書と旅行、好きなものは毛並みのいい動物全般です」
これでいいかと、ソゴゥは悪魔を振り返る。
悪魔はソゴゥのボケを理解している様子もなく、少しだけ首をかしげてから七人に向かって言う。
「ここにいる皆さまには一人ずつ、交替で、この屋敷の案内や、皆さまが普段なさっていることをお見せしたり、お話したり、料理を振舞ったりしてソゴゥ様に喜んで頂けるよう、おもてなしをお願いします」
「それはいい、久しぶりにお客様をおもてなしさせていただけるとは、楽しみですな」
ソゴゥの正面、一番離れた場所に座る男が言った。星や勲章がどっさりと付いた将軍が着るような皴一つない軍服を着ている。背筋がきれいに伸び、口髭を蓄えていて押し出しの強い、この中ではだいぶ人間に近い風貌をしていた。
もう一人軍服を着ている者がいるが、こちらは、左側の男同様、あまり視線を向けたくない容貌だ。足を行儀悪くテーブルに乗せ、黒い戦闘服には、赤かっただろう液体が乾いてこびりついている。眼球は赤く、瞳は黒い。顔にも返り血がそのまま痣になったような、赤い模様が刻まれている。
その戦闘服の男の手前、ソゴゥの直ぐ左横の男は、終始涎を垂らしている。
まずは包丁をテーブルに置け、話はそれからだ。
ソゴゥは左隣の大きな体を丸めて座る、腕の数の多い白い巨人の息使いに辟易していた。
「ああそうでした、決して、ソゴゥ様を傷つけたり、食べたり、殺したりなさらないでください」
取ってつけたような、悪魔の注意に、何か罰則を設けたり、絶対やってはいけないと念押しするなりしてくれよと、不安に思う。
「おもてなしの順番ですが、ソゴゥ様の直ぐ左のオーグルさんが最初です」
もう「食人鬼」って言っちゃっているじゃん。よりによって、一番最初とか。
ソゴゥは目に力を入れて、泣きそうになるのを堪える。
「その次がジキタリスさん」
ソゴゥの右隣の女性で、彼女は頭に馬の骨を被っていて、顔が見えない。喪服のような首を覆う黒いドレスに、白い長い髪。黒い手袋をしていて、肌の一切が見えない。
オーグルの奥の血まみれ戦闘服男、その向かいのクマの被り物を被った少女、紙のよう体が薄くて手足の長い性別不明の人、美しい容貌なのだがバーチャルのような違和感がある。そして、身なりの良い青年。仕立てのよいスーツに白いシャツ、赤いネクタイ。奥の軍服の男同様、人間として違和感のない風貌だ。彼は真っ直ぐこちらを見ている。
悪魔が順番を言い終えると、各々は了承と取れる仕草でそれぞれに頷く。
「オーグルさんは明日、おもてなしの準備が出来ましたら、ソゴゥ様のお部屋に来てください。では、これで今日のところは解散としましょう。ソゴゥ様、お部屋へご案内いたします」
やっと、びしょびしょの服を脱げると、ソゴゥは部屋を辞して悪魔に続いた。
屋敷は広く、無意味な扉や階段を上がったり、潜ったりした。
ソゴゥは建物正面からここまで、一人で来られる自信がまるでない。
「こちらをお使いください。比較的安全な部屋を選びました」
もう突っ込むのも面倒だと言わんばかりに、ソゴゥは黙って案内された部屋へと入る。
「ワーオ、何ここ殺人現場?」
「おや、おかしいですね。綺麗に片づけておいたのですが、イタズラされないように入り口も分かりにくくしておきましたが、効果がなかった様です。部屋を換えましょうか?」
「ここでいいよ、とりあえずベッドがあればいい」
ソゴゥは空き巣に入られたような荒らされた部屋に入り、ひっくり返った椅子を起して、そこに脱いだ外套を掛けた。
部屋はかなり広いが、椅子やテーブルは倒れ、ベッドの布団やシーツはグシャグシャになり、クローゼットのドアや引き出しは開きっぱなしで、調度品は倒され、壁の絵も傾いている。
壁の時計が示す時刻は、いつもならソゴゥが眠る時間を過ぎていた。
「ご夕食は、こちらの部屋にお持ちします」
「ありがとう、でも食料なんてあるの?」
「貴方をお招きするにあたり、私が大陸から買い付けました。水も、食料も害のある物ではございませんのでご安心ください」
「それは助かる」
「それでは、何かありましたらお気軽にお申し付けください。そちらの電話の受話器を上げていただければ、私に繋がりますので」
ソゴゥは後ろを振り返り、前世で見たレトロな電話機を確認した。
「それでは」
悪魔が出ていく。
救う亡者を一人決める以前に、ここで魔法なしで生きていけるのか。
濡れた服の上着を脱いで、外套の上に置き、着替えがあるかクローゼットの方へ行ことしていると、部屋のドアがノックされた。
また悪魔が戻って来たのかと、ドアを開けると、そこにはソゴゥと一番離れた席にいた、軍服の老紳士が立っていた。
「少しお話がしたいのですが、中よろしいですかな?」
ソゴゥは老紳士が本を手にしていることに気付き、警戒しつつも部屋の中へ招いた。
「これは」と部屋の様子を見て唖然とする様子に、ソゴゥは「僕がやったのではありませんよ」と伝える。
「先ほども思っていたのですが、そのままでは風邪をひかれてしまいますよ、先にシャワーを浴びてきてください。着替えは、ああ、こちらをどうぞ」
老紳士がクローゼットからバスローブを持ってきて、ソゴゥに手渡す。
「私はそちらで、待たせていただきます。どうぞ、ごゆっくり」
ソゴゥは部屋に誰かいる状態で、無防備にシャワーを浴びる気にはなれなかったが、寒さが限界に来ていたため、警戒しつつシャワー室に向かった。
「ちょっと待ってください」
ソゴゥを追い越して、老紳士はシャワー室の水栓と思しきハンドルを操作して、お湯の出具合を確認し、操作方法をソゴゥに説明して出ていった。
濡れた服を脱衣籠に放り、温かい湯に触れてやっと生きた心地がして一息ついた。
シャワー室から出ると、下着を入れていた脱衣籠が無くなっていた。
とりあえず、バスローブを羽織りタオルで髪を乾かしなら出ると、ホテルスタッフのような出で立ちの若い男女がソゴゥに気付き、腰を折ってお辞儀をする。
「わっ、ちょっ、服着てないんで」
老紳士が「替えの服が用意されておりませんでしたので、お預かりして明朝までに整えてお渡しいたします」と脱衣籠を持った女性のスタッフの方へ視線を向けた。
女性が一礼をして、部屋から退出する。
下着まで持っていかれた。
ソゴゥはシャワー室のドアから出てきて、老紳士が勧める椅子へと座る。
小さな丸いテーブルに一冊の本が置かれている。
その後ろでは、男性スタッフが倒れた大きなテーブルを直したり、傾いた絵を整えたり、ベッドメイキングをしている。
「これをソゴゥ様にお渡ししようと思いましてね」
「これは何の本ですか?」
「先ほどの悪魔の紹介では、オーグル以外の者がどのような者かお分かりにならなかったのではと思い、我々について記されている本をお持ちしました。我々自身が定義している罪についてです。オーグルは自身の名前を知らないことから、その罪の名、『食人鬼』として紹介されていましたが、ジキタリスなどは、こちらのページの『毒』の印がその手の甲にあります。私や、彼女のように常に手袋をしている者も、手袋の上に印があります。私の場合は、このページですね」
老紳士が開いたページにあるマークと、老紳士の白い手袋にあるマークが一致しているのを確認した。
「独裁者とありますね」
「はいそれが、私が定義する罪の名前です。つまり、私はあの戦時中に『独裁者』として、私の自分勝手な思想に多くの人間を巻き込み、その命を奪った者。という事です」
ソゴゥは目の前の老紳士を、真っ直ぐ見つめた。
本を掴む指に力が入り、本が軋むような音を発てた。
老紳士は、視覚出来るほどの怒りがソゴゥの体を巡るのを見て微笑んだ。
「貴方が、あの悪魔から何を頼まれたのか、だいたい察しております。おそらくは、我々罪を負った亡者のうちの一人を、救って見せようとしているのでしょう。そして、その判断を下すのに、客観的な視点を用いるために貴方が呼ばれたといったところでしょう。ああ、答えなくて結構です。これは私の独り言と思ってください。あの悪魔は、こうして亡者が貴方と接触することも想定して、それを踏まえて貴方に判断させようとしているのでしょうから。私は、私の恣意でこうして情報を提供しているのです。どうか、疑ってください。私を含む全てを。その姿を、私は私が救われることは望んでいません。これは、本心です。もし私を選んだのなら、貴方を呪ってしまうでしょうね。そして、それと同じくらい、『選んでほしくない者』がいるという事だけ、お伝えしておきたかったのですよ」
「貴方の事は、オーナーと紹介されました。オーナーと呼んで差し支えなければそうしますが?」
「それもまた、私の本当の名ではありませんがね」
老紳士は立ち上がり、綺麗に片付いた部屋を見回して頷き、カウンターに用意されていたポットから紅茶をティーカップに注いで、音を発てずにソゴゥの前に置いた。
「それでは、今日のところは、私はこれで失礼します」
老紳士は綺麗な所作で一礼して、部屋を出ていった。それは権力を持った者が纏う驕りや虚勢などとは無縁の、美しい仕草だった。
ソゴゥは恐る恐る紅茶に口を付ける。
温度、香り、風味と申し分ない美味しい紅茶だった。
ここへ来て、ホッとできることなどなかったが、シャワーといい、この紅茶と言い、綺麗になった部屋といい彼のおかげで快適さを感じることが出来たのには間違いなかった。
ソゴゥは本を捲り、物騒な罪の羅列を眺めていたところ、突然クローゼットの両開きのドアが内側から大きな音を発てて開いた。
ティーカップを取り落とし、ガシャンと音を発てる。
続けて、中から出てきた血まみれの軍服男と目が合い、口に含んでいた紅茶を盛大に噴き出した。
丁度目にしていたページと、男の手に浮き上がる印が一致していた。
「虐殺」と書かれている。
「おい、何でお前がここにいる」
「ここが、僕に宛がわれた客室だからです」
平常時より一オクターブ高い声で答える。
「客室? おかしいな、俺は隠し武器庫の扉を開けたつもりでいたが、また空間が歪んじまったのか」
男が、クローゼットに戻ろうとしているのを慌てて止めて、部屋のドアから退場いただくよう案内する。
「まだ俺の番じゃないから、今日のところは殺さないでやるよ。まあ、明日食われなきゃの話だがな」
嫌な捨て台詞と共に真っ赤な絨毯の敷かれた廊下を去っていく男の後姿を見送り、部屋へと戻ると、カギを掛けて、ドアの前に丸テーブルを移動させる。クローゼットの前にも大きなテーブルを移動させて立てかけると、ヨロヨロとベッドに倒れ込んだ。
シャーッと音がして、飛びのくと、ソゴゥに下敷きにされた魔獣が背中を山なりにして威嚇してきた。
「お前、いつの間に」
ソゴゥは魔獣をポイっとベッドの下へ放ると、綺麗に張り替えられたシーツと柔らかい布団の中に潜り込んで、そのまま疲れて眠りに落ちた。