2.図書館の怪現象
今回の発令で極東から昨日、このエルフの国、イグドラム国へ戻ってきた。
本来三年の任期のところを、五年に延長したのは自ら志願してのことだった。
自分の代わりにレベル4の司書が二人、後任を勤める。極東へ赴任した者は、その精神を病んで帰国する。それだけ、特殊な環境なのだ。
極東の「特別不可侵領域」そこには、五十年前まで人間の国が存在していた。
いまその場所は、植物がほとんど育たず、周辺の海も汚染され、虫と小動物がわずかばかりいる、死の土地だった。
そこに住む亡国の民のために建てられた「小さな図書館」が、赴任先だった。
イグドラシルは首都セイヴにある本館の他に、イグドラム各地、また世界各国にこの小さな図書館を分館として、飢饉や難病、魔獣被害、食と衛生、インフラに関する知識などを提供している。
イグドラシルのレベル3から4の司書は、この各地にある分館に定期的に異動となる。
レベル5である自分が、地方へ異動となったのは、極東が特別な場所だったからだ。
また、今回のレベル4の二人の任期が過ぎれば、別のレベル5か、レベル4が二人行くことになるだろう。
亡国の民を見て、自分は人間を呪わない日はなかった。
どうしてここまで同じ種族に残酷になれるのか。命とは、人とは、尊厳とは、何故、何故、何故・・・・・・。
彼らが泣かないのなら、自分も泣かないと決めていた。
手のひらに、極東赴任最後の日に渡された小さな靴下がある。赤子が人生で一番最初に履く靴下だ。
かつては白かったのだろう、黄色味がかった色をして、花の刺繡がしてある。
それを大事に司書服の内ポケットにしまう。
今日からまた、イグドラシル本館勤務に戻る。
まずはレベル5の執務室に顔を出し、館長に挨拶に行かねばならない。
図書館職員の通用口から出勤し、五年ぶりのイグドラシルを懐かしく見回す。
階段を上がり、レベル5の共有の執務室のドアをノックする。
ドアを開けると、そこには一人を除き、みな同じ顔ぶれだ。
前司書長のジャカランダが、現役を退いたことは聞いていた。今は、サンダーソニアが司書長であるということで、赴任先から戻ってきた挨拶をする。
「おかえりなさい、セアノサス。貴方が不在の時に、レベル5は一人増えて、一人減ったのよ、こちらアベリアよ」
「アベリアです、よろしくお願いします」
「私は、セアノサスだ。昨日極東から五年ぶりにイグドラムへ戻ってきた。よろしく頼む」
「セアノサス、館長がこちらへ顔を出すとのことだったから、ここで待つといいわ」
「わかりました。そう言えば、ヒャッカ様が引退なされたと聞きましたが、新館長は誰が引き継いだのですか? てっきり、ジャカランダが引き継ぐかと思っていましたが、一緒に引退したとか」
「ええ、お二人はすでに司書職を退かれていらっしゃいます。館長は・・・・・・」とサンダーソニアが説明しようとしていたところに、ドアがノックされた。
直ぐに、ドアが開き深緑色の司書服と、黒い司書服を着た二人が入って来た。
深緑色は最高位の証。このイグドラシルの歴史上ただ一人しか存在しなかったレベル7のみが着用を許された司書服。
そして、その顔を見て息をのんだ。この顔は、昨夜自分が喧嘩を吹っ掛けた相手、あの人間の男だった。
「私は、二年前にイグドラシル館長に就任したソゴゥだ。これは、私の護衛の悪魔で、ヨルという。極東の任務ご苦労だった。私に、何か直接報告することはあるか?」
喉が引き攣れて声が出ない。
サンダーソニアが、自分を極度の緊張状態にあるとみてとったのか、自分の代わりに応える。
「この者が、お伝えしておりましたセアノサスといいます。おそらく、長旅の疲れが出たのでしょう、報告はあとで私が確認して、館長にお伝えいたします」
「そうか、承知した」
館長であるソゴゥはこちらを一瞥して、執務室を去っていいた。
そこで、漸く金縛りが解けたように、息を吸い込むことが出来た。
「セアノサス、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
「あ、ああ。あの新しい館長は、レベル7なのか?」
「そうです、貴方は一度もソゴゥ様にお会いになったことがなかったのですね。そう言えば、貴方が極東に異動になったのが、五年前の春で、ソゴゥ様がこちらにいらしたのが五年前の秋でしたね。来年の春には、第一司書の三年の任期を経て大司書を襲名されます」
「その、イグドラシルは、人間を選んだのか、巫覡ともいえるレベル7の大任に」
サンダーソニアは、その横にいた若い司書と顔を見合わせた。アベリアと紹介されていた司書だ。
アベリアは「もしかして、館長を人間だと思われたのですか?」と聞いてきた。
「人間ではないのか?」
「エルフよ」
「エルフですよ」とサンダーソニアとアベリアが答える。
「だが、あの容姿はどういったことなんだ。まるでエルフらしからぬというか」
「黒髪のエルフはいませんからね、ソゴゥ様のあれは偽装ですね、おそらく」とサンダーソニアが答える。
「何のために、それに、エルフというのは間違いないのか?」
「館長はエルフですよ。何て言ったって、館長のお母様は前大司書のヒャッカ様ですし、お父様は十三貴族のノディマー伯爵家の方です」
「え、十三貴族? 十二貴族ではなくなったのか、それにヒャッカ様の子供というのは間違いないのか? あのヒャッカ様に子供がいらっしゃったなど初耳だ」
「ノディマー家が加わり、十三貴族となったのですよ。最近の事です。また、ヒャッカ様のお子様は、ソゴゥ様をはじめ、皆その存在を秘匿されておられました。歴代のレベル6のお子様方に起きた不幸を繰り返さないために」
「それは聞いたことがある。イグドラシルに存在したレベル6は、ヒャッカ様を除き三人。この三人の子供は、みな攫われたのだったな」
「そう、一人は魔族に攫われてそれっきり、二人目は敵対していた国に連れていかれ、見つけ出したときは、精神を著しく病んでいたといいます。三人目は王宮に匿われていたというのに、何者かに連れ去られて行方不明のままです。ですから、ソゴゥ様のあのお姿は、子供であったソゴゥ様が攫われないよう、エルフであることと、レベル6の子供であることを隠すためのお姿だったのかもしれません」
「そ、そんな、では、なぜ成長した今も、あの姿なんだ?」
「館長がどんなお姿でも、よいのではないでしょうか? 館長の見た目を問題視する方が、私には問題かと思われます」
アベリアが憤然と言う。
「これまでをあの姿で過ごされたのです、ソゴゥ様にとっての自分とはあの姿なのではないでしょうか? 私はソゴゥ様にあの丸いお耳がとてもお似合いだと思います。あの短い黒髪もとても清潔な印象を受けますし、実際いい匂いがします」
サンダーソニアも現館長の容姿に肯定的であるようだ。
「え、司書長、え? 匂ったんですか? どこを、どうやって?」とアベリアが動揺して、変な動きを繰り返していたが、それどころではない。
ああ、やってしまった・・・・・・。
自分はとんでもない事をした。
昨夜見かけた彼は、とても朗らかであり、そして気を抜いた顔をしていた。
本当に、家族水入らずのところを、自分が邪魔をしてしまったのだろう。
館内にいるときは、きっとあのような顔で笑うことはないのだろう。先ほどの彼は、まるで別人のような表情で、その存在も別物のようだった。
ただ昨夜、レベル5の中でも、かなりの武闘派であると自負している自分の攻撃を軽くいなし、たったの一撃で戦闘不能にされた実力は、確かに只者ではなかったが。
やっちまった。
ソゴゥは焦点の合わない目で、第六区画と第七区画を行ったり来たりしていた。
「ああ、絶対俺だってバレてるよな」
「あれだけ、硬直しているのだ、向こうも気が気でなかったに違いない」
「でも、殴ったの俺だし、訴えられたらどうしよう」
ソゴゥは長い溜息を吐く。
「今夜寝込みを襲って、燃やして川に流そう」
「ヨル、そんなことしたら絶交な。お前の召喚魔導書を燃やして捨てるからな」
「それは困る。分かった、あの者の記憶を消そう」
「できるのか?」
「死なない程度に殴ってみようと思うが、どうだろう」
「方法がまさかの物理。ああ、どうしたらいいんだ、俺は暴力に訴えるような、ダメなエルフ野郎だ」
頭を抱えながら、その場にしゃがみ込む。
ヨルが隣にしゃがみ、背中に手を当ててくる。こういうところは、樹精獣に影響されていて、成長している思う。
「向こうが言いだすまで、こちらから話を振らず、黙って様子を見るのがいいだろう。もし、昨夜のことを言ってきたら、その時の相手の様子を見て考えればよいのだ」
「そうだな、藪をつつくのはやめておこう。できればこのまま有耶無耶にして、風化を待とう、そうしよう・・・・・・あれ、ヨル、いま・・・・・・」
「ああ、『何か』いたようだ」
「樹精獣たちじゃないよな」
「ああ。だが、もう気配は消えている。何か、こちらの様子を伺っていたようだが」
「どういうことだ? この第六区画から先は、自分とヨルと樹精獣しか入ることが出来ないのに」
ソゴゥは立ち上がり、「ガイド」と呼ばれる司書がそれぞれ持つ魔法書の装丁に填め込まれた鍵を取り出して、目の前に放る。
小さな飾りのようだった鍵が、光りながら槍のように大きくなり、ソゴゥはそれを掴む。
「館内に紛れ込んだモノを探し出せ」
カギの柄を床に一度突くと、そこを中心として光が円状に広がる。
ソゴゥとヨルの脳内に、イグドラシルの建物すべてのフロア図が浮かび上がり、館内にいる一般客、職員、司書が光りで表示される。客と職員は黄色、司書は青白く光り、樹精獣は白く光る。その中に、赤い光が流星のように縦や斜めに、建物の壁を突き抜けるように移動している。
赤い光は、異物を表すが、誰かが特殊な能力を使った時も同じ色で表示される。
「何だこれ」
「人や動物の動きではないようだな」
「あ、消えた」
「どういうことなのだろう」
ソゴゥは青い顔をして「今日は、樹精獣を抱っこして寝よう・・・・・・」と呟いた。
「あと、ヨル、夜中トイレにつき合わせるかも・・・・・・」
「我もだ」
「いや、おまえトイレ行ったことないじゃん、必要ないじゃん。ってか、悪魔も幽霊とかって怖いの?」
「幽霊なのだ、怖いに決まっている」
「えー、嘘つくなよ」
「人の感覚を覚えようと思ったのだ」
「それは、勉強熱心で何よりですね」とソゴゥは、消えた光についてどうすべきが思考を巡らせていた。
司書が一人行方不明との報告を受けたのは、閉館し各区画の確認作業とその報告が行われている時だった。
広大な面積を誇る国立図書館を細かく地区分けし、各地区の担当グループが、開館や閉館の準備に当たる。特に閉館の作業は重要となる。
司書以外が館内に残っていると、命にかかわるからだ。
行方不明なのが、司書でまだよかった。
これが、一般客やレベル2以下の司書資格のない職員だった場合、日没から二時間経過したあたりから、魔力をイグドラシルに吸収されてしまい、完全に魔力が枯渇した場合、生命の維持が出来なくなる。
第九班の班長ローズが、班員の一人が報告に戻らず、担当区画を探したが見つからないと、やって来たのだ。
「館長に伝えますか?」
「まずは、我々で探してみましょう」
報告を受けた司書長のサンダーソニアが、ガイドの装丁からカギを抜き取り、魔法の杖のような形状へ変化したカギを持ち、行方不明の司書の名を呼ぶ。
あたりの空気が一気に張り詰め、細く高音の弦を弾くような音が周囲の者の耳孔を突き抜けた。
「第三区画に、弱い光が停滞していますね、この位置は・・・・・・なんでこんなところに・・・・・・」
ローズやサンダーソニア、それに何かあった時のためにセアノサスを伴って光の場所へ向かう。そこは、一般客や司書が立ち入りらない裏側、館内の設備を維持するための魔法回路が集約された部屋だった。
通常は館内の設備を担当する専門職員、また一部資格を持った司書のみが入室を許される場所で施錠されているが、その扉が開いたままとなっていた。
サンダーソニアは、当該区域に設置された侵入者避けの自動発動魔法を解除してから、その部屋に踏み入った。
ローズは倒れている司書に近づき、サンダーソニアとセアノサスは周囲を警戒し、異常がないか確認する。
「ちょっと、しっかり!」
倒れているダンデは、ローズの思い切りの良い打擲に目を覚まして、涎をぬぐって周囲を見回した。
「ダンデ! 大丈夫? どこか痛くない?」
「ああ、何か頬っぺたが痛い、あれ、どんどん痛くなってくる、何で?」
「他は? 頭を打ったとか、お腹とかは?」
「べつに、大丈夫だよ。それより、ここは? こんな所あったっけ?」
「ダンデ、貴方は、どうやってここへ来て、どうしてここで倒れていたのですか?」
サンダーソニアが尋ねる。
「ああ、司書長、すみません。私は、ええと、ああそうだ、担当の第三区画の書架に隠れている少女を見つけて、その子を追いかけていたのです。そうしたら、そうだ、そこのドアが開いていて、少女が逃げ込むのを見て、その後を追って行ったところで、雷に打たれたみたいな衝撃が来て」
「侵入者避けに当たって、気を失っていたというのですね。しかし、その少女の姿が見当たりませんね。それに、私が先ほど館内の者を全て確認しましたが、現在図書館内には司書と樹精獣しかおりませんでしたよ」
「え、では、あの少女は・・・・・・」
「その手のそれは」
セアノサスがしゃがみ込んで、ダンデの手を取った。
「何だこれ、いたずら書きみたいですね、私が書いたものではありません」
「これは、『大食』の印だ」
「え、私は司書になって、これでも20㎏は痩せたのです。それに、もう暴食はしていません」
「そうだよね、ダンデ痩せたよね」
セアノサスは、大事にしまった物を司書服の上から触り、その印を呆然と見つめた。
「大食」または「食人鬼」、許されざる七人の亡霊の物語を思い出していた。
極東を発つ日に預けられた、小さな靴下。
少女は、これをある人に渡して欲しいと、セアノサスに託した。
だが、セアノサスは迷っていた。
これを渡して、大丈夫な相手なのか、信に足る人物なのかと。
煩悶しているうちに数日が経ち、また第三区画でひと騒ぎが起きた。
第三区画で司書が一人、倒れたという。
彼は第四区画のエリア班長をしているレベル4の司書で、担当区画ではない、第三区画に訪れては、格下の粗探しをして、高慢な態度で頭を押さえ込む人物だったらしい。
その日、レベル3で、司書になったばかりの新人に男が強く当たっていたのが、目撃されていた。ローズとダンデが半ベソの彼女を慰めていたところ、野太い悲鳴が響き渡って、駆け付けると、男が泡を吹いて倒れていたのだという。
レベル5の司書達が事情を聴いていると、彼は少女の幽霊を見たという。
セアノサスは、この時、男の手の甲に「毒」の印を見た。
その後も、似たような事件は続き、そのたびに「虐殺」、「爆弾魔」、「独裁」、「扇動」の印を見つけることとなった。
司書は必ず二人以上で行動すること、何かを見かけたら追わずに、レベル5以上の者に報告することが義務付けられた。
変わった少女だった。
亡国の民は、施しをよしとせず、布を巻いただけの服に素足で、骨と皮だけの体、そしてとても短い人生を生きていた。
小さな図書館だけが、あらゆるものを遮断していた亡国に許された、外からの文化だった。
かつては一億を超える人口を誇っていたとされるが、現在は一万に満たない民で地下に村を形成し、その数は、年々半減して、あと十数年で滅びる計算だ。
昼間は、イグドラシルの若木が発する魔力を浴びに村の人間が訪れることもあった。
逆に夜は、危険だからと、柵を作り影響のある範囲に人を決して近づけさせなかった。
司書の役割はそれが大きかった。
イグドラシルは花も実もつけないが、死んだ大地に根づき、周囲の土を変える。
彼らが認めたのは、その一点に尽きたのだろう。先代の大司書の長い長い説得により、イグドラシルの分木を植えることを認めても、こちらの水や食料、知識の提供は受け付けなかった。
もともと、この世界でも最も高い文化水準にあった国だったという。
水はかつての技術で掘られた地下水を利用し、居住は地中へ、食料も地下にいる昆虫や穴ネズミなどを食している様だった。
彼らの容姿は皆幼く、稀に白い髪の者もいるが、ほとんどが黒い髪に、黒い瞳だった。館長をセイヴの街で見たとき、彼らの顔が浮かんだ。
村人が誰も、図書館の建物に入ってこようとはしない中、ただ一人、毎日のように訪れる少女がいた。本当の年齢は分からない。
彼らは皆痩せていて小さく、子供と大人との区別があまりなかったからだ。
彼女は本を借りに来た。
そして、一つの話をしていく。
あの国で起きた、戦争の話。
その戦争の最中にいた、七人の大罪人の話を。
そして私に、いつもこう尋ねる。
「一番悪いのは誰?」と。
何かに圧し掛かられるような寝苦しさに目を覚ました。
何かがここにいたような気配を感じる。
寝汗を拭い、水差しから水を注いで飲む。
枕元のサイドテーブルに置いていた、ガイドのカギ部分が発光している。
直ぐに司書服を着て、廊下へ出る。
青白い何かが、廊下を過ぎるのを見た。
あれが、ここ最近目撃されている、幽霊なのだろうか。
他のレベル5の司書が滞在する部屋の扉が開く気配はない。今のところ、気づいているのは自分だけのようだ。
青白い浮遊物の後を追い、階下へ飛行しながら追いかける。
途中、対象が壁をすり抜けるのを、迂回して、何とか第三区画でそれに追いつくことが出来た。
第三区画のこの場所は、まるで本で出来た神殿のような場所だ。二フロアをぶち抜きで、本自体が壁や柱のようにぎっしりと詰め込まれ、壮観で静謐なこのイグドラシルでも特徴的な書架と言えるだろう。
地震の少ないイグドラム国だが、本と棚にはそれぞれ落下防止の処置がされている。こんなものが一斉に落ちてきたらと思うとぞっとする。いつもそんな感想を抱いていた場所だ。
そして、今まさに、その恐れが現実となった。
追い詰めたと思った幽霊は、あの少女に似ていた。
何かを訴えるように、怒り叫んでいるようだった。
そして、見渡す限りの幾千幾万の本が、豪雨のように降り注だ。
それは、イグドラシルへ来て、司書となって長い年月を過ごす自分が初めて見る、第三区画の崩壊ともいえる大惨事だった。
地面を揺るがすような大音響と、塵芥のように積み重なる本という本。まるで、怒り狂う大気のような青白い粒子が鼓動のように明滅し、この空間に満ちて、荒れ狂っていた。
柱の陰まで退避して衝撃と、埃に咽びながら、この惨状の要因が自分にあるのだと、震えた。
「頼む、イグドラシルを侵さないでくれ! これらは全て大事な、誰かを救うための知識だ、一つでも欠く事のないよう、守っていかなくてはならない」
光りは渦を巻き、真偽を問うようにこちらを伺っているのが分かる。
「ちゃんと約束は果たす。だから、もうこれ以上は・・・・・・」
青白い足から、体、そして顔と、拡散していた光が集まり、少女の姿を成す。
青白い光は照度を落とし、人のような色彩を纏う。そして、その顔、その姿はやはり、あの極東にいた少女で間違いないようだ。
司書服にしまった、あの小さな靴下を服の上から握る。
「これは・・・・・・」
後ろから、次々と館内にいたレベル5の司書達が集まって来て、目の前に広がる光景に唖然とし、中には悲鳴を上げる者もいた。
無理もない。
今いるレベル5が経験したことのない、未曾有の事態だ。
何処からともなく、樹精獣も集まってきた。
「どのような理由があれ、これは許せませんね」
サンダーソニアが少女の霊の前に、立ちはだかる。
アベリアが「怪我はありませんか」とこちらに声を掛ける。
他の司書たちは、司書長の横に立ち、場合によっては少女の霊を排除しようと交戦態勢だ。
司書は、イグドラシルの図書を傷つけられることを決して許さない。
少女は、一度こちらに目を止め、そして彼方を指さして、あっけなく消えた。
「幽霊ですか」
サンダーソニアが呆然と少女の消えた空間を見つめて言う。
積み重なった、膨大な本の山だけが残った。
「この区域は当面閉鎖しましょう」
「復旧に、半年はかかるでしょうか・・・・・・」
「そんなに掛けられません、ただ、この数万の本を棚に戻すだけでも、全司書を交代制で毎日行ったとしても三十日は超えるかもしれませんね」とサンダーソニアがため息を吐く。
「サンダーソニア」
「館長!」
「怪我人は? 被害はあるか?」
サンダーソニアの視線の先を振り返ると、何故か小さな樹精獣を三匹抱えたソゴゥ館長が立っていた。
「いえ、怪我人はありません。視認できる全ての図書が落下していますが、見た限り破損や焼失などの被害はないようです。ですが、原因と思しき霊体は取り逃がしました」
「そうか。それにしても派手にやってくれたな」
「あの、館長、ここは我々がやっておきますので、館長は第七区画へお戻りください」
「分かった。では、棚に戻すだけはやっておくから、その後は頼む」
「え?」
積み重なる山から、生き物のように本が次々と飛び出してくる。それらの本は自ら、高所にある棚から順に納まっていく。中断から下段、絶え間なく棚に飛び込んでき、山はどんどん小さくなり、そして柱の陰や、装飾に引っ掛かっていたものまでが全て、棚の中に納まった。
三十日を覚悟していた作業が、ものの五分とかからずに終了した。
全員が一様に唖然としている。
館長はイグドラシルに強制コマンドを送るカギを使用したわけでも、大魔法の詠唱を行ったわけでもない。
ただ、視線を本と棚へ向けていただけだ。その間、魔力を使用していることが分かる光彩の光を発しただけで、他にとくに大掛かりなことはしていなかった。
「あとは、ガイドを確認しながら、時間のある時に並べ替えればいい。とりあえず、この状態なら開園には支障ないだろう」
館長はそう言うと、首にしがみ付いていた、樹精獣を抱えなおした。
「館長!」
感極まって抱きつかんとするアベリアの襟首を、護衛の悪魔が掴む。
「樹精獣がつぶれるであろう」と行動は雑だが、至極真っ当な事を言う。
「では、他の者も早く休むように」
「館長、後で、いや、明日お話がございます」
「分かった」
確かに彼は、尋常ではない能力を持った、優秀なエルフのようだ。もう認めないわけにはいかないだろう。
彼ならもしかして、いや、過度な期待はよそう。
ただ、約束を守るだけだ。
翌朝、ソゴゥは開館前に酷く緊張して執務室に訪れたセアノサスを迎え入れ、見下ろされることを避けるため、椅子を勧めた。
テーブルを挟んで、真向いではなく少し斜めになるようこちらも座り、彼の緊張が、どういう種類のものなのか観察する。
先日の人間に対する差別的な発言についてか、後から上司と分かった者へ難癖をつけたことに対しての後悔か。
どちらにせよ、あの時のセアノサスの言動や行いは許せるものではない。ああいったことは、差別意識がなくならない限り、繰り返される恐れがある。
「ソゴゥ館長、私は、とんでもない事をいたしました」
セアノサスが声を絞り出すようにして続ける。
「ここで、先日のことを謝罪すれば、貴方が館長であったためと取られて当然ではございますが、それでも、まずは謝らせていただきたい。誠に申し訳ございませんでした」
続く言葉が、こちらの期待するものであるといいのだが。
ソゴゥは無言で続きを促す。
「私は、あの日、人間の国があった島、極東から戻ってきたところでした。極東は、言葉に尽くしがたい、酷い有様でした。言い訳をしたいわけではございません。ただ、今でも、私は彼らを、あのような目に合わせた人間が憎く、また、彼らが不憫でならないのです」
「百年前に端を発した極東の戦争で、五十年前完全に不可侵領域となった土地ですね」
「五十年の長きを戦時下とし、ついに国が崩壊したのが五十年前。その後、かの領地をどこの国からも退けたのが、亡国の民の母と言われる者です。今は病に臥せ、誰とも会うことはありません。かの国で最も長く生きている者でもあります」
「イグドラシルの若木を受け入れてくれたのだったね、ただ、民を思うなら、何故支援を受け入れないのだろう」
「それは、私にも分かりません。ただ、彼らは、命を繋ぐためでも、繫栄するためでもなく、滅びるまでの間を、殉教者のように祈りと懺悔に身を置いて過ごしているかのようです。イグドラシルの若木を受け入れたのは、土地のため、土地に住む動物のためという事なのだと思います」
「そうか、悩ましいな、生きることをやめてしまっているかのように聞こえる」
「戦争は人の性質を大きく変容させます。戦争の記憶は、いまだに彼らに絶望を与え続けているようです」
「そうだったのか」
「その極東に赴任していた際、大司書様あてに預かった物がございます。前大司書様が現役を退かれている今は、これは現イグドラシルの最高位である、ソゴゥ館長にお預けするのが正しいかと思い、お持ちいたしました。これは、図書館へよく訪れていた少女から預かった物で、その少女というのが、ここ連日霊体で現れていた少女です」
「幽霊からの預かり物?」
「極東にいた際は、決して幽霊ではございませんでした」
「では、何かあったのだろうか?」
「連絡は取り合っておりません。彼女が生霊なのか、それとも私が発った後に何かあったのかはわかりません」
「そうか、それで、預かり物とは?」
「こちらです」
セアノサスは司書服から大事そうに紙にくるんだ、小さな靴下を取り出した。
赤子が履く靴下だ。
それを両手で受け取る。
「私には、これがどういうものか分からない。だが、歴代の大司書なら、誰か分かる者がいるかもしれない。私からそれぞれに確認してみよう」
「はっ、ありがとうございます。どうか、よろしくお願いいたします」
「ああ、可愛い靴下だね、きっと女の子の赤ちゃんの物だったのだろう」
セアノサスは深く、頭を垂れていた。
彼の心には、深いトラウマが刻まれているのだろう。
そのトラウマと、彼の人間に対する拒否反応が薄まる日が来るといい。