目隠れ聖女のビフォーアフター
「おっ、ねーねーそこのオネーサン、今って暇? 暇? 確実暇だよね?」
ところどころ破れ、泥だかなんだか分からない汚れがこびり付いた服。
脂ぎり、見るからにベタついた髪は腰ほどまでの長さだけれど、いかんせん不潔な為正確な長さも色も判然としない。
顔にもばっさりと前髪が被さり顔立ちも窺えないが、その小柄な体型と立ち居振る舞いの様子からその人が年若い女性であろうということだけは推測できる。
よろよろと歩く様子は確かに何か用事があるようには見えないし、それはつまり暇といえば暇なのかもしれない。
自分に声をかけられたとは思ってもみない彼女は、「なんだか声の大きな人がいるわね」などと思ったものの、行く当てもなくよろよろと足を進めた。
「オイオイ無視ぃ? もしかして俺のこと無視しちゃってる感じぃ? 傷付くわぁ〜これでも結構有名なんだけどなぁ〜聞いて驚く、登録者数100万人、再生回数1000万回超えの──いやちょいちょい待ちぃ!」
白に近い金髪の毛先を遊ばせ、キリッとした形のいい眉にくりっとした茶色の目、鼻筋は通り、よく動く唇は薄いが口は全体的なバランスから見て少し大きいだろうか。話すたびにちらりとのぞく犬歯がチャーミングなその男は慌てて駆け寄り、ふらふらと歩く女の腕を掴んだ。
慌てていた割にはその手は優しく、くいっと引かれた女は予想外の動きに少しよろめいたものの痛みなどは感じない。
たたらを踏んだ女の肩をふわりと優しく捕まえると、腰を屈めて目線を合わせた男はニッカリと笑って言った。
「オネーサン、カットモデルやらない??」
カットモデル、とは。女はそれが何を指すのか知らなかったし、この男が自分に何を求めているのか全く分からなかった。
けれども、この薄汚れた自分の身体を躊躇なく触り、そしてしっかりと目線を合わせて(目は髪の毛で隠れているはずだけれど)にこりと微笑みかけたその表情に邪な物を感じなかった為だろうか、ついうっかり、コクリと頷いてしまったのだった。
◇
「んじゃ、まずシャンプーからいっちゃいますかぁ!」
やたら座り心地の良い椅子に案内され、首に清潔なタオルと大きなケープを被せられ、身動きの取れなくなった女は訳も分からず視線を彷徨わせる。
目の前には大きく歪みのない鏡が置かれており、久々に目にした自分の無様な姿に胸が締め付けられるような惨めさと、カッと頬が熱くなるような羞恥を覚えた。
対して女の髪を「ここまで伸ばすの大変だったろうねェ」などと検分している男は真っ白なシャツに細身の黒いパンツがシンプルながらも似合っており、彼の清潔で皺のないシャツが嫌味かと思えてくる始末だ。
「椅子倒しまぁす」
自らの手の置き場も定まらぬような状態の女を置き去りにしたまま、男はテキパキと準備を整え座り心地の良い椅子をフラットに近い状態まで倒していった。
「うっふ、もっと頭こっちに預けちゃって良いよォ〜! さあリラックスリラックス。人に髪洗われるのって気持ち良くない? 俺もだーい好き。眠かったら寝ても良いからねェ」
女の顔には薄く軽い布がかけられ、視界は遮られている。その姿は見えないが、喋り口調から男が楽しそうに笑っているのが分かる。
何が楽しいのか、鼻歌を口ずさみながらシャワーの温度を確かめ、「流していきまぁす」と女の髪を洗い出す。
最後に髪を洗ったのはいつだったか。ましてや人に世話してもらうなど──。
酷く汚れた長い髪はたいそう洗いにくいことだろう。脂ぎって固まったところなど、先に切り落としてしまったほうが早いだろうに。
面倒そうな気配などひとつも出さずに、楽しそうに髪を洗う男は相も変わらず聞いたことのない鼻歌を口ずさみ、指先で柔らかく頭皮を揉み込んでいく。
──気持ちがいい……。
こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。訳のわからぬ状況に固く強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。
どちらにせよ、もはや行くところも生きる目的もないのだ。こんなに髪が綺麗になるのも人生で最後かもしれないのだし。
どうにでもなれ、という気持ちで開き直ってみると、案外人は図太くなれるものらしい。もとより疲れ切っていた身体は素直に休息を求め、座り心地の良い椅子と暖かな湯、優しく頭皮をマッサージするかのような男の指先と楽しげな鼻歌に誘われるように、意識はゆっくりと沈んでいった。
ゆらり、ゆらりと揺れる身体に、昔懐かしい夢を見た。
「おとうさま、抱っこ!」
「おやおや、我が家の姫は随分と甘えん坊だな」
「うふふ、お父様に抱っこして貰うんだって、昨日から言ってましたのよ」
背の高い父の腕の中で、綺麗に整えられた庭の花を母と3人で見て回った。
ゆらり、ゆらり。時折背中をポンポンと優しく叩かれて、その大きな手に包まれると心から安心出来た。母の穏やかな笑い声を聞けば、光が煌めくような楽しい時が流れた。
そう、そんな幸せな時代が、確かにあったのだ。
最初のきっかけは母が病で死んだことだろう。母を心から愛していた父は荒れ、酒に逃げ、心を病んだ。金を騙し取られ、家はだんだんと暗く荒んでいく。
そうして女が初潮を迎えたその日のこと。これまで母とそっくりだった茶色の髪と目の色が、輝く金髪と血のような赤い目に変わったのだ。
その変化を目の前で見た父は、酒の入ったカップを落としてこう言った。
「そうか、お前が、悪魔だったのか」と。
◇
「あ、目ぇ覚めましたァ? よーく寝てましたね!」
瞼を開けると、そこには歪みのない鏡に映った金髪の女と、犬歯が目立つ口でにっこりと笑う男が映っていた。
「オネーサン、めちゃ綺麗な金髪でマジびっくり! 頭の形も良いし、これはどんな風にしても絶対似合っちゃいますよ〜! どうしますどうします? 希望とかありますぅ?」
「……目が、隠れれば、それで」
「あっ、今前髪かなり重めですもんね〜! 確かに重めバングも可愛いけど〜、オネーサン実はおでこめちゃ綺麗っしょ?! シースルー系かぁ、思い切ってセンターパートにしてがっつり出しちゃっても垢抜けると思うんだよねェ!」
「いえ、でも……」
「だーいじょぶ大丈夫! 春はイメチェンの季節だから! ばっさりいって心機一転、視界良好も良さげじゃない?! 毛先の方も頑張ったけどやっぱチョーッと傷んじゃってるし、ダメなとこ切っちゃえば次からのお手入れも楽になるしぃ」
「──心機一転……そう、ですね。それも……いいのかも、しれません。だめな、ところ……私のダメなところ、全部……捨てちゃって下さい」
重い前髪の奥から、鏡に映る男を真っ直ぐに見る。
赤い瞳をスプーンで抉り出そうとした父ももう死んだ。珍しい色だからと、保護するふりをして奴隷商に女を売り渡そうとした村長も、流石にこの王都までは追って来ないだろう。
道中も女ひとりで楽な道のりではなかったけれど、それでもここまで生きてこられたのだ。
死んだほうがマシなのではないかと何度も思った。それでも、お腹が空けば草を喰み、足が擦り切れても歩き続けてここまで来たのだ。
何のために? ──わからない。それでも、ダメだった過去を捨てて、自分に何が残るのか。それを、確かめてみたいと思ったから。
「良いっすねー! バッチリ綺麗に大変身して、新たな人生の一歩始めちゃいましょー! フゥ〜!」
男の手は大きく、しかし指は細く長い。シャキシャキと動かされるハサミの先は生きているかと思えるほど繊細な動きをしており、切れ切れになった金の毛先が光を纏いながらぱらぱらと舞い落ちていく。
シャキ、シャキ、シャキ。小気味良く響く音の中に、男の鼻歌が混じる。
切り落とす線が見えているかのように迷いなく、楽しそうにくるくると動き回る様子はダンスを踊っているようにも見える。
「よぉし、あとは前髪いっちゃいましょ〜!」
長い指が額に軽く触れ、そっと取られたそのひと束から金の髪がはらりと落ちる。
シャキ、シャキ、シャキ。明るく開けていく視界。そうして見つめた鏡の中で、赤い瞳と、男の茶色い目がぶつかりあった。
『悪魔の目』
咄嗟に逸らそうとしたその顔を優しく両手で挟み、男は鏡越しにニカっと笑って言った。
「オネーサンの目、チョー綺麗なんスけど!!」
女が生まれた村に、赤い目の人間など1人もいなかった。ましてやある日突然色が変わるなど、普通のことではあり得ない。
だからこそ悪魔の目だと忌み嫌われて石を投げつけられたのだし、住む家も追われて叩き出されたのだ。
綺麗、などと。そんな風に評した人は、今まで1人もいなかった。
「いや〜これは絶対、センターパート一択っしょ! 綺麗なおでこと宝石みたいな目! 出すっきゃねぇ!! うぉ〜滾る〜」
これまで以上のスピードで、女の髪が切り落とされていく。シャキシャキ、シャキシャキ。
銀のハサミと金の髪が、揃って光を反射して輝いていた。
「よっしゃ、どうでしょ〜! オネーサン元々緩く癖がある毛質だから、下ろすだけでも抜け感あってめっちゃ可愛いっ! はい、右見て──前見て──はい、左。後ろはね、こんな感じ。どう? どう? めちゃ良い感じじゃないっ?」
男が鏡越しに指差す方へ、首を回して確認をする。
酷く汚れていた何色かも分からない髪は金色に輝き、額の真ん中で分けられた前髪はゆるくウェーブを描きながら両サイドへと流れている。
重かった毛先は軽く漉かれて、跳ねるような動きが出されている。
「──これが、私」
「そう、そう、そうっスよ〜! いやぁちょうカワイイ! 切る前も可愛かったけど、やっぱそのおでことおめめは絶対出した方がもっと可愛いっ!」
ニッカリと犬歯を剥き出しにして笑いながら、毛先をくるりくるりと巻き付けていじる男はてらいもなくそう言って褒めてくる。
生きていても、いいのかな。
「いいっスよ!」
親指を立てて、鏡の中の男が笑う。
「──いいの?」
「いいっス!!」
迷いのないその返答が、暖かかった。
「んじゃ、今日のカット動画、俺のチャンネルに載せさせてもらっても良いかな〜? 今回絶対バズるわぁ、だってもうめっっちゃ可愛いもんなぁ! 俺、天才! 才能の塊! またお手入れしたくなったら来てくれれば、いつでもやるからねっ!!」
「……ありがとう」
「いえいえ〜こちらこそ、ありがとうございましたァ! またぜひご指名ヨロシクでぃす!」
ひらひらと手を振りながら、見送る男の顔は明るい。
私も、あんな風に笑えるだろうか。笑いたい、と思う。生きていきたい、と思う。
どこに向かうかはまだ決まっていないけれど、私の足取りは軽かった。
◇
「いや〜やっぱ再生回数エグいわぁ〜、俺の才能に全世界が嫉妬してるぜぇ」
このカット動画は前例のないほどの再生回数を叩き出し、バズりにバズった。
なにせモデルは輝く金髪に赤い瞳の少女だ。これは神に選ばれし聖女の色である。
今代の聖女は国中を探してもなかなか発見されなかった。選ばれた者は初潮を迎えると同時に聖女の色に変化するので、気付かないはずがないというのに。
それが、王都のいち美容室でカットモデルをしているなんて。
口コミを見て飛んできた司教は美容師の話を聞き、大急ぎで少女を保護した。
聖女は国の宝だ。教会と国に大事に保護されることになる。その神聖力で病を癒したり、その祈りで豊穣をもたらしたりする存在だから。
しかしその力は聖女の心理状態にも大きく影響される為、彼女の意見を蔑ろにして使い潰されるようなこともない。
言ってみれば、ただ幸せに生きてくれるだけでも十分なのだ。
これからは、ただ幸せに。
「俺、マジでナイスゥ〜」
聖女の生まれた村は田舎すぎて聖女の条件が伝わっておりませんでした