はむたんはとってもだいじ
ツトムくんは土曜日の午後、自分の部屋で落ちこんでいた。
来週、学校の保護者参観会がある。ママはやっぱり来られそうにない。なぜならリビングのカレンダーには大きく『重要:県庁から来客13時より』とママのスケジュールが書きこまれている。
ツトムくんはそれで理解できる。慣れているから。
ツトムくんの参観会に誰かが来たことは一度もない。…慣れているけど。
ツトムくんはブタのぬいぐるみにパンチした。
「いてっ」
ぬいぐるみから声が聞こえて、ツトムくんは思わず手から放り出す。
放り出されたぬいぐるみは立ち上がってツトムくんを見た。ベッドに置いてあった時とはちょっと様子が違う。丸い黒縁メガネと斜めにかけられたポシェット、そして何より立ち上がって話す。
「いてえなあ。もうちょっと大事にあつかえよ」
ぬいぐるみは声を出したが、逆にツトムくんは声が出ない。もうひとこと言う。
「ん?だいじ?」
ツトムくんはパニックだ。ブタのぬいぐるみが立ち上がってこっちを見てるからね。
そりゃそうだ。
ツトムくんが小学校に入る前にパパは病気で死んだ。幸いパパが経営していた会社はママがそのまま社長になって、うまくいった。だからツトムくんの家がお金ですごく困ることはなかった。
でもママはすごく忙しくなった。逆にツトムくんは「いい子」になった。
ツトムくんはしゃべり始めたブタのぬいぐるみに恐怖していた。小学校4年生だって、そんなファンタジーな展開は受け入れられないよね。でも勇気を振り絞って話しかけたんだ。
「だいじって確かに君はパパからもらった大事なぬいぐるみだけど…。ごめんなさい。パンチしたり、放り出したりして」
キョトンとして、それから「ぶひひひひ」と笑った。ツトムくんもブタが笑うとこは初めて見た。
そもそもパパからこのブタのぬいぐるみをもらった記憶さえ、ツトムくんには薄らいでいるようだ。その時こう言われて手渡された。
「ツトム、いばらきのローズポークはパパの大好物だ。ママが作ってくれたカツ丼でパパは結婚を決意したようなもんだ」
「パパはかつどんでケッコンしたの?ママよりかつどん?」
ツトムくんが聞いた。
「そりゃそうだ。ワハハハハ、冗談。ママのピンクのほっぺたを守るために決まってるだろ」
ツトムくんがこの話を忘れていたのは小さかったからでもあるけれど、パパのことを思い出すと泣けてくるからだ…と思われる。
「君は…誰だい?」
「俺かい?俺は…そうだな。ハムたんと呼んでもらおうか。ツトムが元気ないから、やって来たぜ」
ツトムくんはうさんくさいなあ、と思ってる。自分のことをニックネームで呼ばせるやつなんてな。
「…その、ハムたんはなぜ動けるの?いや、どういう生き物なの?待って。僕は眠って夢を見ている?」
「ぶひひ。夢は見た方がいいけど、起きて見る方がいいな。なぜ俺はぬいぐるみなのに動けるのか、それは謎だ。俺にもわからない。ただ俺がここにいる理由は知っている。お前を助けるためさ」
このブタのぬいぐるみに参観会の悩みを打ち明けてどうにかなるはずがないじゃないか。ツトムくんは何だかガッカリして見下ろす。ブタのぬいぐるみなんて、あてにできないって顔だ。そりゃそうだ。
「おい、ツトム。お前、俺が当てにならないと思ってないか」
ツトムくんはギクリとする。
「でも、僕のママが参観会に来られないのを君がどうかできるとは思えないよ。それにママが頑張って働いているから、死んだパパの会社はうまくいってるんだ。文句なんか言えないよ」
ブタのくせに「うーん」とうなり、腕を組もうとしたけれど前足が短すぎて組めず、すかしてしまった。その仕草が面白くてツトムくんは吹き出す。不思議だけどもう怖さはなくなったようだ。
「ツトムはずいぶん大人な考えをするんだなあ」
「僕だってもう小4だからね」
「子供じゃん」
「子供だけど、甘えてはいられないよ。ママは大変なんだから」
「フーン、それでママの予定を見て勝手に落ちこんでると。参観会のお知らせも見せず」
ツトムくんは唇をとがらす。
「ママを困らせたくないんだ」
ツトムくんの眼をのぞき込むように喋ったさ。
「そうだな。お前に教えてやる。お前は利口だけどすごく馬鹿だからな」
ツトムくんはちょっと腹を立てて睨んだ。こんな目つきもできるようになったかな。
「利口だけど馬鹿ってどういうことだよ」
「お前はママにどうしてほしいか、ママに何も言ってない。ママはそれがうれしいだろうか」
「…」
「まあ、いい。俺の役目はお前を元気にすることだからな。困らせることじゃない」
そう言って、ポシェットからクッキーを1枚出した。
「食べれ」
ツトムくんはためらった。いきなりブタのぬいぐるみから進められたもの、食べられないよね。
そりゃそうだ。
でも何だかこのブタを信用してもいいんじゃないかとツトムくんは思ってしまっていた。不思議なことだけど。だからツトムくんはこのクッキーをかじった。マズくはなかったけど美味しくもなかったね。
「ねえ、ハムたん。このクッキーは何なの。こういう場合は魔法のクッキーをくれたりするのが、喋るブタのぬいぐるみじゃないの」
ツトムくんも慣れてきたんだね。ニヤリと笑った。
「ツトム、俺はしばらく黙るぞ。ママが帰ってくる。俺のことは内緒だ」
「ハムたん、また話してくれる?」
「ツトム、クッキーはあと2枚。さあ、ママが来た。不機嫌顔は直したか?ツトム、だいじ?」
ツトムはだいじ?
「ツトム、ただ今」
「お帰りなさい。ママ」
「ママ、実は…」
ツトムくんは夕飯の後、保護者参観会のお知らせをママに見せた。ぬいぐるみがこっちを見てる…ような気がしたからだ。ママはそれを見て柔らかく笑った。
「ホント、ちょうどよかった。この日大事なお客さんが来る予定だったんだけど、さっき延期の連絡があったの。今回は必ず行くわよ」
「えっ!本当なの?」
ツトムくんはビックリだ。これはクッキーの力?まさかねえ、と思ってるだろ。
ツトムくんがにっこり笑うとママはちょっと座り直して、ツトムくんの顔を真っ直ぐ見た。
「ツトム、もうひとつ大事な話があるの。それは…」
自分の部屋でツトムくんは昼間よりも不機嫌な顔だ。
「ハムたん!」
ちょっと乱暴な声でブタのぬいぐるみに声をかける。すぐ立ち上がった。
「ツトム、どうした。さっきより、もっとつらそうな顔になっている。ツトムだいじ?」
「だいじ?うん。ママが大事な話があるって、新しいお父さんの話だったんだ」
ちょっとの間、言葉がなく動けなかった。それからゆっくり言った。
「ツトムは新しいパパは嫌なんだ?」
「嫌だよ。僕の好きなママは死んだパパのことが大好きなママだ…なのに」
ツトムくんが黙ってしまったのを、急かしたりしない。優しく見ているのがいいんだろう。
「『よかったね』って作り笑顔でママに言った僕がすごく嫌なんだ。僕は死んだパパのことを忘れていく悪い子だ。ママが幸せになるのを嫌がってる悪い子だ」
「ツトム、クッキー食べれ?」
泣き顔のツトムくんはちょっと暗い眼だ。
「新しいパパなんて嫌だと思って食べたらどうなるの?」
「俺の役目はお前に勇気をあげることだ。食べれ」
ツトムくんはこわごわクッキーを食べる。美味くないよなあ。まずくはないけど。
その夜ママはダイニングのテーブルで遅くまでツトムくんのことを考えていた。ツトムくんはママを困らせない「いい子」になった。でも同時に言いたいことも、ママにさえ言えない「いい子」になっちゃったんだ。
ママは自分を責めてたさ。忙しくってツトムくんに愛情を注げなかったんじゃないかってね。パパの写真をジッと見る。
そんなことないさ、ママ。一生懸命やってきたじゃないか。泣きそうだ。
「公希さん…」
優しそうな眼が今でも何か話しかけてくれそうだ、なんてね。
新しいパパ(予定)のことは大好きだけど、死んだパパのこと忘れたわけじゃないって。わかってる。
ママはそのうち泣きながら、テーブルで眠っちゃった。風邪引かないといいんだけど。ママ、だいじ?
「ママ、起きて。起きて。風邪引くよ」
夜更けにツトムくんが眠り込んでしまったママを起こした。ママは顔を上げるけど、まだ寝ぼけ眼だ。
可愛いなあ、ツトムくんの顔を見て微笑むママ。
「不思議だわ。死んだパパが出てきた。なぜかブタの姿よ。フフフフ」
「…!」
ツトムくんはわかっちゃった。ハムたんの正体だ。…ばれちゃったか。そりゃそうだ。
「ママ、僕は嫌だったんだ!新しいパパなんて嫌だったんだ!死んだパパがいなくなっちゃうようで。ママが言ったじゃない。みんなが忘れたらホントに死んだことになるって。新しいパパが出来ることはパパを忘れることになるんじゃないかって」
ツトムがワーワー泣きながらママに全部言った。心の中にあること全部言った。ありがとな、ツトム。
ママがツトムをギュッとした。俺も二人をギュッとした。残念ながら透けてるけど。
テーブルの上のクッキー…ツトムが気がついた。
「ママ、僕はもう元気が出た。この最後のクッキーはママが食べれ」
「…何その言い方。死んだパパそっくり」
ママがちょっと引いてるかな。それでも頬の涙をふきながらクッキーを口にする。
ママ、それにしても何の疑問もなく食べるかね?
ツトムは涙を拭かないまま、俺の写真を持ち上げる。
「パパはメガネかけてた?」
「…何で知ってるの?夜に読書するときだけの…」
「黒縁の丸眼鏡、それからママは二人っきりの時、公希の公をもじって…」
「…」
うーん、ツトム。あんまりママを気味悪がらせるなよ。ママがびっくりしてるじゃないか。怪しまれるよなあ。そりゃそうだ。
「もっともっとパパのこと話してよ。新しいパパとも一緒に話せるかな」
「ツトム…」
ママが泣き出した。ツトムは何でか俺の方を見て話し始めた。見えてるの?
「パパ、今まで見ててくれたんだね。もう大丈夫。嬉しいことも悲しいことも怒ってることも全部ママと分け合う。ママの悲しいことや寂しいことも全部僕が半分もらう。今度は僕が元気や勇気を周りの人に、新しいパパにも、あげるんだ。もちろん、ママのローズピンクのほっぺたは僕が守る」
それからママの頭をよしよしと撫でて言ったさ。
「ママ、クッキー食べて元気出た?だいじ?」
俺の口癖がうつったか。「だいじょうぶ?」っていう茨城弁だね。
ママの涙腺がまた決壊し、ツトムを抱きしめる。
「何よう!それ!何でパパがツトムの中にいるの?パパ!パパ!ハムたん!会いたい!ハムたん!」
うーん。まあ、間違ってはいないか。俺はこっちなんだけどね。
「なあ、ツトム。見えてるの?」
ツトムが俺の方を見て、一人前の男の笑顔でサムズアップし、またママの頭をいい子いい子と撫ぜた。
うーん、そりゃいい役だなあ、ツトム。
ママもお前ももうだいじ?そりゃそうだ。
はじめて「童話」というものを意識して書きました。難しいモノです。