第十八話 泣きたくなるほど胸が痛くて、理由も分からないまま頷いて
『今日の放課後、少し時間もらえるか? ちょっと相談したい』
陽向が翔太にそう言われたのは、朝の登校中だった。
口調は静かだった。だが、翔太は思い詰めた顔をしていた。その目には、色んな感情が見て取れた。悩み、苦しみ、困惑、苦痛。表情が、気持ちを物語っていた。
今日一日、陽向はほとんど翔太と話さなかった。昼食のときも、彼は無言で何かを考えていた。声をかけて、邪魔になってはいけない。そんな気がして、話しかけられなかった。
授業後のホームルームが終わって、陽向は翔太の席まで行った。
「翔太、帰ろう。今日、ジム、休むんでしょ?」
「ああ」
翔太は頷くと、鞄を持って席から立った。顔つきも様子も、朝とは違っていた。追い詰められた様子から、決意を固めた表情になっていた。
翔太が何を考えているのか、陽向には分からない。想像もつかない。自分は彼のように賢くないと、陽向は自覚していた。
一緒に教室を出た。一、二年用の側面玄関に行き、外靴に履き替えた。校舎から出た。
しばらくの間、互いに無言だった。
陽向は、翔太の言葉を待っていた。
翔太は、話し始めるタイミングを伺っているようだった。
学校から出て、十分ほど歩いただろうか。互いの自宅に向かう道。国道沿いの歩道まで来た。自宅のマンションまで、あと十分ほど。
ここまで来て、翔太がようやく口を開いた。
「陽向。頼みがあるんだ」
「うん」
翔太の表情は固い。真剣に何かを考えている顔。その表情に、陽向は見覚えがあった。試合のときの、集中しながら思考を広げている顔だ。
「ただ、内容を話す前に、ひとつ言っておきたいことがある」
「何?」
「どんなことがあっても、陽向に迷惑はかけないようにする。それだけは絶対に約束する。だから、俺を信じて欲しい。でも、もし少しでも不安なら、断ってくれて構わない」
陽向は首を傾げた。翔太の顔は真剣そのものだ。こんな前提を陽向に伝えて、彼は何を頼んでくるつもりなのか。
陽向の目から見て、翔太は優秀だ。かつて彼を助けたこともあったが、今では、そんな必要などないだろう。もしチンピラに絡まれたとしても、今の翔太なら、一人でどうにでもできるはずだ。
今の翔太は、生まれ持った身体能力を除いて、全てにおいて陽向よりも上をいっている。そんな彼が、陽向の協力を得て何をしようとしているのか。彼なら、陽向の力など借りなくても、大抵のことはできるだろうに。
ふいに、ひとつだけ、陽向の頭に思い浮かぶことがあった。翔太が、陽向の力を借りなければできないこと。
ゾンビ化。
吸血鬼の力を使って、翔太が何かをしようとしているのだとしたら。例えば、美智を殺した犯人が特定できて、そいつを捕まえようとしているとか……。
意図的、もしくは過失で人間をゾンビ化させた場合、その吸血鬼には厳しい罰則が科せられる。そのことは、以前、翔太にも話したことがある。
吸血鬼の事情を知りながら翔太がゾンビ化を頼んでくるなんて、思えなかった。
歩きながら、陽向は翔太をじっと見つめた。彼の言葉を待った。
翔太の口が動いた。
「飯田先生と、吸血鬼について話がしたい。だから、俺が吸血鬼について──陽向が吸血鬼だって知ってることを、飯田先生に報告してほしい」
「!?」
陽向は目を見開いた。つい、歩く足が止まってしまった。
陽向に合わせて、翔太もその場で立ち止まった。
歩道のすぐ横の国道で、たくさんの車が通り過ぎてゆく。
夕方。西日がやや眩しい。
「どうして?」
陽向の口から出てきたのは、そんな一言だった。
翔太が望むなら、これくらいの頼みは聞ける。飯田先生に多少の文句を言われても構わない。陽向にとって、翔太は大切な人だ。幼馴染みで、恩人で、親友。自分が彼の力になれるなら、大抵のことはできる。
ただ、翔太の頼みの理由が分からない。翔太が吸血鬼のことを知っていると飯田先生に報告して、何になるのか。陽向の思いつく限りでは、翔太にデメリットしかない。
驚きを感じながらも、陽向は、自分の気持ちを口にした。
「そんなことしたら、あんたは、もうボクシングができなくなるんだよ? 何年も一生懸命やってきて、全国でも上の方までいってるのに」
「そうだな」
「それだけじゃない。学校の球技大会とか、将来あるかも知れない会社の運動行事とか、そんなものにすら出られなくなるんだよ?」
「そうなのか?」
「うん。うちのお父さんがそうだから」
陽向の父は、母──灯が吸血鬼だということを知っている。結婚する前に、灯が伝えたそうだ。父には、普通の人生を歩んで欲しい。父と一時でも付き合えただけで満足。だから、別れるために伝えたらしい。
『私なんかと結婚したら、普通に幸せにはなれないよ』
父の将来の幸せを願い、灯は父を諦めるつもりだったそうだ。
父は、そんな灯を受け入れた。公安に灯のことを知ったと報告し、義務を果たしながら生きている。それくらい、父は灯を愛している。
でも、翔太には、父のようになってほしくない。普通の幸せを手に入れて欲しい。翔太は努力家で、色んなものを手に入れられる人なんだから。
翔太は少しだけ微笑んだ。二枚目とは言えない。人の目を引くような顔立ちではない。でも、この優しい童顔が、陽向は好きだった。
「いいんだよ、それくらい。俺にはやりたいことがある。ボクシングを始めたのだって、そのためなんだ。だから、陽向が迷惑じゃないなら、頼まれて欲しい」
陽向は唇をきつく結んだ。どうして。何のために。疑問が、頭の中を駆け巡っていた。ひとつ、思い浮かんだことがあった。美智が殺された事件。あの事件に関して何かをするために、翔太は、こんなことを頼んできたのだろうか。
考えても分からない。だから、直接聞くしかない。
「美智が殺されたことと関係してるの?」
少し考える様子を見せた後、翔太は小さく頷いた。
「まあな。今は詳しく話せないけど、関係してる」
「どうして話せないの?」
「悪いけど、それも言えない。ただ、花井さんが殺されたことに関して俺自身が行動するために、必要なんだ」
「何も教えてくれないの?」
「……」
再度、翔太は考え込んだ。
立ち止まっている二人の横を、見知らぬ通行人が通り過ぎてゆく。
ふいに陽向は、どうでもいいことを考えた。
赤の他人に、今の私達はどう見えているんだろう?
真剣な話をしている友人同士か。喧嘩をしている男女か。それとも、深刻な話をしている恋人同士だろうか。
陽向の思考を遮るように、翔太が口を開いた。
「少し抽象的な表現になるけど」
前置きをして、続ける。
「俺は、陽向に憧れてたんだ。陽向が、俺を助けてくれたときから、ずっと。こんなふうに、格好良く誰かを助けられる奴になりたいな、って」
「うん。知ってる」
翔太がボクシングを始めたきっかけは、強くなりたかったからだ。陽向のように誰かを守れるようになりたい。強くなりたい。そう、彼自身が言っていた。
「でも、当たり前だけど、俺に陽向みたいな力はない。けど、な。ただの人間だからこそ、できることがあるんだよ。っていうより、ただの人間じゃなきゃできないことがあるんだ。だから、そのために」
「……」
正直なところ、陽向には、翔太の言葉の半分以上が理解できなかった。吸血鬼の存在を知っていると報告して、彼が何をしようとしているのか。何のためにそんなことをするのか。
でも、二つだけ、分かることがある。
ひとつは、そうすることによって、翔太が何かを守ろうとしていること。
そして、もうひとつ。そこまでして翔太が守ろうとしているのは、陽向じゃない。少なくとも陽向は、今現在、何にも追い詰められていない。守られる必要がない。
「繰り返すけど、約束する。陽向に迷惑はかけない。それでも、もし、多少なりとも陽向に迷惑がかかるようなことがあったら、そのときは絶対に守る」
陽向は、翔太の性格をよく知っている。頭がいいくせに、情が強いせいで要領が悪くなる。昔からそうだ。小学生のときに高校生に殴られていたのだって、クラスメイトを助けたから。今だってそうだ。ゾンビ化してボクシングの試合に出れば簡単に世界一にだってなれるのに、そんなことはしない。
そんな翔太だから、約束は守るだろう。決して、陽向を都合良く利用したりしないだろう。何かあったときは守ってくれるだろう。
しかし、翔太が本当に守りたいのは、陽向ではない。何年も続けてきたボクシングを捨ててまで、守ろうとしているのは──
「……わかった」
小さく、陽向は頷いた。翔太の強い意志と決意を感じていた。そんな彼の頼みを、断れるはずがなかった。
何故か、胸が痛かった。理由は分からない。
ギュッと締め付けられるような苦しさに、陽向は、なんだか泣きたくなった。
次回更新は1/12(木)を予定しています。
義務を負い、生活に制限を受けてでも飯田先生と接触を試みる翔太。
翔太は詩織が吸血鬼だと推測し、彼女を助けようとしている。
そんな翔太の頼みを聞き入れる陽向は、どんな気持ちを抱いているのか。翔太の意図を知ったとき、陽向は何を思うのか。
それぞれが目的を持ち、動き始めてます。
それぞれの行動の先にあるのは、三人の対峙。
その結末まで、お付合いのほどよろしくお願いいたしますm(_ _)m




