第十六話 狂気で歩み出した、第一歩(前編)
学校で警察の聞き込みが行なわれてから、二週間が経った。
水曜日の夜。午後十時十分前。
十月も中旬になり、気温は明確に下がってきた。これから冬がきて、さらに寒くなるはずだ。
空には、新月へと向かう三日月。明るい夜の街でも、その姿がよく見えた。
繁華街にある、ラブホテル密集地。いくつも立ち並ぶホテル。眩しいくらいの看板の照明。
詩織は、ホテルの屋上にいた。複数密集しているホテルのひとつ。
ホテルに入って屋上に出たのではない。大抵のホテルでは、屋上は立ち入り禁止になっている。
跳び上がって、よじ登ったのだ。十四階建てのホテル。この程度の高さなら、難なく屋上まで登れる。
緩く吹く冷たい風を浴びながら、詩織は、間近にあるホテルを見ていた。
二時間半ほど前に、五味が入ったホテル。一緒に入ったのは、里香だった。五味の遊び友達。五味が詩織をフッたときに、嘲笑っていた女。
二人が入ったホテルの入口には、料金表がある。休憩は、三時間で四千円。
一瞬だけ、強い風が吹いた。冷たい風。詩織の制服のスカートが揺らめいた。パンストを履いているが、足が寒い。上半身は厚手のパーカーを着ている。もう少し厚着をすればよかったかも知れない。
詩織が見ているホテルから、一組の男女が出てきた。
男は、割と背が高い。ホテルの看板に照らされた顔は、非常に整っている。少し疲れも見えるが、その表情は満足そうだった。
女の方は、髪の毛をかなり脱色している。金色に近い茶髪。以前会ったときは根元が地毛で黒くなっていたが、今は綺麗に染められていた。あれから染め直したのだろう。
五味と里香だ。
詩織は、ホテルとホテルが並んで影になっている部分から、地上に降りた。壁にある凹凸部分を使って落下速度を落とし、静かに着地した。
ホテルが並んでいる通りに出た。
詩織の前方を、五味と里香が腕を組んで歩いている。その姿は、他人から見ると恋人同士にしか見えないだろう。
詩織は五味が好きだ。それこそ、彼のために何でもしてあげられるくらいに。
それなのに、なぜか嫉妬を感じなかった。五味が自分以外の女とホテルに入って、セックスをしても。ホテルから出てきて、自分以外の女と腕を組んで歩いていても。
嫉妬なんて感じない。それよりも、詩織は、これから自分が行なうことに緊張と興奮を覚えていた。
詩織には、自分の未来が分かっていた。近いうちに捕まり、死刑になる。吸血鬼の自分。害虫に等しい生き物。害虫らしく、これから無残な最後を迎える。
五味と別れたくないという自分勝手な理由で、彼をゾンビ化させた。その結果、親しくしてくれた友達を死なせてしまった。まさに害虫の所業だと、心底思う。
こんな自分は、生きているべきじゃない。害虫らしく死ぬべきだ。
実際に、死ぬことになるだろう。捕まって、死刑になる。
それなら。どうせ死ぬなら。
詩織の脳裏に浮かぶのは、友達の姿。陽向。自分と同じ吸血鬼なのに、眩しいくらいに幸せそうな友達。自分とはまるで違う。
吸血鬼という、害虫にも等しい生き物なのに。
陽向のことを思い出すと、どんどん惨めな気分になる。翔太と一緒にいる陽向を思い出すと、自分の醜さを嫌というほど思い知らされる。
以前は、あの二人を見るのが好きだった。二人を見ていると、詩織は、物語の登場人物になれたような気がするのだ。もちろん主役なんかじゃない。ただの、主要人物のクラスメイト。主役の二人の周りにいる、登場人物A。
それでもよかった。物語の主役のような二人を見ていられるなら、ただの通行人でも、名もないクラスメイトでも。
彼等を見ているのが好きだったのだ。陽向の友達であることが、誇らしいくらいに。
でも、陽向は、物語に出てくるような人じゃなかった。
自分と同じ生き物。人外の怪物。
そんな生き物なのに、陽向は、あんなに幸せそうに生きている。明るく、眩しく生きている。名前の通り、太陽の下にいるのがよく似合う。
──私と同じなのに、私と全然違う。
心が、堕ちるところまで堕ちた。どうせ、近いうちに死ぬことになる。惨めを味わって死ぬことになる。
それなら、もう、どうでもいい。
どうでもいいなら、せめて最後は、好き勝手に生きてやる。
自分を惨めにさせた人達を、全員殺してやる。
悲しんでいる自分を嘲った女を。
好きな人も道連れにしてやる。
害虫のくせに幸せそうな友達も。
その友達と付き合っている人も。
みんなみんな、道連れにしてやる。
何もかも壊してから、無残に死んでやる。
惨めで醜い自分には、そんな末路が相応しい。
五味と里香の後をつけた。二人は地下鉄駅に入った。ICカードで改札を通る。同じ方面の地下鉄に乗った。
詩織も、彼等と同じ地下鉄に乗った。彼等の隣の車両。
五味と里香は、空いている席に座った。体を密着させて、楽しそうに話している。里香の甲高い笑い声が、隣の車両にいる詩織にもはっきりと聞こえる。
二駅目で、里香が地下鉄から降りた。五味の家の最寄り駅は、ここではない。
「じゃあね、五味」
「ああ、またな」
二人の会話が小さく聞こえた。
里香と同じ駅で、詩織も地下鉄から降りた。
里香の後をつける。改札を通り、駅の外に出た。
空には、相変わらず三日月が輝いている。夜の闇を、三日月が照らしている。
十数メートル離れて、詩織は里香の後をつけた。
国道の信号を渡り、細い路地に入った。住宅街と言っていい場所。近くに、割と大きな川があった。橋に向かって、里香は歩いていた。
橋の向こうには、マンションやアパートがいくつも建っている。
この辺りが丁度いいかな。詩織は胸中で呟いた。
里香が橋に足を踏み入れた。彼女と詩織の距離は、二十メートル弱。
その距離を、詩織は一瞬で詰めた。圧倒的な、吸血鬼の瞬発力。スタートからほんの二、三歩で、一気に最高速度まで到達できる。里香との距離を詰めるまで、一秒程度だった。
里香の後ろに接近した詩織は、彼女の口元を押さえた。声が出せないように。
橋の下には、川沿いに草むらがある。
里香の口元を押さえたまま、詩織は、彼女を抱えて橋から飛び降りた。草むらに向かって。
ほんの数瞬の、浮遊感と落下感。
草むらに着地すると、詩織は里香から手を離した。その場に投げ出すように。
里香は、詩織から二、三メートルくらい離れた場所に転がった。
自分に起こったことが理解できないのだろう、里香は目を見開いていた。驚きで声が出ないようだ。上半身を起こし、尻餅を付くような体勢になった。そのまま、しばらく沈黙。周囲を見回している。
里香の視線はしばらく泳いでいたが、やがて、詩織のところで止まった。
これから殺す側。これから殺される側。
二人の視線が絡んだ。
次回更新は、明日(1/2)を予定しています。
あけましておめでとうございますm(_ _)m
自分の惨めさを感じ、暴走し始めた詩織。
物語が後半に入りました。
詩織は本来大人しい子であり、翔太はそんな彼女を好きになった。
では、詩織のこの行動を翔太が知ったら、彼はどうするのか。
どんな結末に向かうのか。
これから先も、よろしくお願いしますm(_ _)m




