第十五話 闇の底で、全てが反転する(後編)
『ねえ、翔太』
細かく震える、詩織の手。イヤホンから聞こえる、二人の会話。
『もし本当に、犯人がゾンビ化した男だとして。どうしてその吸血鬼は、犯人をゾンビ化させたのかな?』
少しだけ、翔太は押し黙った。沈黙の時間が痛い。彼の次の言葉を待った。詩織の心臓は、全身に響くほど強く脈打っていた。
『これもただの推測だけど──』
翔太の声が重い。聞いているだけで、彼の表情が容易に想像ができた。
『──たぶん、犯人をゾンビ化させた吸血鬼は、女だと思う。ゾンビ化した犯人を、好きなんだと思う』
『どうしてそう思うの?』
『吸血鬼って、存在そのものが害悪みたいに教育されるんだろ?』
『うん』
『幼い頃からそんなことを教え込まれて。さらに、死刑になるときは、早く死にたいと思えるような方法で殺されて。しかも、そんな死刑の映像を、小さな頃に見せられて。そんなふうに教育された吸血鬼に、自尊心とか自己肯定感が育つとは思えない』
『どういうこと?』
『つまり、もし吸血鬼が誰かを好きになったり、誰かに好かれたりしたら、その人のために何でもしたくなるだろう、ってことだよ。依存って言ってもいいだろうな』
『犯人は、吸血鬼のそんな気持ちにつけ込んだってこと?』
『これも、あくまで想像だけどな』
詩織は、押さえていたイヤホンから手を離した。そのまま、両手で目を覆った。涙が止まらない。しゃくり上げるような嗚咽が漏れた。
翔太の言う通りだった。五味を失いたくない。五味の彼女でいたい。五味に嫌われたくない。
五味は、自分に「好き」と言ってくれる。そんな人なんて、他にはいない。
分かっているんだ。五味に、詩織に対する愛情などないと。彼の口から出る甘い言葉は、全て偽りだと。彼に縋る気持ちを利用されているのだと。
分かっていても、五味から離れられない。分かっていても、従ってしまう。
涙が、さらにたくさん流れてきた。自分が惨めで、情けなくて、たまらなかった。こんな自分が、嫌で、嫌で。でも、自分じゃどうしようもなくて。
『ねえ、翔太』
自分の嗚咽に混じって、陽向の声が耳に入ってきた。
『何だ?』
『翔太は考えたことないの?』
『何をだ?』
『ゾンビ化したい、って。ゾンビ化すれば、簡単に強くなれるんだよ? ボクシングの試合だって、簡単に勝てるんだよ?』
翔太は、ただの人間。二人の会話は、詩織が考えた無理のある推測を、あっさりと否定した。
『そうやって勝って、何の意味があるんだ?』
当然のように、翔太は聞き返した。
『俺は、強くなりたくてボクシングを始めた。でもな、その強さは、俺自身が得たものじゃないと意味がないんだ。もちろん、本当に必要だったら、陽向にゾンビ化を頼む可能性だってある。例えば、陽向以上の──五十パーセント以上の濃度の吸血鬼と戦う必要があるときとか』
翔太の口調や声から、彼が本心で話していることが分る。五味のように、上っ面の綺麗事を吐いているわけではない。
『どんな状況でも自分の力を発揮して、相手が自分より上でも勝算を見つけ出して、実践できる。そんな強さが必要だから、必死なんだよ。自分より下の相手をひねり潰したいわけじゃない』
『そっか』
『そうだよ。陽向だってそうだろ』
『何が?』
『俺を助けてくれたとき、勇気がいただろ? 吸血鬼は、下手に他人と関われない。それでも、俺を助けてくれただろ』
会話が止まった。少しだけ黙り込んだ後、陽向は照れくさそうに笑っていた。
『まあね。でも、まあ、そうしたかったから』
陽向は、翔太を助けたことがある。それが、どんな場面で、どんな状況で、いつのことなのか、詩織には分らない。分るのは、陽向が翔太を助けたことがあるという事実。翔太の、誠実かつ実直な気持ち。そんな彼の側にいるからこそ、陽向は明るくいられるんだ。吸血鬼という、異質で疎まれる存在でありながら。
──どうして、こんなに違うんだろう?
嗚咽混じりの疑問。声にならない声で、詩織は呟いた。
どうして同じ吸血鬼なのに、私と陽向ちゃんは、こんなに違うんだろう。
翔太は、陽向に助けられた。陽向が吸血鬼であることを知っている。ゾンビ化のことも知っている。それでも、陽向を都合よく利用したりしない。互いを尊重しながら、互いを大切に想い合っている。
詩織は、五味をチンピラから助けた。助けられた五味は、即座に詩織を都合よく利用することを考えた。上辺だけの綺麗事で詩織を言いくるめ、ゾンビ化した。その力を使って、詩織の友達を無残に殺した。罪の意識を感じることもなく。
陽向と翔太は、たぶん恋人同士。少なくとも詩織の目には、そんなふうにしか見えない。普通の人間と吸血鬼でも、想い合い、大切にし、尊重し合っている。詩織の目から見て、憧れてしまうほど素敵な二人。
詩織と五味は、恋人同士。でもその本質は、縋る側と、利用する側。縋って離れられないから、従ってしまう。言いなりになってしまう。どんなに残酷な結末を迎えても。死にたくなるほど悲しい事実を突き付けられても。
陽向と翔太。自分と五味。そのあまりの違いに、吐き気を覚えた。
涙が止まらない。でも、涙を流させている気持ちは、先程とは違ってきていた。
死にたい。もう、死んでしまいたい。自分は、死んだ方がいい。こんな自分なんか。
そうだ。吸血鬼は、もともと、生きていてはいけない生き物なんだ。そう教育された。
生きていてはいけない生き物だから、墜ちてゆくのは当然なんだ。
五味に口説かれて、浮かれて、付き合った。すぐに夢中になった。
初めて五味と寝たとき、結ばれた思い出などと言われて、卑猥な写真を撮られた。
その写真を、五味は、自分の遊び相手にも見せていた。
それでも五味が好きで、チンピラに絡まれていた彼を助けた。
五味に望まれるまま、彼をゾンビ化させた。その結果、大切な友達を死なせてしまった。
惨めで愚かしい、生きていてはいけない生き物。それが自分。それが吸血鬼。
詩織の頭の中で、何かが切れた。
プツンッと、音が聞こえた。
惨めで情けなくて、死にたいほど気分が落ち込んで。
自分の心が、どこまでも落ちてゆく。深い深い暗闇の中に、落ちてゆく。底がないような闇の奥。現実にはあり得ないほど長く続く落下感が、詩織を包んでいた。
やがて、落ちてゆく感覚が消えた。
詩織の心が辿り着いたのは、地獄だった。
目の前で、五味が美智を犯している。下劣な笑い声を上げながら。泣き叫ぶ美智の首に、手を掛けた。ポキリと音が鳴って、美智の首があらぬ方向に曲がった。生気のない美智の目が、じっと詩織を見ていた。命を失った美智の目から、涙が流れていた。
甲高い笑い声が聞こえた。五味の遊び友達――里香の声だった。彼女は詩織を指差し、大声で笑っていた。その手には、スマートフォン。画面には、裸の詩織が写っている。五味が撮った、裸の詩織。
五味と里香が、詩織を嘲笑った。腹を抱えて、楽しそうに。大きな二人の笑い声は、針のように詩織の耳に刺さった。
暗闇なのに、遠くが見えた。陽向と翔太がいた。腕を組んで歩いている。幸せそうに微笑み合いながら、歩いている。
心が温かくなるほど素敵な、陽向と翔太の関係。
五味と里香に嘲笑される、詩織。
あまりに違う、あの二人と詩織。滑稽なほど明確な対比。あの二人に憧れれば憧れるほど、自分が惨めになる。あの二人が眩しければ眩しいほど、自分が無様に思える。
さきほどの言葉を、詩織は再び口にした。今度は、はっきりと声に出して。
「どうして、こんなに違うんだろう?」
言葉にすると、なんだか可笑しくなってきた。同じ吸血鬼なのに、どうしてこんなに違うんだろう?
「……あは……はははははは……」
乾いた笑い声が、詩織の口から漏れた。大粒の涙が、目からボロボロと流れてくる。頬を伝って落ちてゆく。
涙が止まらなくなるほど、可笑しかった。
そうだ。私は、生きてちゃ駄目なんだ。死ぬべき生き物なんだ。
じゃあ、死ななきゃ。
でも、どうせ死ぬなら、堕ちるところまで堕ちよう。
好き勝手に生きて、自分の欲求を満たして。
好きな人も道連れにして。
ああ、そうだ。
せっかくだから、吸血鬼のくせに幸せな人も道連れにしよう。
吸血鬼を幸せにした人も道連れにしよう。
生きていてはいけない生き物らしく。惨めな自分らしく。愚かな私らしく。
何もかもメチャクチャにしてやろう。何もかもを壊してやろう。
それから、死のう。捕まって、死刑になって、執行されて。銃で、体中穴だらけにされて。血まみれになって。グチャグチャの肉の塊になって。
醜く壊されて死のう。
そんな生き方が、自分には相応しい。そんな死に方が、吸血鬼には相応しい。
詩織は笑った。泣きながら、大声で笑った。笑いが止まらなかった。
一年ほど前に助けた猫──福が、部屋の片隅で、じっと詩織を見つめていた。
次回更新は1/1(元旦)を予定しています。
大人しい人ほど、タガが外れると恐い。
そんな話をよく耳にします。
それはきっと、普段は大人しくしながら、色んな気持ちを心に溜めているから。
気持ちの許容量が限界に達したとき、大人しい人の心は壊れてしまう。
残酷な現実を知った詩織は、まさに心が壊れた状態です。
壊れたから、彼女が本来持っている性質が正常に機能しない。大人しさ、優しさ、情の深さ。
壊れた機械のように、誤作動を起こそうとしている。
結果、詩織にどんな結末が訪れるか。
翔太と陽向は、何ができるのか。
この先も、どうかお付合いのほどをお願いいたしますm(_ _)m
次の更新は新年。
皆様、よいお年をm(_ _)m




