第十二話 複雑な気持ちを抱えながら、自分の気持ちには気付けない(後編)
廊下を歩く足の速度は、遅かった。
ゆっくり動く自分の足。陽向は、自分の心情を自覚していた。飯田先生に会いたくない。顔を合わせたくない。話したくない。
恐い。
体は、自分の心に正直だった。それでも、行かなければならない。
それなら、とっとと行ってとっとと終わらせよう。陽向は、意図的に歩く速度を上げた。生物準備室を通り過ぎて、進路指導室の前に着いた。
大きく深呼吸をして、陽向はドアをノックした。
「どうぞ」
低い声が、進路指導室内から聞こえてきた。
「失礼します」
陽向はドアを開けた。
進路指導室内の中央部には、長机が置かれていた。机の向こうに、飯田先生と、もう一人の男が座っている。机を挟んで彼等と向かい合う位置に、椅子が一つある。
陽向は入口のドアを閉めた。
「早く座れ」
飯田先生に促されて、陽向は椅子まで足を運び、腰を下ろした。
飯田先生の目が、陽向をじっと見ている。幼い頃、彼に、吸血鬼の罰則に関する授業を受けた。死刑の映像を見せられた。
無残に殺される吸血鬼を、飯田先生は、無機質な冷たい目で見ていた。そのときからずっと、彼の目が恐い。この、冷たい視線が。
「まずは形式的に見せておく。自己紹介は不要だろう」
飯田先生は、陽向に警察手帳を見せてきた。
飯田先生の隣に座っている男も、陽向に警察手帳を見せてきた。
「私は、竹山宗一といいます」
竹山は小さく頭を下げた。口調と物腰は柔らかそうだ。
「飯田さんと同じく、私も公安の人間です。なので、吸血鬼のことを話していただいても構いません」
公安の人間。ということは、竹山も、吸血鬼の子供の授業をしているのだろうか。それとも、普段は吸血鬼と関連のない仕事をしているのだろうか。
素朴な疑問が浮かんだが、陽向は、それを口にする気になれなかった。一刻も早く、この聞き込みを終わらせたい。無駄なことはしたくない。
「さて、山陰陽向。俺達が、どうして刑事に混じってここに来ていると思う?」
飯田先生は、常に、人の名前をフルネームで呼ぶ。その呼び方が、陽向は嫌いだった。まるで、自分の名前が単なる記号のように感じるのだ。
陽向という名前は、記号なんかじゃない。父と母が、陽向の幸せを願ってつけてくれたものだ。太陽のもとで、明るく幸せに生きてほしい。物語の吸血鬼のような、暗闇で生きる人生を歩んでほしくない。陽向の名前の由来を、両親はそう語っていた。
陽向の心に湧き出る、飯田先生に対する不快感と恐怖。緊張で、喉が乾く。
口の中を、唾液で湿らせた。小さく息を吸って、陽向は回答した。翔太が推測していたこと。
「人間の仕業とは思えない何かが美智の殺害現場にあったから、ですか?」
つまり、吸血鬼が関連していると思われる痕跡。
飯田先生の表情が少し動いた。
「そうだ。よく分かったな。分かっているなら、それを前提に話を進める」
自覚しているが、陽向はそれほど地頭がよくない。この高校に入学するために、自分でも驚くほど勉強をした。翔太と一緒にいたい一心で、必死に頑張った。
そんな陽向が、飯田先生がここにいる理由に気付いていた。それに、彼は驚いたのだろう。
「まずは、アリバイの確認だ。花井美智が殺された先週の水曜の夜に、お前はどこで何をしていた?」
「家にいました。何をしていたかまでは覚えていません。たぶん、いつも通りだと思います。テレビ見たり、スマホで動画見たり」
「証人は?」
「お父さんとお母さんです」
「では、後々、お前の両親にも話を聞くとしよう」
陽向の父親は、陽向の母親──灯が吸血鬼であるということを知っている。知ったうえで、全てを受け入れて結婚した。知ったうえで、今でも灯を愛している。
一般人が吸血鬼の存在を知った場合は、公安への報告義務が生じる。そのうえで、行動制限と行動報告が課せられる。
行動制限の一例として、吸血鬼の存在を知っている一般人は、一切のスポーツ活動を禁じられる。理由は単純で、ゾンビ化して出場する可能性があるからだ。
義務や制限に違反した場合、吸血鬼とその存在を知った者には、罰則が科せられる。ただ、陽向は、どんな罰則なのかまでは知らない。義務教育で習ったかもしれないが、覚えていない。
父は、罰則や監視という義務を課せられても、灯と一生を共にする道を選んだ。それほどまでに父は灯を愛し、灯も父を愛している。
今でも、ほぼ毎晩、二人の情事の声が聞こえてくる。普段はうっとおしいと思うその声も、吸血鬼に関する厳しい規則を目の当たりにすると、微笑ましいと感じてしまう。
現在、陽向は、吸血鬼の規則に違反している。翔太に吸血鬼であることを話したが、飯田先生に報告していない。報告したら、翔太はボクシングの試合に出られなくなる。だが、賢い彼に吸血鬼の存在を隠し通すのも難しかった。だから、絶対に他言しないよう頼み、彼に話した。
「では、話を続ける」
飯田先生は相変わらず、冷たい目を陽向に向けていた。息苦しささえ感じる、彼の視線。
「お前が言っていた通り、花井美智の殺害現場には、吸血鬼が関与したとしか思えない痕跡があった。人間の力では、たとえ力士やプロレスラーでも難しいと思える痕跡だ」
この聞き込みを長引かせたくない。早く終わらせたい。そう思っているのに、陽向の口から、ほとんど条件反射で疑問が漏れた。
「どんな痕跡ですか?」
美智は友達だ。彼女が殺されて悲しいし、悔しい。だからこそ、殺害に関する事実は知りたい。そんな気持ちから、つい聞いてしまった。
口にした直後に、陽向は失敗したと思った。
「質問を許可した覚えはない。俺の質問にだけ答えろ」
ざわりと、陽向の背筋に鳥肌が立った。冷や汗が背中に流れる。唇を、強く結んだ。恐い。飯田先生の目も、声も、言葉も──彼の存在そのものが恐い。
「それで、だ。現場には吸血鬼の仕業としか思えない痕跡があった。だが、お前は犯人ではなくアリバイもあるという。もちろん、それを完全に信用しているわけではない。だが、仮に、お前が犯人ではないと仮定して──」
飯田先生は、机に身を乗り出してきた。陽向に顔を近付ける。
反射的に、陽向は体を後ろに引いた。椅子の背もたれが、キシリと小さな音を立てた。
「──お前は、誰かに、自分が吸血鬼だということを話したか?」
ドクンッと、陽向の心臓が強く脈打った。自分が吸血鬼であることを、翔太に話している。でも、それを飯田先生に知られるわけにはいかない。体が震えてしまわないよう、陽向は必死に自制した。
飯田先生が問い詰めてくる。
「例えば、親しい男に、とかな」
「どうして、そんなふうに、思うんですか?」
声が震えないように、陽向はゆっくり言葉を返した。
飯田先生の表情は変わらない。作り物のような彼の目は、相変わらず陽向を見つめている。ガラス玉のように、陽向を映し出している。
「惚れた相手に自分の秘密を打ち明けるなんてのは、恋愛にありがちなことだろ」
違う。陽向は胸中で反論しつつ、口を開いた。
「誰にも話してません」
緊張で乾く喉。湿度が落ちた口内。陽向は唇を舐めると、心の中で否定を繰り返した。
違う。惚れた相手なんかじゃない。翔太は、私にとって、そんな相手じゃない。あいつは、私を尊敬して慕ってくれてる。翔太がそんなふうに私を見てくれたから、私も、生きていて楽しいと思えるようになった。
だいたい、あいつは、詩織が好きなんだ。だから私は、二人に付き合ってほしいと思ってる。詩織と五味を別れさせて、翔太と付き合ってほしいと思ってる。その方が、二人にとって絶対にいいはずだから。
幸せになってほしいんだ。翔太は、私に、色んなものをくれた人だから。
だから一緒にいたいし、幸せになってほしい。
それだけなんだ。
本当に、それだけ。
「そうか」
飯田先生は、深く追求してこなかった。陽向の言葉を信じたのか。それとも、疑っているが別の方法で突き詰めようとしているのか。彼の考えていることが分からない。
陽向も、必要以上のことは喋らなかった。ボロが出るのが恐い。
汗で、陽向の背中は冷たくなっていた。いやに時間が長く感じる。すぐにここから逃げ出したい。
当然だが、そんなことなどできるはずがない。
飯田先生は、たっぷり十分ほど、陽向に質問を続けた。美智と仲の良かった友人は誰か。付き合っている男はいたのか。彼女と仲のいい友人の中に、男はいたのか。彼女と仲のいい女友達に、彼氏がいる子はいるか。
後半の質問は、吸血鬼にあまり関連性を感じないものだった。少なくとも陽向は、そう感じた。もし意味のない質問なら、しないでほしい。飯田先生と話しているだけで冷や汗が止まらない。
聞き込みを終えて進路指導室を出る頃には、陽向の背中は、汗でビッショリになっていた。
たった十分ほどの時間だが、何時間にも感じられた。
次回更新は12/22(木)を予定しています。
ここまでいかがでしたでしょうか。
普段は明るい陽向が、恐怖を感じ縮こまる。吸血鬼として教育されたことを思い出す。そんな場面。
幼少期の教育と生活環境は、人生に大きな影響を及ぼします。
本来であれば、暗く内気で、内向的に育てられる吸血鬼。
陽向がそんな性格にならなかったのは翔太がいたから。
だから、同じ吸血鬼である詩織とは、まるで違っている。
そんな二人の人生が、この事件を通じて大きく変化していきます。
その変化の先に、何があるか。
どうか次回も、行く末を見守っていただけるようm(_ _)m




