第九話 最悪の結末と、予想外の過程(前編)
朝刊配達を終えて翔太が帰宅したのは、朝の七時だった。
水曜日。
翔太が美智の失踪を知った、翌日。
すでに母親は起きていて、弁当を作っていた。彼女は夜勤のある仕事をしているが、今日は日勤だった。夜勤のとき以外は必ず弁当を作り、翔太に持たせてくれる。
自宅であるこのマンションは、父が生前に購入したものだ。まだローンは残っているが、父は、購入時に半分ほどの代金を一括で払ったという。いわば、父の形見のようなものだ。
母は、自分が楽しむ時間すら作らず、必死に働いている。父の形見であるこのマンションを、維持するため。自分達の子である翔太を、育てるため。
翔太は陽向に憧れ、尊敬している。彼女のように、誰かを守れる人間になりたいと思っている。
きっと、その根底は自分の家庭環境にあるのだろう。母は必死に、父の形見とも言える家を守り、翔太を育てている。それこそ、命がけで。そんな母を見続けたからこそ、陽向に憧れたんだ。彼女のように、何かを守れる人間になりたくて。
そんなことを、最近思い始めていた。翔太は、母親のことも、陽向と同じように尊敬している。
リビングにあるテレビが点いていた。天気予報や朝のニュースが放送されている。地域のローカルニュース。今日の降水確率は五十パーセント。
陽向の吸血鬼濃度と同じだな。降水確率からそんなことを思いつつ、翔太は浴室に入った。新聞配達でかいた汗をシャワーで洗い流す。
陽向の母親は、一〇〇パーセントの吸血鬼。父親は普通の人間だった。だから彼女は、五〇パーセントの吸血鬼。
『まあ、お父さんの元気さは、とても普通の人間とは思えないけど』
ほとんど毎晩聞こえてくる両親の情事の声に、陽向はうんざりした様子で言っていた。彼女の呆れたような顔を思い出して、翔太はつい笑ってしまった。
シャワーを浴び終えて、浴室から出た。
テレビのニュースでは、物騒な事件が放送されていた。二日前に、郊外の山の近くで、二人の遺体が発見された。ひとりは、制服を着た女の子。もう一人は、スーツを着た男性。遺体の状況から他殺と考えられる。二人の遺体の近くには、男性のものと思われるワゴン車。
遺体の身元などは放送されなかった。けれど、特定されているだろう。制服を着ていたことから、女の子の学校が分るはずだ。男性についても、免許証などで身元が割れている可能性が高い。
朝から嫌な事件だな。朝食のパンを食べながら、翔太は胸中で呟いた。
食べ終えて歯を磨き、着替えた。時刻は、八時になっていた。
鞄を持って、翔太は家を出た。
「母さん、行ってくる」
「うん。気をつけてね」
家を出て、隣の家の前に立って。ドアの横にあるインターホンを押した。
『はい。翔太君?』
インターホンのマイクから聞こえてきたのは、陽向の母親──灯の声だった。確か、今年で四十二になるはずだ。声は、年齢とは不相応に若い。
「そうです。陽向、用意できてます?」
『ごめんね。まだ用意してるの。少し待ってて』
「はい」
インターホンのマイクが切れる前に、灯の声が聞こえた。
『陽向! 翔太君が来たよ! 早くして!』
『はいはい! 待って!』
つい、翔太は笑ってしまった。
今でも度々顔を合わせることがあるが、灯の外見は若い。陽向と同じような、先天的に色素が薄い茶髪。二十代中盤と言っても十分通じる、皺がなく張りのある肌。翔太の母親は、いつも、灯のことを羨ましがっている。
きっと、吸血鬼故の若さなのだろう。寿命は普通の人間と変わらない。ただ、彼女達は、本来は生物兵器として作られた。だから、生きている限り戦えるよう、若さを保てる時間が長い。
その現実を知ってしまったら、とても羨ましいなんて思えない。吸血鬼は、生物としては確かに強い。だが、社会的には、普通の人間としての権利さえ奪われている。
国家によって迫害されている、生存権のみが与えられた弱者。それでも、人権を重んじるという建前のもと、生かされている。
陽向の家のドアが開いた。
「ごめん、お待たせ!」
「ああ。んじゃ、行くか」
「うん」
ドアが閉まる直前に、陽向は、家の中に向かって「行ってきまーす」と声を掛けていた。おそらくリビングの方からだろう、「行ってらっしゃい」という声が返ってきた。
灯と陽向の親子に、吸血鬼として生れたことに対する悲壮感は見受けられない。今でも、定期的な公安職員との面談が課せられている。行動を制限されている。それでも、彼女達は明るく、笑顔を絶やさない。
もっとも、陽向は、翔太と知り合った頃は暗かった。いつも俯いて歩いているような子だった。自信なさげで、何かに怯えるように常に目を伏せていた。マンション内で挨拶を交わすときも、無言で会釈するだけだった。
陽向が変わり始めたのは、翔太を助けた頃からだった。まるで朝顔が太陽の方を向くように、俯いていた顔が上を向いてきた。同じ高校に入学した頃には、周囲と積極的に話せるようになっていた。
陽向が変わった理由など、翔太には分らない。ただ、憧れ、尊敬している人には、胸を張って生きてもらいたい。たとえ、国家からどのように扱われていても。
十四階建てのマンションの六階。エレベータに乗って一階に降り、翔太は陽向と学校に向かった。
いつも通りの通学路。しかし、交わす会話は、いつもと違っていた。
「美智のこと、どうする? 五味が怪しいんでしょ?」
通学路を歩きながら、昨日の続きのように陽向が聞いていた。
「もし顔見知りの人間が関連してるなら、だけどな」
「いっそ、五味の奴を締め上げてみる?」
「短絡的過ぎるだろ。あくまで、顔見知りの犯行なら、っていう仮定の話だ。まだ確証はない」
「ってことは、他の可能性もあるの?」
「そりゃそうだろ。そもそも、俺達の顔見知りじゃない奴が関連してる可能性だってある。その場合はお手上げだけどな」
「まあ、そうだよね」
友達が行方不明。現時点では何も分からない。何もできない。その事実がもどかしい。
「無事だといいんだけど……」
小さく呟かれた陽向の言葉に、翔太は胸が痛くなった。
もし、美智の失踪が単なる家出なら、彼女は無事である可能性が高い。可能な限りの所持金を使って、ネットカフェにでも泊まっているだろう。
しかし、家出とは考えにくい。仮に家出なら、それなりの準備をするはずだ。学校帰りに突発的に家出をする、なんて考えられない。美智自身の性格を考慮しても、誰にも相談せずにそんな行動をするとは思えない。
事件に巻き込まれたと考えるのが妥当だ。
美智は美人だ。ショートカットでややボーイッシュなところもあるが、顔立ちは整っている。彼女を見た男は、そのほとんどが美人と思うだろう。女性にしては長身で、スタイルもいい。つまり、どうやっても男の目を引く外見をしている。
そんな美智が事件に巻き込まれて、何事もないなんてことがあるか。
答えは、否、だ。
自分の下劣な発想に嫌悪感を抱きながらも、翔太は、現実的に物事を考えていた。とにかく、可能な限り無事で見つかってほしい。命さえあればやり直しは利く、なんて綺麗事は言えない。それでも、たとえ何が起こっていたとしても、無事であってほしい。
そう願わずにはいられなかった。
学校に着いた。
一、二年用の側面玄関に足を運んだ。外靴から上靴に履き替える。
始業式の日ように、美智が声を掛けてくる気がした。そんなことはないと分かっていても。
陽向と一緒に校内に入った。学校内の風景。見慣れたはずの場所。
でも――
「ん?」
思わず、翔太は声を漏らした。
明らかに、いつもと違う。
校内の雰囲気に、翔太は、はっきりと違和感を覚えた。
次回更新は12/1(木)を予定しています。
ここから、大きく物語が動きます(前回も似たようなことを書いた気がしますが)。
美智を心配し、様々なことを考える翔太達。
その裏で、実際に起こっている事実。
明らかに違っていた、学校の様子。
大きく変わっていく彼等の日常に、これからもお付合いいただけると嬉しいですm(_ _)m