第六話 無関心な世界の中で、親しい人を想う
十月になった。
残暑の気配はなくなり、二ヶ月前と比べるとはるかに涼しい。
翔太の国体予選を見に行ったときは、暑かったのにな。
八月に見に行った、ボクシングの試合。戦っている翔太の姿を思い出しながら、陽向は通学路を歩いていた。
平日の朝。空は曇っている。
陽向と翔太は、いつも一緒に通学している。仲のいい幼馴染み。翔太は陽向を尊敬し、陽向は翔太に心を許している。そんな二人が一緒に行動するのに、特別な理由などいらなかった。
しかし、今週に入ってから、陽向はひとりで通学している。
といっても、別に、翔太と喧嘩などをしたわけではない。
今週から、国体本戦が始まっている。翔太は地方へ遠征中。予定では、来週の月曜日まで。たとえトーナメントの途中で敗退しても、国体本戦終了まで現地に滞在する。
今日は木曜日。翔太が不在になって四日目。いつも──夏休み中でもほぼ毎日顔を合わせていた彼を、もう四日も見ていない。
素直に、陽向は寂しいと思っていた。
隣に翔太がいない。登校中の会話がない。ただそれだけで、胸が重くなった。
もちろん、陽向がひとりで登校するのは、これが初めてではない。一年のときも、翔太は三回全国に出場した。その間、陽向はひとりで登校していた。
一年のときは、こんな気持ちにならなかった。翔太の試合結果が気になっていた。あいつ、頑張ってるかな。勝ち残れるといいな。いっそ、優勝とかできたらいいのにな。そんなことを考えていた。
陽向が寂しいと思い始めたのは、二年になってからだった。今年のインターハイのとき。翔太の不在を、初めて寂しいと感じた。
寂しいと思うようになった理由は、陽向自身にも分からない。両親の夜の情事に関して、愚痴を言えないからなのか。着実に理想に向かっている翔太を見て、置いて行かれるような気がするからなのか。二年になってから気付いた、翔太が詩織に惚れているということ──それを、からかえないからか。
自分の気持ちの原因が分からずに、陽向はどこか悶々としていた。
ポツリと、頭に冷たさを感じた。
空を見上げた。雨が降ってきていた。
傘、持ってないや。天気予報、見てなかったからなぁ。
学校までは、あと少し。全力で走れば数秒で行ける。吸血鬼である陽向が全力疾走すれば、時速百キロメートルほどで走れる。
もちろんそんなことはできないから、陽向は小走りで学校に向かった。
学校に着いた。校門から、一、二年用の側面玄関に向かう。
校内に入ると外靴を脱ぎ、上靴に履き替えた。
「あの、おはよう、陽向ちゃん」
どこか遠慮がちな声で、挨拶された。声の方に顔を向けた。
挨拶の主は、詩織だった。一五〇センチあるかないかくらいの、小柄な体。眼鏡をかけた可愛らしい顔立ち。
あまり喋らないし、いつも一人で本を読んでいる。常に俯いている。そんな彼女の可愛さに気付く男子生徒は、それほど多くない。
翔太は、そんな数少ない男の一人だったわけだ。ちゃんと見ると可愛いんだよね、この子。
胸中で呟きつつも、陽向は知っている。翔太は決して、外見だけで人を判断しない。詩織を好きになったのは、外見以外に惹かれるものがあったからだろう。
翔太はそれを教えてくれなかったが。
詩織も、外靴から上靴に履き替えた。一緒に、教室まで向かう。
「詩織、傘、持ってきてる?」
「うん。折りたたみのを鞄に入れてる。天気予報、雨だったから」
「さすが。私、天気予報見てなくて。帰りまで止むといいなぁ」
「うーん。夕方までは曇りのち雨、って天気予報でやってたから、どうだろう」
「あーあ。濡れて帰るか」
溜め息と一緒に吐き出して、陽向は、隣を歩く詩織を見た。いつも俯いている横顔。
詩織は、ほとんど学校を休まない。見た目は華奢で弱そうだが、健康管理には気を遣っているのだろう。
だから、詩織が一週間近くも学校を休んだときは、少なからず驚いた。確か、先月──九月のことだ。
詩織に惚れている翔太は、心配で気が気でないようだった。もっとも「彼氏がいる女の子に、ただのクラスメイトが連絡なんてできない」なんて言って、何もできずにいたが。
気のせいだろうか。詩織は、それ以来ずっと──ちゃんと登校するようになってからも、元気がないように見える。
「ねえ、詩織」
「ん? 何?」
「気のせいかも知れないけど、まだ体調悪いの?」
「どうして?」
「なんか、先月何日か休んでたときから、元気がなさそうだから」
「そう、かな?」
詩織は少し笑顔を見せた。苦笑のようにも見えた。
「大丈夫。元気だよ」
「そう?」
「うん。ありがとう、陽向ちゃん」
教室に着いた。
陽向と詩織は自席に着いた。陽向は窓際の最後列。詩織は、教室中央列の真ん中。
今は不在だが、翔太の席は、陽向の隣の列だ。隣の列の、陽向よりひとつ前の席。だから、彼が授業中に詩織を眺めているところが、はっきりと見える。彼はいつも、詩織を目で追っている。
陽向は常に、そんな翔太の姿を見ている。
チャイムが鳴った。
担任が教室に入ってきた。中年の男性教師。朝のホームルームが始まった。
教壇の前に立った担任が、どこか困惑したような顔で教室内を見渡した。
「今日は、みんなに確認したいことがある」
担任の声は、どこか重かった。
もしかして、学校内で盗難でも起きたのだろうか。どんな進学校でも、問題児はいるみたいだし。陽向はどこか軽い気持ちで、担任の話を聞いていた。
直後に担任の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。
「花井が、昨夜から家に帰っていないらしい。今朝、ご両親から学校に連絡があった」
担任の言葉に反応するように、陽向は、花井美智の席を見た。廊下側の列の、真ん中の席。確かに彼女は不在だった。
「昨日は夜七時半まで女子バスケ部の練習をしていたそうだ。部員も、花井の姿を確認してる。けど、練習が終わって校門前で他の部員と別れてから、足取りが掴めていない」
教室内が、少しザワつき始めた。
明るく美人な美智は、男子生徒に人気がある。告白されることも多々あったそうだ。告白した男子生徒は、ことごとく撃沈しているようだが。
それだけに、教室内に飛び交う声は、男子生徒のものが大半を占めていた。
「男か?」
「あいつ、彼氏いたのかよ?」
「さあ。いてもおかしくないんじゃね?」
「時任、お前、花井にフラれてたもんな」
「うるせ」
高校生の女の子が、一晩行方不明。事件の気配すらある事実の前で、クラスの男子の会話は、あまりに軽かった。
少なからず、陽向は苛立ちを覚えた。
もしこの場に翔太がいたなら、真剣に美智のことを考えるだろう。自分にできることを模索するだろう。
つい、周囲の男共と翔太を比較してしまう。この場に彼はいないのに。
くだらない憶測を口にする男子生徒達を無視して、担任は話を続けた。
「もし、昨日の夜七時半以降に花井を見かけた者がいたら、報告してほしい。みんなの前で言いにくいなら、俺個人に連絡してほしい。もし放課後に見かけることがあったら、その場合も連絡してほしい」
クラスメイトが行方不明。まるでドラマや漫画のようなことが、目の前で起こっていた。
もし、不在の生徒が五味のような奴なら、誰も驚きはしないだろう。五味と付き合っている詩織には悪いが、彼は素行が悪い。一晩二晩行方不明になったところで、どうせどこかで遊んでいるんだろうな、としか思わない。
でも、美智はそんな子じゃない。サボることなく学校にも来ていたし、部活にもちゃんと参加していた。だからこそ心配だった。
美智の両親は、警察に捜索願を出すつもりだという。学校に連絡してきたときに、そう言っていたそうだ。
そこまで担任が話したところで、またチャイムが鳴った。朝のホームルームが終わった。
担任と入れ替わるように、一時間目の教科担任が教室に入ってきた。数学教師。
こんなときでも、授業はちゃんとするんだな。そりゃそうか。
吐き捨てるように胸中で呟きながら、陽向は数学の教科書を出した。机の上で広げる。授業開始の挨拶がされた。授業が始まった。
社会というものは、常に当たり前のように動く。誰かが行方不明になっても、誰かが死んでも、当たり前に動く。たとえその瞬間瞬間は想定外の動きをしたとしても、数日後には、元通りに動く。
そんな世の中の在り方を陽向が知ったのは、ここ一、二年のことだ。
公安管理下の義務教育を終えた後、陽向は彼等の手元から離れ、高校に進学した。自分が特殊な生物だということは、昔から知っていた。人間ですらない、化け物。化け物が受けるべき特殊な教育を受けてきた。
自分の存在価値を徹底的に卑下され、社会の隅で生きることを擦り込まれる教育。
だから陽向は、小学校六年まで、常に俯いて歩くような子だった。マンション内で住人とすれ違っても、会釈をするだけで声も出せなかった。
そんな陽向の価値観が変わったのは、翔太を助けてから。彼が自分を認め、尊敬してくれたから、陽向は俯くことなく歩けるようになった。
高校に進学して様々な人と触れ合うまで、陽向は信じていた。世の中のには、翔太のような人が数多くいるんだ、と。
誰かに手を差し伸べる人。弱い人を守ろうとする人。誰かに対して素直に尊敬の念を抱き、そんな人間になりたいと努力できる人。
もちろん、ろくでもない奴だって一定数いるだろう。だからこそ、あの日、翔太はリンチをされていたのだ。小柄な小学生を痛めつけて楽しむ、下衆な高校生達。
でも、翔太のような人がいっぱいいるはずだ。そう思っていた。
だから、正直なところ、高校に進学して少しガッカリした。大半の人は、翔太とはまるで違う。かといって、翔太をリンチしていたような奴等とも違う。
基本的に、人に無関心。誰かが目の前で痛い思いをしていても、苦しんでいても、自分とは別世界の出来事。
担任は、美智のことを話していたとき、困惑したような顔を見せていた。何か知っていたら連絡してくれ、と言っていた。それは決して、美智を心配して出た言葉ではない。
面倒事を避けたい。面倒事が起こったら、どんな形でもいいから、早々に自分の手から離れてほしい。
数学の教科担任は、淡々と授業を進めている。まるで機械のように。それが彼等の仕事。生徒の心配はそこそこしておく。面倒事は、できるだけ早く他者にバトンを渡す。
他人に無関心な人達。他者の痛みに無関心な社会。
陽向は頬杖をついた。数学教師の授業は、右耳から左耳を通り抜けていった。
──美智、大丈夫かな。
いなくなってしまった友達が、心配だった。
同時に、考えた。
翔太だったら、こんなとき、どうするんだろう?
翔太は優しい。優しいだけではなく、強い。強いだけではなく、頭がいい。
翔太だったら、何かできるのかな。翔太だったら、きっと、何かできるんだろうな。
早く帰ってきてほしい、と思った。翔太だったら、きっと、機械的に動く流れの中でも何かしてくれる。
授業の内容なんて頭に入ってこないまま、一時間目が終わって。二時間目が始まって。どんどん時間が過ぎて。
陽向は、美智と翔太のことばかり考えていた。一日中、ずっと。
美智が心配で、彼女の身を案じて。
翔太なら、この状況を切り開く何かをしてくれる、という期待を抱いて。
──陽向は、自分でも気付かない。
美智を心配する気持ちに、嘘偽りはない。
けれど、翔太のことを思い浮かべる理由は、美智が心配だからではない。
次回更新は11/17(木)の夜を予定しています。
さて。
五味に吸血鬼であることを知られた詩織。
その後に行方不明になった美智。
失踪した友人を心配しながら、お名馴染みのことを考える陽向。
詩織のことが好きな翔太。
美智の失踪という出来事の中で、これから彼等の思惑が交錯していきます。
よろしければ、これから先も──できれば最後まで、お付合いいただけたら。




