第5話「ジューンブライドの行方」
校門を入ってすぐ左手側、毎週月曜日の朝の環境委員会によるペットボトル回収場所は、既に撤収作業が始まっていた。
安寿のことが気掛かりだったことと、急いだところで当番には間に合わないと分かっていたことも少しあり、のろのろと登校していた犬吠埼だったが、校門手前からは一応誠意を見せ、走って委員会のメンバーのもとへ。
腹の上部から胸にかけての表面の筋肉を動かし空気を口から外へと太く短く送り出すという、そもそも無い息を切らす演出までして、
「すみません! 遅くなりました! 」
後ろ姿だった委員長である3年生女子・浅田が振り返るなり、「すみません」への反応でも、おはようでもなく、
「ねえ! 聞いてっ! 」
と、キラキラした目で興奮気味に切り出す。
偶然に女子ばかりである本日の当番のメンバーたち他4名も、浅田の話への犬吠埼の反応を待ってワクワクしている様子。
「雉子ちゃん結婚するって! 来月! 」
(っ! 結婚っ? )
思わず、目を見開き口をポカンと開くという、絵に描いたような驚きのリアクションをしてしまう犬吠埼。
浅田も他メンバーも大喜び。
浅田が続ける。
「さっき、倉庫の鍵を借りに職員室へ行った時に、先生たちが話してるのを聞いたのっ! 」
そこへ、
「皆、おはよう! お疲れさま! 」
雉子がやって来た。
一斉に雉子に群がる犬吠埼以外の一同。
「先生! 結婚するのっ? 」
「相手は、どんな人っ? 」
「どこで知り合ったのっ? 」
「付き合ってどれくらいっ? 」
雉子は唇の前に人指し指を立て、シーッとやり、辺りをキョロキョロ。
その態度が、結婚が事実であると語っている。
シーッ、を受けて、浅田は小声。
「先生、幸せ? 」
困ったように照れたように小さく笑んで頷く雉子。
「他の皆には、まだ内緒ね」
*
「内緒ね」
そんなのは無理だ。
家庭訪問のため午前中で授業が終了する日課であったために生徒同士が会話する機会がいつもより少なかったはずの今日でさえ、下校時には学校中に拡散していた。
ほぼその話題しか聞こえてこない生徒たちの流れに乗って、犬吠埼も校門を出る。
余談だが、学校や仕事が午前中で終わることを昔は「半ドン」と言ったらしい。
出掛けに母から「シンちゃん、今日半ドンだよね? 」と言われ、「半ドン」って何だ? と検索したところ、「半」は「半日」「ドン」は「ドンタク」の略であり、「ドンタク」はオランダ語の日曜日や休日を意味する語「Zondag」に由来し「博多どんたく」の「どんたく」の語源でもあるそう。
(お母さん、たまによく分からない言葉を使うんだよな……。この間も何か言ってたな……。…何だっけ……? )
その時、
「やあ」
背後で知っている声……猿爪の声がした。学校を出たばかりなので猿爪の声が聞こえても何ら不思議は無いためスルーしていると、
「やあ」
もう一度、猿爪の声。同時に、横から犬吠埼を覗き込んだ。
(僕だったのか……)
「あ、こんにちはー」
犬吠埼の挨拶にニコッと笑み、猿爪、隣に並んで歩き出しながら、
「キミのとこは家庭訪問、いつ? 」
「明後日です」
「そうなんだ。うちは今日の最初。母親が朝から張り切ってケーキ焼いてたよ。
『お茶の用意は不要』ってプリントに書いてあったのにね。うちの母親は料理が、特にお菓子作りが趣味でさ、写真撮って自分のブログに上げてたりするけど、やっぱ、機会があるなら誰かに食べてほしいみたいで。ボクは食が細くて、あまり食べてあげられないからね……
……だから背が伸びないんだ、とか思った? 」
またこの人は、と、犬吠埼は内心溜息。
「思ってないですよ! 」
返してから、
「手作りのお茶うけっていうのはスゴイですけど、お茶の用意は、不要って書かれてても、どこの家でも一応してるんじゃないですかね? 昔からの習慣っていうか……」
「断れないタイプの先生は、お茶でお腹タップタプになって大変だろうね」
「そうですよね」
「キミの家は、どんな用意をするの? 」
「僕の家は毎年、母が仕事を休めなくて先生が来る時間帯だけ抜けてくるので準備出来ないから、ペットボトルのお茶と個包装されてる市販のクッキーとか煎餅にしておいて、先生が口をつけなかったら袋に入れて持ち帰ってもらってます。
歩きや自転車の先生には無理に勧めないですけど」
猿爪は、へえ……と感心した様子。
「それ、いいね。先生も家庭訪問って気を遣って疲れるだろうし、終わった後でゆっくりとなら、お茶とかお菓子とか欲しいだろうから、しかも、ある程度の期間とっておける物って、キミのお母さんは賢いね」
(…褒められた……)
母を褒められ、気をよくする犬吠埼。
最初が悪すぎただけかも知れないが、犬吠埼の中で猿爪への印象は良くなる一方だ。
そんなこんな会話しつつ結果的に自然に一緒の帰り道。
会話が途切れ、
「そう言えば雉子先生……」
と、校内における本日一番の話題……雉子の結婚について触れようとして、犬吠埼はハッと口を押さえた。
(そうだった……。会長、雉子先生のこと……)
しかし、
「うん、学校中の噂だよねー」
猿爪は軽く流す感じ。
(…意外と平気そう……? 会長が雉子先生のこと好きって、僕の思い込みか……)
「ジューンブライド、か……」
遠い目をして空を仰ぐ猿爪。口元にだけ笑みを浮かべ、ボソッと、
「式の当日は豪雨だな」
(……怖)
犬吠埼は、心理的のみならず物理的にも猿爪から距離をとる。
そのため彼より少し後れて神門神社脇の道を入ると、カラー帽と体育着姿の小学校低学年と思われる児童の列。
この道を真っ直ぐ行った先にある自然公園からの帰りか、ほとんどの児童の手にビニール袋。その中に野の植物。
(校外学習かな? 季節もいいし、楽しいだろうな……)
などと、あくまで高校生となった現在の犬吠埼が児童たちを目にしての感想。自身の小学生当時には特別楽しいとは感じていなかったと、ちょっと思い出しながら列の横を進む。
と、後ろから自動車のエンジン音。条件反射で振り返ると、車高高めのベージュの軽。運転席には、
(…雉子先生……。会長の家へ行くところか……)
自動車同士が擦れ違えるまでの幅の無い道路。100名は超えている児童たちの長く連なる列に、雉子は道を入ってすぐの地点で立ち往生していた。
古くからの住宅地である、この周辺には、人の通れる道は無数と言ってしまっていいくらいに存在するが、自動車の通行可能な道は本当に少ない。猿爪宅へ行くのに他の道は無いのだろう、戻ろうとはせず、スマホをいじり始めて、自分の脇を抜けていく児童たちを気長に待つ姿勢を見せている。
(この道が、こんな混雑してるとこ、初めて見た……)
進行方向がにわかに騒がしくなり、視線を戻す犬吠埼。
少し前を行っていた猿爪が、
「あのガキ……」
呟き、先へ向かって突然走り出した。
「会長? 」
猿爪の向こうを見れば、黒い安寿。
(…アンちゃん……っ! また外に……っ! )
犬吠埼も慌てて駆け出す。
(しかも、こんな人通りの多い時に……っ! )
心の中で、そこまで言ったところで、犬吠埼は、あれ? となった。
(…会長、今、黒いアンちゃんを見て「あのガキ」って……? それに、逃げるでも固まるでもなく積極的に向かって行ってるし……)
誰を何を狙うでもなく、安寿の右袖が鋭く伸びた。犬吠埼の考えどおり音に反応しているのだとしたら、音が多すぎて狙いが定まらないのかも知れない。
悲鳴を上げながら逃げて行く児童たちを見送り、泣いて蹲る児童たちを追い越し、放心状態の引率の教諭に、
「子供たちを連れて早く逃げて下さい! 」
声を掛け、猿爪を斜め後ろから追いかける犬吠埼。
ほぼ横並びになったところで、猿爪が胸の前で両の腕をクロスさせた。ポウッと微かな光を放ち、両手に装着された状態で鉤爪が現れる。
(…会長……。もしかして……)
猿爪は地面を蹴り、安寿との間合いを一気に詰めざま左腕を伸ばして鉤爪の爪と爪の間に彼女の右袖を通す形で絡め取り、動きを封じた。
すぐさま猿爪を襲う左袖の攻撃。
受け止めるべく斧を出した犬吠埼だったが間に合わず、猿爪の右腕が肩から切断され地面へ落ちる。
一滴の出血も無い切断面。顔を歪める程度で済んでいる反応。他にも、これまでに耳にしてきた幾つかのことが、しっかりと裏付ける。
(…もしかして、じゃない……。間違いない……)
一瞬だが完全に猿爪のほうへと気を取られていた犬吠埼、猿爪の足が顔スレスレを通過したことでハッとなった。
犬吠埼に狙いを移したらしい位置へ来ていた左袖の広い面を、猿爪が蹴り飛ばし軌道を変えたのだった。
猿爪、
「ひょっとして、キミなの? 桃太郎さんから、つい最近ボクと同じような存在が出来てしまったって、聞かされたんだけど」
どうやら、互いに主語だけが違う同じことを思っていたようだ。
再度襲ってきた左袖を、今度こそ斧で受け止めながら、犬吠埼は頷く。
「そうだったんだね……」
猿爪は頷き返し、
「…ところで、どうしてコイツが外に出てるんだろう? 桃太郎さんが出すワケないし……」
実は、と、今朝の出来事を犬吠埼は話した。
「…そんなことが……」
驚く猿爪。
刹那、
(っ! )
ものすごい力で、安寿が犬吠埼と猿爪をいっぺんに突き放した。
尻もちをつく2人。
反動で大きく不規則に揺れた右袖が、変わらず放心状態でいた引率教諭を、左袖が、泣いて蹲っていた児童のうち近いほうから3名を、斬り刻んだ。
(!!! )
犬吠埼は即座に立ち上がる。
目の当たりの光景は、もちろんショック。
しかし、今は呑気にショックなど受けている場合ではないとでも、無意識が働いたのか、
(…何とかしなきゃ……! )
それだけを思った。
逃げて行けた人は、ほんの20名かそこら。未だ多くが恐らくは何らかの心的要因で自力では動けずに残っている。
このままでは、大変な被害が出てしまう。既に4名が亡くなってしまった。……体が、熱い。
犬吠埼の隣から、猿爪が安寿へと飛び出す。
向かい来る右袖。猿爪は先程と同じく左の鉤爪で絡め、続いて来た左袖を、切れないよう広い面にのみ触れるよう気をつける様子を見せつつ脚で巻き込むようにして地面に踏みつけ、動きを封じて犬吠埼を振り返った。
「桃太郎さんを呼んで来て! また眠らされるか何かしてるかも知れない! それまで、何とか押さえておくからっ! 」
犬吠埼は頷き、
「お願いします! 」
石垣を上がって神社の中へ。
1歩入って一旦、辺りを見回す。朝と違って居場所にヒントが無い。
急がなくてはならないが、薄暗いこともあり、自力で動けない状態にある可能性の高い桃太郎は、注意深く捜さなければ見落とす危険がある。
「桃太郎さん! 桃太郎さん! 」
名を呼びながら、隅々まで目を凝らしつつ小走りで移動。
本殿の裏へ回ると、桃太郎宅との境の生垣の切れ目から続く、何かを引きずったような跡があった。
(……? )
跡を辿り、入った地点からは死角となっている側の本殿側面へ。
そこに、両手に砂利を掴みうつ伏せで倒れている桃太郎。跡はそこで途切れていた。安寿によって何かされた桃太郎が、力を振り絞ってここまで這って来てのものだったのだろう。
「桃太郎さん! 」
犬吠埼はしゃがみ、揺さぶるも反応無し。
寝息をたてているので、特に深刻な状況ではないと判断し、強めに揺さぶる。
「桃太郎さん! 桃太郎さんっ! 」
ピクリと反応した桃太郎。ゆっくりと頭を持ち上げ、犬吠埼と目が合うや否や、慌てたふうに立ち上がり、周辺に緊迫した視線を走らせつつ、
「安寿はっ? 」
勢いに呑まれ気味に、犬吠埼が安寿のいる道路のほうを指すと、桃太郎は背中定位置に差してあった大幣を手に取り駆け出した。
神社を囲う木々の手前で、
「祓へ給へ清め給へ神ながら守り給へ幸へ給へ」
略拝詞を唱えている桃太郎。
追いついた犬吠埼は、
(やけに静かだな……)
木々の向こうの静けさに胸騒ぎ。
「端境拡張! 」
桃太郎の声と同時、視界がグワンと揺れた。
揺れは数秒で治まり、いつの間にか木々は3メートルほど先に。神社の空間が拡がったようになり、見えなかったがあったはずの地面の高低差も無くなった。
そこに広がっていた光景は……。…光景、は……。
本来道路の位置までフラフラと進み出る桃太郎。大幣がその手を離れ、パサッと落ちる。
桃太郎はウッと小さく呻き、直後、砂利の上に膝を折り両手をついて嘔吐した。
犬吠埼も、吐き気と目眩に似た感覚を覚えたが、体のつくりの問題か、吐くには至らなかった。
四つ這いの姿勢の桃太郎の背をさすってやる犬吠埼。
色を取り戻した安寿が、
「あっ! 桃太郎! ワンちゃん! 」
累々と転がる遺体に時折、足を取られつつ、他に動くものの一切無い静かな血の海を、無邪気な笑顔で駆けて来る。
目の端に、拡がった神社空間の隅、斜めに切断された雉子の車の前、やはり斜めに切断され下半分の無い雉子を、片腕で抱きしめ髪に頬を埋めて肩を震わせる猿爪が映った。
桃太郎の背をさするフリで縋りながら、犬吠埼は、深く深く目を伏せる。
もう、何も見たくなかった。