第4話「黒巫女再襲と斧の戦士」
アパートの階段を下り、住宅地内の真っ直ぐに続く道路を進行方向、ほぼ真正面から差す、よく晴れた初夏の早朝の未だ熱を持たない太陽光に、犬吠埼は目を細める。
毎週月曜日の朝は、所属する環境委員会のペットボトル回収。
今週は当番なので、いつもより30分ほど早く家を出ていた。
(この体になってから、丸2日が経ったけど……)
今のところ、特に不便は感じていない。あえて言うなら、本来は不要だが同居家族に体のことを隠して生活していると必須となる食事。咀嚼も嚥下も出来るが消化がされないし排泄も出来ないので溜まる一方。量に気をつけなければ、おそらく口から溢れてくる。
(ああ、でも僕だからか……)
考えている最中に既に、それを自分があまり不便と感じないのは、母と食事を共にする機会が夕食のみで他はただ食べたことにすればいい、しかももともと、それらを用意していたのが自分だったためであると気づいた。
(もうひとりの人は、どうなんだろう? 家族と暮らしてるとしたら、大変だろうな……。
僕も、まだ2日だから、これから色々な不便に気づくかもしれないけど……)
(……っ! )
神門神社側面に面した道へと出たところで、犬吠埼は、してない息をハッと呑み、ドクンと、無いはずの脈が強く打ったのを感じた。
(…アンちゃん……っ? )
交差点より僅かに右手側、神社入口寄りの位置に、神社のほうを向いて佇む、全身黒一色の小さな巫女。
(どうして外に……っ? 桃太郎さんは……っ? 桃太郎さんが出すワケないと思うんだけど……)
桃太郎が、安寿は神社の外に出ると黒い化け物となって人を襲う、と言っていた。
犬吠埼自身も、本当に一瞬のことでよくは分からないが、黒い安寿に何やら攻撃のようなことをされた後、気づいた時には死んでいた。
相手が知り合いであっても関係無い。その時には既に知り合いだった。
見つかったら、また攻撃されるのではと、道と道のぶつかる角、民家の陰へと身を隠すべく、犬吠埼は後ろ歩きで1歩、戻ろうとする。
瞬間、左手側に、だいぶ遠く小さいが、こちらへ向かって来る人影が見えた。
(…これ、まずいんじゃ……? )
あの人が近くに来たら、襲われるかも知れない。
(…いや、あの人が来なくても……)
それよりも先に、この時間帯の住宅街。いつ、どの家から、今まさに安寿の真後ろの家から、人が出て来てもおかしくない。
(…僕なら……)
犬吠埼は、何をしているのか立っているだけで動かない安寿の背中を、見つめる。
(僕なら死んでるから、襲われても、もう死なないかも知れない……)
覚悟を決め、戻ろうとしていた足を、逆に、そっと踏み出した。
(それに桃太郎さんは、「人」を襲う、って言ってた。…もしかしたら僕はそもそも「人」認定されないかも……)
そーっと、そーっと……。安寿の背後へ距離を詰めていく犬吠埼。
(…さっきから全然動かないけど、何してるんだろ……? )
前面の様子の分かる位置へ、そろりと回り込んで見てみると、
(…花……)
安寿は、神社の盛土部分表面の石垣の隙間から生えた高さ20センチほどの淡赤色の花を眺めていた。
犬吠埼は気持ちの上だけでの深呼吸をひとつしてから、
「アンちゃん」
声を掛ける。
刹那、安寿の顔すら犬吠埼のほうを向かないまま、前回に襲われた時と同様、巫女装束の袖だけが勢いよく伸びて来た。どうやら「人」認定されたらしい。
所詮は布だが直感的に、当たってはいけない物のような気がして、
(危なっ……! )
咄嗟に飛び退いてかわす犬吠埼。
狙いの外れた袖は、ガッとアスファルトの地面に突き刺さる。やはり当たってはいけない物だった。
(…怖……。多分、この間の僕は、これが首に当たって死んだんだ……)
そこまで考えてから、あれっ?
(今の僕、すごく動きが速くなかった? この間は何を思う隙も無く当たったのに……。…攻撃が前よりゆっくりだったのかな……? )
そうこう考えている間に犬吠埼へと向き直った安寿の、2発目、3発目。胸を大きく開く形で広げた腕から左右交互に斜めに。
同じくバックステップで、かわす、かわす。攻撃が、よく見える。
続く猛攻。ひたすら避けながら、犬吠埼は、安寿に気取られないよう気をつけつつ、先程の人影を気にする。
(…いない。よかった……。この騒ぎに気づいて、戻ったか、神社より奥なら、もう1本向こうの道へ抜けられる道がいくつかあるから、そっちへ回ったか……。
他の人たちも、気づいて避けて行ってくれるといいんだけど……)
かわしつつ、もう一度、
「アンちゃん、神社の中へ戻ろう」
話しかける。
一定のテンポで攻撃は続く。
(…もしかして、聞こえてない……? いや、でも、攻撃が始まったキッカケは声をかけたことっぽいけど……。
って言うか、音に反応してるだけで、内容を理解してない? あと、やっぱり知り合いでも関係無くて、相手が誰かを認識出来てない……?
頭が、全然働いてないのかも……)
一定すぎる攻撃からも、そんなふうに思える。
(けど、花を見てたんだよな……)
そこまで考えが及んだところで、
(そうだ! 花! 花で釣って、神社の中へ連れ戻せるかも……! )
花の位置は犬吠埼から見て安寿より向こう。
(…左・右・左・右……)
一定テンポの攻撃をかわしつつタイミングを計る犬吠埼。
(…軌道も同じ……。左・右・左・右・1・2・)
(3! )
で飛び込んだ。
安寿の左腕の下をくぐり、彼女の動きを気にし半身左を向いた状態で、石垣に沿って駆け抜けようとする……が、
(っ! )
まだ来ないはずの右が、突然タイミングを変え、軌道まで変えて向かって来た。
(間に合わないっ! )
背後はすぐ石垣なので退がれないし、ほぼしゃがんでいるのに近い低く不安定なこの体勢では、幅30センチはある袖を左右に避けるのは難しい。
犬吠埼は完全に足を止め、目前まで迫った袖に両手のひらを向ける。
恐怖による自然な反応。
(来るっ! )
いよいよという瞬間、目をギュッと閉じた上で更に背けた。
ガキンッ!
金属同士のぶつかったような音。
両手の親指と人指し指の股を中心に衝撃。腕が痺れる。
一瞬のそれが通り過ぎた後も、指の股に重さ。
見れば、金属の棒。袖を受け止めていた。
棒の左側先端近くに、銀杏のような形をした刃がついている。
(…斧……? どうして……? どこから、こんな物……)
突如現れた、としか言いようが無い。
しかし、これは使える。せっかくだから、と、
(うん、細かいことは後で考えよう! )
袖を左方向へ流し、斧は右手のみで持って花へと走った。
目の端に映る安寿の振り返りつつの攻撃を走るスピードを上げることでかわし、花を掴んで根っこごと引き抜きざま石垣の上へ飛び乗る犬吠埼。
安寿が追って来ていることを確認しながら、木々の間を神社の中へ。
安寿も、すぐ後から入って来た。色が戻る。
安寿は犬吠埼を見、
「あ、ワンちゃん! いらっしゃい! いつ来たのっ? 」
思ったとおり、犬吠埼を犬吠埼と認識出来ていなかったようだ。
遊ぼう、と誘う安寿。
すっかり元に戻った様子に安堵すると同時、犬吠埼は腹が立ってきた。
「…どうして、神社の外に出たの……? 」
自分でも驚くくらい暗い声。だが、ちゃんと言っておかなければと、頑張って続ける。
「もう1人の人の時には、まだ小さかったから分からなかったかも知れないけど、僕のことは3日前のことで、人を傷つけることになるかもって分かったはずだよね? 」
顔も怖くなってしまっていたのか、安寿はビクッ。それから途方に暮れたような悲しげな表情で、
「…ワンちゃん、怒ったの……? なんで……? 」
(なんで、って……。今、言ったけど……)
安寿の目から、涙がパタパタと零れる。
「…ワンちゃんが1回死んだ時、桃太郎も、アンのこと、すごく怒ったけど……。
…なんで、みんなアンのこと怒るの……? ワケが分からないよ……」
言ったきり俯き、口を噤む安寿。
もしかしたら自分が言い過ぎたのではと心配になり、見守る犬吠埼。
ややして安寿は小さく息を吐き、指で涙を拭いながら顔を上げ、力無く首を横に振った。
「ううん、分かってないのは、みんなのほうだよね。死んでも桃太郎が治せるのに……。
…でも、大丈夫! アンは、そんな桃太郎のこともワンちゃんのことも大好きだから……! 」
そうして浮かべた悲劇に耐えるヒロインのような微笑みに、犬吠埼の背筋がゾワッと冷える。
(…この子……。ヤバい……?
うん、確かに外に出れないとか境遇が可哀想なのは間違いなくそうなんだけど……。まだ分からないものなのかな、このくらいの歳の子って……。僕はどうだったっけ? 10歳くらいの頃……。
いや、でも……。なんか、ここまで自信たっぷりに悲劇のヒロインぶられると、実は分かってないのは本当に僕のほうかもって思えてくる……。
けど、僕が死んだ時にアンちゃんを怒ったらしいし、その後に僕が目覚めてからの態度からしてみても、桃太郎さんも僕寄りの考えなんだよな……)
と、桃太郎の顔が頭を過ぎり、
(…そう言えば、桃太郎さんは……? )
犬吠埼は辺りを見回す。
(桃太郎さんが、アンちゃんが外に出るのを止めようとしないワケないと思うんだけど……)
冷えたままの背筋。胸騒ぎがする。
「アンちゃん。桃太郎さんは、どこ? 」
「桃太郎なら、おうちで寝てるよ。桃太郎が起きてると、アン、お外に出れないから、眠らせたの」
(…眠らせ…た……っ? )
胸のザワつきが治まらない。
犬吠埼は、桃太郎宅へと駆け出そうとする。
それを、
「ワンちゃん! 」
安寿は制服のシャツの背中をガシッと掴まえ、
「お花、可哀想だよ」
視線の先は、先程、犬吠埼が根っこごと引き抜いたきり特に意識せず持ったままだった花。既に少し萎れている。
犬吠埼は、神社脇の道路へ放置してしまっていた通学カバンを安寿に断ってから取りに行き、その中の500ミリリットル空ペットボトルをカッターで切断して即席の鉢を作り神社敷地隅の土をもらって花を植え、手水舎で灌水するところまで、やっつけでパパッと終わらせると、はい、と安寿へ手渡し、
「これで、少し経てば元気になるはずだから」
言って、桃太郎宅へ急いだ。
本当は花よりも桃太郎を優先したかったのだが、安寿を無視することを怖いと感じたため。
そして、一度はひとりで向かおうとしたものの、目を離すことも怖いと感じたため、安寿も連れて。
神社と桃太郎宅との境の生垣の切れ目まで来ると、玄関の戸が開け放たれ、そのすぐのところに桃太郎が倒れているのが見えた。
駆け寄る犬吠埼。
「桃太郎さん! 桃太郎さん! 」
犬吠埼に揺り動かされ、
「…犬吠埼君……」
目を覚ました桃太郎。
本当に、ただ眠っているだけだったようだ。
(…よかった……)
桃太郎は暫しボー……としてから、突然、ハッとした様子でガバッと勢いよく起き上がり、
「安寿はっ? 」
犬吠埼が答えるまでもなく目に入ったのだろう、犬吠埼お手製の鉢に植わった花を嬉しそうに様々な角度から眺める安寿の姿。ホッと溜息。
だが束の間。違和感を覚えたのか表情を曇らせ、
「…あの……、今、平日の朝だと思うんだけど……。どうして犬吠埼君がここに……? 」
それに対し犬吠埼が、安寿が神社の外に出ていたから連れて来たのだと話すと、桃太郎は、やっぱりか……と嘆息し頭を抱え俯いた。それから恐る恐るといった様子で犬吠埼を窺い、
「怪我人、とかは……? 」
犬吠埼は、大丈夫、と両手のひらを見せ、
「たまたま周囲に誰もいなかっ……」
言っている途中で、
(っ! )
桃太郎が、グイッと犬吠埼の両の手首を掴み寄せた。
(えっ? 何? 何っ? )
驚く犬吠埼。
「これは……? 」
問う桃太郎の視線を追うと、親指と人指し指の股。赤く擦り剝けている。
「あ、これはアンちゃんじゃなくて……」
安寿を神社内へ誘導しようとしている最中に突として現れ、無意識にどこかへ置いてきてしまったのか今は無くなっている斧のこと、おそらくそれを用い安寿の攻撃を受け止めたことによるものであると説明する犬吠埼。
桃太郎は、ちょっと考える素振りを見せ、
「斧が出た時にしてた動作とか憶えてる? 」
(…動作……。…多分、怖くて反射的に両手を前に出してたとか……)
「…こう、ですかね……? 」
犬吠埼、たった今した桃太郎に手のひらを見せた動作よりも手の先の力を抜き、親指が他の指より自然に前に出る形で両手のひらを正面に向ける。
すると、微かな光を放ちながら、先程と同じく両手親指と人指し指の股に柄が渡された形で斧が現れた。
(…出た……! )
桃太郎、これは祈美の玉の力によるものであると説明。眷属神のうち1柱の武器が戦斧であったと。
(…武器……? 眷属神って、戦う神様だったんだ……? )
そう口に出すと、桃太郎は頷き、
「うちが祀ってるのは『神門神』っていう、神様の住む世界と人間の住む世界を結ぶ唯一の門の守護神でね、眷属の3柱の神は、双方の世界の秩序を守るため好ましくない者の門の出入りを阻むべく一緒に戦ってくれる神様なんだ」
(へぇ‥‥‥)
話に納得の意を示した犬吠埼に、桃太郎、今度は、斧を片手で持った上で放すように言う。
言われたとおりにする犬吠埼。
すると、
(…消えた……! )
斧はその場でフッと消え、見えなくなった。
桃太郎、確認したように頷き、
「じゃあ、手の擦り傷の治療をするから、手のひらを上に向けて出して」
言って、袴の腰紐に差して背中に固定していた大幣を手に取り、胸の前で構えて、
「祓へ給へ清め給へ神ながら守り給へ幸へ給へ」
昨日一昨日と腹の中の食べ物を取り出す処置をしてくれた際に唱えていたのと同じ抑揚の無い言葉……略拝詞と呼ばれるらしい祝詞を唱えて、大幣を左・右・中央と振り、
「治癒」
差し出されている犬吠埼の手のひらへ。
手のひら全体がほんのり温かい。擦り剝けが修復されていき、赤みも消えていく。そうしながら桃太郎、体の組織を大きく切り離されるようなことがもしも起こった場合には、残されたほうだけで再生するのは困難なので離されたほうをとっておくよう話す。
ややして見た目が完全に元の状態へ戻った。
桃太郎が大幣を下ろす。
初めから大して無かった痛みも完全に消えていた。
礼を言う犬吠埼。
桃太郎は首を横に振り、そこが定位置なのだろう、ごく自然に大幣を背中の元の位置へ戻して、
「これから学校? 」
「はい」
そっか……と、桃太郎は申し訳なさげ。
「朝から迷惑をかけちゃって、ごめんね」
安寿がとにかく全く分かっていないので犬吠埼は心配だったが、犬吠埼君を最初に襲ってしまった時には外に出るなんて想定外のことだったし眠らされないように気をつけさえすれば大丈夫だから、と送り出しにかかられたため、桃太郎宅から神社内を通り、時々どうにも気になって足を止めては、どのみち当番の時間には間に合わない学校へ、のろのろと歩を進めた。