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第1話「犬猿の仲じゃなくて」


(…やっと買えた……)

 買ったばかりのコロッケパンと牛乳を大切に胸の前で持ち、ボロボロになって購買部から出て来た犬吠埼。

 廊下の窓に映ったボサボサ頭を足を止めて軽く手櫛でなおし、溜息をひとつ。

 このところ、昼休みの購買部は戦場だ。

 これは、学校に出入りしている予約制の弁当屋が4月半ば頃から店主の急病のために休業して以来、GW明けの現在も再開していないことが原因。

 購買部のある本館1階には、職員室、事務室の他、校長室や会議室もあり、客が来ていることも多いため静かにするよう、教師たちから言われているが、昼休みに限っては無理な話……言っている傍から、ドンッ!

 購買部での買物のために残り僅かとなってしまった昼休みを取り戻そうとでもしていたのか、購買部内から走って出て来た女子5人組のうち1人が犬吠埼の背中にぶつかった。

 ヨロける犬吠埼。

 犬吠埼を追い越しざま、ぶつかった女子が犬吠埼を睨みつける。

(…ぶつかってきたのは、そっちなんだけど……)

 犬吠埼は、もうひとつ溜息を吐いてから、教室のある東館へと歩き出した。

 数メートル先を行く、たった今、犬吠埼にぶつかった女子を含む5人組は、購買部を出て来た時の勢いの割に歩くのが遅い。

 遅い理由は、おそらく、いや間違いなく、彼女らの斜め後ろを歩く男子生徒。彼のほうをチラチラ気にしながら、仲間のうちひとりを突いては、コソコソ、ヒソヒソ、キャッキャッとやっている。突かれている彼女が、彼のことを好きなのだろう。

 彼のことは、犬吠埼も知っている。と言うか、この学校の人間ならば、彼のことは誰もが知っている。

 猿爪響互ましづめきょうご。頭脳明晰でスポーツ万能、ショタな容姿が母性本能をくすぐると評判のモテモテ生徒会長である3年生。その上、どうやら性格まで良いらしい。

 彼……猿爪に気を取られ過ぎたか、友達との会話に夢中になり過ぎたか、猿爪の最も近くにいた女子の手から、購買部で買ったばかりと思しき紙パックのオレンジジュースがスルリと逃げた。

 5人の女子全員、犬吠埼までが、「あっ! 」となる。

 そんな中、猿爪が即座に反応。軽く身を屈め、オレンジジュースが床に落ちる前にキャッチしたのだった。そして、

「はい、どうぞ」

華のある笑顔で、落とした当人に手渡す。

「あ……あ、ありがとう、ございますぅ……! 」

 女子たちはポー……。

 猿爪は、

「どういたしましてっ」

 アイドルのファンサのような、ものすごく自然なウインクと、同時、余裕のエアキッスまで残して去って行った。

 ポー……から落雷に遭ったかのごとき真っ白な沈黙を挿み、キャー!!!!! の女子たち。

(カッコいいなあ……)

 きっと自分と猿爪では同じ人間と言っても微妙に種類が違うのだろう、などと思いながら、犬吠埼は廊下の極端に隅に寄り、とっくに見えなくなっている猿爪の背中を見送り続けている女子たちを、横目に追い越す。

(けど、ああいうのって、やる側も受け取る側も、どの程度本気の、どの程度冗談でやってるんだろうな……)




 空腹のためと、残り15分となってしまった昼休みの時間を有効に使うため、東館の階段を上りながらコロッケパンの袋を開け、かぶりつく犬吠埼。

 教室は2階なので、そのくらいの距離を我慢できないほどの空腹でもなければ教室まで行ってから食べ始めた場合と比べて時間に大きく差が出るわけでもないのだが、何となく……。

 そこへ、

「コラッ! 犬吠埼クンッ! 」

 背後から大人の女性の声。

 条件反射で足を止め振り返ると、階段の下に、犬吠埼が所属している環境委員会の担当教諭・雉子花霞きぎしかすみ。あくまでも犬吠埼の主観だが、教師も生徒も含め、この学校で一番の美人である。

 雉子は犬吠埼の2段下まで上って来て、真っ直ぐに犬吠埼の目を見、

「食べながら歩いたらダメでしょ? 」

「あ、す、すみませ……」

 犬吠埼が素直に謝っている最中、不意に少しだけ雉子の視線が逸れた。

 逸れた位置に視線を固定したまま、雉子はポケットからハンカチを取り出し階段を2段上がって犬吠埼と並ぶと、ハンカチを持つ手を犬吠埼の顔へと伸ばす。

 雉子の突然の行動に、ビクッと固まる犬吠埼。

 ハンカチが、そっと犬吠埼の唇に触れた。

 花のような甘い香り。犬吠埼は、ドキッ。

「ソース」

 言いながらハンカチを引っ込め、雉子は自分の唇を指さしてニコッと笑う。

「ついてたわよ? やっぱり、ちゃんと座って食べないとね? 」

「は、はい……」

 ボー……と思考停止に陥りつつ反射のみで犬吠埼は返す。

 雉子は、よしっと頷き、もう一度ニコッとして見せてから、ハンカチをポケットに仕舞い、階段を上って行った。

 上り出した瞬間にも、今度は髪から、フワッと甘い香り。

 犬吠埼は思考停止状態に自分で気づいていたが特にどうにかしようと思わないまま、変わらずボー……と見送る。

 その時、キチンと仕舞えていなかったのか、雉子のポケットからハンカチが落ちた。

 ハッと我に返った犬吠埼、数段上ってハンカチを拾い、雉子に渡そうとするが、拾うために一瞬だけ目を離した間に、雉子の姿は無くなっていた。

 犬吠埼は、自分の手のハンカチを見つめる。

(先生の、ハンカチ……)

 甘い香りが思い出され、犬吠埼は、何の気なくハンカチを鼻先へ持っていった。

 と、

「見ーちゃったっ」

 すぐ背後から、悪戯っぽさを含んだ明るい調子の男の声がし、声の主が、犬吠埼の顔を覗き込むようにして正面に回り込む。猿爪だった。

「キミ、今、先生のハンカチの匂いを嗅いだでしょ? 」

 つい先程に1階の廊下で見かけたのと同じ、華のある笑顔。

「これを皆が知ったら、どう思うかなあ? 」

 面白がっているような口調で、内容は明らかに意地悪。

(…この人、性格も良いって言われてるのに……)

 周囲から聞く彼の噂とのギャップ。

(僕はすごく苦手だけど、まあ、こういうコミュニケーションの取り方をする人っているからな……。だから、これだけで性格悪いとか決めつけたりしないけど……)

 しかし、やはりどうも苦手なため、相手にせず早々に立ち去ることにした。

 無視してこのまま立ち去っても、特に言いふらされたりなどしない自信がある。

(だって、言いふらそうにも、この人、僕の名前を知らないでしょ? )

 そもそも、自分との今のこの関わりなど、3秒で忘れるのでは? とも。

 相手は先輩なため、一応、失礼の無いよう、

「失礼します」

 会釈してから、犬吠埼はハンカチを返すべく、あれだけ短時間のうちに姿が見えなくなったのだから2階にいるだろうと見当をつけ、雉子を追う。

 だが直後に、キーンコーンカーンコーン。

 予鈴が鳴ったため、放課後でいいか、と諦めて自分の教室へ。




                *




 陽が傾き、赤味を帯びた光と影のコントラストの強くなった、ひと気の無い教室。

「子供扱い、しないでよ……」

 切なげに言って、猿爪は両手を壁につき、その腕の中に雉子を囲った。

「キスするよ? いいね? 」

 ゆっくりと雉子の顔に自分の顔を近づける猿爪。

 その様子を、廊下側のドアからドキドキしながらこっそり覗き見る犬吠埼。

(こ、これは……。とてもじゃないけど、入って行ける状況じゃない……! )

 終礼が終わり、委員会の用事を済ませた後、雉子にハンカチを返すべく職員室へ行った犬吠埼だったが、そこに雉子はおらず、雉子と同じ3年部の教諭から、雉子なら担任をしている32HRの教室で見掛けたと教えてもらい、来てみたのだったが……。

(雉子先生とあの人、付き合ってるのか……)

 しかし絵になるな……と思った。美女と可愛らしい(けっして悪口ではなく素直な意味で)少年。映画か何かのワンシーンのように美しい。

 2人が担任の教師と生徒であるという予備知識が、場面に背徳のストーリーを与え、儚い輝きを添えている。

 初めこそドキドキしながら覗いていた犬吠埼だったが、そのあまりに現実味の無い美しさに次第に引き込まれ、いつの間にか見惚れていた。そう、覗き見の罪悪感すら忘れて……。

 と、その時、

「いいワケないでしょ? 」

 オトナな余裕のある口調で言いつつニッコリ笑いながら、雉子が、手のひらで優しく猿爪の顔を元の位置まで押し戻した。

「えー? いいじゃないですかー、キスくらいー! 」

 わざとらしく子供っぽく甘えた感じでプウッと膨れる猿爪。

「ダーメ! そういうことは、好きなコとやんなさい! 」

「ボクが好きなのは先生だけなのにー? 」

「はいはい。それは、どうもありがとね」

(…なーんだ……)

 現実に引き戻される犬吠埼。

 だが、入って行きづらい状況であることに変わりはない。

 状況云々を抜きにしても、猿爪にはハンカチの匂いを嗅いでいるところを見られている。今はそんな出来事は忘れていたとしても、先生とハンカチと僕と、それだけ揃えば、さすがに思い出すだろうし、無関係の人に噂として話されるのはよくても、本人に、しかも僕がいるところで、というのはちょっと……と。

(…明日でいいか……。僕の口を拭いてくれたので汚れてるし、洗濯して返そう)

 犬吠埼は、諦めて帰路についた。




「やあ! キミはさっきの変態ニオイ少年じゃないか! 」

 学校からの帰宅途中、神門神社の脇の道を入ったところで、背後から聞き覚えのある声がした。

 が、自分に掛けられた声とは思わず、気に留めず、そのまま、いつもこの神社脇の道を通る時と同じように速めで歩を進める犬吠埼。

 すると再び、今度は少し悪戯っぽさを含んで、前の声よりだいぶ近い距離から、

「やだなあ、無視しちゃってー」

(……僕? )

 視界に人がいないことから、犬吠埼は初めて、声をかけられているのが自分かもと思い、足を止めて振り返る。

「やあ! 」

 そこにいたのは、自転車を押した猿爪。

 ハンドルから片手を放し、顔の高さまで上げてにこやかに挨拶。

 犬吠埼は会釈で返す。

(…この人も、こっちのほうなのか…‥。

 この道路って中学校区の境目だから、家が近所でも知らない人って、結構いるんだよな……)

「あれっ? 」

 突然、猿爪は取って付けた感じの声を上げてから、自転車を自立させて両手を自由にし、視線を犬吠埼の腰付近へ移動。そちらへ向かって手を伸ばすと、ズボンのポケットから、ピッと雉子のハンカチを引き抜いた。

「これ、雉子先生のハンカチだよねー? 」

 からかうように言いながら、目の高さでヒラヒラ。

「このまま貰っちゃうの? それって泥棒じゃないのー? 」

 ああ、またこういう感じか……。と、犬吠埼は内心溜息。

(この人、ホントにどういうつもりなんだろう? 僕と仲良くなりたくてコミュニケーションを取ろうとしてるのか? それとも、噂と違って本当は性格悪くて、意地悪出来る良い相手とネタを見つけたってとこなのか? )

 何にしても、意地悪のつもりならもちろん、仲良くしたいという気持ちからであっても、苦手なのだから、こちらの不快な気持ちは続くだろうし、関わらないのが一番だと考え、犬吠埼は言葉に特に何の感情も持たせず、

「返しそびれただけです」

 心の中でだけ、「あなたのせいで」と付け加えた。

 そこまでで、ハッと第3の理由に気づく。

(ヤキモチっ? もしかしてこの人、僕と仲良くなりたいワケでも性格悪くて意地悪したいワケでもなくて、僕が雉子先生のハンカチを拾ったところからじゃなく、もっと前、口を拭いてもらったところあたりから見てて、ヤキモチ焼いてるっ?

 先生とこの人は付き合ってないけど、この人が先生のこと好きなのは本当っぽいし……。

 ひょっとして、雉子先生じゃなかったら絡まれなかったっ? )

 とにかく、もう、ここから離れようと、ハンカチを取り返すべく手を伸ばす犬吠埼。

 それを猿爪は、その場でジャンプしながらハンカチを持つ手を無駄に高く上げてかわし、そのまま、その手で大きな円を描く謎の動きをしつつ着地。流れるような動作で膝を曲げて反対の手で足下の小石を拾うと、手早くハンカチで包み、神社の中へ、ポーイ!

(!!! )

 猿爪のおかしな動きに気を取られていた上に、投げる動作は一瞬で、犬吠埼は全く反応出来なかった。

「なっ何するんですかっ? 」

「えー? 何ってー? 」

 猿爪はニッコリ笑って、

「分からないの? 意地悪をしてるんだよ? 」

(…そうか、意地悪のほうか……)

「ボクはキミみたいな気楽そうなヤツを見ると羨ましくなってね。つい、意地悪しちゃうんだ」

「気楽そう? 」

 軽く頷き、すました顔で続ける猿爪。

「ボクみたいに勉強もスポーツも出来ると、周りが放っておいてくれなくてね。

 キミはいいよね。誰にも期待なんてされないんだろう? 」

(…そりゃ、まあ……。確かにそうだけど……。

 失礼な人だな。よく知りもしない人の内面を決めつけるとか。特別期待はされなくても、僕だって、そんな気楽に過ごしてるワケじゃないんだけど)

 だが、気楽そうに見えると言われるのは嫌な気分ではなかった。そう見えるようにしている部分もあるから。

 特に深い理由は無い。気楽そうに見えても大変そうに見えても自分の能力は変わらないのだから、それならば気楽そうに見えたほうが余裕がある感じでカッコイイから、というだけのこと。

 けれども「気楽に見える」発言以外は、やはり不快でしかない。

 ムカムカしながら、

「期待に応えたくないなら応えなきゃいいじゃないですか。他人に八つ当たりするのは、やめて下さい」

「キミ、分かってないなあ。期待には応えたいんだよ。本当は出来ることなのに手を抜いたせいで出来なかったために、自分がその程度と誤解されてしまうのは悔しいじゃないか」

(あ、何かそれ、分かる気がする……)

 共感する犬吠埼。

(僕は期待されないし、自分の選択したことで疲れたからって他人に八つ当たりなんて絶対にしないけど……。だって、それってとても醜いし……)

 ……。

 犬吠埼は、ふと思いつく。

 他人からの評判を気にしている様子なのにもかかわらず、八つ当たりなど醜いことをしている猿爪のこと、これをネタに、これまでの八つ当たりの仕返しが出来るのでは、と。

 犬吠埼、思いっきり嫌味な口調を心掛け、

「頭脳明晰スポーツ万能、皆の憧れ生徒会長が、実はこんなイジメじみたことをしてるって知ったら、学校の皆は、どう思うかなあ? 」

(さあ、困れ! )

 猿爪の反応を窺う犬吠埼。

 猿爪は、一瞬キョトン。それから、クスッと小さく笑い、

「何それ。脅してるつもりなの? 馬鹿だなあ。ボクとキミ、皆がどっちの言うことを信じると思う? 」

(……負けたっ! )

 口では猿爪には絶対に勝てないと、犬吠埼は思った。

(…いや、腕力のケンカでも、スポーツ万能のこの人相手に、人並でしかない僕が勝てるのか分からないけど……)

 猿爪はクスクスと愉快そうに笑いながら、

「何かボク、キミのこと気に入っちゃったよ」

 そして一旦、笑いを止め、得意の華のある笑顔に切り替えて、

「じゃあ、また明日、学校で! 」

ウインクをひとつ。自転車に跨り去って行った。

(…ああ、男にもそのサービスをしてくれるんだ……)

 ドッと疲れてしまい、

(「犬猿の仲」って言葉があるけど……。あの人が「猿」で僕が「犬」だから……。でもケンカにもならないほど一方的だからな……。犬猿じゃなくて「敬遠」を目指そう……。もう、関わらない……! )

 溜息を吐きつつ意味も無くその背中を見送って後、犬吠埼は自宅へと歩き出そうとして、

(そうだ! 先生のハンカチ! )

 思い出し、足を止め、

(…どうしよう……)

 木々が鬱蒼としているために敷地内の様子が見えない神社を見つめ途方に暮れて立ち尽くす。 



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