男性の手
そしてこの手もまた美しい。三十代になってより磨きがかかったのだろうか、このコンパクトな形に何度も頬ずりをしたくなる。自分の手。この小綺麗な美しい手で、今日もまた世の女性を魅了していくのだ。わたしはそっと自らの右手に唇を合わせると、これから始まる一日への気合を入れた。
そそくさと朝の準備をして、団地の扉を開けると曇り空の合間から、うっすらと光が差し込んできた。我が家を一歩出たところから降り注ぐ光たちは、電場の振動方向が揃ってないため柔らかい。
ひび割れた冷たい階段を一歩一歩降りると、そこにはミアが待ち構えていた。
「遅いじゃない。行くよ」
わたしの顔を拝むことなく、さっさと歩いていく。その足取りは幾分か重そうで、こちらも気分が滅入る。サポートセンターまではドアツードアで約三十分の道のり。五分ほどバス停まで歩いて、バスに乗車すると二十分近く丘を上っていく。その丘の上に忽然と現れるのが、我らが朝から晩まで顧客の電話対応をするサポートセンターだ。
季節は九月に入り、ここドイツの地方都市ビュルツブルクも肌寒くなってきた。乾いた風が前を歩くミアの黒髪を優しくなでる。
バス停に到着すると待っていたのは、アメリカ出身のエバとルーマニアから来たマリアだ。エバは身長が180ほどあるスラッとした体躯のスポーツマンでレズビアン、マリアはふくよかでよく喋るおばさんだ。
「イヤー」
わたしたちは形式ばかりの挨拶を交わすと、次々と向かってくるベンツやワーゲンの群れから目的地に向かうバスを探す。朝の通勤ラッシュでは、バスを捕まえるのもやっとだ。この時間、わたしはいつもミアの背中に隠れて静かに自らの手をなでている。
「そろそろ家を買おうと思っているんだよね」上から見下ろすようにして、エバがミアとマリアに話しかける。
「え、ここ?またどこに勤務地が変わるか分からないのに」とミア。
「うん。だから買うならフランクフルトかな。いざとなったら売れそうだしね。まあ通うのが大変だけど電車で一時間くらいだし、どっちみちこの会社にもいつまでいるか分からないからね」
エバはそうまくしたてるとキリッとした目でミアを見つめた。普段よく喋るマリアは今日は虫の居所がよくないのか、ムスッとしている。わたしはただその様子を観察するに過ぎず、目立たぬよう息を殺していた。
会社に向かうバスが到着したので、乗り込んでいく。バスのなかは大方が会社の同僚だ。同僚たちは世界中のあらゆる場所から集まっている。もちろんドイツが多いのだが、海を渡ったイギリスもいればモロッコやフランス、イタリアなど、周辺の国々のメンバーも多い。日本人は少なく、ミアとわたしを含めて全員で五名。センターには総勢400名近くいるので、マイノリティとなっている。しかも日本人で男性はわたし一人だ。
この日は車内も人数が少なく、席もいくつか空いていた。エバ、マリア、ミアの三人は黄と青で塗られた鮮やかなシートに腰をかけた。わたしはもちろん座るわけにはいかないので、つり革を手にして立つ。つり革を手にするといっても、わたしの手では、その輪に手首を入れるだけ。不安定なので、バスがぐらつくとわたしも簡単にぐらついてしまった。そんなときは周囲からは嘲笑がもれる。「いつかはバスに座ってみたい」。そう胸に秘めながら、過ぎ去っていく車窓をぼんやりと眺めた。
バスが丘の上に到着すると、わたしたちはそびえ立つ無機質なビルに向かって連なっていく。始業時間は九時から十八時まで。わたしを含めた数少ない男性陣は薄暗い地下にある一室に進んでいく。
自席に着くと、隣席では中国人の李くんが淡々と電話を受けていた。わたしは余裕があるときはいつもキーボードを軽やかに叩く彼の手を眺めている。本場の纏手だけあって、それは細やかで美しい。手先はまるでナイフのように尖っている。そして、その後に自らの手を見つめると、まだまだ未熟さを痛感させられる。
顧客からの電話が少ないある日、思い切って李くんに聞いたことがある。
「やっぱり中国は本場だけあって違うのかな。何歳から始めたの?」
「うーん、三歳くらいかな。記憶はないけど。そこからは二、三カ月に一回包帯を外して、消毒というのを繰り返して。たいしたことはしてないよ。日本も一緒じゃない?」
「そうだね。でも、なんか李くんの手は指と指の間がなくてかっこいいよね」
彼は満足そうにうなずくと何か喋ろうとしたが、顧客からの電話が入ったため、すぐに仕事にとりかかった。
わたしたちの電話は俗に一次対応と呼ばれるもので、顧客の問題点を聞き取り、各担当部署に振り分ける簡単なお仕事だ。対応時間は平均一分程度なので、一日250人程度の対応をする。これこそまさに男性陣の仕事だ。それ以降のコミュニケーションが必要とされる高度な仕事は女性陣に託される。
もちろんサポートセンターだけに電話がつながった瞬間から、顧客の不平不満が頂点に達していることがある。ときには「おい、おい、おい、男かよ。女に変われ!」と会話自体を拒否される。そんなときは「まずはわたくしで対応させていただきます。どうなさいましたか」といって顧客の不満をなだめて、なんとか次につなげていく。「ふん、男がわかるものか!」と不満を露わにした顧客を静めることは難しい。大変骨の折れる作業だ。
こんなこともある。日中暇にしている中年の女性から、とりとめもない会話の相手役を努めさせられるのだ。「わたしの機械、どうにもおかしいのよ。焦げ臭い匂いもするの?少し相談に乗ってもらってもいい?」
「もちろんです。わたくしが担当いたします」
この時点で嫌な予感がした。どうにも切迫感のない声、まどろっこしい話し方、本当に機械が焦げ臭いなら、とてもではないがこんな悠長な話し方にならないだろう。早速、焦げ臭さの原因を切り分けて、一つ一つ問題を探していく。でも、これといっておかしな点は見つからない。そもそも、匂いについて聞いても答えは曖昧なのだ。
「なんか焦げ臭いというか、なんていうのかしら。とても変なのよ。不思議な臭いとでもいうのかしら」
「そうですか。でも、これといったトラブルは見つかりませんね。一度クールダウンさせるために機械を止めてみましょうか」
そう促すとご婦人は、
「わかったわ。その前に一度再起動をかけてみる。そのあいだ悪いけど電話をこのままにしてもいい」
わたしが同意すると、それを合図に彼女のスイッチが入る。
「で、あなたは何歳なの。いい声をしているじゃない。どこに住んでいるの?」
「ビュルツブルグ近郊です。今は再起動かかっていますか?」
「ええ、まだ途中よ。だから何歳なの」
「34です」
「若いわね。結婚は」
「していません」
「しないほうがいいわよ。結婚なんて地獄。同じ人と三十年も四十年も過ごせると思う?」
「さあ、結婚していないのでわかりませんけど」
「まあ結婚してみれば分かるわよ。ところであなた、あれしているの?手」
ついに来たかとばかりに、わたしは自分の丸く固められた手を見つめる。
「すみません。プライベートのことはお話できかねます。機械はいかがですか」
ここで牽制しておかないと、これから酷い展開になるのは目に見えている。
「あら、そう。そそられる声をしていたのに残念ね。もういいわ。なんだか直ったみたい。じゃあね」
そう言うとご婦人はガチャンと電話を切った。機嫌を損ねただろうか。まあ仕方あるまい。こうした誘いの電話はセクハラに該当するのだが、そのたびに訴えていても仕方がない。私は大きなため息をつくと次なるコールを受ける。
「お電話ありがとうございます」
この一室に集められた男性陣はある意味、運がよい。給与も世の男性の2倍近く貰える。電話を受けるだけの仕事はストレスが多いが、慣れてしまえば誰でも続けていける。
そうした恵まれた職場なので、入社するのは至難の業だ。学歴や知性とともに、美貌が必須となる。上層階で戦う女性を癒すための容姿が問われるのだ。
わたしが、たいした苦労なく社会人としてやれているのも、生まれながらの美貌のおかげだ。国内ではイケメンとして幼少時から褒めそやされてきた。ところがこちらに入所してみると、見映えによる自信は見事に打ち砕かれてしまった。
なぜなら暗い地下室では、右を向いても左を向いても麗しき容姿の面々ばかりなのである。例えば、隣席の李くんは身長185という恵まれた体躯とともに、中東や南米がミックスされたオリエンタルな顔立ちだ。内面も慈愛に満ち溢れたまさにパーフェクトな男である。彼ならばいつでも貰い手が見つかるに違いない。その証として、わたしたちの部を統括する女性マネージャーはいつもチラチラと彼を気にしている。
午前中は電話対応で忙殺されるが、午後になると来客があるために、お茶出しの仕事も出てくる。打ち合わせや会議に訪ねてくる顧客に、ほどよい熱さのお茶をお出しするのだ。この時のみ上階に登ることが許されている。
とはいえ、お茶出しはわれわれ男性には難しい。手の発育が幼少時から進まないため、お茶の葉を急須に入れる、熱湯を用意する、顧客の目の前に熱々のお茶をセットする、そういった細かな作業が至難の技なのだ。たまに、フラフラとおぼつかない作業の様子を見て、クスクスと笑ってくる女性もいる。
「Nさん。十四時から十七階の営業会議にお茶だししてくれる?」
この日は統括マネからお茶出しの指示が入った。わたしは「はい!」と雄々しい返事をすると、早速準備に入る。
「いいね。休憩できて。いい女つかまるといいな」
李くんが微笑みながら茶化してくる。
「なに言っているんだよ。光を浴びてくるよ」