2人だけの秘密
橙の光がわたしたちの背中を照らし、地面に映る影を伸ばす。空を仰げば、黒い点の様な鳥の集団がキャンバスに絵を描く様に不思議な形を成して飛び去って行った。
わたしたちもそろそろ帰らなきゃ。わたしたちは長い影を引き連れて、家へと帰る。
家の門の表札を通り過ぎた辺りで、わたしはお母さんにシザンサスを紹介しようと考えた。ぬいぐるみが人間になったという非現実的な出来事を伝えたかった。驚かせたかった。
わたしは後ろにシザンサスがついて来ている事を確認すると、扉を開いた。
玄関から「ただいま」とキッチンにいる筈のお母さんに声を飛ばし、「お帰り」と返事があるとわたしは弾んだ口調でお母さんを呼んだ。
「早く来て! 見せたいものがあるの!」
「よく分からないけど、すぐ行くわ」
近付いて来るお母さんの足音。わたしはドキドキとした。この男の子があのぬいぐるみだって知ったら、一体お母さんはどんな反応をするのかな? 楽しみだ。
お母さんの姿が視界に入ると、わたしの鼓動は速さを増した。
どうやって言えばいいかなぁ? 色んなパターンを頭の中で浮かべては迷っていた。
「なあに? 見せたいものって」
お母さんが目の前に来た。
わたしの頭の中に浮かんでいたパターンはその瞬間に一気に沈み、咄嗟にわたしは開けたままの扉の外を指差した。
「ほら、わたしの後ろに……」
「……ぬいぐるみ?」
「そう、ぬいぐるみ!」
「ちゃんと見つかったのね。良かった。でも変ね……さっきまではそこにぬいぐるみは落ちてなかったのに」
「え?」
わたしは後ろを振り返った。
――――あれ? 何で? さっきまでは人間だったのに。ぬいぐるみに戻っちゃってる。
「早く拾ってあげなさい。お母さん、夕飯の支度の途中だからもう行くわね」
お母さんはキッチンへ戻って行き、わたしは一人玄関に取り残された。
まさか、わたしの夢? ううん……でも、シザンサスとお喋りしたもん。一緒に遊んだもん。これが夢だっていうのなら、何て寂しいんだろうか。
わたしは仕方なくぬいぐるみを拾って、家の中に戻った。
自分のベッドに仰向けになり、ぬいぐるみを高く持ち上げて色んな角度から眺めた。
これは紛れもなくぬいぐるみだ。やっぱり、さっきのは夢だったんだとわたしが諦めかけたその時――――ぬいぐるみが光った。
ぬいぐるみは光に包まれたまま形を変え、次第に人の姿になった。重量も増してわたしのか細い両腕では支えきれなくなり、シザンサスはわたしの上に落ちた。
全身に強い衝撃が走り、わたしは一瞬目を閉じた。
目を開けると、シザンサスとわたしの体は密着していてシザンサスの横顔がわたしの顔のすぐ隣にあった。小さな呼吸が聞こえる。鼓動だって、段々と速くなってゆくのが感じ取れる。
わたしとシザンサスは同時に顔を真っ赤にした。
「ご、ごめんっ!」
シザンサスは慌てて起き上がってベッドを下り、正座をした。わたしも起き上がってベッドの上からシザンサスを見下ろした。シザンサスは今にも泣きそうな顔でわたしを見上げている。
わたしはにこっと笑った。
「良かった。夢じゃなかったんだ」
シザンサスは小首を傾げたけど、笑顔で大きく頷いた。
「夢じゃないよ」
わたし達は夕飯まで、部屋で沢山お喋りした。
「ご飯出来たわよー」
お母さんが階段下辺りから声を飛ばした。
「はーい!」
わたしは返事をして、戸惑うシザンサスの手を引いた。
「一緒に行こ?」
「で、でも……」
「大丈夫だから。ね?」
「う、うん……」
何とかシザンサスを説得して、一緒に部屋を出た。
階段を下りてすぐに見える玄関。靴が一足増えていた。黒くて艶やかな革製の大きい靴。リビングから漏れる低音の声。お父さんが帰って来たんだ。
よぉし……お父さんにもシザンサスの事を伝えるぞー!
怯えるシザンサスの手を引いて、わたしはリビングへ足を踏み入れた。
「お父さん、お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
四人用の木製のテーブルの窓際の席に着いたお父さんがわたしの方を見た。
「あのね、すっごくビックリしちゃう話があるんだけど」
今度はキッチンのお母さんにも言葉を向けて、2人の視線がわたしに集まった。
「お父さんに貰ったうさぎのぬいぐるみ……」
「ん? 落ちてるじゃないか。ぬいぐるみ」
またこのパターン……。わたしはまさかと思って、振り返った。
シザンサスはぬいぐるみに戻ってしまっていた。
「今日はよく落とすわね」
お母さんが笑って、「そうなのか? ドジだな」とお父さんも笑った。
2人に笑われてムッとしたけど、ここでぬいぐるみが人間になったんだって言っても信じてもらえないだろう。もっと笑われちゃう。
私は黙ってぬいぐるみを拾い、お父さんの向かいの席に着いた。ぬいぐるみは隣の空席に置いた。お父さんの隣にはお母さんが座り、わたし達3人は食事を始めた。
今日のメニューは、ふわふわのお母さん特製オムライス。トマトケチャップのかかった少し厚めの卵をスプーンで割ると、トロッととろけて中のケチャップライスと混ざり合う。それを口へ運べば優しい味が口いっぱいに広がり、とっても幸せになる。どんなに怒っていても、落ち込んでいても、お母さんのオムライスはいつもわたしとお父さんを笑顔にしてくれた。もちろん他の料理も美味しくて大好きだけど、わたしはオムライスが一番好き。
シザンサスにも食べさせたかったな。また人間にならないかと期待をして隣の席を見るけど、何も変化はない。
わたしは小さく溜め息を吐いて、視線を正面に戻した。すると、お父さんと目が合った。お父さんは悪戯な笑みを浮かべていた。
「まだぬいぐるみ、連れ歩いてるのか?」
まだって……。お父さんは時々、わたしをからかう。
「お父さんがくれたんじゃん。小学4年生のわたしに。それに、連れ歩いてはないよ」
わたしは落ち着いた口調で返した。
「だってさ、女の子って言ったらやっぱぬいぐるみだろう? いくつになっても、ぬいぐるみを貰うと嬉しくなるもんさ。な、母さん?」
お父さんはお母さんを見て、お母さんは口元に手を当てて笑った。
「ふふ。そうね。不思議と、ぬいぐるみって安心出来るのよね」
「魔力が宿っていると聞くしな」
魔力……。わたしはぬいぐるみを一瞥した。
お腹いっぱいになったわたしは、自分の部屋に戻った。音沙汰なしのぬいぐるみをピンク色の座椅子に置いて、わたしはその後ろの本棚の前に立った。本と漫画がズラリと並んだそこから、わたしは先週栞を挟んだ本を抜き出した。
本を開きながら方向転換をすると、男の子の姿が視界のほとんどを占めた。
「シ、シザンサス!」
わたしが名前を呼ぶと、男の子は笑顔になった。
「やあ。また人間になったみたいだよ」
「何でまた突然……」
「何でだろう? 魔法が不完全……だからかな。ボクの意思とは関係なく魔法が解けたり、かかったりするみたい」
よく分からないけど良かった。またシザンサスとお喋り出来るんだ。でも、不思議。お父さんとお母さんの前ではぬいぐるみに戻っちゃったのに、わたしと2人きりの時は人間になる。2人きりの時だけ……2人だけの秘密……なんて。
わたしが寝る頃には、シザンサスはぬいぐるみに戻っていた。
昨夜までは寝る前にキスをして抱いて寝てたけど、さすがに今夜はそんな気にはなれなかった。シザンサスを人間の男の子として意識をした以上、恥ずかしくて堪らなかった。だから、今夜のシザンサスの居場所は座椅子の上。
「おやすみ」と挨拶の言葉だけを残して、わたしは部屋の灯りを消した。
翌朝、電話の鳴り響く音で目が覚めた。でも、すぐに鳴り止んだからわたしは安心をしてまた目を閉じた。多分、お母さんが出てくれたんだね。
階段を駆け上げる足音がした。
「お友達から電話よ」
あ。電話、わたしだったんだ。
「はーい」
わたしは目を開けて身体を起こし、ベッドから下りて扉を開けた。
廊下にはお母さんが居て、わたしの姿を確認すると先に階段を下りて行った。わたしもお母さんの後に続く。
電話は、同じクラスで一番仲の良い女友達からだった。
『今日遊ばない?』
「今日?」
『駄目?』
「えっと……うーん……」
いつもなら即OKなんだけど、今日はそうもいかなかった。何故なら、昨夜わたしはシザンサスと約束をしたんだ。
わたしが本を読んでいると、シザンサスは本を覗き込んで来て挿絵を指差した。
「これは何?」
「これはね、サボテンって言うんだよ」
「さぼ……てん?」
「そうだよ。あつーい所に生えている植物なの。町のお花屋さんでも置いてあるよ」
「そうなんだ。見てみたいな、本物……」
「じゃあ明日見に行く?」
「うん! 行く!」
「決定だね」
シザンサスは、わたしがさっき見た時はまだぬいぐるみの姿だった。いつ人間になるかは分からない。もしかしたら、夜になっちゃうかも。もしそうなら、友達と遊ぶ事は出来る。でも、実際はどうなるかは分からない。わたしはシザンサスとの約束を優先する事にした。
「ごめん。やっぱ今日は無理」
『そっかぁ~残念。じゃ、また今度遊ぼうね!』
「うん! また今度」
わたしは電話を切って、自分の部屋へ戻る。
「おはよう!」
部屋に入った途端、座椅子に座った人間の姿のシザンサスが笑顔でわたしに挨拶をした。
わたしは驚いてすぐには挨拶を返せず、少し落ち着いてから挨拶を返した。
わたしがクローゼットまで歩いて行くと、シザンサスが近寄って来た。
「今日見に行くんだよね? えっと……」
「サボテン。もちろん行くよ。昨日約束したもんね」
わたしは答えながら、クローゼットから白いワンピースを取り出す。
シザンサスは満面の笑みを浮かべた。
「やった! じゃあ行こうよ!」
「うん。でも、その前に……シザンサス。ちょっと向こう向いててくれる?」
「? 分かった~」