恋の傷と恋の病
ああ……
乱暴にキーボードを叩いていた。
頭が痛い。気分が悪い。昨日の酒が完全に響いている。あぁ、自棄酒なんてするんじゃなかった。
ああ、もう。可愛げがないってなんだ。知ってて告ってきたんだろうが。
しかも、薄々感じていた別の女の影。途中から二股掛けていたんだろうな。既に切れている縁なのだから、今更問い詰めることもしたくないが。
あぁ、本当、気分悪い。
佐伯涼子、29歳。主任。1年付き合った3つ歳上の男に、先日の日曜日に振られた女。それが私。
私を振った男に未練があるわけじゃない。元々向こうに告られて、ノリで付き合った感じだったわけだし。それに、最近はだいぶ向こうの熱が冷めてきていたのは感じていたから。もし今回切り出されなかったとしても、多分近い内に、私の方から別れ話は切り出していただろう。
それはそれとして、あの野郎、別の女に乗り換える準備が出来てから私を斬り捨てたに違いない。その間、念の為に私をキープしておいたのだろう。
そしてその上で、私が可愛げがないからだと、一緒に居て癒やされないからだと、私の所為にして別れ話を始めた。
それが、今でも腹が立つ。
もはや云い争うのさえ嫌で即切り上げてしまったけれど、今にして思えば、一発くらい殴るべきだったかも知れない。
なんにしても、今更な話だが。
「はぁ……」
仕事を休むわけにはいかないとは思っていたが、それでも腹の虫が治まらなくって、がっつり自棄酒をしてしまった。
ビールをガンガン飲んでから、大事に取って置いたブランデーとラム酒を半分以上開けてしまった。
好きな良い酒を、あんな悪い飲みに使うべきじゃなかった。後悔が重なる。
「くそっ」
苛々は積もるが、仕事も積もる。だから、自分を落ち着かせつつ仕事を進めてはいるが、変に力が入り、打鍵がやや荒っぽい。
「あ、あのぉ。佐伯さん……」
「あん?」
「ひゃあ!?」
私に声を掛けて結構派手にビビッたのは、今年で3年目、25歳の篠崎香織。
彼女の新人時代に、研修担当を私がやったのが懐かしい。
「何?」
「あ、あの、佐伯さん。ちょっと。ちょっと休憩室へ」
「あぁ?」
私の言葉に、ビクリと篠崎は震えた。少し泣きそうにも見える。
なんだろうと思ってから周囲を見ると、こっちを覗いていた連中がスッと目を背けたのが見えた。
そこで初めて察する。私の苛々は、傍から見てだいぶ判りやすかった様だ。
頭を掻く。そして、スッと立ち上がると、私は休憩室に向かった。
そんな私の後ろを、ちょこちょこと篠崎はついてきた。
休憩室の椅子に座ると、私は大きく溜め息を吐いた。
そんな私に、私の好きなブラックコーヒーを篠崎が差し出す。
「あ、ありがとう……あ、ごめん。財布持ってき忘れた。後で払うわ」
「あぁ、いえ。いいですよ。奢らせて下さい」
そして、篠崎は私の横に腰を下ろした。
「お前、そう云うのは先輩の役割だろ」
「飲みで奢って貰ってるんですから、たまには奢らせて下さい」
「んん……じゃあ、今度飲む時は、お前の往きたい店に行くか」
「わぁい」
改めて大きく息を吐いて、缶を開けてコーヒーを飲む。口に苦みを満たして、ゴクリと大きく飲み込む。
「あぁ、すっきりしたぁ。ごめんな、篠崎。機嫌悪そうだったか?」
「……えぇ。声掛けたら怒鳴られるのかと思って、怖かったです。良かったぁ! 休憩室来てから少し緩んで」
「そんなに?」
「そんなにですよ! 先輩方にも後輩にも、篠崎往ってこい! って云われて!」
「そりゃ、迷惑掛けたな」
そんなに威圧しまくっていたとは。確かに今日誰からも話し掛けられないなとは思っていたんだけど。
それで、一番私と会話をしている篠崎に飛び火したのか。申し訳ないな。
「いあぁ、悪い悪い。ちょっと体調が悪くてな」
「あの苛々っぷりは初めて見ましたよ。なんかあったんですか?」
「あぁ、えっとなぁ……」
私の後輩は、心配と興味を混ぜた様子でこっちを見ていた。
職場で苛々を振りまいてしまった恥じらいと、コーヒーの美味しさと、後輩の健気さとで、頭がだいぶ落ち着いてきた。
頭が落ち着いたとはいえ、まだまだ愚痴は云いたい。発散できたわけではないのだから。しかしながら、それを今やるのは、さすがに気が引ける。止まらなくなったら困るし。
「ああ……篠崎。月曜からってのもアレだが、今日飲みに付き合ってく」
「お付き合い致します!」
小動物みたいな篠崎は、食い気味で乗ってきた。
この子は付き合いが大変良くて、可愛らしく愛嬌もあり、部のアイドル的な部分がある。
それを独占して飲みに往くというのは、ふふ、悪い気分ではない。
酒にもまぁまぁ強く、味の好き嫌いも少ない。連れ回すのに大変都合が良い。
……まぁ、彼女がパワハラやアルハラで相談室に向かわない程度にはしようと思っている。
***
私と篠崎は、会社の最寄り駅から3つほど離れた駅にある、馴染みの中華料理屋で飲んでいた。
「さいってい、ですよ先輩! その彼……いえ、元彼! 先輩には悪いんですけど、最低です!」
「おお、そうか。そう思ってくれるか。私の為にももっと云ってくれ」
今回の件に限らず、溜まってたものを全部篠崎に吐き出した。
篠崎は紹興酒1合、青島ビールを2本飲み、麻婆をかき込みながら私の分も痛憤していた。
そんな様子を、煙草を呑みながら見ていて、私の溜飲はぐんと下がっていった。
元々、熱を上げた恋愛じゃない。ただただ、終わり方が気に食わないだけ。
きちんと結婚まで見据えろとか、そういう気持ちはないが、数日でも一年でも付き合ったのなら、気持ちよく別れて欲しい。
そういえば、別れ上手な男と付き合えたことは今のところないな。
「先輩は、男を見る目と男運がないんですよ」
「ないとは失敬な」
「でも、長続きしないってさっき云ってましたよね?」
「………」
ちょっと自覚があるだけに返答に窮する。
良い感じに温まってきた篠崎に、ちょっと絡まれ出した。
飲みに来ると、彼女は私のことを先輩と呼び、若干馴れ馴れしくなる。
こうなると、なんか学生の先輩後輩になった様な気がして、ちょっと楽しい。年齢的に、少し図々しいかもしれないが。
私は餃子をつまみ、ビールを飲む。回鍋肉をつまみ、ビールを飲む。
そしたらご飯が欲しくなり、炒飯を追加した。そしたら篠崎がエビマヨと空心菜の炒め物も追加した。
相変わらずの健啖っぷり。見てて心地良い。なんでこいつ太らないんだろう。
「そういう篠崎はどうなんだ。あんまそういう話しないよな?」
「うっ」
と、云い淀む。
「浮いた話がないわけじゃあないだろ。付き合ってるやつは今居るのか?」
「い、いえ、私の話はいいじゃないですか! 今は先輩の話が大事なんですから」
「ははは。篠崎に聞いて貰えて、私のモヤモヤとか、正直もうほとんど吹っ切れたんだ」
「あ、そうなんですか? それは良かった」
実際、私の苛々はほとんど吹っ切れていた。電話番号もアドレスも削除した職場も違う男なぞ、もはやどうでも良い。
持つべきものは、愚痴を親身に聞いてくれる相手だ。誘われて断らない健気さに甘えて、私は相当嫌な先輩になっているかも知れないが。
「だから今は、お前の恋人事情をつまみにしたい」
「ええ!? わ、私は……その、内緒です」
「えええ」
相当嫌な先輩かも知れないが。知れないのだが。それはそれとして結構良い気分なので、少し絡む。
「せ、先輩は、前の彼氏とどこで出会ったんですか? 先輩の男運は、出会い方に問題があるんじゃないですか」
「お、話を避けたな? まぁいいや」
すっかり男運ないみたいに思われてしまった。
まぁ、二年続いた相手がいないから、間違いではないのかも知れない。
「基本は飲み屋だな」
「こういうとこで、出会うんですか?」
「あぁ、そう。まぁどっちか云うとバーが多いけど。深酒して、前後不覚になって、ホテルだか相手の家だかで起きる」
「ひぇ!?」
篠崎は私の話を聞いていて、エビマヨを箸で取り損ねた。
「え、先輩って、えっ!?」
「何? 意外?」
「いが、意外っていうか……意外」
口を開けて、唖然としてしまった。
はて。結構一緒に飲んでいるけど、そういうの云ったことなかったっけ。ないか、ないな。あんま恋愛話ってしたことなかったしな。
「そ、そんな、せ、先」
篠崎はだいぶ混乱している様子。
まずい、幻滅させたかな。篠崎モテてるっぽかったから、結構そういう話大丈夫かと思ってたけど、もっと純真だったか?
「……おーい。ほれ、エビマヨ食え」
箸でつまんで、篠崎の口に押し込んだ。
「あふ、あふ! 美味しい!」
咀嚼して、嚥下。
そして、ふぅと篠崎は息を吐いた。
「……先輩って、そんな感じだったんですか!?」
再起動。
なるほど。どうも、彼女には思いも寄らない内容だったみたいだ。
「あぁ。私の付き合う相手って大体そんなんだったな。学生の頃は流石に違ったけど」
「そん、な、なんですか」
なんかもの凄くショックを受けている。
篠崎の恋愛観とはほど遠かったんだろうか。まぁ、お世辞にも綺麗な恋愛とは括りにくいものではあるしな。むしろ、ちょっと爛れているというか。
うん。
さて、どうしようか。フォローした方が良いんだろうか。
「なんかショックだったか?」
「い、いえ、あ、いえ、ちょ、だいぶ……イメージと違って」
「なるほど」
さて、私は一体どういうイメージだったんだろう。
酒と煙草が好きで、よもや清楚なイメージがあったとも思えないが。
「ちなみに私、どういうイメージだったんだ?」
「え? あぁ、えっと。ナンパとかされても、すぐに断るような……キツい感じな」
「キツい感じって……悪いな、一人で飲んでる時は結構気楽に受けちゃうわ。最後まで往くかは別として」
「ええええ!?」
わぁ、悲鳴みたい。
篠崎が私に抱いていた幻想を、今、不用意にぶっ壊してしまったかも知れない。
……しくじったかなぁ。
どうにも私が思っている以上にショックが大きかった様で、篠崎は飯を食い酒を飲むものの、ほとんど上の空みたいな返事をするばかりで、ほどなく店を出た。
***
翌日、会社に往くと篠崎の調子は戻っていた。
が、どうにも私を避けている様子で、近くに来ることはなく、話し掛けてくることはなかった。
遠目で見ていると、明らかに気がありそうな男性から声を掛けられては軽くあしらっている様子もあり、そこそこ慣れてそうに見えるのだけどなぁ。
なんだか、懐かれていたペットが寄ってきてくれなくなった様な、そんな寂しさを感じた。
嫌悪されてしまったのだろうか。良い飲み友達を、些細な事で失ってしまったのだろうか。
そんなショックを、私はしみじみと感じている。
そのお陰というのもあれだけれど、すっかりと頭の中から、別れた男のことなどどこかへ飛んでいってしまっていた。
***
業務の最低限の会話しか話さないまま、金曜日となった。
今の状態の後輩を誘うのはさすがに気が引けるので、今日は一人飲みをすることにしよう。
そう思って、飲みに往きたい店を思い出しながら仕事をしていた。
三時頃になって休憩室に往き、店が開いていることを確認しながらコーヒーを飲んでいると、不意に隣に篠崎が腰を下ろしてきた。
「し、失礼します」
「ん? あぁ、篠崎か」
ここ数日ほとんど近くに来なかった篠崎が突然近付いてきたので、ちょっと戸惑った。
「あ、あの、佐伯さん……今日、飲みに往かれますか?」
「そのつもりだけど」
そう云ってから、失言だったかなと気付く。
篠崎が距離を置いたのは、一人飲みから男と寝る一連の流れが原因だったはずなのだから。
「一応云うが、別に一人飲みしてその度に男捕まえてるわけじゃないからな。彼氏が居る間とかは、一人で飲みに往くことはあっても、他の男と飲むことはなかったし」
効果があるのか判らないけれど、最低限の自己フォロー。
それこそワンナイトラブが駄目って話なら、これにはなんの効力もない。
「あぁ、いえ! その、それを責めたいとかじゃないんです……すみません、話したいことがありまして……私も、一緒に飲みに往っても良いでしょうか」
消え入りそうな声で、ぺこりと頭を下げてくる。
ここで話して済まない内容という辺りにやや怖いところがあるが、元々連れ回していたの私だし、後輩に話を聞いて欲しいと云われたら避けるわけにはいかない。
「あぁ、構わない。じゃあどこで飲もうか」
「あの、どこでも良いので、その……お願いします」
そう云うと、立ち上がり、ぺこりとまた頭を下げて、さっと去ってしまった。
「うん、何話す気だろう」
折角の金曜に飲む酒が、あまり苦い酒にならないと良いなと思った。
結論から云えば、それは杞憂だった。
定時が過ぎて少し経ってから一緒に会社を出て、海鮮居酒屋へ。
席に着いて酒を頼むまで、篠崎は静かだった。
だが、その後ビールがジョッキで来ると、篠崎はそれを一気飲みしてからジョッキを静かに置き、一呼吸してから、手をついて頭を下げてきた。そして、謝り倒してきた。
「も、申し訳ございませんでした! 態度悪かったですよね!」
「うわ、びっくりした!」
文句を云われるのは自分だと思っていただけに、若干怯む。
「先輩! ごめんなさい! わた、私、混乱、えと、ちょっとなんか、どう話し掛けたら良いのか判らなくなっちゃって」
そう云ってから、潤んだ目でこっちを見上げてくる。
小動物め。
「あぁ、いや、いいよ、別にそこまで気にしてなかったし」
「うわーん、それはそれで!」
今度は別の意味で顔を伏せた。
「よしよし」
頭を撫でる。
それからしばらく、篠崎は謝ってきたが、どっちが悪いと云うこともないと思うので、お互い気にしないことにしようということで手打ちにした。
「そ、それで……これからも、飲みに往く時……誘って、もらえますか?」
「ああ、こっちこそお願い。お前と飲むは好きなんだ」
「良かったぁ!」
感情豊かに突っ伏して喜んでいた。
しかし、こんなに喜ばれるとは。意外にも私と飲むの楽しんでいてくれたんだな。
……これが査定を気にしてのことなら、それはそれですごく逞しくて感心する。
そんなやりとりが終わる頃、注文していた刺身盛り合わせに、煮付け、海鮮あんかけ炒飯、日本酒と、雑多な食べ物が並んだ。この後まだ来る。
しかし、しまったな、野菜頼み忘れた。あと、こう魚が並ぶと、唐揚げとか餃子も欲しいけど、あったかな。
そんなわけでメニューを見ていると、篠崎が小さく声を掛けてきた。
「ち、ちなみに先輩は……今週、一人飲みとかしたんですか?」
その言葉に、家飲みはしたと答えようとしてから、意図を察した。
「男漁ったかってこと?」
私がそう訊ねると、一瞬ギョッとしてから、こくりと頷いた。
「いやぁ、さすがに平日はね。そう云う場合朝帰りが多くなるし……篠崎に誘われなかったら、今日は一人で飲みに往くつもりだったけどね」
そう応じたら、篠崎はふぅと息を吐いた。
「危ないところでした、また先輩が悪い男に引っ掛かるところでした」
「おい」
くそ、完全にダメンズウォーカー認定されてる。
「まぁ良い男だなって思う奴は確かにあまり引かないけど、そもそも私が良い女かどうかってこともあるしな」
私がこんなだから、似たような男しか引っ掛かっていないんじゃないだろうか。
都合の良い感じな。
そう思って自嘲したら、篠崎は空になったジョッキをトンと強めに置いた。
「先輩は美人で、クールなんだから、そういう感じ良くないと思います」
真面目な顔で云われた。
「……あははは! お前、真顔で良くそこまでおべっかを使えるな」
「本当に思ってますもの!」
トントンと駄々を捏ねるようにジョッキを鳴らす。このまま叩き続けられてはジョッキが可哀想なので、ビールのおかわりを注文する。
「いやぁ。お前、結構私と飲んでるのに、良くそんなこと真面目に云えるな」
「先輩はもっと自分を大事にするべきだと思うんです」
「大事にしてるよ」
「えええ」
眉に皺を寄せて強く否定される。可愛い顔が台無しだ。これは部の面々には見せられないな。
「なぁ、篠崎。それよりも大事な話なんだが、春巻きと唐揚げだとどっちがいい?」
「唐揚げが、いや、春ま……両方食べたいです」
「よろしい」
ビールも来ることだし、両方注文しよう。
話も無事切り替えられたことだし。
ここからは、仕事の話、食事の話、最近飲んだ酒の話など、そんな他愛のない雑談がメインとなった。
なんかちょっと心配していたけれど、普段通り、気の置けない飲みができた。
そして、注文した料理をすべて平らげた辺りで、私たちは店を出た。
「んー。美味しかった。わだかまりも取れたし、すっきり週末を迎えられるわ」
「すみませんでした、先輩」
「いいって、恋愛観は人それぞれだし」
云いながら、私たちは駅へ向かっていった。
そして改札を通り、電車に乗る。降りる駅は違うが、途中までは同じ方向だった。
「一人飲みは止められたけど、楽しい飲みだったよ」
「そう云ってもらえると、今後の阻止も頑張れそうです」
「それは……どうなの。楽しいからいいけど、揃って往き遅れるわよ」
「先輩の為なら!」
「さては嫌がらせだな?」
揃って、けらけらと笑う。
しかし、まだ少し酔いが浅いから、帰る前に一人でもう一軒くらい往っても良いかな。
そんなことを考えていたら、何やらおずおずと、篠崎が袖を引いてきた。
「あの、先輩。先輩って、ブランデーとか好きでしたよね?」
「あぁ。ブランデーとかラム酒とか、ウィスキーとか、好きだねぇ。ビールより好き」
「その……良ければ、その、今日……これから、私の家に飲みに来ませんか? 私まだ、飲み足りなくて」
「は? え? 篠崎の家に?」
まさかの誘いだった。
確か就職してから一人暮らしだとは聞いているけど、さすがにお邪魔したことはない。
「はい。その、前に親がブランデーとか、幾つかお酒をくれたんですけど、一人で開けるのも、と。どうせなら誰かと飲もうと思ったんですけど……先輩くらいしか、一緒にお酒飲める人がいなくて」
「またまたぁ」
「本当ですよ!」
からかうと、ちょっとムキになって反応してくる。会社だと笑顔でさらっとかわしてくるので、こういうところ見れるのは二人飲みの良いところだろう。
「んん。私も飲み足りないけど、お邪魔して良いの?」
「はい! それは、もう! それに……ちょっと高いブランデーとかもありますよ?」
「ほう?」
興味が凄く湧く。
ちょっと高いブランデーってなんだろう。レミーマルタンのXOとかかな。あれ1万超えるんだよねぇ。
思わずじゅるりと唾を飲む。
「おつまみも一応幾つか、ナッツとかチョコレートとかですけどありますし……食べ足りなければ、お総菜とか買って帰ろうかと」
「何、至れり尽くせりじゃない。じゃあお総菜は私が買おうかな」
酒とつまみを全部後輩に用意させたら、さすがに一昔前のパワハラ上司になってしまう。
「じゃ、じゃあ、来てくれます……?」
「お邪魔させて貰うわ。ふふ、ついでに家宅捜査しようかしら」
「それは止めて下さい!」
「冗談よ」
くすくす笑いながら、私たちは同じ電車で、同じ駅へと降りた。
あぁあ。本当に、一人飲みを阻止されちゃった。
駅を降りて、十分超歩き、近所のコンビニでポテトサラダ、とり唐、焼き鳥を購入。
そこから数分歩いて、マンションへ。
「へぇ、綺麗なマンションねぇ」
「セキュリティも良くて綺麗なんですよ。ただ、その分狭くて、三人呼ぶのが限界くらいなんですよねぇ」
「一人暮らしなら上等じゃない」
「えへへ」
喜んでる後輩の背を押して、中へ。
しかし、私の住んでるマンションより綺麗ね。
「ただいまー」
「お邪魔します」
家に入ると、篠崎は電気を点けて、私の分のスリッパを用意してくれた、
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
普段スリッパなんて履かないからちょっと違和感。
中に入ると、物は少ないものの、センスの良い木製メインの家具たち。
確かにやや狭いが、篠崎の収納がいいのか、窮屈には感じない。
「うわ、お洒落。金かかってそう」
「ありがとうございます」
にこにこと返事をしながら、仕事用の鞄を片付けたり、取り皿を用意したりと、忙しなくぱたぱた跳ね回っていた。
そして、それから洗面所へ駆けていくと、可愛らしい部屋着に着替えて戻ってきた。
「お待たせしました」
「おお、可愛らしい恰好ね。しかし……なんかこう、女子の部屋に来たって云うより、気合いの入ったホテルに来たみたいな落ち着かなさがあるわね」
「あ、そうですか? 先週大掃除したので……」
照れて笑う。うむ、愛い。
さて。しかし本題は部屋ではない。酒だ。
「さてさて、愛しのブランデーは何処かな」
「あぁ、はい。こちらです」
そう云って、箱とブランデーグラスを戸棚から取り出して持ってきて、テーブルに置いた。
高そうな箱を、ちょっと緊張しながら自分の方へ向け、名前を見る。
「へぇ。豪勢な箱ね、本当に高そう……見たことない名前……えっと、13? ……え? 嘘っ!?」
私は弾かれた様に箱から手を放し、思わず距離をおいた。
冷や汗が流れた。
「る、ルイ13世じゃない!?」
「あ、知ってました? 良かった」
ほっと一息吐く篠崎。
逆に、私は自分の手が震えていることに気付いた。あぁ、緊張した。
「知ってるも何も!? そ、それ、20万とかするやつでしょ!? 同じ瓶に別のコニャック入れてるとかじゃないわよね!?」
「あ、はい。未開封品です。あぁ、先輩が知ってるやつで良かった」
そんなことをほんわかと云われる。
しかし、後輩の家で、後輩が貰った二十万超の酒を開けて飲むなど、なんかもの凄く問題がある気がする。
「む、無理無理、さすがにこれは開けられないわ! 篠崎、これはもっと良い時に開けなよ。それこそこんなの、家族や恋人と飲むべきよ」
まだ一度も飲んだことないお酒。興味はある。が、正直瓶を持つのもちょっと怖い。
「そんな! ブランデー好きな先輩だからこそ飲んで欲しいんですよ」
「いやいやいや! コンビニのポテトサラダで飲んで良い酒じゃないわよこれ!?」
「だ、大丈夫ですよ」
「駄目でしょ!?」
恐れ多いし、それを娘に送った親にも申し訳が立たない。
というか、良くそんなの娘に送ったな親。
「お願いします先輩! 私も飲みたいんですが、一人だと飲みにくいんです!」
「え、えぇ……う、嬉しいけど、荷が勝つわねぇ……」
正直、凄く飲みたい。でも、幾ら何でも……もの凄く、後ろめたい気持ちになりそうな気もするし。
「きょ、今日のところは別のお酒にしない?」
「いいえ、開けます」
と云うと、篠崎は箱から瓶を取り出す。
「わぁ!? 本気!?」
「今先輩と飲まないのならこのお酒に価値はないんです。価値を知らない私が味わうんですから。良いですね?」
「え、えぇ……」
私がおろおろとしていると、きゅぽんと栓が抜かれる。匂いがふわっと香ってきた。
あ、やべ、超飲みたい。
「あ、あぁ」
ふわっと薫る、樽の匂い。途端に口の中が渇いていく。
後輩の手で、とくとくと瓶からグラスにコニャックが注がれる。
「さぁ、先輩。どうぞ」
「あ、ああ」
ブランデーグラスに半分入った琥珀色。高い薫り。私の口の端から唾が溢れた気がして慌てて拭う。
「薫りが、良い」
もうなんか泣きそうだった。
「さぁ、どうぞ先輩。まず一口」
「あぁ……い、いや、せ、せめて篠崎からだろ!?」
口を付けそうになってから、そっとグラスを離す。
「なんでですか!?」
「お前が貰った酒だからだよ!」
「うっ……で、では、私から」
唾を飲み、後輩を見守る。
どちらかというとビールの方が好きという篠崎だが、さすがに値段に怯むのか、恐る恐る口に近付けて、小さくクイッと飲んだ。
「……あ、美味しい」
目を見開いてそう云うと、グラスを置いて、さぁ、さぁと私にジェスチャーをする。
「先輩、これ本当に美味しいです!」
「でしょうね!」
グラスを取り、そっと口に含む。口の中が薫りで満たされ、鼻から抜ける。こくりと飲むと優しく喉を流れる。
噎せそうなくらい感動した。
「……美味い」
ちょっと泣いた。
「美味しいですよね!」
「美味しすぎる!」
そして開封されるポテトサラダ。
つまみとして価格の落差が酷いとは思いつつ、つまみ、お酒をちょっと飲む。
「……合うなぁ! いや、凄く合うな! この酒もう何にでも合うんじゃないかな!」
「さすがにそれは云い過ぎかと!」
「なんかスモーキーなの欲しい!」
「スモークナッツならありますよ」
「それ欲しい!」
感動と興奮で、ほとんど飲んでいないというのに、私のテンションは跳ね上がっていた。
長い時間を掛けてグラスを空にすると、しばし放心してしまった。
「先輩、もう一杯飲みます」
「無理。もう無理。キャパ超えてる」
顔を押さえ頭を振る。
この感動は人を駄目にする。これ以上飲んだら他のブランデーで感動できない身体になりそう。
「じゃあ、そうですね……ビールとか、あと安いブランデーとかもありますから、そっち飲みます?」
「ほんとに用意良いな。この感動を大事にしたいけど……でも飲みたいから飲むぅ」
「はーい」
そして、時間が過ぎていく。
缶ビールを何本も開け、五千円クラスのブランデーを半分開け、さすがに随分と酔いが回ってきていた。
「あはは、良い酒だなぁ。篠崎、お前は最高だな」
「えへ。もっと褒めて下さい」
頭を撫でる。
「先輩のそんな酔い方初めて見ました」
「あぁ……あのブランデーの所為だな。あれ飲んだ時からずっと夢見心地だ」
「それは何よりです」
良くできた優しい後輩は、嬉しそうに笑っていた。聖人君子なのだろうか。
そこで、ハッと気付く。ここは後輩の家なのだと。
「あぁ!? 悪い、篠崎。家飲みだからつい泊まる気分になってた……長居して悪かった。そろそろ帰るよ」
「えっ!? 先輩、結構酩酊状態じゃないですか!? 危ないですよ! それに、そろそろ終電終わりますよ!」
「え? もうそんな時間?」
「はい!」
しまった。時間の感覚が酔いの所為で狂っていたか。
「ん……じゃあタクシーでも、つかまえるか」
「そんな調子で乗ったらタクシーで寝ちゃいますよ……あの、私の予備ですけど、寝間着もありますし、泊まっていきませんか?」
「んん……」
確かに、タクシーの運転手に迷惑を掛けそうな気もする。それに、ここから乗るとそこそこの値段になるだろうし。
しかし、だからといって後輩に迷惑をかけていい道理もない。
しばしの葛藤の末、思った以上に酒が回っている自分の様子を感じて、やむを得ず、今日はもう甘え通してしまおうという結論を出した。
「悪い。良いのか? 迷惑なら、少し酔いを覚まさせてくれれば、どうにか帰れると」
「大丈夫です! 安心して泊まっていってください。その方が私も安心ですから」
「そっか……悪いな、じゃあ、甘えさせて貰うよ」
「はい!」
そして私は、シャワーを借りて、寝間着に着替えた。
借りた寝間着は、白くて、とても可愛らしいものだった。
「おお、似合いますね」
「……いや、まさか寝間着がネグリジェとは思わなかった」
「あはは、それしかなくて」
少し酔いが覚めたところで、同ネグリジェ姿の後輩と並んでソファーに座って、軽めに酒を飲んでいる。
なんか、凄く照れる。お泊まり女子会という感じなんだろうか……こういう可愛らしいのは、縁がなかったからむず痒い。
「先輩ってお酒がだいぶ回ると、にこにこするんですね……あそこまで酔う姿は初めて見た気がします。男漁る時もああなんですか?」
「漁るって。いやぁ、自覚してないから判らない。でも、持ち帰られてる時とかは、たぶんそんな状態なんじゃないかなぁ」
「聞けば聞くほど危なっかしいので、やめてくだいよそういうの」
「独り寝が寂しい時があるんだよ」
まぁでも、昨今特に命に関わる事件もあるし、あまりやるべきではないのだろうなぁ。
「ふぁあ……段々眠くなってきた。篠崎、このソファーで寝かせて貰うな?」
奥にベッドが一つ、そして、あとはこのソファー。床にも絨毯が敷いてあって気持ちよさそうだが、果たしてソファーと絨毯だと、どっちで寝る方が良いのか。
「駄目です、ベッドで寝て下さい」
「いや、待て。家主はお前だ、私がベッドを占有するわけにはいかないだろう」
「でもソファーは駄目です。というか先輩最優先です」
「家主が優先だ」
そんなやりとりが巻き起こった。
そして数分後、なんでかよく判らないが、二人揃ってベッドで寝ることになった。
「さすがに、狭くないか?」
「いえ、丁度良いです」
「そうか」
私と篠崎は、背中同士を密着するような体勢で床に就いていた。
「これなら、独り寝は寂しくないですよね?」
真剣にそんなことを聞いてくる。
おもわずちょっと噴き出してしまった。
「あはは、まぁ、そうだな」
まさか後輩と、こんな一つのベッドで寝ることがあるとは思っていなかった。
「私がこうして一緒に寝てたら、先輩の男漁りも減りますかね」
「……お前、とことん私の男関係を抑制したいみたいだな」
「大事な大事な先輩が、変なことで傷ついて仕事の能率下がると困るので」
「なんだそりゃ」
けらけら笑う。篠崎も笑っていた。
「しかし、この距離で寝るとなると、まるで恋人だな。どれ、腕枕でもしてやろうか?」
そう云ってからかう。
されたことは多いが、したことは少ないな。腕枕って。
篠崎は笑うかな、拒否るかな、と思って篠崎を見る。すると、篠崎は小さく、こくりと頷いた。
「……え? やって欲しいの?」
意外な返事だった。
「わ、私、やってもらったことなくて! ぜ、是非一回……あはは」
「あぁ、まぁいいけど……なんか変な感じだな」
篠崎は身を起こし、私の腕を置く場所を作ってくれる。そこに腕を通す。
「し、失礼します」
ずしりと、腕に篠崎の頭が乗った。
「あ、案外体重掛かるんだな」
「あ!? 重いですか!?」
「余裕余裕」
一瞬持ち上がった頭が、またずしりと沈む。
「なんか親にでもなった気分。どう、篠崎」
「え、えと……こい、お、あ、その……心地良いです」
「そりゃ何より」
私の腕枕で、横に部のアイドル的な篠崎が横になっている。
なんか、変な気分。
あぁ。しかし、なんだろう、人肌恋しくなってきた。
この恋人的な距離、ひどくムラムラする。
「……篠崎、もういいか」
このまま寝てしまうと、横に居る篠崎を彼氏と勘違いしてちょっかいを出しかねない。
「あの、先輩」
やたら甘えた声が耳に届いた。
「……もうちょっと、いいですか」
そう云いながら、細い腕が私の身体に巻き付いた。
「ちょ、ちょっと!? 篠崎!?」
驚いて声を上げる。
が、篠崎の手は離れない。
「先輩。先輩……ごめんなさい。ごめんなさい」
と、篠崎の身体が離れ、私に覆い被さった。
「……へ? なにがごめんなさいなんだ?」
なにがなにやら判らず、問い掛ける。
すると、篠崎は、まるで騎乗位の様に私に跨がって、キュッと口を結んだ。
「き、き……き、キスを、しても……良いですか……」
かなりか細い声だった。が、静かな部屋ではそこそこ良く聞こえた。
「き……え? なんで?」
思わず問い返してしまう。
すると、ゆっくりと篠崎は肘を曲げ、私の胸に顔を埋めた。
「その……好きだから……ごめんなさい、好きです。好きなんです、先輩」
私は今、何を云われているんだろう。何なんだろうこの状況は。何か色々突然来て、頭がいまいち情報を処理できない。
とりあえず、私の胸に顔を埋めて震えている篠崎の頭を抱いて、ぽんぽんと頭を撫でた。
「……えっと。それは、あれか? 好きってのは……恋愛的な、あれ?」
頭の悪い訊ね方をしたなと自分でも判るが、正直それが精一杯だった。
すると、私の胸にある篠崎の頭が、小さくこくりと動いた。
「マジかぁ……」
そういう世界があるのは知っていた。でも、縁はないだろうと思っていた。
まさか、当事者になるとは。
頭を起こし、篠崎を見る。篠崎は、ぐっと私に顔を押し付けているので、表情は見えない。
ただ、静かに震えて、泣いている様に見える。
篠崎は……顔は……性格も、間違いなく良い子だよなぁ。
考える。
キスをするってことは、恋愛的に受け容れるってことだよな。できるのか? 私に。
そんなこと、今まで一度も考えたことなかった。
しかし、一番簡単なことを考える。私にとっての恋愛関係の要。例えば篠崎と一夜を過ごせるか。そういう問い。
それなら、案外いけるんじゃないかなと思った。
うん……いけそうだな。
「篠崎」
私が名を呼ぶと、びくりと腕の中の篠崎が震えた。
「キス、してみるか?」
云うと、ガバっと篠崎が身を起こした。
「……本当、ですか? あ、あの……冗談……とか」
「んん。まぁ、よく判ってるわけでもないんだが……はは、物は試しってな」
私がそう照れ隠しで笑うと、篠崎は強く唇を押し付けてきた。そして、私の頭を手で掴んでくる。
乱暴で、けれど繊細なキスだった。
一分くらいしてからだろうか、ゆっくりと篠崎が頭を離した。
「ぷは……思ったより、強引だな」
「好きです……大好きです」
そう云って、ギュッと抱き付いてくる。
どうすべきか判らず、私の手も少し震えたが、それでも私も、篠崎を抱き返した。
しばらくお互いの体温を感じていたら、篠崎が手を緩めたので、私も篠崎を放した。
「はい、あの、先輩……」
云いながら、また四つん這いの姿勢になる。
「先輩……こ、これ以上のことは」
まだ少し怯んでる様子で、それを私に訊ねる。
まるで子犬か子猫だな、なんて思った。
「何怯んでんだ。私はやり方が判らないんだ……任せるよ」
私がそう云った途端、篠崎は……もうあれは、獣だったな。
***
翌朝。
私は裸で目が覚めた。
まあ、そうだろうな。夢じゃないわな。
横にはすやすやと眠っている篠崎が居た。
この様子は可愛らしい小動物だが……昨日は、凄かった。まだ少し眠い。
……あんなに好きって云われたのは、初めてだったな。
そんなことを考えて、つい噴き出してしまった。
それで揺れたのか、もぞもぞと篠崎が揺れる。そして、眠そうに目を開けた。
「あ。先輩……おはようございます」
「おはよう」
それから、眠そうにしばらくこっちを見てから、ハッとして、毛布の中に潜っていってしまった。
「どうした?」
「……あの、昨日は、本当に、すみません」
そして、消え入りそうな声を絞り出してきた。
「んん。なぁ、篠崎。冷静になって考えてみて思ったんだけどさ」
そう口にすると、篠崎がビクッと震えた。
「は、はい……」
なにやら神妙な様子で、篠崎は私の言葉を待っている。
「なぁ。あのブランデー、貰ったって嘘だろ」
「……はい?」
間の抜けた返事。
「ビール党のお前に、幾ら何でもあんな高級なブランデー送る親はいないだろ」
「……え、えっとぉ」
声が揺れている。
「掃除のタイミングに、酒の買い置き、つまみ……お前、私を誘い込む為にきっちり準備してたな?」
私の問い掛けへの答えは、何よりも雄弁な沈黙。
「参ったね、怖い女に引っ掛かっちゃったもんだ」
くすくすと笑うと、篠崎はギュッと私の腕を掴んできた。
「ひ、引きますか?」
「いやぁ、情熱的だなぁって、ね」
笑いが引かなくて、少しばかり、意地の悪い笑い方をしてしまった。
「なぁ、篠崎。何だっけ。ほらあれ、えっと。猫と犬だっけ。そういう云い方あったよね」
「え? あぁ、もしかして……ネコと、タチのこと、云ってますか?」
「それそれ。あぁ、えっとその……どっちがどっちだっけ? あの、攻めと守り? だかの」
「えぇっと、ですね。タチが攻めで、男役、と云いますか。それで、ネコが守りというか……受けというか……」
あぁ、そうだ受けだ。
「そうそう。それだわ。その、えっと? タチっていうのがあんたってことよね」
「……はい」
「大人しそうだったから、意外だったわ」
「……恐縮です」
篠崎の方を見ているわけでもないけど、なんかグングン小さくなっていっている気がする。
「その……先輩」
「あん?」
毛布から頭が出てきた。
「つ、その、今後って、あの……付き合ったりとかって云う、話には……」
「あぁ、私らがカップルになるかって?」
「はい」
恐る恐る、という感じで訊ねてくる。
「あはは、それね。まだ全然考えてないわ」
「ええええ!?」
すごい驚き声が上がる。
その様子が面白くて、つい笑ってしまった。
「はははは! ……はぁ。まぁ、あれよ。私男としか付き合ってきたことないわけだし、女と付き合うっていうのは、まだ全然イメージが湧かないのよ」
「そ、それは、そうです、よね」
「うん。それに、男とだって、寝たらすぐ付き合うとか、さすがにそこまで手早かったわけでもないしね」
そう答えたら、篠崎が苦虫を噛んだ様な顔をしていた。
なるほど、そうか。私のことが好きだからあんなに止めようとしてたのか。なんか、ちょっと照れるな。
「……先輩って、真面目そうなのに、結構その辺……」
「うるさい。今このザマになってる私が、身持ち固いわけないでしょ?」
「あ、そ、えと」
さすがにそう指摘すると、罠にはめた本人は口ごもってしまった。
「まぁ、ただ……ちょっと照れるけど、気持ち良かったわ。思ったよりずっと」
素直な感想だった。
すると、キラリと篠崎の目が光った。
「それは良かったです!」
そして、ややドヤる。
「あら。結構自信あったのね?」
「え? あぁ……いえ、それは、えっと」
この感じ。
さては、経験がないわけではなかったと見た。
「別にそのことをどうとも思わないから大丈夫よ。あぁ、悪いけど、まだ嫉妬もしないからね」
「それは、まぁ、良かったかと」
ほっと一息。
愛い奴め。
「第一、私だって女は初めって云っても、男と何人寝たかなんて憶えてないしね」
「う……ひぐ」
「こら、何泣きそうな顔してるの。私の愚痴聞いてたんだから判るでしょ」
「そ、そうですけど……でも」
「幻滅した?」
「してません! けど……悔しいやら、羨ましいやら」
「素直ねぇ」
そう云って頭を撫でると。なにかネコのように、私にぐいっと頭を押し付けてきた。
おお、甘えるようになってきたじゃない。
「先輩……好きです」
「嬉しいわね」
軽いキスをする。
「んん。私はここ数年、嫉妬するほど誰かに惚れた憶えってないのよね」
「自棄酒してたじゃないですか」
「あれは卑怯な別れ方への不満よ」
お陰様で、もう怒りも湧いてこない。
「……そ、その……今後もアピールをして、先輩を、ふ、振り向かせられたら、私と、付き合って貰えますか?」
可愛らしい篠崎が、顔を真っ赤にして訊いてくる。
なんとも、ずるいなぁ、こいつは。
「変なこと云うわね。振り向いちゃったら、もう付き合うしかないんじゃない? それって私があなたに惚れた、ってことでしょ?」
「……女でも、ですか?」
「それは勿論……でも、付き合ってみて、なんか違うって思ったらごめんね? なにせ未経験だから。そこから先は全然想像付かないわ」
なにせ、男女の結婚さえ考えてこなかった私だ。帰ったら、色々と調べておかないといけないわね。
「うう」
「ああ、もう。泣かない。面倒臭い女だなって、後悔した?」
「違います! そうじゃなくて、女だから駄目って、そうじゃないと判ったので、それが今、すごく嬉しくて……嬉しくて」
それから、堰を切ったように、篠崎はしばらく声を上げて泣いていた。
どうしたら良いのか判らなくて、とりあえず、身体を起こして、篠崎のことを抱き締めていた。
やがて落ち着くと、篠崎は起き上がって、コーヒーを入れてくれた。
揃ってベッドに腰を掛け、コーヒーを飲む。
「ねぇ、ブランデーだけど、あれは私も幾らか金出すよ。7割くらい」
「え? ええ!? そんな! 悪いですよ!」
熱い拒否。
しかし、後輩が好きな相手にとはいえ、20万捻出するのは止めさせたい。
「私の為に買ったんだろ、あれ? 嬉しいけどほぼ月収じゃない。出させろ」
「う、うぅ……でも!」
「心置きなく飲みたいの。ね?」
さすがに後輩の二十万を、貢ぎ物だからと飲めるほど精神太くない。
「……すみません」
「謝らない。いやぁ、しかし思い返しても、良い酒だったわぁ」
もたれかかってくる篠崎の頭を撫でながら、ここから見える箱をジッと見つめる。
「あれ、何度に分けて飲むことになるやら。良し。次飲む時には、もっと良いおつまみも買うぞ」
「あ……はい!」
篠崎は嬉しそうに、私に抱き付いてきた。
今度飲みに来る時には、寝間着とか色々、持ってこないといけないかな。