第九話:アリス、だれる
縞瑪瑙や紅玉や翠玉、紫水晶を溶かしこんだスープを火にかけるなら、それはきっと強火でなくてはならないだろうし、もちろんとっても温度は高いだろう。
アリスがいまいる場所もそれくらい暑かった。
「わあー……」
この「わあー」という言葉を、こんなに沈んだ気持ちで使うことがあるなんて! とアリスは思った。アリスは、少なくともホッキョクグマやコウテイペンギンと同じくらい、暑いところが苦手だった。
たらりと、額から汗が流れ落ち、アリスの目に滑り込んだ。
さっきいた、冬のような場所に戻りたい! でも、アリスはそうしなかった。いや、できなかったんだ。なにせタクシー乗り場はもうカラッポだったからね。
しかたがないから、アリスはしばらく歩くことにした。
地面をおおう砂は、三温糖みたいな色をしていた。だけどぜんぜん、料理に使いたくなるような感じがしなかった。もし自分のママがこれで料理を作ったなら、すぐ家を飛び出してしまうだろうってくらいの。
まあ、そうでなくてもアリスは飛び出したわけだけど。
ざくざく、ざくざくと、アリスの靴は砂に沈み込んだ。それがなんとも安定していなくて、ずっとひとところに立ち止まっていたのなら、いつか頭まで沈み込んでしまんじゃないかと思われ、アリスの気は急いた。
空は青かったけれど、鉄板のようにアツアツだった。触ってもいないのにそれがわかるくらいだから、そうとう熱いのだろう。
雲もなんだかベッタリとして、まるで猛暑日の滑り台に落とした卵のようだった。ただし、黄身は入ってなくて、白身だけの。目玉焼きをあんまり、アリスは好いていなかった。
アリスはしきりに、自分の手へ息を吹きかけた。そうでもしなけりゃ、たちまち手がフライド・チキンみたくなってしまう気がしたのさ。
そうやったってしだいに、手が赤く、赤くなっていくのをとどめておくことはできなかった。右手も左手も、あんまり熱心に歯を磨かなかったときのカラーテスターの結果のよう。
そんな残念な結果になると、アリスのママは怒って、歯磨きのやり直しを命じるのだった。それでもたいていけっきょくは、ママが仕上げをすることになる。
「……」
アリスはママがそうしてくれたことを思い出した。あの膝を、あの手つきを、あの目を思い出した。それはいままでに思い出したそれとは違って、やさしげなものだった。
砂漠には、なにもなかった。
いっぺん、砂丘のてっぺんにうずくまるようにしてあった、大きな動物の骨をアリスは見つけた。骨だけど生きていた。それがわかったのは、その骨があるあたりでは車のクラクションみたいないびき声が聞かれて、どう考えてもそれが骨から出てくるからだった。
「ねえ、ここはどこ?」
アリスは骨に訊いてみた。
「<夏のところ>さ」
骨は骨っぽい声で答えた。その声のどこかどう骨っぽいのか、それはうまく説明できないが、骨っぽいとしかいいようのない声だった。毎日牛乳をウシ二頭ぶん飲んでいれば、出せるようになるかもしれない。
「さっきまでは、もっと涼しい場所にいたんだけど……」
と、アリスは懐かしむようにいった。ほんとうについさっきまでいたあの雪原が、もうはるかかなたへ消え去ってしまったように感じられたのさ。
「ああ。それは<冬のところ>だね」
「そこへ戻る道を教えてもらえる?」
「うーん、ごめん、できないや」
骨は申し訳なさそうにいった。
「だって、そんな道はないんだもの」
「えーっ!?」
アリスはおどろいた。一方通行というのは、ただ本のなかの出来事だとばかり思っていたから。じっさいには、行けば二度と戻ってこられないような道なんて、どこにもないと思っていたんだ。
「うん。そうなんだ」
骨は悲しそうに、
「そこへ戻りたいなら、進まなくちゃならない」
「なんですって?」
それってなんだかヘン! そうアリスは思ったよ。戻るために進むなんて! アリスは自分が、フンコロガシみたく後ろ向きに歩くさまを思い浮かべて、思わず吹き出した。
「でも、そうなんだよ」
骨は大真面目だ。
「ま、がんばるんだね。冬がそうだったように、夏だってあっという間さ」
あんまりそうは思えないけれど、とアリスは心でつぶやいた。どこまでも砂丘は続いているんだもの。たぶん、東京の人ぜんいんに、この砂丘をひとつずつあげたって、まだまだ余るだろう。欲しい人がいるかどうかはべつとしても。
そこはほんとうに、なにもなかった。
アリスは、それでもめげず、いくつもの砂丘を踏み越えた。あたりにはサラサラという砂の流れる音、ジリジリという日の当たる音、グツグツという地底湖の煮えたぎる音がひびくだけだった。
あの骨に会ってから、アリスはいっさい、だれとも出会うことがなかった。
ときたま、帽子をひっかけるのにちょうどよさそうな、サボテンがいくつか見つかるくらいだったし、そのサボテンも――ほんとうはそれがふつうなのだが――ぜんぜんしゃべらないサボテンだったのさ。
こうなるとアリス、ダレてきた。いままでは、それなりに大変なこともあったにしろ、少なくとも、退屈することはなかった。
マンホールから落ちたのも、カメのベッドに落ちたのも、ウサギの毛をとったのも、お菓子の山から目を凝らしたのも、フクロウのクイズにつきあったのも、キノコの下で眠ったのも、青い実の色を池でぬぐったのも、雪解け水の洪水に巻き込まれたのも……
それが、この砂漠では、まったくなにもないのだった。骨としゃべったのが、まああることにはあったが、それ以上にびっくりなことをたくさん経験したいまとなっちゃあ、とりたてておどろくにはあたいしないのだった。
「ふわー……」
この音はなにも、アリスがいきなし風船みたく膨らんで、空に浮かぶ太陽まで飛んでったっていう音じゃない。これは、アリスがあくびをした音。まだお昼過ぎくらいなのに、もうそんなしぐさをしちまうくらい、アリスは退屈だったんだね。
太陽は常夜灯のごとく、いつまでもその光を注ぐことをやめない。だれにお願いされたわけでもないのに、ずいぶんご熱心なことね、っと、不機嫌にアリスは考えたよ。ま、いらいらすると八つ当たりしたくなるのは、いくつの人でも同じことさ。
まわりに見るべきものがなにもないもんだから、アリスは自分のなかにそれを見つけるしかなかった。そのためにとりあえず手元に引き寄せた紙には、一番上にタイトルが書いてあって、それには「ママ」とあった。
それはずいぶんヘタクソな字で、習字も習っているアリスからしてみれば、ぜったい自分が書いたのではありえない! ってくらいだった。けれどもアリスの頭のなかで見つけただけあって、それにはなんとなく、見覚えがあるのだった。
熱い砂を踏み分けながら、アリスはそれを思い出そうとした。ちょうど、まわりには砂しかなかったから、そういうことに集中するのにはうってつけだったことだしね。
アリスは、自分の頭のなかを想像するとき、いっつもショッピングモールを思い出すのだった。それぞれ専門のお店があって、同じような思い出が集められている。アリスは自由にフロアを歩き、気に入りの店を訪ねればよかったのだった。
ただ、じっさいのところはちがっていて、アリスの頭はショッピングモールというより、自由市場みたいな感じだった。
自由市場というのは、ショッピングモールからぜんぶのお店を引っこ抜いて、順番をバラバラにして、空いている場所にぶちまけたみたいな感じ。
当然、ごちゃごちゃしているし、迷いやすい。品物の値段もべつべつで、あっちのお店じゃ値千金だって触れ込みのツボが、こっちのお店じゃ「自由にお持ちください」ってしまつ。
そんな場所で目当てのものを見つけるのは、そうとうに大変なことだった。なにか、パンフレットとか、ガイドさんがあればちがったかもしれないけれど、あいにく、アリスの頭はアリスだけのもの。
アリス以外にその勝手を知っている人なんか、世界中ひっくるめたって、どこにもいないのだった。
だからアリス、面倒でも、自分の足であちこち歩きまわって、自分で記憶をたどらなくちゃだった。そのときに振りまわしていたのが、あの紙さ。
「すみません、この紙のことなんですけど……」
「あとにしてくれ!」
「ごめんなさい。ちょっとお訊ねしたく……」
「いそがしい!」
なんと不親切な人たちだろう! ってアリスが思ったのはムリもない。
その人たちは胸に名札をつけていて、そこには「イルカ」とか、「シナプス」とか、「ニューロン」とかって書いてあった。ヘンな名前!
それでも親切な人はいて、その人は紙に見覚えがあるといった。
「ホント!? どこで?」
アリスに訊ねられて、その人は親切に道を教えてくれた。まずここの道を真っ↑行って三本目の角を→に↑にその\は4から92の→の次は↓/←/↑/↑……
アリスは、そのとおりに歩いた。
扉を開けると、舞台の↑にアリスが飛んでいた。翼を\/のように広げていた。ワイヤーのひとつも見えなかった。アリスははっとした。これは、学芸会のときの……
アリスのすぐそばにはパパとママがいた。
ふたりはそれぞれ大きなうちわと、もし壊したら家とも交換できないほど高そうなカメラを持っていた。
そのうちわにはでっかく「ア リ ス」と書いてあった。
その字はアリスが右手に持っている紙の一番上の字と、そっくりだった。
アリスは、舞台の上のアリスを見ることが出来なくなった。
泣いていたのさ。