第四話:アリス、太る(そしてやせる)
カメに別れを告げ、アリスはまた歩き始めた。今度の行く先はカメに訊かなかったけれど、それでも迷わず彼女は進めた。というのも、ひとつ、思い出したことがあったからね。
「空を落ちているとき――」
と、アリスはひとりごとをつぶやきながら歩いてた。
「甘い匂いがしたわ」
その方向へ向かって、アリスは歩いてたんだ。アリス、自慢じゃないけれど、鼻がとっても利くんだ。ほら、さっきも思わず、ウサギの目の前でくしゃみをしちゃったでしょう? あれも、アリスの鼻が、ちょっとばかし性能が良すぎるせいなんだよね。
アリスは三歳の誕生日パーティーで、まだ封を切られていないケーキの箱が運ばれてきた瞬間、火がついたみたいに泣き出した。なにをやっても泣き止まないから、困り果てたパパとママが病院に連れて行ったところ、ぴたりと泣き止んだ。
なんてったって、アリスはあの箱の中身がチーズケーキだってことが匂いでわかって、それであんなに泣いていたんだ。もちろん、そんな言葉も知らなかったけれども、なんとなくわかってたんだね――自分が、チーズアレルギーだってこと!
だからアリス、きっと自分が歩く方向に間違いはない、って顔をして、自信まんまんに草を踏んだ。ここらへんの地面は、もっぱら草ばかりだったから。
水彩画の習いごとで使う絵の具みたいに、たくさんの色の森をくぐり抜けた。赤い葉をいただいたと思ったら、もう真っ青なしげみかき分けているって具合に。でもやっぱり、ふしぎとどの色も、ほんのりと暖かみが感じられるものだった。この春風のせいかしら? ってアリスも思ったよ。
ひとつの画材店が取り揃えている絵の具、その全種類の半分くらいの色の森をくぐり抜けたとアリスが思ったとき(さすがにそれは大げさだったけどね)、とうとう、彼女は自分が目的の場所にたどり着いたことを知った。そんなことは一目瞭然だったのさ。
だって、目の前にはお菓子でできた山があったんだもの!
「わあ!」
とアリス。そりゃそうさ。こういうものを目の前にして、そういう声をあげない子どもなんていないだろう。
チョコレート、ゼリー、クッキー、マカロン、アイス、ケーキ、グミ、ビスケット、ブリトー、ポテトチップス、カスタード、ホイップ、ラングドシャ、ドーナツ、ブッシュドノエル、ティラミス、チューイングガム、タルトタタン、ワッフル、サルミアッキ、パフェ、ザッハトルテ、スコーン、ババロア、バウムクーヘン、柚餅子……
数え切れないくらいのお菓子があって、それぞれが大きな山を作っていた。あたりにはもちろん、とんでもなくすばらしい匂い。
そもそもアリスがここへやって来たのは、朝ごはんを食べてから(ちなみにメニューはオートミール)、いくぶん、お腹が空いていたからだった。「わーい!」と、アリス、その山へ突っ込んでいったよ。
二時間。
一回の食事にしちゃ、ずいぶん時間がかかるなって、そういうふうに思う向きもあるだろう。アリスもだ。「ちょっと食べすぎたかしら?」そう思って立ち上がると、あらら、バランスを崩し、合成着色料不使用の山を転げ落ちた!
「いたた……」
アリスはそんなふうにいうけれど、さいわい、ケガはなくて済んだ。彼女はけさ家を飛び出してから、一回もケガをしていない。なんて運がいいのだろう!
ところで、いまアリスがケガをしなかったのは、なにも運の良さだけが原因というわけじゃなかった。おや? とそのときアリスも思った。なんだかずいぶん、体が重いような……
アリスはよたよたと歩き、べつのお菓子の山の頂上を目指した。そこはつい一時間前までいた山で、山頂にはゲキ甘いソーダ水のカルデラ湖があったのさ。
体が重いから、ずいぶん苦労をしたけれど(あのリンゴ色の丘は、あんなに軽々と登ったのに!)、それでもなんとかへいこら、アリスは頂上までたどり着けた。
とめどなく気泡が浮かび来る、淡い青色の、その湖の水面をのぞき込むと……
「わっ。なにこれ!」
そこには十五夜の月よりかんぺきに丸い、アリスの顔があった!
「食べすぎたからよ、きっと」
アリスは残念そうにいった。一度体重が増えると、なかなか落ちないってこと――それこそ、真冬のお月さまみたいに!――を、なんとなくわかっていたからさ。
でも、このままじゃ困る、ってアリスは思った。こんなに体が重いんじゃ、これからこの世界をあちこち歩くのに、とっても不便だろうってことが想像ついたから。何としてでも、このお菓子の山を見つける前のように、軽々と動けるように戻る必要があった。
「きっとなにか、方法があるはず」
アリスが夢にも思わなかったお菓子の山があるくらいなんだから、アリスが夢にも思わない、またたく間に体が元通りになるような、顔も下弦の月くらいに戻るような方法も、この世界にあるかもしれない、きっとある、って考えたんだね。
だからアリスは山頂から周囲を見渡して、なにか、そういうことに役立ちそうなものを見つけようとがんばった。
お菓子の山にたどり着いて太るのは、きっとわたしだけじゃない。こんなに素敵な場所なんだから、きっとあのカメも、ウサギも、ここへ来たことはあるはず。だけれども、あの二匹はぜんぜん太ってない。それなら、元通りになる方法が、この近くにあったっておかしくない!
アリスはその考えに自信があったから、ずいぶんと長い間、なにも見つけられなくたって、決してあきらめなかった。だから、板チョコレートの山に登って、そこから目当てのものを見つけ出したのも、ぜんぜんぐうぜんではなかった。
アリスはチョコレートの岩場にあがって、そこから赤いステーキハウスを見つけ出した。それはお菓子の山の向こう側にあって、このチョコレートの山以外からは、なかなか見つけ出せそうにない場所だった。
ステーキハウスには煙突がついていて、そこからはもくもくと、なんだか油っぽい煙が立ち昇っていた。
「お客さん?」
アリスがそのステーキハウスの戸を叩くと、おじさんが出てきて、アリスにそういった。そのおじさんを見て、アリスは自分のおじいさんを思い出した。が、すぐ首をふった。わたしのおじいさんは、こんなにひげが白くないわ、と。
「ちょっと……」
と、アリスは自分の体を見下ろした。
「丸くなりすぎちゃって」
「そうか」
と、おじさんはつぶやき、
「じゃ、やっぱりお客さんだ」
そして、アリスをなかへと招じ入れた。
なかにはたくさんのお客さんがいた。みんな、木のテーブルに座って、あつあつのステーキをほおばっている。アリスはあんなにお菓子を食べたのに、よだれが出そうになって、あわてて口をふさいだ。これじゃ、おむすびを落としたおじいさんと同じじゃない! アリスは自分を叱った。
アリスの前に立つおじさんは、次々と扉を開けていった。あれ、とアリスはそのとき思ったさ。こんなに大きなお店だったかしら? ってね。
たしかに、開ける扉の数がちょっと多いような気がした。アリスは、パパやママとレストランに行くとき、もちろんお客さんが座る席に行くわけだけれど、ちらっと、キッチンにつながる扉を見るのが好きだった。
注文を受けた店員はみなあそこへ行くし、またあらゆる料理もそこから出てくるのだった。たいてい、ひとつのレストランに、そういう扉はひとつだった。
ただ、このステーキハウスはそうじゃない。もうずいぶん、おじさんは扉を開けている気がする。アリスはあんまり几帳面ではなかったから、その数を細かくは数えていなかったけれど、両手の指じゃ足りなかったのはたしかだと思ったよ。
だけどもべつに、アリスは怖がらなかった。こんな世界にいるんですもの、こういうことだってあるわ、ってね。いやびっくり、アリスはほんとうに怖いもの知らずなんだね!
ま、じっさい、べつにアリスを待ち受けているのは、怖くもなんでもないものだった。それは大きなかまどで、かまどを怖がる子どもってのは、あんまりいないものだからだ。だってそもそも、かまどを見たことがないんだからね。見たこともないものを怖がるほど、アリスは怖がりではなかった。
「それはなあに?」
と、アリスはおじさんに訊ねた。
「かまどだよ」
おじさんは答える。
「さ、このなかに入って」
「このなかに入ると元通りになれるの?」
「ああそうさ」
「ほんとうね?」
「ほんとさ」
「入るわよ?」
「入ってくれ」
「入ったわ」
「扉を閉めてくれ」
「重い」
「わたしが閉めよう」
そして、扉が閉じられた。
二時間。
アリスはお菓子を食べた時間とおんなじ時間、かまどのなかで過ごした。そのなかはすごく暑くて、部屋のエアコンが妖精に占領された、去年の夏のことを思い出すほどだった。
あのとき、アリスはとっておきのプリンを妖精たちにあげて、おかげでまたエアコンが使えるようになったのだった。
「ママったら、そのことも忘れて!」
と、アリスは汗をたらたらたらしながら思った。
「習いごとばっかりさせるんだから」
その怒りもあいまって、アリスはすごく汗をかいた。おかげで、二時間たってかまどから出た頃には、もうすっかり、元通りの体に戻っていた。
おじさんが差し出した手鏡を見て(それは牛用だったから、ものすごく大きかったけれど)、アリスは自分の顔が、すっかり上弦の月みたくなっているのがわかって、とってもよろこんだ。
「おじさん、ありがとう!」
「いやいや、こちらこそ」
と、おじさんはにっこり笑っていった。
「また材料が増えた」
「材料?」
「きみからとった余分な脂肪さ」
とおじさん。
「焼けばステーキになる」
「焼くからステーキなんでしょう?」
とアリス。
「それはそうだ」
おじさんは伝票を取り出した。
「また買わなくちゃならないな」
「なにを?」
「チョコレート5キロにアイス3キロ、カスタード10キロに……わあ!」
おじさんは目を見張った。
「ずいぶん食べたんだなきみは!」
「あの山、おじさんが作ったの?」
アリスはおどろいていった。
「そうだよ」
と、得意顔。
「おかげさまで、このステーキハウスは繁盛さ」