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アリス、重力を逃げる  作者: 皿日八目
3/14

第三話:アリス、ウサギと競走する

 カメは、アリスに先立って歩いた。が、あんまり歩くのが遅いので、ひょいと彼女はカメを持ち上げた。


「どっちに行けばいいの?」


 肩にのせたカメに、アリスは訊ねた。


「あっちですよ」


 カメが短い前足を持ち上げて示した方向を目指し、アリスは元気よく歩いた。なにがなんだかわからないのは、穴に落ちてからずっとそうだったけど、少なくともいまはやるべきこと、行くべき場所があるから、それなりに安心できたんだ。


 なにかすることができれば、人はあんがい、落ち着いて動けるのかもしれない。アリスは歩きながらそんなことを考えていた。だからあやうく、まわりのふしぎな、でもきれいなことは間違いがない景色を見逃すところだった。


 そこは、いちども春以外の季節が訪れたことがないようなところだった。カメはここを<春のところ>といったけれど、本当にそうだわと、アリスはしみじみ感じた。


 地面にはしなやかな草が一面にしげっていた。いま歩いているところの草は緑色だったけれど、まもなく、オレンジ色の草地に踏み込んだ。ちょっと歩くだけで、まわりは色をつぎつぎに変えていった。まるで、アリスを飽きさせまいとしているようだった。


 たとえ本当にそう思っていたところで、そんな心配はなかったろうけど。そうでなくたって、アリスはまわりを見るのに夢中だったのさ。


 生まれたときから都会に住んでいたアリスは、世の中にこんな草や花、木があるなんてこと、そりゃ、本を読んでいたから知ってはいたけれど、じっさいに見たのはこれが初めてだった。


 アリスがいままでじっさいに見てきたのは、せいぜい、おざなりな街路樹くらいのものだった。それだってだいぶ色が悪くて、病気みたいだと思ったことをアリスはよく覚えている。


 ここにあるのは、そういうのとはまるで違った植物ばかりだった。あんな色の実をつける木、こんな鮮やかな花々、どれもこれも、アリスをとてもよろこばせるものばかりだった。


「すごいわ、なにもかもきれい……」

 アリスはつぶやいた。


「そうですか? いつもどおりですけどね」

 カメはなにげなさそうにつぶやいた。


「そりゃあ、いつもここに住んでる人……いや、カメだったらそうでしょうけど」

 アリスは口をとがらせた。

「わたしにとってはすごくきれいなのよ」


「そんなものですかね」


「そんなものよ」


「ああ、止まってください」


「どうして?」


「ほら」

 カメはまた短い前足をあげた。

「ウサギがいるのはあそこです」


 カメが()さした場所には、大きなリンゴ色の丘があった。そのてっぺんには、それはそれは大きなオレンジの木がたっていて、たくさんのぶどうを実らしていた。


 色がとてもごちゃごちゃしていて、アリスは何回もまたたきしなきゃならなかった。それでもなお、ちかちかはやまなかった。


「ふっしぎー!」

 アリスは口笛を吹いた。ひゅー、ってな具合にはいかなったけれど。なにせ、初めて吹いたんだものね。


「あの根本でいつも昼寝をしているのですよ」


 カメにいわれて見ると、なるほど、アリスはオレンジ……ぶどう……の木の根本に、白い動物がもたれかかっているのを認めた。ぴくりとも動いていない。いや、ぴくりとは動いていた。すやすや寝息を立てているのだ。


「ところで、どうしてここへわたしを連れてきたの?」


 アリスが訊いた。どこへ行けばいいのかとアリスに言われて、カメは理由も告げず、ここまで彼女を導いたのだった。


「ウサギの毛をとってもらうためですよ」


「ええ!?」


「だって、あなた」

 カメはさも当然だというように、

「わたしのベッドをだめにしたではないですか」


「そりゃあ、そうだけど……」


 アリスがあのウサギ羽毛のベッドから降りたとたん、しおしおとベッドはしぼんでしまったのだった。たしかにこのベッドはちっちゃいアリスを受け止めてはくれたけれど、そのアリスですら、カメと比べると大きすぎたのさ。


「でも、ウサギは足が速いんでしょう? だいじょうぶかしら」


 アリスは、自分の足がじっさいどれくらいの速さなのか、よくわからなかった。ママが彼女に受けさせるレッスンのなかには、体を動かすものがいくつもあったけれど、「かけっこ」というのはそのなかに含まれていなかった。


 そりゃ、あるわけはない……だって、もしそんな習いごとがあるのなら、ありとあらゆる男の子が受けたがって、教室がパンクしちゃうだろうから!


「でも、やってもらわないと」


 カメはしきりに空を見上げていた。


「ほら、もう少しで太陽が空の真ん中に来る……ちょうどそのときに、昼寝しなくちゃならないんです」


「なんで?」


「なんで、って?」

 カメはふしぎそうに繰り返した。

「だって、昼に眠らなくちゃ、昼寝にならないではないですか」


 カメのいうことはよくわからなかったけれど、アリスはウサギの毛をとってあげることにした。だって、ベッドをつぶしちゃったのはほんとうだし……それに、ウサギと追いかけっこって、なんだか楽しそう!


 アリスは、ここはおんなじくらいの女の子といっしょで、楽しいことが大好きだった。そもそも、あのときマンションを飛び出したのも、そうしたほうがカラリパヤットのレッスンに行くよりずっと、楽しそうだと思ったからだったのさ。


 アリスはリンゴ色の丘を登り始めた。もしアリスがおばあさんだったら、三歩くらい歩いてすぐ、息を切らして立ち止まってしまっただろう。それくらい急な丘だった。


 けれども、アリスは元気いっぱいの女の子! 「ほっ、ほっ」と短く息を吐いて、あっという間に頂上まで登ってしまった。それはすんごい速さだったから、カメもびっくりして、思わず目玉を飛ばしちゃったよ。


 頂上まで来ると、アリスは気をつけて、足音を経てないように歩いた……ウサギはスヤスヤだったけれど、もちろんアリスは知っていたのさ……ウサギの耳が、とってもとっても大きいってことをね。


 だからそろり、またそろりと、だれに教えられたわけでもないけれど、子どもはみんなできるあの忍び歩きのやり方で、少しずつ、また少しずつ、アリスはウサギに近寄っていった。


 アリスは、なんだかヘンな音がするな! とそのとき思ったよ。でも、それはなんだか、聞いたことがあるような音でもあった。それですぐ、彼女は気づいたんだよ。それが、自分の胸から響く、どきどきっていう音だってことに。


 アリスはとっても緊張していたんだね。だって、もうちょっとでウサギに手が届きそうだったから。なんでもそうだけれど、あと少し! ってところで、一番人は緊張するものなんだね。「ほんとにそう!」アリスは心のなかでつぶやいた。


 アリスの気は張り詰めていた。だからもし、いま、彼女の後ろで「わあーっ!」と大声を出したのなら、ものすごくびっくりして、ウサギをほっぽって、どこか遠くへ走り出しちゃったかもしれないね。


 ただ、もちろんそんないじわるをする人はいなかった。けれども、なにも声だけが、アリスのじゃまになる、ってわけでもなかった。


 ウサギがもたれかかっている木、この木は、さっきもいったけれど、ぶどうの実をたくさんつけた、オレンジの木だった。そして足元にあるのはリンゴ色の丘。それぞれからぷんぷんと、ぶどう、オレンジ、りんごの香りがただよっていた。


 ウサギの毛にアリスが手をかけたちょうどその場所で、その三つの香りが入り混じっていた。それはそれは良い香りだったのだけれど、緊張しているアリスにとっては、ちょっと、いや、かなり、刺激の強い匂いでもあった。


 だから、


「ハックション!」


 アリス、いまやっちゃいけないことのランキングのうち、トップ3に入るようなこと、思いっきりやっちゃったよ。でももちろん、これはあんまりいい香りをさせる丘や、木のせいだ。けれども、ウサギはそうは思わなかったみたい。


「うわっ!」


 ウサギは大砲が発射されたのかと思って、飛び起きた。けれど、アリスの手は毛をつかんだままだった。だから、「ぶちっ」と、たくさんの毛をまとめて、この見知らぬくしゃみ屋さんにあげてしまった!


「わっ。ごめんなさい!」


 アリスはそういって、一目散に駆け出した。ほんとはもうちょっと、優しく、一本一本抜くつもりだったのよっていいたかったけれど、とりあえずいまは逃げたほうがよさそうだって思ったんだね。


 ピューッとアリスは丘を駆け下り、あっという間にカメのいるところまでたどり着いた。だけど、相手はウサギ。追いつかれていたっておかしくない。そう思って、アリスが後ろを振り返ると……


「……あれ?」

  

 なんとウサギは、まだ頂上の木の影から抜け出せもしてなかった!


「あなた、足がとっても速いんですね。びっくりしました」

 とカメは、片目をしかないまぶたをいっぱいに広げて、おどろいたようにいった。


「あんた、片目はどうしたの?」


「落としてしまいました。ここらへんだと思ったんですが……あ、ありました」


 拾い上げた目に息を吹きかけ、くりっとはめ込んだ。そうしてから、もう一度アリスを見た。


「ウサギよりわたしより、ずっとずっと速いではないですか」


 なーんだ、とアリスはそのとき思ったよ。


 このカメが速いんじゃなくて、ウサギが遅すぎたんだ。

 




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