第二話:アリス、カメとしゃべる
どんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどん、アリスは落ちてった。
穴の中身は真っ暗。ただアリスには、びゅんびゅんと風を切る音だけが耳に聞こえてた――それ以外にはなんにも、まったく、ぜんぜん感じられなかった。
でもアリスはかしこいから(さっきも言ったね)、いつの間にやら気づいたよ。「おかしいんじゃないの?」ってね。ふつう、穴には底があるもんだってこと、ちゃあんと彼女にはわかってた。
けれども、いつまでもアリスは落ち続ける。ふだんなら元気いっぱいのアリスも、さすがにちょっと心細くなってきた。「だってこんなに落っこちたら」アリスはつぶやく。「あがってくるのがたいへんじゃない!」そのとおり!
けれどしだいに、ほんの少しずつ、アリスはまわりのようすをわかり始めた。ほら、暗いっていってもね、いろいろあるでしょう? ものすごく暗いとか、ちょっとだけ暗い、とか。その違いが、彼女にもわかり始めた。
「どうしてだろう?」ってアリスも思ったよ。いままではずっとおんなじ「真っ暗」があるだけだったのに。おかしいなあ?
でもすぐに、そのわけがわかった。
下のほうから、白い光が差し込んでいたんだ。
アリスはおどろいたけど、それよりもずっとうれしかったよ。なにせ、このままずっと落ち続けなんじゃないかなって、不安になっていたからね。
『おむすびころりん』っていうお話を、アリスはちょうど思い出していた。アリスはこの話を初めて聞いたとき、おじいさんがおむすびを追っかけて穴に落ちたところで、ものすごく、お腹をかかえて笑ったんだ。
「食い意地のはったおじいさん!」アリスは笑ってそういったよ。「わたしなら、落っことしたおむすびなんか追いかけないもん!」
そう、たしかにアリスはなにを追いかけているわけでもなかった。むしろ、追っかけられていたんだよね。だから、アリスはうなずいて納得したよ。
「わたしはべつに、食い意地がはったおじいさんじゃない」ってね。
さて、いよいよ光が強くなってきた。あんまり眩しいもんだから(ずっと暗かったからね)、アリスは目をうんと細めなくちゃならなかった。
「うー……」
アリスは、おそるおそる目を開けた。まだ風の音が耳にしていたから、落ち続けていることは間違いなかった。だから彼女がびっくりしたのには、もちろんべつなわけがあったわけ。
「なにこれえ!?」
アリスは大きな声をあげた。もしこれがあのマンションの二階のビルにまで届いてたら、ゾウだって昼寝から目が覚めるだろうってくらいの。それだけ、おどろきは大きかった。
アリスはきれなな場所にいた。
アリスはすごくきれいな場所にいた。
アリスはほんとうにきれいな場所にいた。
アリスは目を見張った。下を見ると、まるで色とりどりのパズルピースで地面が埋めつくされているみたいだった。緑、赤、茶、青、黃、紫……でもふしぎなことに、どれもがなぜか、とっても暖かそうに見えたんだ。
「きれい!」ってアリスは思ったよ。それで、何度も繰り返すけれど、アリスはかしこいから、こんなふうに考えた――「下がこんなにきれいなら、上もきっときれいに違いない」ってね!
「わあ!」
またアリスは歓声をあげた。上を見ると、まるで冬にかける毛布のようにふかふかして、とってもきれいな青空があった。そしてそこには、夏祭りでママとパパが買ってくれるわたあめみたいな、よだれが出そうなくらいおいしそうな雲が浮かんでたんだ。
ひとつ、とって、食べたいなあ、とアリスは思った。だけど残念なことに、アリスが手を伸ばすかたわら、どんどんそのわたあめは小さくなっていった。食いしん坊な風が舐めちゃったのかな? とアリスは思ったけれど、またまた残念なことに、それはまちがいだったんだ。
アリスがいまいるのは、とっても高い空の真ん中!
彼女はいましも、ぐんぐん地面に向かって落ち続けてた!
「……!」
アリスはやっとそのことに気づいたけど、「キャー」とか「ワー」なんて、かっこ悪い声をあげたりはしない。同じくらいの女の子たちは、ちょっとしたことですぐそんなふうな声を出すのを彼女は聞いてたけれど。
だけどアリスはそうじゃなかった。そんなことしたって、地面にぶつかるのを遅らせられるわけでもないってことが、しっかりわかっていた。
だからアリスは、気を張って地面を見ることができた。それのなにがよかったかって、小さな女の子が空から落ちてきたって、やさしく受け止めてくれるものを見つけるのに役立ったことだ。
アリスは、このとき初めて空を落ちていた。空を飛ぶのだってなかなかめずらしいのだし、落ちるのはもっとめずらしかったろう。
だけど、まるでそれをいつもやっているように、アリスは慌てず、余裕たっぷりに手や足を動かし、ゆっくりとだけれども、空のなかで動き、ちょっといままでとはちがう感じに落ちることができた。
アリスはそうやって、四方に目をこらし、ふわふわで、ふかふかで、やわらかくて、あとできればあったかい(ずっと風に当たってたから)もの、例えるなら羽毛や羊毛みたいな場所を探した。
見つけた。
それは、アリスがいまいる場所から右のほう、緑色の地面にあった。その「ふわふわふかふかやわらかあったか」なものは真っ白だったから、空の上からでも目立ってよく見えたんだ。
アリスはそこ目がけて一直線! 矢のように突っ込んだ!
ぼふっ。
角のない、とってもやわらかな音を立てて、アリスはその白い羊毛みたいなものに突っ込んだ。ちっとも痛くなかったから、上手くいったことがわかって、とってもよろこんだ。
「ちょいと、ちょいと!」
そのとき、声がした。アリスがそのほうへ顔を向けると、そこにはちっちゃなカメがいた。アリスがそう思うくらいだから、ほんとうにちっちゃかった。きっと年長さんだってまたげるくらいだろう。
「こまるよ、それはわたしのベッドなんだから」
カメはほんとうにこまったようにいった。
「せっかく毛を積み上げたのに……」
ところで、このときアリス、とってもびっくりしていたよ。なんせ、カメに話しかけられたのは初めてのことだったからね。ふつうの人に声をかけられたことだってあんまりないのに。
声には出さないけれど、内心、アリスはそのたび緊張していたさ。上手く声が出せるかな、とか、まずいことを言わないようにしなきゃ、とか。知らない人に声をかけられて、慌てずにいられる人、ひとりだっているだろうか?
だから自分に話しかけてきたのがカメだったことにもびっくりしたけど、それと同じくらい、いきなり話しかけられたこと自体にアリスはびっくりした。だから、ふつう、カメってこんなにおしゃべりだったかな? なんてこと、思い浮かびもしなかったんだ。
「あら、そうなの」
アリスは素直にあやまった。
「ごめんなさい。でも、他に落ちるところがなかったのよ」
「落ちるだって?」
カメはふしぎそうにいった。その声は、まさしくカメがしゃべるとしたらこんなふうな声だろうなって思われる、ぜんぜんわざとらしくなくて、自然なものだった。
「どこから?」
「マンホールからよ」
「マンホール?」
「知らないの? まあ、ムリもないか。この世界にはなさそうだし……」
と、そこまでいいかけて、アリスはとっても大事なことに気がついた。あんまり大事なことだったから、いままで気づかなかったのがふしぎなくらいだったけれど、まあ、空から落ちてるってときに、そこまで気をまわせるひとはそうそういないだろうなってことで、あんまり気にしないことにしたよ。
「ここはどこ?」
迷子になった人が一番先にいわなきゃいけないことって、まさにこんなふう。
「<春のところ>だよ」
カメはなんでもなさそうに答えた。東京に住んでいる人に、あなたが住んでいるのは東京ですか? と聞かれて答えるような調子で。
「<春のところ>?」
たしかに、まわりには緑があふれていた。いましも吹く風は暖かいし、もうちょっと落ち着いているときだったら、アリスもすやすや寝入ってしまいそうなくらい気持ちがよかった。
けれど、いまはそこまで落ち着いた気分にはなれなかったさ。もちろん。
「じゃ東京じゃないの?」
アリスは不安になって、自分が住んでいると教えられた街の名前を言ってみた。これは、彼女が言葉をしゃべれるようになってすぐ、ママに訊いたことだった。
「そんな場所は知らないなあ」
カメはのんびりした声で答えた。
「まあ、わたしの知らないこともたくさんあるからね。でもきみは、ぼくよりいろんなことを知ってそうだな」
「わたしが?」
「そうだよ。もうぼくの知らないことをふたつも言った。<マンホール>、<トーキョー>……」
カメはひとりうなずく。
「それだけ物知りなら、この毛がなんの毛かも言えるだろうね」
「ええっ?」
アリスはちょっと、このカメが自分を買いかぶってるんじゃないかな、と思った。買いかぶる、って言葉の意味は、まだよくわかっていなかったけれど。
アリスは自分のお尻で踏みつぶしている、ふわふわの白い毛を手にとってみた。空から見たとき、これは羊の毛や、鳥の羽のように思われたのだった。でも近くで見てみると……「うーん」アリスはうなった。しょうがないから、正直に答えることにした。
「わからないわ……」
「これはね、ウサギの毛なんだよ」
カメは相変わらず、のんびりした声でいった。
「ぼくはとっても足が速いから、寝ているウサギから毛をむしっても、気づかれる前に逃げられるんだ」
「へえ!」
アリスは声をあげた。てっきり、カメは足が遅いもんだと思っていたからだ。あんまり絵本ってアテにならないのかしらって、そのときアリスは考えた。
「きみもそこまで、物知りってわけじゃないんだね」
カメはそういったけれど、べつにあざけるような口調でもなかったから、アリスは落ち着いた気分のままそれを聞けた。
「ええ、そうよ」
アリスはほんとうにそうだと思った。
「だから、教えてほしいの」
「なにを?」
「わたし、どこに行ったらいいのかしら?」