第一話:アリス、マンホールに落ちる
東京都墨田区押上82丁目35−329になにがあるか知ってる?
そう、大きなマンションがあるね。
ここにはいろんな人が住んでいる。たとえば、二階にはサトウさん。この人は二階にある部屋を全部借りて、大好きな動物をたくさん飼っているんだ。もう、十分びっくりでしょ? でも、本当にすごいのは飼っている動物の多さ!
トラ、ゾウ、ライオン、ペンギン、クマ、ヘビ、サル、ウサギ、カンガルー、コアラ、クジラ、イルカ、フクロウ、ワシ、ゴリラ、オットセイ、セイウチ、アザラシ、タカ、キリン、ドラゴン……
ね? 全部書いていたら、このページが埋まっちゃうくらいたくさんの動物。サトウさんはそれくらい動物が好きなんだよ。すごいね。……えっ? マンションでそんなに飼えるわけがないだろうって?
たしかに、人間ですらきゅうくつに感じることがあるのに、キリンやゾウなんかが部屋に入ったら、「せまーい!」っていって、すぐ窓から飛び出して逃げちゃうかもね! その証拠に、ほら、マンションのまわりにはたくさんの大きな足跡がある。
みんな逃げちゃったのかな? でも、それはだれも知らないんだ。なぜって、べつにサトウさんがこの物語の主人公ってわけじゃないからね。
これから話すのは、動物が大好きなサトウさんのことじゃなくって、そのサトウさんより十階上の部屋に、パパとママと三人で住んでいる、ある女の子のお話。
この女の子はとってもかわいくて、元気もいっぱいだから、もしきみが道ばたで彼女に会ったなら、きっとすぐ大好きになってしまうだろう。
ただ、残念なことに、あんまりそういう素敵なことは起こりそうにない。この女の子は――アリスっていうんだけどね――ふだん、それほど散歩をしないからだ。
彼女はいっつも習いごとをしていた。
「はー」
と、アリスは大きなため息をついた。マンションにある自分の部屋の、大きな窓から空を眺めてね。
「ふー」
また大きく息を吐いた。おかしいね? アリスはまだ、ほんの小さな女の子。そりゃ、アリやクマムシよりは大きかったさ。でも、彼女を見かけて、「小さい」と思わない人、少なくとも大人の人は、ぜったいだれも、どこにもいなかったろうね。
そんくらい小さい、ってのはつまり若い女の子なのに、「はー」とか「ふー」みたいに、まるで年取ったおばあさんのように息をして! どうしてアリスは、そんなふうにしているのかな?
「だって、つかれたんですもの」
これはひとりごとだけどね、アリスが教えてくれたよ。
「毎日、毎日……習いごとばっかり」
なるほど。
たしかにアリス、いっつもピアノや、バイオリンや、バレエや、カスタネットや、水泳や、そろばんや、塾や、お菓子作りや、プログラミングや、漢字や、英語や、エスペラントや、サッカーや、カポエラや、オーボエや、スケートや、初生ひな鑑別師の教室に通っていたよ。
これはちょっと多い、そう彼女が思ったのも無理はないことさ。だって大人でも、こんなにたくさん勉強することって、ないもんね。
「ほー」
またため息をついちゃったアリス。だってそうしないと、なにか、自分の体のなかでふくらんでいく風船みたいなものが、いまにも「バーン!!」と、割れちゃいそうだったんだよね。だから何度も息を吐いて、がんばってその風船をしぼませようとしてたんだ。
「アリス!」
これはママの声。あらら、なんだか怒ってるね。ま、一時間もアリスが窓ばっかり見て、家庭教師の先生を困らせてるんだから、しかたないかもしれない。
でも、怒ってるのはアリスも一緒さ。
「なに?」
ふくれっ面してママを見た。その顔の、フグにそっくりなことといったら! 水族館の水槽のなかで、もしいまの顔のアリスが泳いでいたら、水槽を見る親子連れ、みーんなフグだと思い違いしちゃうかもしれないね。
「先生を困らせちゃダメよ。これが終わったら……」
「知ってる。カラリパヤットのお稽古でしょう?」
カラリパヤットってのは、ええと……インドっていう国ではやってるものらしいけど、ごめん、あんまり知らないんだ。
「あたし、いやよ」
「なんですって!」
アリスのママはびっくりしたろうな。だって、初めてアリスが口ごたえしたんだもの。べつに、ブーブーもんくを言うのだったら、いままでだってたくさんあった。それでも、習いごとがイヤだとはいわなかった。
どうやら、アリスがさんざんため息をついたかいもないみたい。だって、もう、体のなかの風船は「バーンッ!!」って、バクハツしちゃったみたいなんだよね。
「いやったらいや!」
そう叫んでアリス(その声の大きさ! 二階にいたナマケモノすらびくっとさせたよ。このナマケモノはもちろん、サトウさんのペットさ)、自分の部屋を飛び出した!
「待ちなさいっ!」
ってママは言ったけど、アリスが待つわけはない。もう廊下を走ってる。彼女が廊下を走ってるわけは、その先に玄関があるから。そして玄関を目指しているわけは、そこから外に出られるからだ。
いま、そのドアにアリスは手をかけた!
パッ、とドアを開けると、アリスはそのまま飛び出した。もちろん、靴は履いていたよ。アリスはかしこい子だ。こんなにドキドキすることをしてたって、ちゃあんと大切なものは持っていくんだから。
マンションの長い廊下を、アリスはすごいスピードで駆け抜けた。だれも計っていなかったけれど、もしストップウォッチを持って廊下のはしに座っている人がいたのなら、そのタイムを見て、びっくりしただろうな。だって、アリスくらいの女の子じゃぜったいに出せもしないような秒数だったんだもの。
アリスは灰色の廊下を、とにかく全力で走った。まるで自分がオリンピックの選手になったみたいで、アリスは思わずほほえんだ。すごい余裕だね。
エレベーターは待っていられなくて、ダダダっと、階段を次々に駆け下りた。まるで坂の上から転がした雪玉みたいに、それはそれは素早かったよ。
マンションの一階には出口があって、そこには警備員さんがいた。ほら、最近はあったかくなってきたでしょう? だからこの警備員さんも、うつらうつら、楽しい夢を見てたんだよね。だから眠り顔も、なんだか楽しそう。
だけど、アリスが階段を降りて一階までやって来たとき、警備員さんは苦しそうな顔をしていたよ。それも無理はない。だってそのとき夢のなかでは、百頭の馬に追われてたんだもの! それがアリスが立てた足音のせいだってことは、言うまでもないことだ。
そういうわけで、無事に、かすり傷ひとつなしに、アリスはマンションから逃げ出せたんだ。アリス、自分のことだけれども、これはすごいんじゃないか、って思ったよ。
だって、自分のママから逃げ出したんだもの。自分と同じくらいの女の子たちは、みいんなママが大好きさ。いっつもママといっしょにいる。だけど、アリスはそうしない。ママに「いや!」っていったうえ、逃げ出したんだ!
「これって、かっこいい!」
アリスは得意満面だった。自分はだれもできないことをした、そんなふうにまで思っていたのかもしれないね。
ただ、それはあながち、間違いってわけでもなかった。
これから、彼女はとんでもない体験をする。
アリスとおんなじくらいの女の子のだれも、ぜったいにしたことがないような。
そんなこととはつゆ知らず、アリスはにこにこで道を歩いた。アリスはまだちっちゃくて、他に道を歩いている大人たちの半分もなかった。だから、あんまり街のようすはよく見られなかったけれど、それでもすごく楽しんでいた。
一人で街を歩くのなんて、初めてのことだったから。いつもはパパやママがいて、そのふたりはいつもアリスを真ん中にして歩かせた。そして右手はパパと、左手はママとつなぐことになっていた。
たまーに、アリスはそれをおっくうに感じることがあった。たまーには、手を思いっきりふって、自由に歩いてみたい、ってね。
その念願叶ったりで、アリスの心は花畑みたいだった。そこには色とりどりの花が咲いていて、すごく気持ちのいい風も吹いている――もちろん、ハレツしそうな風船なんか、そこにはひとつもなかった!
でもさ、こうやってうきうきして歩くのは、それは楽しいことだけれど、実はけっこう危なかった。遠足のあと、先生はなんども、注意して家まで帰るように、っていうでしょ?
それと同じで、なにか大きな困りごとが起こるときってのは、楽しい気持ちでいっぱいのときなのさ。あんまり楽しいから、この世界にはなにも問題なんかない、キケンなんてない、って気になっちゃうんだね。
ちょうど、アリスもそのようだったよ。
でさ、アリスはいま元気に道を歩いているけれど、もっぱら上ばかり見て、下を見ていなかったんだ。下には、なにがあるかな? そう、道だよね。で、道にはたまーに、丸い、大きな、重そうな材料でできた、ふしぎな模様が描いてある……
「マンホール!」
どこかでだれかがそう叫んだ。なぜかっていうと、ちょうどアリスがその上を通ろうとしていたからさ。でもさ、よく考えてみて。マンホールなんてそこらじゅうにあって、毎日通り掛かるでしょう? それなのに、こんな、いかにも「あぶない!」って感じの大声、出す必要あるのかなあ?
……あったんだよね。
だってそのマンホール、ふたが開いていたんだもの!
「あっ!」
ってアリスが気づいたときにはもう遅い。そのマンホールの穴は小さかったけれど、小ささではアリスだって負けちゃいない。おかげで、すっとーんと、びっくりするくらいあっさりと、アリスは穴に落ちちゃったんだ。
でもま、安心して。
べつにアリスはケガをするわけじゃないから。
もっとも、それ以外のなにかしらをこしらえることは間違いないんだけれど。