第三幕 新たなる目的
暗い地下よりもなお暗き場所に征四郎は佇んでいる。
前方には薄く明るい場所があり、幾つかの蠢く影が薄明かりに浮かんでいた。
周囲には意識を向ければ真っ黒い泥の様な生命体がゆったりとした動きで震えていた。
いつか、死の間際に見た光景。
恐れも無く、一歩前に進んだが、そこで征四郎は違和感を感じた。
あまりにスムーズな移動。
其処で征四郎は、自身の肉体が死んだことを思い出した。
「ゾル・タルワースの神殿によく参った」
厳かな声が響き、其方に視線を向けると妙な者がいた。
座布団ほどの大きさで、水色の柔らかそうな体毛に覆われた丸っこい何かを何と呼ぶのか征四郎には分らない。
ただ、素直な感想を口にしてしまう。
「声と姿の落差がひどいな」
「遠き世界ではギャップ萌えと言うのだ、若き大神官」
「大神官?」
「遠き世界よりよく参った、大神官ジュアヌスの魂を受け継ぎし神土征四郎よ」
魂が同一と言うのは確かに聞いていたが……自分の仕事を継がせるために征四郎に力を与えたのかと己の根底に問うも返事はない。
「ジュアヌスの後釜に呼ばれたのか?」
「然り、然り。無色の月が青白い月と共に天に登る日に、このゾル・タルワースに捧げよ」
「あんたが神!? いや、想像してたのとなんか違うな。竜って言うか、何と言うか」
「会う奴皆がそう言うのだが、もう慣れた。それよりも捧げるのだ!」
「何を? 命か生贄か?」
眉根を寄せつつも、不当な要求であれば断ろうとした征四郎だが、続く言葉に脱力した。
「生贄は飽きた。純潔の娘とかもらっても困る。……最後には皆、嫁いでいくし……。代が過ぎればゾル・タルワースの所に誰も来なくなるし……。……故に! このゾル・タルワースが望むのは飯だ!」
「……メシ?」
「飯だ。時に神土征四郎、汝は料理の腕前はそれなりか?」
「佐官になる前は一人で作っていたし、力を借り魔人と化してからも一人で作っていたからそれなりだが……まさか」
「このゾル・タルワースの大神官は料理人も兼ねる! 汝は己の肉体に戻り無色の月が青白い月と共に天に登る日に美味しい飯をこのゾル・タルワースに! このゾル・タルワースにふるまえ!」
「何故二回も自身の名を繰り返す! まさか、料理が大事とはこう言う事だったとは……」
頭を抱えたかったが生憎と既に体は死んでいる。
嘆息しながらふとその事実に気づき、ゾル・タルワースを自称する座布団大の丸い水色を見つめる。
「作れと言うが、これは魂だけの状態では?」
「人と別の体になった汝の肉体は既に再生を始めておる、汝を呼び寄せた彼の娘が傷を縫合したから割と早く治ったぞ」
「また、周囲のあれを取り込まねばならんのかと思ったが」
十年前に取り込み生き長らえた、周囲に蠢く黒い無形の存在へ視線を投げかける征四郎。
「これ以上は止めておけ、人の形を保てなくなるばかりか、意識も混濁し、混沌と化すであろう」
「……」
「さて、そろそろ魂が肉体に引っ張られる頃合いか。行くのだ、大神官よ。このゾル・タルワースに美味い飯を食わせるのだ!」
「ちなみに、無色の月が青白い月と共に天に登る日とはどのくらい先の話だ?」
「日が百八十回登り、百八十回沈んだ日の夜だ」
「半年か……言葉を覚え、常識を覚えながら、この地で手に入る食材と調味料で作れとな?」
嘆くように呟くと同時に、征四郎は何処かに引っ張られるような感触を覚えた。
その感触は強くなる一方で、ずるずるとこの暗い地より引きずり出されていく。
そんな征四郎の姿を見て、水色の丸い神はつぶらな黒い瞳で征四郎を見やり厳かな低い声で告げた。
「がんばれ」
「貴様、本当に神なんだろうな!」
思わず心の底からの吐き出した叫びを響かせながら、征四郎の魂は肉体がある場所へと引っ張られていった。
征四郎が目を覚ますと、あの薄暗い石造りの建物の中に居た。
マヒしていた感覚が徐々に戻ると、大きく息を吸い込み少し湿った空気の味を感じとる。
何処か芳しい匂いを嗅ぎ、微かに眉根を寄せながら、漸く気付いた。
己の膝の上に温かさと微かな重みを感じると。
「……これは」
征四郎は視線を下に向けて言葉を失う。
そこには、あの娘が……己を呼んだ痩せた狐耳の少女が膝に顔を埋めて眠っていたからだ。
やせ細った指先には、幾つか真新しい傷が見える。
それに石畳に倒れていた筈の己がこうして椅子に座っている状況に戸惑いも生まれたが、呪術の神ゾル・タルワースの言葉を思い出す。
『汝を呼び寄せた彼の娘が傷を縫合したから割と早く治ったぞ』
(わざわざ傷を縫い、着替えさせて椅子に腰かけさせたのか? この細腕で何故そこまで……)
無防備に寝息を立てて眠っている娘の髪を撫でながら、征四郎は何故ここまでしてくれたのかを思案していた。
程なくして、娘が目を覚ますと顔を上げて、疲れている様子ながら何かを語り掛けてきた。
(やはり、分らんな。あの丸水色は言葉が通じる辺り超常の者か)
等とぼんやりと考えていると、娘も言葉が通じない事に気付いて眉根を寄せながら黙り込んでしまった。
暫し、沈黙の時間が過ぎたが、征四郎は自身が着せられている茶色いローブをつまみ、娘を指さす。
君が着せたのか? と言う問いかけだったが通じるだろうか?
不安な征四郎を余所に娘は一瞬その意味を考え、頷きつつ言葉を口にする。
肯定と受け取った征四郎は、居住まいを正してゆっくりと頭を下げる。
顔を上げると娘は緑色の瞳を大きく見開いて固まっていた。
(しまった……頭を下げる事が謝意を示すとは限らんではないか……)
失敗したかと内心顔を顰めている征四郎を見つめている娘の、緑色の翠玉の様な瞳から涙が零れ落ちる。
(決定的にやらかしたか!)
「す、すまない、他意は無いのだ、何か無礼な事をしただろうか!?」
我ながら素っ頓狂な声を上げているとは思うが征四郎が慌てて問いかけるも、言葉が通じない。
だが、娘は征四郎の膝に再び顔を埋めて声を上げて泣き出してしまった。
(何だ、これは? 如何しろと言うのだ? 神よ、ゾル・タルワースよ、我に導きを与えよ!)
神頼みまでしてみたが、特に何も変わらない。
ただ、不快にさせて泣かせたのならば、部屋を出て行くだろうとも思い至れる。
ならば、頭でも撫でてみようとそっと指先を伸ばしては、引っ込めると言う行為を三回繰り返して、漸く娘の頭を撫でてやる。
膝に感じるのは温もりと嗚咽。
蘇ったばかりの心臓は凄まじい速さで全身に血を巡らせているのが分かる。
(どうすりゃ、良いのだ?)
気恥ずかしさと、そこはかとない嬉しさと、どうすれば良いのか分からない困惑に晒されながらも、征四郎はただただ娘の頭を撫で続けた。