第二幕 征四郎を呼ぶ声
神土征四郎は、己を呼ぶ声を聞いていた。
軍学校の先輩、犬鼎大佐の声ではない。
その声には力が無く、か細く縋りつく様な、それでいて透き通るような声音だった。
異界の神の贄にでもなると思っていた征四郎だったが、何とも必死なその声に応えようと最後の力を込めて顔を上げた。
視界に広がるのは、ラジヲ塔の展望台から広がるのは赤く染まった黄昏時の皇都である筈。
だが、苦しげに頭を持ち上げた征四郎の前に立つのは一人の女だった。
痩せて不健康そうな少女と呼ぶような年齢の女が。
目の下に浮かぶ隈と、疲れ切ったような緑色の双眸を見つめながら、征四郎は胸の高鳴りを感じた。
まるで、初陣の時のように喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。
自分の心音が煩いくらいにドクンドクンと鳴り響くなど、魔人と化してからあっただろうか?
金色の髪と同じ色の柔らかそうな毛に覆われた狐の様な耳が力無く垂れ下がり、何らかの感情を堪えながら呼びかける声は、悲痛だった。
(これから死んでいく身に何と言うモノを見せるのだ……)
征四郎は、力無く垂れ下がった右腕を持ち上げかけるが、上手く上がらない。
苦労しながら持ち上げて、女の方へと手を差し出すが、この行為に意味はない。
せめて、天女と呼ぶには不健康そうな、だが、美しい狐耳の娘の不安を少しでも取り除いてやりたかったが、栓無き事だ。
結局、征四郎が出来たのは其処までだった。
呼び声は徐々に遠ざかり、別の何かがそれに応えた様だった。
だが、それは彼の娘に悪意がある様に感じられ、征四郎は歯がゆさを覚える。
そこに不意に、死に掛けた際に聞こえた老人の声が響く。
「わしの出番かな、若き剣士」
「ジュアヌスか。……私は呪術の神ゾル・タルワースに捧げられるとばかり思っていたが」
「馬鹿を申せ。我が神は生贄よりはうまい飯を求める。料理の腕を磨けと忠言したのはそのためだ。……さて、剣士よ、生贄などになる必要はないが、代償は必要だ。一仕事頼みたい」
「そうは言うが――私はもうすぐ、死ぬぞ?」
「儂が生きて死した地では、彼の地ではより一層ゾル・タルワースの力は強まる。おぬしの命長らえる事も可能だ」
「……何をなせと?」
「今、お主が思い描いた事を成せばよい」
あの娘を助ける事か。
しかし、これは義憤でもなく公憤でもなく、彼女に惹かれた己の欲望に過ぎない。
何故、それを行えと老人が告げるのか征四郎には分らなかった。
それに……。
「すでに呼び声は聞こえない」
「悪辣な意思が彼の娘の体を奪い、甦らんとしているからだ。……ふむ。神土征四郎、お主は聊か理性に頼り過ぎておる、どうせ死んだ命なのだろう? 助けたいと願うがままに、その感情を解き放ってみては如何だ?」
「……何故だ? 何故、私を其処まで気に掛ける?」
「わしがお主の過去生だからよ」
「何?」
「わしは遠く異界より声を掛けているのではない、お主の魂の根底、根幹より声にならぬ声を上げたまで。その声を聴き、決断したのは今生を生きる神土征四郎と言う男だ」
「己の内なる声と言う訳か。それが事実ならば私は如何かしている」
「何を今更。砲煙弾雨の戦場で、銃は捨てても剣を手放す事が無かった剣鬼の言葉ではないな」
魔人と化す前の記憶が脳裏にちらつく。
砲弾が絶え間なく降り注ぎ、重機関銃から放たれる銃弾が横殴りの雨よりも多く飛んできたあの場でも、剣は手放さなかったのは事実だ。
「違いない」
小さく笑った征四郎は一つ頷くと、その体はラジヲ等の展望台より消えていく。
疲れたように双眸を閉じた征四郎の体は、ゆっくりと、紅茶に溶けていく角砂糖の様に形を失くして、最後は赤く染まった展望台から完全に消えた。
次に征四郎が目を覚ますと、何処か薄暗い石造りの建物の中にいた。
石畳の冷たさは、近代建築の粋を集めたラジヲ塔の床よりも尚冷たい。
意識はある程度しっかりしているが、如何にも体が動かず、自身の鼓動も消えて行こうとしていた。
(さて、あのやり取りに意味が在ったのか?)
そんな事を思いながらも、石畳に横たわっている状態であると気付けば、征四郎はゆっくりと頭をあげる。
と、そこには彼女が立っていた。
先程、幻視した痩せて不健康そうな少女と呼ぶような年齢の女が、肉体を伴いそこにいる。
金色の髪と同じ色の柔らかそうな毛に覆われた狐の様な耳が、驚きを露わにしているのかピンと立てられ、その青には困惑と喜びが見て取れた。
(栄養不足……それに、孤独、か? ああ、痩せ過ぎだが、間近に見ると何とも美しい……。是非にお近づきになりたかったが……体が持たんか)
死んでいく感覚と言う奴を素面で体験している征四郎は、困惑を覚えたが、それ以上にこの娘と話す事も触れる事も出来ぬまま死ぬ事を悟り、そっと顔を伏せた。
見知らぬ言葉を語りかけ、急ぎ側に駆け寄る女の気配を感じる。
意味の分らない言葉だったが縋る様な色合いだけ感じ取れて、それに何一つ答えられない様が何とも情けないと歯噛みする征四郎。
やせ細った指先が体に触れるのを一瞬だけ感じ取れたが、征四郎の肉体は感覚を完全にマヒさせた。
結局、征四郎は彼女に何も告げる事も出来ず、自身の命が潰える感覚を知ったのである。
だが、死した肉体に囚われた征四郎の意識は、何者かが己を呼ぶ声を聴く。
彼方より、此方より響くように、囁くように聴こえた声は、告げる。
我が元に来たれ、神土征四郎よ、と。