止まない雪
その夜は、大雪だった。地面は見えないほどに雪で覆われ、足跡もすぐに消えてしまう。視界も悪く、せいぜい十メートルほど先までしか見ることができない。吐く息は白く、空気を吸うと肺が凍りついてしまうように感じられた。
森の中の少し開けた場所に、一人の老爺がいた。六十歳くらいだろうか。歳相応の皺や白髪の割に、腰はまっすぐで、最初に感じた年齢よりもいくらか若く見える。誰かを待っているのだろうか、雪の降るなかで立っており、手には手紙が握られていた。老爺は人生の物事を達観したような目つきで、全てを諦めているような気さえする。それは数々の至難に立ち向かってきたというよりは、受け入れてきたような感じがした。
しばらくすると、三十歳くらいだろうか、トレンチコートに身を包んだ女がやってきた。
「待たせたわね」
女は両手をポケットに突っ込んだまま老爺を一瞥し、そう告げた。
老爺は何も言わず、首を横に振った。
「こんな日に呼び出さなくてもよかったんじゃないの?」
「いや、今日じゃなければいけなかった。俺は今日殺される」
「なによそれ」
女は怪訝な顔をして尋ねた。
「俺が殺し屋なのは君も知っているだろう。この三十年で何百人と殺してきた。毎晩夢を見るんだ。今まで殺してきた人達の最後の顔が浮かんでは消える。そして目覚める前には、必ずあの人が出てくるんだ。あの人の笑顔を見て、夢から現実に引き戻される」
「あの人って?」
「君の母親だよ」
老爺は語り始めた。
「俺は二十五年前、あの人を殺せと命令を受けた。最初にその命令を聞いた時は驚愕した。どうして愛していた人を殺さなければならないのか。そしてあの人のお腹には子供もいた。紛うことなき俺とあの人の子供だった。それでも、殺さないといけなかった。命令を受けて数時間後、俺はあの人をナイフで刺した。するとあの人は笑ったんだ。『私を愛してくれたのが、私が愛したのが、あなたでよかった』涙を流しながらそう言った。それを目の当たりにして、俺はその瞬間、人生でいちばん後悔した。とどめを刺すことなんてできなかった。すぐに救急車を呼び、俺は誰も自分のことを知らない遠い国まで逃げた」
老爺は遠い目をしながら話していた。
女は全てを母親から聞いていたのか、驚いた様子は見られなかった。
「その五年後、俺はこの国に戻ってきた。それからは地獄のような毎日だった。殺し屋に復帰し、ひたすら人を殺す。あの人を刺す前は何も考えずに人を殺していたが、刺した後からは、暗殺対象の誰にだって愛する人、愛される人がいて、その人が死ぬとどれだけの人が悲しむのだろうかということを考えてしまうようになった」
雪が降りしきる中での老爺の声は、とても静かなもので、消えてしまいそうだった。
「五年前にあたしに声をかけたのはどういうつもりだったの?」
「とても似ていたんだ」
老爺は目を細めてそう言った。どこか懐かしむような声でもあった。
「君はあの人が若い頃にそっくりだ」
それは女がこれまで何回も言われていた言葉だったのだろう。どこかうんざりとしたような表情になっていた。
「そして俺はあの人と、お腹の中の子供が生きていたことを知った。地獄のような毎日の中で、その瞬間は本当に嬉しかった。自分が愛した人が、その人との宝が、生きていたんだ。これが、自分自身が殺しかけた人でなかったら、俺は今、死を覚悟していないだろう」
「そう言えば、『俺は今日殺される』ってどういうことなのよ」
それは当然の疑問に思われた。
「匿名で手紙が来たんだ。『お前を殺す』という内容だ。果たし状さ」
老爺は手に持っていた手紙をひらひらとさせながら答えた。
「なぜそんな内容の手紙に従ってやすやすと殺されに来たの?」
「俺はもう疲れた。毎晩夢を見ると言っただろう。寝ると悪夢にうなされ、起きていると仕事で人を殺した時にあれこれ考える。いろいろなものがすり減った。それにあんなに多くの人を殺したんだ。まともな死に方ができるとは思っていない。このあたりが終わり時だ」
老爺の悟りとも思えるような柔らかな口調や態度に、女は納得していたようだった。確かに、いわゆる『一般人』とは生きてきたなかでの経験や思考が違いすぎる。老爺がそのように思うのも、必然なのかもしれない。
「君は俺が殺し屋になる前の職を知っているか?」
老爺は尋ねた。
「母親と働いていたのでしょう?記憶を電子化するプロジェクトの始動メンバーとして」
「ああ、そうだ」
この時代、人間の記憶は全て電子化され、各国の機関に集積されるようになっていた。
「電子化された人間の記憶を観ることができるのは、その人が死んでしまった後だ。本来、このプロジェクトが発足した理由は、減ることのなかった殺人事件の検証を簡易化するためというものだった」
「なぜそのような、国を、いや、世界をあげて行われていた企画のプロジェクトを外れて、あなたは殺し屋になったの?」
「人間の記憶の電子化を、良く思わない連中もいる。俺はそいつらに弱みを握られ、働かされたんだ。逃げることは到底できなかった。その連中からターゲットを伝えられて、殺す。その後、電子化された記憶を、それが機関に集積される前に操作するんだ。俺の記憶を消す」
それはひどく矛盾しているように思えた。
「だからあなたが捕まることはなかったのね」
「ああ、そうだ。電子化された記憶を操作することができるということと、その操作方法を知るのは、プロジェクトに関わったメンバーだけだ」
「なるほどねぇ…」
女は深いため息をついた。この寒い中でも、白い息はすぐに消えた。
「母親に伝えておいてあげるわよ。あの人に何か言いたいことはある?」
女の言葉が思いがけないものであったのか、老爺は目を丸くしていた。
「言いたいことか…俺があの人に言いたいことを言える権利なんて、そんなものはもう無い」
「遠慮しなくていいわよ…これが最期だから」
最期だから。寒空のせいだろうか、そう言った女の目は、数分前よりも冷たくなっていたような気がした。
「そうか…なら、こう伝えておいてくれ。『苦しい思いをさせてすまなかった。だが、君は私が人生で最も愛した人だ。他にそう思える人はいなかった。生きていてくれて、本当にありがとう』と」
老爺の目尻には光るものがあった。
「それで終わりか?」
「ああ…頼む」
「わかった…心が痛むな」
「なんだって?」
女が発したものの、老爺に届くことなく雪の中で消えてしまった言葉を、老爺が聞き直した刹那。
雪が降りしきるなかでも、その音ははっきりと聞こえた。女がポケットから出した右手には拳銃が握られており、銃口からは硝煙があがっていた。老爺の、愛した人への言葉は、遺言となった。
地面が見えないほどに雪で覆われたところへ、老爺は倒れ込む。すると、真っ白だった雪が、真っ赤に染まっていった。
「あたしはもう、あの人の子供じゃない」
女はそう呟くと、何かを堪えるように歯を食いしばっていたが、やがてその場から立ち去った。
雪は日が昇るまで止まなかった。
数日後、機関にある人の記憶が届いた。
「先生、娘さんは見つかりましたか?」
助手と思われる若い青年が、先生と呼ばれる初老の女性に話しかけた。
「それが見つからないのよ…まあ、喧嘩をしたわけでもないし、あの子のことだからどうせ友達の家に遊びに行っているだけだと思うわ。それにしても連絡くらいはしてほしいものよね」
女性は冗談でも言うように、笑いながら話していた。
「それで、今日届いた記憶は?」
「それがなかなか面白いものでして…ご覧になってくださいよ。殺し屋が二人出てくるんですけど、そんな職業が本当にあるんですね」
青年は頭の後ろで手を組みながら、興味深そうにそう言った。
「ふぅん…それじゃあ、とりあえず観てみるかしらね」
何の気なしに女性はそう言って、届いた記憶を再生し、スクリーンへと映した。




