Epilogue:贈り主の名は
第一章、 完!
おまえが深淵を覗き込むとき、 深淵もおまえを覗き返している。
When you look long into an abyss, the abyss looks into you.
フリードリッヒ・ニーチェ
Friedrich Nietzsche
石間 傑がイゴーロナクと化し、 消えてから数日後。
桐島 円は朝から花束片手に三塚大学附属病院を訪れていた。
数日前の事件でかの邪神に腹部を喰いちぎられた傷が原因で、 一時は意識不明の重体にまで陥った友人、 泉 彩香と階段から突き落とされた奥畑 実里のお見舞いに来たのだ。
「おー、 ありがとー」
四人部屋の病室の一角にあるベッドから上半身を起き上げて、 泉 彩香はシンプルなパジャマに身を包みながら親友を出迎えた。 一見すればかなり元気そうに見えるが、 よく見れば顔がいささかやつれているし、 その細い腕にはいくつかの点滴を受けている。 パジャマに隠されていて見えないが、 イゴーロナクに喰いちぎられた腹部には包帯がやや大げさに巻かれている事だろう。
「怪我の具合はどう?」
まあ、 長時間手術を受けたことを考えれば、 大分回復している方なんだろうな。 そう考えながら、 円は駅前の花屋で買った花束を花瓶に挿す。
実際、 手術は難航したと聞いている。
なんせ、 手術から十数分前に受けたという傷はすでに化膿しており、 出血量も激しいことから、 手術中に心停止を起こしたと担当医から聞いていた。 化膿していた傷は、 担当医が化膿しているところを取り除くことで何とかなったのが、 化膿していた部分があまりに広く、 救えないことも覚悟していたという。
「内蔵部分に損傷がなかったことで奇跡的に助かったといえる。 もしも、 内蔵にまで損傷が及んでいたら、 手の施しようがなかった」
担当医は後に手術に参加した看護婦にそう語ったという。 その後彼は疲れ果てて、 病院のソファに寝転んでぐっすりと眠ってしまったというから手術の困難具合が見て取れる。
ただ、 その手術の甲斐あって、 生死の境をさまよっていた彩香がこうして無事に回復しているのだから、 円としては感謝の言葉しかない。
あぁ、 そういえば。
「あのジャーナリスト、 結局撮ってた写真手振れだらけで使えなかったみたいだよ」
そう、 蕨 桜子が必死になって撮っていたイゴーロナクの写真。 手振れがひどすぎて、 一枚もまともに写っていたものはなかったらしい。 後日、 それら写真を現像して、 事実を知った美人ジャーナリストが絶望の声を上げていたとか。
「ははははっ、 ざまあないな」
彩はそう言って楽しそうに笑うが、 まだ傷が完全にふさがっていないのだろう。 「イタタ……」と呻くと腹部を両手で押さえる。
「無理しないで」と友人を介抱しながら、 円はあの後あったことをふと思い出していた。
†
あの後、 警察がやってきて、 大慌てで友人の応急処置を行う円、 腹部から大量に血を流して意識不明状態の彩香、 「なにかないか」と書斎内を荒らしまわる桜子の三人を発見した。
彩香は警察官が呼んだ救急車に乗せられ、 三塚大学附属病院へと搬送され、 残った円と桜子には警察官からいくつか質問がされた。
しかし、 円は家主が化け物になったという事をどう伝えていいのか分からずにしどろもどろだったし、 桜子も、 よく覚えていないらしく、 支離滅裂なことを話していた。 あの時の警察官達はさぞ混乱したことだろう。 黄色い救急車がよく呼ばれなかったものである。
そして、 石間家の家宅捜索が行われたのだが、 石間は女性用の下着だけではなく、 貴重な宝石から雑誌の付録まで様々な物を盗んでいたらしい。 数日経過した今では家の中にあったものは全て持ち去られ、 県警本部にて盗難物か否かを調べているところだという。
そして、 これらはたまたま警察から聞いたことではあるのだが、 円達の友人、 奥畑 実里を階段から突き落としたのは石間のシンパの一人で、 円に襲い掛かったあの女生徒だった。 ただ、 彼女を含む石間のシンパ達は石間が消えてから我を取り戻したような状態で、 警察の取り調べにも「何故あのようなことをしたのか分からない」と答えているという。
黙示録を盗んだ本人である林田 修一は見つからなかった。 警察は彼の行方を捜したが、 電車に乗ったのを最後に、 その目撃情報は途絶えてしまった。 無事に逃げおおせたのか、 それとも。
石間 傑もやはりというべきか見つからなかった。 あの虚空へと消えてしまった怪物と化した石間 傑。 再び、 この地に降り立つ時が来るのだろうか。 正直なところこのまま二度と現れないでほしい。 というのが円の率直な感想である。 今回の件で間違いなく恨まれているだろうし。
突き落とされた実里だったが、 今は無事に回復して、 明日には退院できるそうだ。 先日、 円は実里の病室に行ったが、 今目の前にいる彩香よりも元気そうな表情をしていた。 「退屈だ」と言いながら、 持ち込んだらしいライトノベルを何度も読み返していた。
†
「そう言えばさ、 一つ気になったことがあるんだけど」
彩香が何かを思い出したように呟く。 円が視線だけを向けて先を促すと、 そのまま言葉を続ける。
「林田の奴さ、 あの時ぜひ読んでほしいって石間の奴に話していたの覚えてる?」
「あぁ、 そういえばそんな話もしてたね」
「うん、 それでさ。 その本がさ、 多分石間の持ってた本だと思うんだけど」
「図書館から盗まれたっていうアレ? 今も見つかってないんだっけ」
そう、 石間が持っていた「グラーキの黙示録 十二巻」もあの後見つからなかった。 彼女達はあの時本のことなど気にしている余裕なんてなかったし、 後から来た警察も家中をひっくり返して、 近隣の家にまで捜索の手を広げたというのに、 結局は見つけることはできなかった。
かなり貴重な本だったようだが、 その本がただの古書ではないと知ってしまった彼女達からすれば他の巻も一刻も早く処分してほしいというのが本心であった。 その願いは叶うことはないだろうけれども。
「アイツさ、 その本を触りだけど読んだことがあるって言ってたんだよ」
「……え?」
「グラーキの黙示録」は確かに全巻中央図書館が所蔵されていた。 しかし、 全巻とも閲覧禁止であり、 閲覧申請がされたこともない。 「グラーキの黙示録」自体も非常に貴重な本であり、 そうそう簡単に手に入るものではない。
仮に林田が「グラーキの黙示録」を手に入れていたのならばそれを石間に見せれば良かったのではないだろうか。
「そもそも、 林田ってさ」
一体、 どこで「グラーキの黙示録」を読んだんだろうな?
円はその問いに答えることが出来ず、 彩香の呟きは静かに消えていった。
†
どこか、 どこか。 日本にあるどこかの廃ビル。
その一室に一人の男がいた。
最近、 身体を洗ったり、 着替えたりしていないのだろう。 服は薄汚れ、 身体からはホームレスのような臭いが漂ってくる。
「先生では“司祭”にはなれなかった。 次の候補を探さなければ」
その眼は完全に血走り、 垢と埃で薄汚れた表情からは狂気しか浮かんでいない。
男の傍には穴こそ開いてはいないものの同じ様に薄汚れすり切れたカバン。 そして彼の手には「グラーキの黙示録」の十二巻目が開かれていた。
「あァ、 僕を救ッテくれるお方ハどこにオラれるのカ……」
男、 林田 修一はそう呟くと、 目の前にある机に目を向ける。
ビルや今の林田のようにボロボロだが、 しっかりと形を保っている机の上には、
「我が神、 “イゴーロナク”よ、 僕をどウか導いてくだサイ……」
円があの日、 石間の部屋で見、 そして彩香によって砕かれたはずの奇妙な手の石像が、
傷一つない姿で、 禍々しくも神々しい気配を纏いながら鎮座していた。
第二章に続く……はず!