4:堕落の神
「■■■■■■―――!」
常人では理解することが出来ない雄たけびを上げながら、 かつて石間 傑という存在であったモノ、 イゴーロナクはその手に開かれた口を見せつけながら、 三人に対峙する。
「は、 はハはハハ、 す、 スゲェ……」
その姿を見た桜子はカメラから目を離しながらも、 写真を無意味に撮り続ける。 恐怖か興奮か狂気か、 どれが原因かは分からないがカメラを持つ手が激しく震えており、 手振れの酷い写真になるだろうことは分かっているが、 それにさえ気が付かないほど動揺しきっているらしい。
「そんな……どうしたら」
円自身は狂気に陥っていなかったが激しく混乱していた。 無理もない。 目の前で人間が怪物になったのだ。 目の前にいる怪物は倒せるのか、 倒せないならばどうしたらいいのか。 そういったことばかりが頭の中を意味もなく駆けまわる。
「■■■■■―――!」
かつて石間であった存在が吠える。 もしも、 彼が今だ人間の言葉を話せていたのならば、 この姿に対しての誇りを高らかに語っていたのだろうか。 それとも、 自分が想定していない姿になったことに対しての絶望の言葉を叫んでいたか。 それはもう石間本人にしか分からないことではあるが。
一歩、 一歩とこちらへと歩み寄ってくる石間だった存在―――悪意を司る頭無き邪神、 イゴーロナク。 その巨体に押されるように円は一歩一歩と同じように下がっていく。
先頭にいた円が下がったことで後ろにいた桜子と彩香も同じように一歩ずつ下がっていく。 と、 ここまで黙っていた彩香がぼそりと呟いた。
「彫像だ」
「え?」
「彫像、 壊せば、 終わる」
そう呟く彩香の目は焦点が合っておらず、 どこか、 ここではない場所を見つめているように感じられる。 そんな友人に不安を感じた円は彼女を止めようとするが、 制止するよりも先に、 彩香は友人を越えて駆け出した。
「彫像!」
「待って! 彩香!」
彩香が向かう先は石間家の奥、 すなわちイゴーロナクがいる方向である。 今、 彼女達がいる廊下は人二人分は楽に通れるであろうスペースがあるが、 イゴーロナクはそのスペースを埋めるように存在している。
奥に向かおうとするのならば、 怪物の脇を通らなくてはならない。当然ながら、 イゴーロナクはそんなことを許すような存在ではなかった。
脇をくぐり抜けようとした彩香をその手でつかみ上げるイゴーロナク。 小柄な身体はそのまま掴み上げられ、 その手に生えそろった鋭い牙がその腹を食い破る。
「! あぁああぁ!?」
「っ彩香ぁ!」
掴まれた腹部から鮮血が噴出し、 痛みのあまり絶叫する彩香。 イゴーロナクはそのまま興味ないと言わんばかりに彩香を玄関まで投げ捨てる。
廊下のフローリングに叩きつけられた友人を庇うべく再び友人と怪物との間に立ちはだかる円。 しかし、 重傷を負ったにもかかわらず、 ふらつきながらも再び彩香は立ち上がる。
「壊さなきゃ……壊さなきゃ!」
そのまま重傷を負ったとは思えない速さで再び怪物の脇を駆け抜けようとする彩香。 当然ながら、 そのような行為を見逃すイゴーロナクではなく、 再び彩香に対して掴みかかろうと牙の生えた口が付いた手を振り上げる。
「あぁ、 もう!」
しかし、 ここにはもう一人いる。
円は掴みかからんとするイゴーロナクの脛を全力で蹴りつける。 脛を蹴られ、 バランスをわずかながらも崩したイゴーロナクは彩香目掛けて振り下ろした腕の軌道をずらしてしまう。 その隙に、 彩香はイゴーロナクの脇を潜り抜け、 石間家の奥へと向かう。 奥に向かう彩香を追いかけようと、 向きを変えるイゴーロナク。 しかし、 円の二発目の蹴りが今度は臀部に命中すると、 再び円の方に向き直る。
知らずのうちに流れ出た汗を拭いながら、 家の奥に向かう友人を見送って、 円はイゴーロナクを睨みつける。
「あぁ、 面倒なことになった……」
その眼には先程見せた混乱を感じさせない強い光を宿しながら。
「スゲェ……スクープだ!」
「あなたは邪魔だから下がってて!」
狂気に陥ったとはいえスクープを求めている桜子は平常運転だった。
†
「彫像……彫像……」
泉 彩香は石間家を走り回っていた。 いまだに出血している腹部を手で押さえながら。 なぜ自分がこうも確信を抱けているのか分からない。 されど、 彼女は確信を抱いていた。 あの手のような彫像を壊せば全てが終わるのだと。
「……くそ」
部屋の一つを除けば先程家の前で出会った小さな化け物数体が部屋の中をうろついている。 一人きりの状況で、 複数の化け物に喧嘩を売るなど自殺行為だ。
しかし、 怪物の一体がこちらに気が付いた。 思わず「げっ」と小さく悲鳴を上げながら、 大きな音を立てて扉を閉めてしまう。 それによって中にいた怪物達が全員気付いたのだろう。 扉を開けようと叩く音が断続的に続く。 鍵はかかっていないのだから、 そのまま開けばいいのだろうが、 彼らにそこまでの知恵はないらしい。
それでもいつかは破られるその扉から慌てて離れ、 家の奥へと駆け出す彩香。
「やっぱり追ってくる……! こんなことしている場合じゃないのに……!」
部屋の扉を開けたというより破壊したのか、 それとも他の部屋にもいたのか。 複数の小さな子供がこちらを追ってくるような足音が断続的に聞こえてくる。
石間家の中でも奥に存在する書斎にたどり着くと、 彼女はすぐに扉を閉め、 鍵をかける。 近くにあったサイドテーブルや椅子を扉の前に置いて一息つくが、 すぐに化け物が扉を叩き始める。 それも一体二体が叩いている音ではない。 先程室内にいたものに加え、 どこからか合流した個体が扉を開けようとしているようだ。
どうしようか、 このままじゃ。 と焦りながらも考えていたが、 今まで血を流しすぎていたのだろう。 彼女の身体がふらつき、 思わず近くにあった本棚にもたれかかる。
「……え?」
その時、 彩香がもたれかかった本棚が動いた。 いくらその本棚の中に本があまり入っていなかったとはいえ、 小柄な彩香が身体を預けた程度で動くのはおかしい。
彩香は気が付かなかったが、 実は本棚には車輪が付いており、 レールまで敷かれていた。 しかも、 最近油を差した形跡まである。
さらに言うならば、 この本棚は他にある本棚とは本棚一つ分あいていた。 もっとも、 今もなお複数の怪物に扉を叩かれ続けて、 焦燥に駆られている彼女がこの事に気が付くことはなかったのだが。
「ここか……!」
残る力を振り絞り、 動いた本棚に体重をかけて更に押し出す。 すると本棚はあっさりと動いて、 裏に隠してあった存在を露わにした。 壁に埋め込まれた金庫だ。 少し大型だが、 ダイアル式の鍵穴もついたよくあるもので、 当然のことながら鍵がかかっている。
「鍵は……」
周囲を見渡せば、 ふと目に入るのは書斎の机。 この書斎にあるのは本棚と机、 バリケード代わりに使ったサイドテーブルに大量の本だけだ。 もしも、 石間が常に金庫の鍵を持ち歩いていたのならばどうしようもないが……
それでも淡い期待にすがるように、 机の一番上の引き出しを空ける彩香。 どうやら、 石間は常に鍵を持ち歩くような慎重な人物ではなかったらしい。 あっさりと鍵が見つかった。
それと同時にミシリという音が扉から聞こえてくる。 慌てて見れば、 扉の蝶番の部分が壊れかかっていた。 扉を開けれなかった怪物達が力押しに扉を開けようとしており、 その試みがあともう少しで成功しようとしているのだ。
「これが合えば……!」
出血がいまだに止まらない腹部を押さえながら、 金庫の鍵穴に鍵を差し込み回す。 すると、 鍵穴からカチリと鍵が開くような音がしたが、 扉は開かなかった。 ダイアルの方もキチンとロックがかかっているらしい。
「くそっ!」
ミシミシと不吉な音が扉の方から断続的に聞こえてくるが、 それにかまっている余裕は彼女にはなかった。 一つしかないダイアルを少しづつ、 慎重に回しながら、 その都度開くかどうかという作業を延々と繰り返していく。
「お願い、 これで!」
一際大きな破壊音が扉の方から聞こえてきたと同時に、 金庫の方から鍵が開いた音がして、 その扉が開け放たれる。
金庫の中には彩香が望んだ物が、 円があの部屋で見た手の彫像が堂々と金庫の中心に置かれていた。 彩香はそれを掴むと、 高々と振り上げ、 そしてこちらに飛び掛かろうとしていた化け物に振り向いて、 勢いよく振り下ろし、 叩きつける。 怪物の小さな悲鳴と共に、 叩きつけられた石像は粉々に砕け散った。
「……これ、 で……」
像を壊した安心感からか、 それとも腹から血を流しすぎたのが原因か。 像が粉々に砕け散るのを見届けると、 彩香はそのまま意識を失い、 地面に倒れる。
意識を失う直前、 彼女は小さな子供が裸足で走るような音を聞き、 先程まで自信を追っていた怪物が逃げていくような後姿を見たような気がした。
†
邪神の左腕が振り上げられる。 その手は開かれたまま、 手のひらの口が円を喰いちぎらんと、 いや、 そのままその手で叩き潰さんと迫りくる。
それを半歩引くことで躱した後、 反撃の蹴りを振り下ろした左腕に打ち込む。
手応えはあった。 しかし、 それでも目の前の怪物は平然としている。
「あぁ、 くそっ」
一歩飛び退いて距離を取ると同時に、 自然と悪態が円の口から洩れる。 何度も同じことを繰り返しているのだが、 全く進展がない。 すでに、 石間の自宅からは出てしまって、 かの邪神も公道に堂々とその姿を晒している。 後ろにいるジャーナリストが「スクープだ」と喚きながら、 写真を撮る音が煩わしく感じるほど焦りを感じていた。
それでも逃げることはしない。 重傷を負ったまま家の奥へと行ってしまった友人のことが気がかりであるし、 この化け物を放置していたら何が起こるか分からないためだ。 もうすぐ警察がやってくるという希望もある。 こんな怪物相手に警察が役に立つかどうかはわからないが。
警察じゃなくて、 自衛隊に電話した方が良かったかな。 と冗談めいたことを考えていた円だが、 そんな彼女の気のゆるみを見抜いたのか、 イゴーロナクは両腕を広げて、 猛攻を仕掛ける。
薙ぎ払う一撃。 しゃがみ込むことで回避するが、 風圧で髪がなびく。
振り下ろしの一撃。 後ろに飛び退くことで回避する。 着地と同時に地面を蹴り、 勢いをつけた回し蹴りを撃ち込む。 やはり効果がない。
再び振り下ろし。 もう一度後ろに飛び退くが、 今度は何かとぶつかってしまい、 そのままその何かと共に転んでしまう。
「ぷぎゃ」
円がぶつかったものは、 珍妙な悲鳴を上げた桜子であった。 縺れ合うようにして転ぶ二人に対して、 イゴーロナクはその右手を高々と振り上げる。
「ちくしょう!」と周りをよく見ていなかった自分と、 もっと後ろに下がらなかった桜子を内心で呪いながら、 目の前で両腕を交差させて防御姿勢を取る。
そして、 イゴーロナクは右手を振り下ろし―――――そこで、 かの邪神の動きは止まった。
「……え?」
意味が分からずに、 起き上がることすら忘れた円だったが、 異変はすぐに起こった。
イゴーロナクの身体が円を描くように歪んでいくと、 その醜い姿が少しずつ薄れていき、 虚空に溶けるようにそのまま消え去ってしまったのだ。
そのまま、 イゴーロナクも石間 傑も彼女達の前に現れなかった。
「……いったい、 なにが」
「ありゃりゃ、 スクープが消えちまったか。 どこに行ったんだ?」
何が起こったのかも分からず、 呆然とその場にへたり込む円と、 起き上がるといつの間にか消えてしまったスクープを探そうとフラフラと家の中に土足で入っていく桜子。
少しの間、 呆然としていた円だが、 家の奥へと駆けていった重傷の友人の事を思い出すと、 大慌てで先程入っていったジャーナリストと同じ様に土足で家の中へと入っていく。
ようやくやってきたパトカーの音がこの超常現象の終わりを告げるかのように、 静かな住宅街に響いていた。
次回、 エピローグ。