Epilogue:月は忘れられ
十一月十三日四十四時に……流石に無理がありますね。 ハイ。
なんであれ、人は忘れることができる。ただ自分自身、己自身の性格を忘れることはできない。
Everything, everything, one can forget, but not himself, his own being.
アルトゥル・ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer
月見川公園で発生した事件は警察が調べることとなった。 清山県を管轄していた公安調査事務局が壊滅的な被害を受けたことや、 月見川公園にいの一番に駆け付けたのが刑事だったというのが関係しているのだろう。
と、 いっても彼らにできることなどほとんど残されてはいなかった。 被害者はいても加害者はもはや存在しない。 謎の存在に変化してしまい、 現世ではないどこかへと行ってしまった。 逮捕することは不可能と言っていいだろう。
応援の警官達の連絡を受けて、 やってきた獅子原 武士は凄惨な現場と呆然としていた三人を見て、 大まかな事情を察したのだろう。 鑑識や若手の刑事達に「根を詰めすぎるなよ」と伝えておくと、 呆然としていた三人の一人、 間宮に声をかける。
「……で、 どうなったんだ? 間宮」
「……翠月幇を襲い続けた翠華 月神が緑衣をまとった“何か”に変わって、 そのまま消えていった……ってくらいしか言いようがないんですよ。 講が何か話していたんですけれども、 外国語……多分、 彼らの母国語の中国語で話していたので分かりませんでした……」
ハァ、 と溜息をつきながら、 公園のベンチに腰掛ける間宮。 その表情は疲労に満ちていた。
無理もない。 月神が別の存在に変化してしまい、 消えていく姿を目撃したのもそうだが、 被害者が皆、 不法入国者の狂信者だったとはいえ、 近年どころか、 戦後発生した事件としては間違いなく、 五指に入る事件ではあった。
しかし、 どれだけあがいても、 犯人である翠華 月神を逮捕することはできない。 その事実がより強い徒労感となって、 間宮の両肩に重くのしかかっていた。
彼の考えていることに気が付いたのか、 獅子原は同じように溜息をつくと、 間宮の隣に座った。
「……この地域は何かがおかしい」
腹の底から絞り出すような声だった。 その声を聞いた間宮は驚いたように獅子原の顔を見る。 苦虫を噛み潰したような表情で獅子原は話を続ける。
「だから、 あまり気に病むな。 残酷な言い方かもしれんが……“よくある話”なんだ。 ここではな」
「“よくある話”……」
「そうだ。 どこでも事故っていうのは起こるし、 事件だってそうだ。 清山県ではそれに加えて、 こういった人知の及ばない事件がよく起こる。
……お前の同期にしてもそうだ。 当事者達に癒えない傷をつけるが、 捜査する側はいつまでもそれに捕らわれていちゃいけねえ」
「そう、 ですね……」
「ま、 こんな幕引きだったんだ。 落ち込むのも分かるがな」
「……どっちなんですか」
非難するような視線を間宮が向けても、 獅子原は気にもせずに言葉を続けた。
「どっちもだよ。 さっきも言ったが、 “よくある話”なんだ、 酷えことにな。 お前がまだ人の心を持っている以上、 こんな幕引きが気になるのは分かるが、 それに引きずられるな。 戻れなくなるぞ」
そこまで話すと、 一息つく獅子原。 話を聞いていた間宮はふと気が付いたように話す。
「そういえば伊澤の件……知っていたんですね。 人間の起こした事件じゃないって」
「……あの事件を人間が起こしたと考えるのは上層部のみさ」
†
「ほいよ」
彩香はそう言うと、 自販機で買ったホットココアを円に手渡した。
「ありがとう」
いつもより力のない声で感謝の言葉を述べつつ、 受け取ったホットココアのふたを開ける。 しかし、 一口も飲もうとはせずに、 目の前の光景ばかりに視線を向けていた。
深夜だというのに月見川公園には大勢の警官が立っており、 騒ぎを聞きつけたジャーナリスト達との攻防を繰り広げていた。
マスメディアに勤める者達は、 目の前で堂々と立つ警官達に矢継ぎ早に質問をしていた。
―――新たな犠牲者が出たと聞きましたが、 何か新たな手掛かりはつかめたのでしょうか!?
―――また事件を防ぐことはできませんでしたが、 防ぐために警察は何かしていたのでしょうか!?
―――市民は不安がっています! これは警察の怠慢ではないでしょうか!?
次々と浴びせられる質問に、 警官達は何も答えない。 そのうち、 業を煮やした記者のうち数名が何とかして事件現場に入ろうとするが、 さすがにそのような愚行は警官達によって遮られる。
―――こっちは真実を明らかにする義務があるんだ!
激昂した一人がそう叫ぶが、 警官達は何も答えない。
さもありなん、 封鎖をしている警官達も細かいことは何も知らされていないのだから。 今の彼らは現場を野次馬達に荒らされないようにするのが仕事であった。 テープの内側で活動している捜査官達にしても、 何が起こったのか、 証拠を集めている最中であり、 何を聞かれても答えられないし、 答える者はいないだろう。
それを知ってか知らずか、 なおも喚き続けるマスメディアの使徒達を遠めに眺めながら、 円はホットココアを一口、 口にした。 程よい温かさと、 甘さが疲れた心と体に染みわたっていく。
たとえ、 真実を公表したとしても、 彼らが信じることはないだろう。 適当なデマだと一方的に断じられ、 結局は公共の電波や新聞には彼らにとって都合のいい“真実”が報道されることになるのだろう。
「ま、 それでいいけどね」
ボソリと、 円の口から自分の考えの一部が漏れる。
あんな真実など公に広まらないほうがいいのだ。 どこぞのジャーナリストは嬉々として調べた情報を発信しているが、 その媒体は胡散臭い三流のオカルト雑誌である。 他の記事の信憑性は薄く、 読む人は少なく、 また読む人もその内容をすべて信じているわけではない。
「……ん? なんだよ」
そんなことを考えていたら、 どこぞのジャーナリストが同じようにホットココアを一口飲んでから、 尋ねてくる。 無意識のうちに彼女の方に視線を向けてしまったらしい。
「何でもないよ」と返事をして、 再び視線を公園の方へと向ければ、 真夜中だというのに、 目の前の喧騒は収まる様子を見せない。
「あの娘大丈夫かな」
ホットココアを飲み終えた彩香が、 空き缶を地面に置きながらそう呟いた。 その声は円と桜子の二人にしっかりと聞こえていたので、 二人はそれぞれの反応を返す。
「なるようにしかならねえだろ。 少なくともこっちから余計な手は出せねえ」
「私個人としては何とかしてあげたいとは思う。 けど、 それが彼女の救いになるかは別の話じゃないかな。 慣れない土地での事件で唯一の肉親である叔父を失うなんて辛すぎるよ。 もし私が同じ立場なら、 その事実を受け入れられるまで、 日本には来ないし、 住みたいとも思わないよ」
「……そうだね」
そう呟くと、 彩香は納得したような納得していないような微妙な表情になると円と同じように公園にいるマスコミと警官達の方へと視線を向けた。
……この時、 この場にいる誰もがある一点を見落としていた。
もっとも、 今この時点で気が付けたとしても、 どうしようもなかったのだが。
見落としていた一点が二ヶ月半後、 ある重大事件につながることになる。
†
赤霧市にある高級ホテル。 そのスイートルーム。
高級マンションの一室と言っても納得しそうなほど、 豪華なその一室で、 キリシマは自分の孫娘からある物を受け取っていた。
「ほう……これが」
「えぇ、 お爺様。 翠月幇が隠し持っていたお守り……いくつもの偽物の中に紛れ込んでいた“本物”ですわ」
喜びを隠そうともせず、 アナスタシアが報告する。
「これで必要なものが全て揃った」
キリシマの方も喜びを隠しきれないのだろう。 その声からは興奮が感じられた。
「……ただ、 彼のことは残念でしたわ」
「なんだね? もしかして、 惚れていたのかね?」
残念そうに月神のことを話すアナスタシア。 それを茶化すような祖父の物言いに孫娘はムキになることもなく「いいえ」と反論する。
「ただ、 彼ならば、 私達の同志になれたのでは、 と考えると少し惜しいと感じてしまいまして」
「ククク、 それはないな」
惜しむアナスタシアの言葉をキリシマは否定する。
「彼は君と違って、 己の血を好んでいなかったのだろう。 我々の同志になるのはありえないな。 むしろ、 姪であるという少女のために死力を尽くして立ちはだかってくるだろう」
そう言うと、 彼は受け取ったタリスマンを自身の目の高さまでもっていく。
「これで、 私の、 いや、 我々の計画がようやく始まる」
「いよいよですわね」
それは曼陀羅を模った美しいタリスマンだった。 様々な色彩で彩られたタリスマンは芸術関連の知識がない者でさえ、 優れた芸術性を感じられる一品だった。
特に目を引くのがその中心。 そこには小振りながらも非常に美しい翠玉が埋め込まれており、
「人数がそろい次第、 行動を開始する」
その翠玉の中にはいかなる方法でかまでは分からないが、
「烏丸 京一郎に連絡を入れろ」
あの“黄の印”が描かれていた。
†
講 文龍は誰かから声をかけられた気がして、 振り向いた。
『おじさん、 どうしたの?』
手をつないでいた、 翠華 麗月が心配そうに声をかけてきたので、 気のせいかと判断し『いや、 なんでもないよ』と答えると、 再び空港内を歩きだした。
ここは赤霧空港。 国内、 国際、 それぞれの便が出ているこの空港は今日も多くの人々が行きかっている。
その中をはぐれないように、 麗月とつないでいる手をしっかりと握りなおして、 彼は台湾行きの便が出ようとする搭乗口へと向かっていく。
彼には分からないことがたくさんあった。
自分が関わった事件の全容も、 台湾にある自分の事務所が、 今どうなっているのかも。
なぜ、 自分が日本にいたのかも。
翠華 麗月と彼女の叔父という翠華 月神と自分の関係も。
何かを忘れてしまっている気がする。 それもとても大切な、 重要なことを。
彼の焦燥を嘲笑うかのように空港内のアナウンスが二人の乗る飛行機の出発三十分前を告げた。




