薔薇ノカケラ〜薔薇細工師の弟子〜
「弟子を捜してるんだ。どの子がいいかね……」
甘い色香を漂わせた声が耳をくすぐる。声に惹かれ顔をあげ、その姿を一目見た瞬間、私は心を射抜かれ人形の如く固まった。
男か女かもわからない。ただ……麗人としか言いようがない。
長い睫毛に縁取られ閉じられた瞳。濡羽色の絹糸の黒髪がさらさらと音を立て揺れた。何かに導かれる様にこちらに近づき、血に濡れたような赤い唇がゆっくりと口角をあげる。
「……見つけた」
瑠璃色の艶やかな着物の袖から、雪のように青白い手を延ばし、白魚の如く細い指が私の顎を捉えた。ぞっとする程冷たい手。至近距離まで顔が迫ってきて、麗人は瞳を開けた。
緋色、唐紅、柘榴、茜色、猩々緋。赤を表す色名が、次々と浮んでは消えて行く。これほどまでに鮮やかで美しい赤を見た事が無い。なんと表現していいのかわからない。それほど圧倒的に美しい緋色の瞳が、妖しく揺らめき私を見据える。
「この子にしよう。きっと磨けば光る」
その麗人の名は「氷雨」というらしい。がりがりにやせ細り、荒れ放題の肌と髪のみすぼらしい孤児の私の、何処が気に入ったのかよくわからない。それでもその日氷雨に引き取られ、私は孤児院を出た。
「君の名は「時雨」にしよう。今日から私をお師匠様とお呼び」
お師匠様はそう告げた。こうして私とお師匠様の新しい生活が始まった。
薔薇色の人生というのは、この事を言うのかもしれない。お師匠様に引き取られ私の人生は一変した。残飯のような食事を奪い合う生活から、衣食住何不自由の無い生活になっただけでも天国のようだったし、何よりお師匠様の仕事が素晴らしい。
お師匠様は「薔薇細工師」だった。世界で一番美しい薔薇細工を造る人だ。
その薔薇の花びらは、無色透明に見えて、時々七色に煌めく、硬質な不思議な玻璃でできている。花びらが風に揺れると、鈴のような音色を立ててうっとりするような音楽を奏で、時には甘く怪しげな香の匂いが漂う。この世の物とも思えぬ妖しく不思議な美しい造り物の薔薇。
見る物の心を奪う、その麗しき薔薇を求め、遠く異国から客がやってくるという。それを人は「玻璃の薔薇」と呼ぶらしい。
お師匠様は盲目を装って、目をつぶっている事が多い。でも薔薇を造る時だけはその美しい瞳を見開き、息を止め瞬き一つせずに作業する。まるで薔薇を造る人形になったみたいで、いつも見蕩れてしまう。
「時雨……私ではなく、薔薇を見なさい。君は作り方を盗み、学ばなければいけないのだよ」
「す、すみません」
慌ててお師匠様の手先を見る。妖しく煌めく玻璃のような花びらを、一つ一つ丁寧に張り合わせ、魔術の如く薔薇へと作り替えて行く。私も見よう見まねで薔薇造りの稽古をした。
「そこは……そうじゃない」
そう呟きながら私の手に触れる。その白い肌は、ぞっとする程冷たいのに、体が火照る程に優しい。
「おや……顔が林檎の様だ。時雨は可愛いね」
そう耳元で囁いて冷たい指が滑らかに頬を撫でる。それすらも艶めかしくて、私が顔色を変えると楽しそうに嗤う。たまに人を揶揄うのがお師匠様の悪い癖だ。
私はまだ、お師匠様が男なのか女なのかも知らない。
しばらく薔薇作りの稽古を続けたが、まだお師匠様は薔薇の花びらの材料が何か教えてくれなかった。透明に見えて時折妖しく煌めく不思議な素材に心惹かれ、魅了される。
「この花の欠片こそが、この薔薇の美しさを引き出す最大の魅力なのさ。いずれ教えてあげるよ」
君と私との秘密だ……とお師匠様が囁く。私の体は芯から熱く疼く。門外不出の秘技を私にだけ教えてくれるという。その日が来るのを待ちわびた。
「氷雨。こんな小汚いガキをどうしたんだ?」
男は汚らしい手で私の顎を掴んで上向かせ、胡乱な目で見下ろした。掴まれた顎を振り払おうとした所で、すっとお師匠様の袖が伸び、私を後ろから抱きしめ引き寄せる。
「私の弟子だよ、若旦那。今から仕込んで跡を継がせるのさ。なかなか見所のある子なんだ」
私の頭を優しく撫でてから手放した。そっと私を自分の背に回す。
お師匠様が若旦那と呼ぶその男は、国の中でも随一の呉服問屋の跡取りらしい。才色兼備な妻を持ちながら、何人も妾を囲っているという。さらにご主人様の事も狙っているようだ。
「氷雨は冷たい女だな。俺がこんなに想いを寄せて、通っているというのにちっとも靡いてくれやしない」
厭らしく男はご主人様の腰に手を回し、首筋に唇を落とし、着物の合わせの中に手を差し入れようとする。ご主人様は、とてもつまらない物を見た……というように、細く目を開け、冷ややかに見下ろし、火のついた煙管で男を叩く。
「あちっ」
「若旦那。私に触れるのはおよしなさい。凍えてしまいますよ」
煙管を美味しそうにくゆらせつつ、目をつぶって微笑した。男はご主人様を女だと思っているらしい。でもご主人様にいつも冷たくあしらわれ、性別を確認する事さえできない。馬鹿な人だな……と思う。
男は薔薇を一本買って帰った。よく店に来る常連らしい……が、その薔薇の行き先が、妻か妾か、あるいはお師匠様の気を惹く為で捨てるのか、それはわからないとご主人様は言う。
ご主人様は自分の手を離れた薔薇に興味がないようで、例え捨てられてもかまわないのだと。それが少し悔しい。せっかく美しい薔薇なのに。
「時雨。次から若旦那が来たら隠れているんだよ。君の美しい瞳を汚す必要は無い」
私を庇おうとしてくれる、お師匠様の優しさが嬉しい。でも自分が美しい言われる価値があるとは思えなかった。私が首を傾げていると、お師匠様が私の耳に囁く。
「時雨は良い香りがする。初めて会った時からわかってた。君は今にとても美しくなるよ。私よりもずっと……」
目眩がするような魅惑的な囁きに、頭の芯がぼんやり痺れる。慌てた様に首を振って甘い残滓を振り払う。
「この世で一番美しいのは……お師匠様です」
心の底からそう思ったから。まっすぐにお師匠様を見て言った。お師匠様は嬉しそうに目を細める。睫毛の間で揺れる緋色の瞳がとても優しい。
「ありがとう……。時雨。覚えておいで。美しい物が造れるのは、美しい者だけなんだよ」
お師匠様の言葉が私の中に落ちてくる。ご主人様がこの世で一番美しいから、この世で一番美しい花を造れる……それはとても納得できる言葉。
でも……弟子の私が美しいとは思えない。あばたもえくぼ。弟子にしたから可愛く見える。そういう事なのだろう。
ある日、店に愛らしい少女が供を連れてやってきた。年の頃は15、16くらいだろうか? お師匠様を一目見て……たぶん、一瞬で恋に堕ちたのだと思う。慌てて供を店の外に下がらせ、震える声で呟いた。
「薔薇を……買いに参りました」
「光栄です。麗しきお姫様。さて……貴方のお望みはどんな薔薇かな?」
店中の薔薇を差し出しては、これは全体の調和が美しい、これは八重の重なりが美しい、そうやって勧めはじめる。お師匠様が「美しい」と呟く度に、少女がどんどん頬を赤くして行くのが解る。それが解っていてあえてそんな事を言う、お師匠様は本当に人が悪い。
少女はとうとう俯いて、瞳を潤ませた。
「あ、あの……わ、わたし……。許嫁がいるんです。来年……祝言の予定で」
この世の終わりを告げるかの様にせつない声が胸を打つ。例えお師匠様に恋をしても、叶わぬ恋なのだ。お師匠様もさすがに申し訳なくなったようだ。態度を改めて少女の言葉を待つ。
少女は有名な華族のご令嬢なのだという。親の決めた許嫁とは一度も顔を合わせた事はなく、とても不安でいるらしい。
「花嫁道具に飾る薔薇が欲しいのです。たくさん」
「祝言はいつのご予定ですか?」
「来年の秋には……」
「もしよろしければ……これから貴方の為に、心を込めてお作り致しましょう。毎月少しづつ。お嬢様がよろしければ毎月取りにいらしてください」
お師匠様がそう囁いたら、少女は華のような笑みを浮かべて頷いた。例え……祝言までの限られた期間とはいえ、恋した相手に月に一度、逢瀬を重ねられる。それはどれほど幸せな事だろうか。少しだけ……少女が妬ましかった。
「お師匠様の悪い癖ですね。叶わぬ恋だと解っていても、期待させて……」
「命短し恋せよ乙女。純粋無垢な少女でいられる期間は限られているのだよ。その儚いひととき、つかの間の夢を見せてあげるのは悪い事? それとも……時雨。君は嫉妬してくれたのかな?」
「し、嫉妬など……そのような事は……」
私が否定したのに、どこかご主人様は嬉しそうだった。
それから毎月少女が来る度に、必ず私に後ろに控えさせ、少女とお師匠様の仲睦まじい様を見せられた。ただ……花を売る店員と客であるはずなのに、私の心がしくしく痛む。私が落ち込む度に「一番可愛いのは時雨だよ」と囁くので、本当にお師匠様はお人が悪い。
お師匠様に弟子入りして、どれくらいたっただろうか? やっと小さな一重の薔薇一輪。お師匠様に褒めていただける品が造れる様になった。
「時雨は筋がよいね。私の見込み通りだ」
お師匠様が喜べば、私も嬉しい。もっと上手く薔薇が造れる様になりたい。お師匠様の薔薇造りをより熱心に眺め、学び、まねび、盗み。より上達したいと毎日稽古を続ける。
「そろそろ君に、薔薇の欠片の秘密を教えようか?」
お師匠様は震える声でそう告げた。待ちわびた約束の日に私の心も震える。ただ……お師匠様がいつになく不安げな様子で、それが気になった。
「時雨……君は私がどんな人間でも、いや……人あらざる者であっても、私をお師匠様と呼んでくれるかな?」
「もちろんです。人であるかどうかなど、どうでもいいのです。お師匠様は素晴らしい方、他に変えがたき、私のたった一人の師匠です」
私の言葉にお師匠様は目を潤ませ微笑んだ。
その夜。お師匠様に連れられ、行灯を掲げ、護身用の棒を持ち、月の無い道を歩いた。1歩、1歩、角を曲がる度に、灯りが減って侘しくなり、世界の色が消えて行く。いつしか灰色の墓石が立ち並ぶ墓地へとたどり着いた。降り注ぐ薄紅色の桜の花びらさえも、木から血が滴り落ちたかのようで恐ろしげだ。
「私が名前を呼ぶまで、決して声を出してはいけないよ」
そうお師匠様は呟いて、行灯の灯りを吹き消した。漆黒の闇の中、桜の木の下で立ち止まり、唄を口ずさむ。
ーーめぐりめぐるは、ヒトのことわり。まよいまようは、ヒトのごう。みちびかれるは、ヒトのさだめ。
不思議な唄が始まると、暗い墓地の狭間から、薄ぼんやりした白い霧のような影が立ち居出る。すぐに人魂だと気がつき震える。男か女か、子供か大人か、定かではないけれど確かに人の魂が墓から浮き上がってくる。何も言わずにただ恨めしげにこちらを見つめていた。……その姿がおぞましい。私はお師匠様の着物の袖をぎゅっと握って、棒を支えに声を出さぬよう堪えた。
人魂が大きくなった頃合いで、お師匠様は手のひらを上に向け、そこにふっと息を吹きかけた。お師匠様の息が冷たい霧となって広がり人魂を包み込む。すると人魂は見る見るうちに凍り付いた。
「時雨。棒で叩きなさい」
ぞっとする程おぞましい命令に、しかし……逆らえなかった。凍り付いた人魂を棒で叩くと、天上の調べのような美しい響きがして、儚く砕け散った。灯りの無い闇夜でも煌めくその欠片を、お師匠様と二人で拾い集める。
「これが……薔薇の欠片だ。人の魂ほど、美しいモノはない」
出会って初めて、お師匠様を恐ろしい人だと思った。怖くて、恐ろしくて……でも、嫌いになる事などできはしない。もうとっくに、私はお師匠様の虜になっていたから。
欠片の秘密を知ってしまったから、もう……お師匠様は私を手放す事はあるまい。この秘密を漏らす事は、きっと死ぬ事だ。
それからしばらくは、薔薇を造る事が恐ろしくてしかたがなかった。何も知らない客が美しいと誉め称えるのに怯えた。私が怯え震えても、お師匠様は今までと何も変わらずに、美しい薔薇を造り続ける。もう……覚悟するしか無いのだ。
人の心を捨て、諦めたその日から、私の心は凍てついていった。自分でも日に日に体温が下がって行くのがわかる。お師匠様の手に触れても、ぞっとするような冷たさを感じなくなった。
「時雨……君はやはり才能があるね。冷たい心は、薔薇職人に大切な力なんだ。その凍てつく心で欠片を作り出すのさ」
昼に欠片で薔薇を造り、夜に墓地で欠片を造る。その技が日に日に上達しお師匠様を喜ばせた。
夜ごと墓地で唄う私の声は、もうお師匠様の声色と違いがわからない。
私の薔薇が店先に並んでも、もうお師匠様の薔薇と違いがわからない。
私はすっかりお師匠様の影になってしまった。
「人に聞いたのですが、昔は赤い薔薇も売られていたとか。造っていただく事は、できませんか?」
「赤い薔薇は……最近材料が手に入らないのです。もし運良く手に入りましたら、お作り致しましょう」
華族のお嬢様の無邪気な我儘に、柔らかくお師匠様は微笑む、もう……そんな二人の姿を妬ましく思う事もなくなった。だって……もう私とお師匠様の間に誰も分け入る事などできはしない。
それより恐ろしいのは、赤い薔薇の材料が何なのか。人魂よりも手に入りづらい、何が素材になるというのか。それを気にする心さえも凍てついて消えてしまった。
お師匠様は最近お疲れのようだ。お師匠様が夜だけでなく、昼寝もするようになった。
「人に技を教える事は、命を分かち合う事なのだよ。私の命の半分は時雨にくれてやったのだ」
力なくそう微笑む。病み疲れたその姿は、出会った頃よりいっそう美しく、触れれば壊れそうな程儚い。私がお師匠様の頬を撫でると、最近はかすかに暖かさを感じる……気がした。
このまま……お師匠様が病み衰えて消えてしまったらどうすればいいのかと、ただただ恐ろしく、置いていかないでと、涙を流してせがんだ。
「大丈夫だよ、時雨。私の半分は時雨にやっても、半分は私に残っているのだから。どれだけ離れたとしても私達は繋がっているんだ」
お師匠様は優しく囁いて、今日も眠りにつく。美しく安らかな寝顔を見る度に、強い誘惑に駆られる。その唇に吸い付きたいと……私の心に悪魔が囁く。お師匠様の熱を全て奪ってしまいたい。
その誘惑を押さえ込み、お師匠様が昼寝する間、一人店番をしていた。
「氷雨……ひさしぶりに……」
ふいに店に若旦那がやってきて、私の顔を見て言葉を失った。そういえば……この男と会うのはどれくらいぶりだろう。お師匠様が隠れていろと言ってくれたから、もうずっと会っていなかった。
どろりと濁った眼差しで見つめられ、その口の端に薄ら笑いが見えた時、ぞっとして思わずたじろいた。
「おまえ……あのガキか? ずいぶん見ないうちに……綺麗になったもんだ」
慌てて店の奥へと逃げ出したが、男は追いかけてきて手を伸ばし、私の手首を掴む。慌てて抵抗しても振りほどけぬ程強く握りしめられた。燃えるように熱い手。人肌で火傷するかもしれない。野卑な笑みを浮かべ、臭い息を吹きかけられただけで、気分の悪さに吐きそうだ。私の怯えたそのさまも、男にとっては嬉しいようだ。
「良い顔をするな……そそられる」
私は男に押し倒された。重く伸し掛かられた男の体は野獣のようで、思わず悲鳴をあげた。
「お師匠様!」
突然、目の前にぱっと赤い華が咲いた。男の手から力が抜けるのがわかる。ひゅーひゅーと間の抜けた声をだしながら男は崩れ落ちて行く。男の下から這いずって逃げる時、どろりと手に何かが濡れた。
血だ……。真っ赤な血の華が男の首に咲いていた。
「俺の女に手を出すのは許さない」
お師匠様が地の底から響くような低音でそう告げた。見た事の無いような憎悪に燃える眼差しで男を見下ろしている。手には赤い血のついた小刀。ソレを簡単に放り捨て、男の首筋に指で触れた。
「まだ生きている……」
ニヤリとお師匠様が笑い、私はぞくりと怯えた。
ーーめぐりめぐるは、ヒトのことわり。まよいまようは、ヒトのごう。みちびかれるは、ヒトのさだめ。
墓場で何度となく聞いてきた唄が、お師匠様の口から紡がれる。すると男の体から赤い霧が這いずりだしてきた。ソレにお師匠様は、いつもの如く息を吹きかけ凍らせる。
「時雨……生きた人間の魂は赤いのだよ」
そうお師匠様は囁いて、男の魂を殴りつけた。死人の人魂よりも、甘く香しく狂おしく美しい調べが鳴り響いた。赤く砕け散った欠片の美しさに思わず息を飲む。ひとひらの欠片をつまみあげると、あのおぞましい男から出てきた者だと思えぬ程、鮮やかで透明感があって妖しく煌めく緋色。まるでお師匠様の瞳のようだ。
「お嬢様に約束した、赤い薔薇を造れるね」
お師匠様がうっとりと微笑む。血に濡れた白魚の指の美しさに、思わず目眩がした。倒れ臥した私の頬に、お師匠様が触れた。熱い……燃える様に熱い。お師匠様の肌も、息も、全てが熱い。
「最初は……本当に弟子をとるだけの、つもりだったのだよ。でもね……時雨。いつしか君を……恋しいと想うようになった」
そう言いながらお師匠様は私の体に触れていった。全身が燃える様に熱い。でも……それが心地よい。
「愛しているよ。時雨」
甘い声が私の脳に響いて、心が溶けて行く。血の匂いが漂い、抜け殻の躯が側に横たわるというのに、それすらも気にならぬ程に、お師匠様が愛おしい。
「お師匠様……」
「氷雨と呼んでおくれ」
氷雨様……と呟く私の声は、砂糖菓子のように甘かった。
夜を超え、日が昇るまで共に触れ合う。その後、拾い集めた赤い欠片で、二人で薔薇を造った。この店で今まで見てきた中で一番美しい薔薇。二人で作り上げた緋色の宝石。
「これは次にお嬢様が来た時に売ってさしあげなさい。次が最後だから」
「どうして……氷雨様が……」
お師匠様の寂しげな微笑に怯えた。白く温かな指が私を撫で、唇と唇が重なる。甘い口づけの後、お師匠様はつまらなそうに男の躯に触れた。躯はあっけなく砂のように崩れ落ち、灰になる。
「人、一人消えれば疑念が生まれ、噂がたつ。この男は有名人だから騒ぎになるだろう。だから……しばらく私は身を隠そうと思う。少しの間、時雨にこの店を任せたい」
「嫌です。お側を離れません」
「嗚呼……本当に時雨は可愛いね。大丈夫。戻ってくるし、離れていても、私の半分は君の中にいるのだよ」
私がどれだけ泣いて別れを惜しんでも、お師匠様は決めた事と言って譲らなかった。そしてお師匠様は店から去ってしまい、私は一人店を続けた。
世界で一番美しい薔薇を売る店があるという。その噂を聞きつけてやってきた客は、その主人の姿に魅せられた。銀糸の絹糸のような髪に、妖しく煌めく瑠璃色の瞳を持つ麗人の名を「時雨」という。本当の主は今、暇を貰って出かけているそうだ。
「旦那様。運がよろしいですね。今日は赤い薔薇があるのです。めったに手に入らぬ、貴重な素材を使った美しい薔薇が」
無色の玻璃の薔薇の園で、緋色の一輪の薔薇が艶やかに咲いていた。