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 それから五日。

 その日を楽しみに時を過ごした。幼い頃からディディエと共に過ごす時は心安らぐ時間だった。そばにいると安心してくつろげた。でも、このところ感じる気持ちは、そうした頃のものとは違う。


 一緒にいたいと思う気持ちは、気が休まるとかそういうことじゃないような気がする。ただ無性にそばにいてほしいような、意味もなく接点を持ちたいような……。

 こうした自分の変化を感じると、逆にどうして二人きりで出かける約束なんてしてしまったのかと思う瞬間もあった。歯止めが利かなくなるかも知れないのに、心のどこかでまだ大丈夫だと言い訳をしてしまう。


 そうして、その日を迎えた。

 ディディエは俺が買ってあげたワンピースと靴を身につけている。着ないと悪いと思ったのかも知れない。髪は結わずに下してひと房だけを白いリボンで留めていた。化粧というほどではないけれど、唇は薄く色づいている。


 少しずつ、本当に少しずつ女らしく綺麗になって行く。それを改めて感じた。

 胸がほんのりと熱を持つから、俺は自分の胸に手を当てて落ち着けと言い聞かせた。

 俺は農村で嫌味なほどに上質な仕立ての服では浮いてしまうだろうと、極力地味な装いにした。茶色のジャケットと黒いパンツ。今日はディディエに頼まず自分で用意した。今日だけはディディエとは待ち合わせのようにして会いたかったから。


「じゃあ、行こうか」

「はい」


 そう答えてディディエはうなずいた。

 なんでもないことなのに、俺は妙に胸が躍る自分を隠していた。



     ✤✤✤



 農村まで行くのに屋敷の馬車は使えない。俺はディディエと一緒に通りを抜けた先の辻馬車乗り場に向かった。古びた雨ざらしの立て札のそばは、収穫祭の最中というだけあって辻馬車の乗り場は混雑していた。馬車が何台あるのかわからないけれど、一台に乗れる人数は知れてる。収穫祭に間に合うのかという気にもなった。


「うわぁ、混んでますね」


 ディディエが人混みに揉まれながら俺を見上げた。


「そうだな……」


 込んでいるから止めようと言われたらどうしようかと俺はどこかで焦った。でも、ディディエは根気よく待ってくれた。チップを多く払って割り込もうかとも思ったけれど、庶民の祭に行くのにそうしたことをしても滑稽な気がした。


「昔、両親に収穫祭に連れて行ってもらった時も、そういえばすごい人でした。それでも、私ははしゃいでいましたね。家族そろって出かけられることなんてほとんどなかったから、混雑した馬車の中でさえ楽しくて」


 そう言って軽やかに笑う。ディディエにとって大切な思い出なんだろう。

 それなら、その大事な思い出の祭へ俺と一緒に行くのは、本当は嫌なんじゃないだろうか。大事な思い出としてとっておきたかったんじゃないだろうか。そんな風にも思って俺は口数が減っていた。


 それからやっと順番が回って来た。その辻馬車も貸しきりとは行かず、一組の家族と一緒だ。祭が楽しみなのかじっとしていられない男の子が馬車の中ではしゃぎ、親が注意したところで聞きもしない。


「こら、いい加減にしないと馬車から降ろすぞ!」

「本当にごめんなさいね」


 と、男の子の両親は俺たちにペコペコと謝ってばかりいた。

 でも、ディディエは笑顔で優しくその男の子に声をかけた。


「楽しみね。でも、座ってないと危ないよ」


 そう言われて男の子がそっぽを向いた途端、悪路で馬車が大きく揺れ、その男の子が転がって俺の膝に乗った。

 一瞬怒鳴りつけてやろうかと思ったけれど、それをするとディディエが嫌な思いをするかと思ってやめた。


「ご、ごめんなさい」


 男の子は案外素直に謝った。それだけ俺の顔が怖かったのかも知れない。俺は苦笑すると、気をつけろと頭を小突いてやった。ディディエはクスクスと笑っていた。



 そうしてなんとか農村に着いた。遠かったというほどではないけれど、馬車の座席が硬かったことと大人数で窮屈だったことから少し疲れた。ディディエも軽く伸びをしている。

 いつもは面白みなんて欠片もない農村が、今だけは賑やかな音楽と笑い声に満ちていた。

 街のように舗装もされていない剥き出しの地面の上を歩く。革靴に土がついた。


 たくさんの旗や野菜を象ったオーナメントがぶら下げられていて、その下を潜る。どの飾りも手作りっぽくて、職人が作るような巧緻さはないけれど、その代わりにあたたかみがあった。飾りを見上げるディディエの横顔を見ながらそんなことを思った。


 それにしても人が多い。農村にこんなに住人がいるわけがない。他の町や村からも人が集まって来ているんだろう。俺たちだってそうなんだから。


 ディディエを庇いながら人の流れに沿って進んで行くと、広場に出た。小さな子供がうるさく走り回って俺とディディエの間を通るから、俺は足を引っかけてやりたくなったけれど、ここはぐっと我慢した。

そうして、人だかりの中央にうずたかく詰まれたカボチャの大きさに驚いた。くり抜いたら人間一人くらいは入れるんじゃないか? ……どうやったらあんなに大きく育つんだ?

 よく見ると、名前が貼られている。なるほど、一番大きなカボチャを競い合ったみたいだ。


「うわぁ、大きいですね!」


 ディディエも感嘆の声を上げる。振り返って同意を求める仕草に俺は微笑んだ。


「ああ。美味しいのかな?」

「味は二の次かも知れませんね」

「なんだ、残念だな。あんなにあれば見るのも嫌になるくらいのパイが作れるのに」


 俺がそう言うと、ディディエは楽しげに声を立てて笑った。場が一気に華やぐ。

 そうしていると、風に運ばれていい匂いがした。甘くて香ばしい、トウモロコシの匂いだ。

 周りがうるさいから、俺は少し大きめの声を出してディディエに訊ねた。


「腹、空いてないか?」

「えっと……」


 買ってくれとねだるようで素直には言えないんだろう。俺は思わず苦笑した。


「よし、行こう」


 小さなテントの下で炭火を使って次々と焼かれているトウモロコシ。少しだけ並んで二本買い求める。紙で包まれただけのトウモロコシは熱かった。


「熱いから気をつけろよ」

「はい。ありがとうございます」


 こんな時でも丁寧に深々と頭を下げる。アツアツのトウモロコシにかぶりつく時、ディディエは後ろを向いた。大口を開けたところを見られたくないんだろうか。

 口にトウモロコシを含んで振り向く。咀嚼する姿が小動物のようで可愛い。それでもやっぱり熱かったのか、少しだけ目の縁に涙が滲む。


「甘くて美味しいですね」


 ディディエを見ていて食べるのが遅れた。俺もトウモロコシにかぶりつく。こんな食べ方、テーブルマナーにうるさい親が見ていたら顔をしかめそうだ。

 確かに、調味料なんて要らないくらいに自然の甘みを十分に感じた。ただ焼いただけで美味しいなんて料理人泣かせだな。


「うん、来てよかったな」


 はい、とディディエは首を小さく揺らして笑った。



 それからしばらくして、広場で積み上がったカボチャを囲むようにして男女が踊り始めた。クルクルと、手を取り合って踊る様子は楽しげだった。

 俺が踊るのは大抵舞踏会だから、こんな昼間に踊っている庶民の様子が不思議だった。明るいうちに手を取ったってムードもへったくれもないだろうに。


 そうは思うのに、それでもみんな楽しそうに見えた。体を寄せ合い笑い合うのは恋人たちか、今後そうなる予定の二人か。お互いしか見えないような世界の住人だ。そんな小さな世界がそばにたくさんある。それが不愉快ではないのは、この祭の雰囲気に俺も呑まれているからだろうか。明るい音楽が人々の背中を押すんだ。


「あんたたちは踊らないのかい?」


 突っ立って見ていた俺とディディエに、そばにいた小さな老婦人がそんなことを言う。ディディエは慌てて両手を振った。


「わ、私、踊りは……」


 踊ったことなんて一度もないんだろう。思えばディディエは働き詰めで楽しいことなんて知らないんじゃないだろうか。

 そうさせているのは俺なんだろうけれど。


「そうか。じゃあ教えてやろう」


 俺はすかさずディディエの手を取ると輪の中に入った。少し荒れていても柔らかな手だ。


「え、あのっ」


 ディディエの顔がひどく引きつっている。気楽な農村の祭なんだから、そんなにも緊張することはないんじゃないか?


「難しく考えるな。楽しければそれでいいんだから。ほら――」


 くるり、とディディエを回してみたら、ディディエは足がもつれて転びそうになった。俺は慌ててディディエを抱き寄せて転倒を防いだ。ぶつかった体の弾力と引き寄せた腰に置いたままの手に、俺は柄にもないほどの焦りを感じた。でも、絶対にそんなことを悟られてはいけない。


 ヒュゥ、とからかう下品な口笛が俺たちに向けられた。俺がその音のした方を睨みつけると、その男は慌てて逃げた。ディディエもさすがに気まずくなったみたいでとっさに俺から距離を取った。なんとなく、その避けられ方は傷つく。

 でも、赤くなった顔が恥ずかしかっただけだと物語っていたので、俺は苦笑して再度手を伸ばした。


「急に難しいことをし過ぎたな。今度は大丈夫だから」


 困惑気味に、でも断りきれない。ディディエは俺の手の平に手を重ねる。俺はまるで子供にするみたいな、手を繋ぐだけの簡単なダンスをする。体もほとんど触れない。これくらいが丁度いいのか……。

 ディディエはそれでもぎこちなく踊っていた。俺は、そんな姿を見ていて嬉しくはあったけれど、それ以上にもどかしいような気持ちにもなった。


 何がもどかしいのか――それは、もっと触れたいと思う気持ちがあるから、か……。

 きっと、そうなんだろう。ただ、それはいけないことだと自分でもわかっている。だから、そんなことはしないけれど。


 こうした祭に俺も慣れているわけじゃなかった。だから、日中から前後が怪しくなるほどに酒を飲んで騒いでいる連中の多さに辟易とした。下卑た哄笑が耳に響くと、楽しい気分に水を差されたような気分になった。

 収穫祭は夜まで続くのかも知れないけれど、はめを外しすぎた連中が増えそうな気もした。日が暮れるまでには帰りたい。


「そろそろ帰るか」

「はい。とっても楽しかったです」


 そう言って微笑むディディエはとても可愛い。ただ、そう思ったのは俺だけじゃなかったみたいだ。

 酔っ払いたちはチラチラとこちらを見ている。そうして何かをささやき合っていた。酔っ払いの視線が、ディディエの体を品定めするように縦に動く。俺はそれに苛立った。楽しい気分のまま帰りたかった。


「急ごう」


 俺はディディエの手を引いた。そうして、人込みに立ち向かう。

はぐれないように繋いだ手。ディディエはほとんど駆け足だった。それくらい、俺は急いでその場を離れたかった。


「あ!」


 その時、ディディエは短く声をもらして俺の手をすり抜けた。驚いて振り返ったら、人混みに紛れてしまったディディエが見当たらなかった。本当に一瞬のことだった。この一瞬に何が起こったのか、俺にはまるでわからない。


「ディディエ?」


 名前を呼んでも、祭の空気にはね退けられた心境だった。ひしめく人を押しのけて、俺は流れに逆らおうとする。でも、俺がもがいても流れは止まらない。


「ディディエ!」


 このままじゃいけない、と俺は人混みを横に突っ切った。脇に逸れてみたけれど、ディディエらしき頭も見えない。こんな短時間ではぐれるなんて、思いもしなかった。呆然とする俺に、手足のひょろりとした十二、三歳の男の子がおずおずと言った。


「あの、連れとはぐれたならあっちのテントに行くといいよ」


 そう言って、天辺には黄色の旗。レンガ色と白の布が張られたテントを指差す。ああ、最初にはぐれた場合の待ち合わせ場所を決めておくべきだったんだ。あそこがそういう相手と落ち合う場所になっているんだろう。


「助かる」


 俺は男の子に一言を残してそのテントを目指した。近づくにつれ、俺は違和感を覚えた。わんわんと泣く子供ばかりなんだ。

 係りの村民が大泣きしている迷子の子供たちから話を聞いている。


「自分の名前は言える?」

「お父さんとお母さんはどんな人?」


 残念ながら、俺の連れはそこまで子供じゃない。頭が痛くなって来た。額を押さえて深々とため息をついてしまったけれど、そんな場合じゃないと思い直した。


 のどかな農村の祭。

 でも、危険がいっぱいなんだ。さっきみたいに、ディディエを物色する男たちがいる。


 ああいうやつらは、俺がディディエに対してどんなに慎重に誠実に振舞っていたとしても、お構いなしに掻っ攫って行くんだろう。そういう危険な男がいる場所にディディエを一人にしてしまった。

 いても立ってもいられなくなって、俺は来た道を戻った。


「あの、薄い緑のワンピースを着た娘を見なかったか? 髪は長くて、白いリボンをしていて――」


 俺は手当たり次第に声をかけてディディエを探した。そうしたら、家族連れで眼鏡をした父親がああ、と言った。


「あっちの入り口の方にいたかも知れない。若い娘が一人で無用心だと思ったところだ」


 礼も忘れて俺は村の入り口に急いだ。夕方の空の色に焦りを募らせた。その予感は的中してしまった。

 入り口の派手に装飾された柵の脇の方で待ちぼうけをしていたディディエに、ディディエと同じ年頃の男が妙に気安く笑いかけている。なんだあいつは、と俺は沸々と怒りを感じた。

 会話までは聞こえなかったけれど、内容なんて容易に想像できる。だから俺はそこに辿り着くなりディディエの腰を抱き寄せた。


「お前が手を離すから!」


 汗を流して、ゆとりのない声だったせいか、ディディエは俺の勢いに口をパクパクと開けた。声が出せないくらい驚いたらしい。

 俺はそばにいた少年を見下すように視線を投げ、そうして固まったディディエの体を腕の中に収めてその頭に頬を寄せる。


「俺の連れに何か用か?」


 冷ややかに少年に言い放つと、


「あ、いえ。じゃあ僕はこれで」


 少年はたじろいですぐに逃げた。子供だと思って油断はできない。俺の経験上、あの年頃は女に触れたくて仕方がないんだ。

 危なかった、と俺はディディエを抱き寄せた腕を緩めるどころか強くした。


「あの、レ、レナルド様っ」


 もう大丈夫だとディディエは言いたいんだろう。でも、この状況をどうすべきか俺は迷ったんだ。今ならまだ、手を放せば間に合う。

 そんな俺に、ディディエは焦った声で言った。


「あの方、酔っ払った男性に絡まれていた私を助けて下さったんです」

「え?」


 そう、なのか。追いかけて礼を言った方が――一瞬そう思ったけれど、俺はやっぱりそんな気持ちにはなれなかった。


「そんなもの、下心があったから助けたに決まっているだろう」


 ディディエが可愛いから、助けて親しくなるきっかけを作りたかったんだ。そうに決まっている。


「よい方でしたよ」


 ディディエがそう援護した。それがどうしようもなく腹立たしかった。


「お前は警戒心がなさすぎる。その場限りなら、いくらでもいい人ぶっていられるさ」


 俺の冷たい言い方にディディエはびっくりしたのか、目を見開いて俺を見上げた。ああ、余計なことを言った。そう思うのに、口は動き続ける。


「大体、どうして俺の手を離した? そのせいではぐれたんだ。わかってるのか?」


 手をすり抜ける、あの感覚。ぞっとするほどに苦しく感じられた。それが近い未来の暗示のようで、俺は胸が詰まったんだ。

 ディディエは俺の剣幕に驚きつつ、それでもなんとかして言った。


「すみません、足を踏まれて靴が脱げてしまったんです……」


 だから、靴を取りに戻ってしゃがんで履いていた。俺からディディエが消えたように見えたのはそういうことだったんだ。

 俺はため息をつくと、ようやくディディエを俺との間に隙間ができる程には腕を緩めた。


「それで、酔っ払いは大丈夫だったのか」


 気になったのでそれも訊ねると、ディディエはその時のことを思い出したのか、体をぶるりと震わせた。


「は、はい」


 そうは言うけれど、目は潤んでいるし、耳まで赤くなるし。


「……おい、詳しく話せ」

「えっ」


 ディディエはますます顔を赤くすると目に涙を浮かべた。……どうしようもなく気になる。

 その顔をじっと見据えている俺に、ディディエはあの、その、とどもりながらぽつりとつぶやく。


「う、後ろから抱きつかれて、その――」


 真っ赤になった顔を包み込むと、ディディエは震える声で俺に懇願する。


「レナルド様、もう思い出したくないです」


 そういう仕草をされると余計に責め立てたくなる。涙目で、瑞々しい肌を赤く染める姿をもっと見ていたくなる。

 何か卑猥なことでも言われたんだろうか。その酔っ払いに腹は立つのに、ほんの少しそいつの気持ちがわかる。

 そんな風に感じてかぶりを振った。


「お前に隙があるんだ。これからはちゃんと気をつけないと駄目だ」


 なんて説教臭いことを言ってみたのが精一だった。しょんぼりとしたディディエの手を引いて馬車乗り場まで行った。動悸がうるさいくらいにして、ずっと治まらなかった。


 屋敷の自室に帰ってまで、ディディエのことが脳裏から離れなくて、明日また会えると思っても夢にまで見てしまう。そんな自分に目覚めてすぐに呆れた。


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